第173話 虎子と円と巌とあたしの彼氏

 翌日。

 土曜日なので早朝に虎子が帰宅し、一之瀬家の朝食は澄を入れて珍しく5人で……とはならなかった。

 大斗の姿が無かったのだ。


「また徹夜か? でも締め切りはまだだろう?」と虎子。

 その問いにリューは困ったような笑顔で答えた。

「お父さん、昨日の夕食の後に『護法先生の歓迎会に参加する』って言って本部へ行ったんですけど、そのまま帰ってこなくて……」

「なるほど。しこたま飲んで酔い潰れて……というお約束の流れだろうな」

 やれやれ、といったふうに虎子は肩をすくめた。


「相変わらず自愛という観念はなさそうだな。にも困ったものだ」

「……老師?」

 虎子のボヤキにアキがそう聞き返した。

「巌氏の事だよ。さすがの私もあの人を呼び捨てには出来ん。かと言って『巌さん』というのは向こうが嫌がってな。以来、私はずっと彼のことを『老師』と呼んでいるんだよ」

「確かに、老師っぽいっちゃあ、ぽいかも」


 ……虎子に敬意を払わせるとは。

 護法巌という人物はかつてないキャラを持っていそうだ。


「……ところでアキ、お前は老師の事を覚えているか?」

「いや、全然……あんなに濃ゆい人なら覚えてそうなもんなんだけどな」

「そうか……だが、もしかしたら老師ならお前の記憶に関する手掛かりを見つけることが出来るかもな」

「俺の記憶の? んー……でも、まぁ、別にいいかな」


 アキは何気なく本音を言葉にしただけなのだが、虎子もリューも澄も意外そうな顔でアキを見ていた。


「え? 何? 俺、なんか変なこと言った?」

「……いや、どうしてそう思うのかな、と……」

「なんつーか正直、昔の記憶がなくても困らないし、無いなら無いで別にいいかなって最近思うんだよ。それよりも、新しい記憶っていうか、思い出を作っていったほうが前向きでいいかなーって……」

 と、照れ笑いで言うアキ。

 するとリューが突然ずず、と鼻をすすった。彼女は半泣きだった。


「そうですよアキくん! 昔の記憶が無くったって、新しい思い出いっぱい作ればいいんですよ! 私達と、楽しい思い出いっぱい作りましょう!!」

「な、泣くことないだろリュー……」

「だって、だって、わたし、なんか、嬉しくて……」


 その様子をまるで母親のような微笑みで見守る虎子。澄は半目で「あんたらはホントにいいよねー」とぶっきらぼうに呟いた。


「はぁ……円だったら絶対言わないだろうね、そーゆー殊勝なセリフ」

 すると虎子が「そうだ」と声を上げた。

「昨日、円が来たらしいな。刃鬼から聞いたぞ。今日も本部に来るらしいが?」

「みたいだね。……あたしどこか出かけようかな〜」

「そうもいかんだろう。ほら、これを見ろ」


 虎子がスマホを取り出し、ディスプレイを皆に見えるようにした。

 そこには『11時から護法先生の歓迎会をやります! 武人のみんなは強制参加でよろー』との会長直々のメッセージが……。


「げ! マジで? いつの間に? つーか昨日やってたじゃん?!」

 澄が自分のスマホを確認すると、確かに同じ文言のメッセージが届いていた。

「老師だって久しぶりに皆の顔が見たいだろうさ。それに実の娘が行かないなんて寂しいことを言ってはダメだろう?」

「いやまぁ、それはそうなんだけど……まどか不可避じゃん!」

「お前の懸念は円だけなんだろ? 適当にあしらっておけばいいじゃないか。あいつだって刃鬼会長の手前、しつこく言い寄っては来ないさ」

「ええ〜……そうかなぁ」

「あいつもいずれは武人昇格を狙う身だ。ボスの前で無茶はしないさ」

「そうだといいけど……」



 不安を抱えつつ、アキ達は刃鬼の通達どおりに武人会本部へと向かった。

 すると、本部の様子がおかしい事にすぐに気がついた。

「……なんか、みんなつらそうじゃねーか?」

 アキは武人会職員や有馬流の門弟達が皆一様に顔色悪く辛そうな顔をしていることに首を傾げた。

 すると虎子は「またか」といったように呆れ気味に言った。

「二日酔いだよ。老師が返ってくる度の大宴会は武人会名物だからな。誰彼構わず『俺の酒が飲めんのかぁぁぁい?』なんて言うのは今時はというらしいぞ? なぁ、老師」

「……え? 老師?」


 その変化に気が付いていないのはアキだけだった。

 リューと澄は咄嗟に飛び退き、虎子はそのままアキの方へと振り向き、そしてアキの背後に護法巌に不敵な笑みを向けていた。

「……久しいな老師。めちゃくちゃ元気そうで安心したぞ」

 巌は「むっふっふぅ」と怪しげな笑い声を漏らした。

「虎子だけじゃなく、リューにも澄にも気付かれたかぁぁぁ。腕を上げたねぇ、ふたりとも……」

 巌はアキの肩をずむ、と掴み、

「キミには気付かれずに済んだようだねぇぇ、アキくぅぅん……!」

 と、彼の耳元で囁いた。

「あわ、あわわ……」

「お久しぶりだねぇぇ」

 にこやかに言う巌に震えるアキ。


 彼は突然一切の気配もさせずに現れた巌と、そのビジュアルに恐れ慄き行動停止に陥っていたのだ。

(で、デカい……! 近くで見るととんでもねぇ迫力……ッ!)


「アキくん、俺のことを覚えて……ないよねぇぇぇ」

「は、はい、全然……」

「ぬふぅ……ふむふむ」

 巌はいきなりアキの身体を検めるように触り始めた。

「ヒィッ!」

「ふむふむ……うむぅ……」


 その異様な空気に息を飲むリュー。

 このままではアキがいろいろと危ない気がしたリューは一歩前へ出た。

「せ、先生。何をなさっているんですか?」

「いやぁ、アキくんが持ってると噂のが何かなぁって思ってねぇぇ」

 巌はアキに超接近し、その厳つい眼力でアキを確かめるように、そして舐め回す様に見つめると……

「……うむ。わからんねぇぇぇ」

 と唸った。


 だが、『しかし』と付け加えた。

「識ではないぃ」

 と、断言した。

 その瞬間、僅かに虎子の視線が鋭くなったが、彼女はすぐにそれを引っ込めた。


「そうかそうか、老師でもわからんかぁ」

 虎子は爽やかな笑顔とともにアキに近寄り、その背中を励ますように叩いた。

「まぁ、いいじゃないか。ミステリアス継続ってことで」

「むふぅ。害はなさそうだしぃ、まあ、放っといてもいいんじゃないかぁぁ」


 巌も虎子も取ってつけたような朗らかさがわざとらしいが、アキは取り敢えず身の危険が去った事に安堵のため息をついたのだった。


「お〜……い、みんなぁ……」

 ふと、刃鬼の声が一行を呼んだが、その声は異常に弱々しい。何事かと見やれば、刃鬼は他の職員同様に二日酔いに苦しんでいる様子だった。

「みんな集まっ……おうっぷ……応接間で……エヴッ……」

「だ、大丈夫ですか会長?」

 アキが声をかけると刃鬼は手のひらをパタパタと振った。それが大丈夫なのかもう無理なのかよくわからない感じだったが、彼は一言「トイレ」と言ってゾンビの様にふらふらとその場を去ったことから『あ、無理の方なんだな』と皆が納得した。


「なんだいなんだいぃぃ、あの程度の酒で情けないねぇぇ」

 巌が肩をすくめると、虎子も肩をすくめた。

「老師が特別なんだよ。この分では大斗もどこかでぶっ倒れているんだろうな」


 こういう時は探されもしない大斗。

 リューですら「お父さんなら大丈夫ですよ」なんてさらりと流されるほど雑な扱いにアキは彼を不憫に思うが、それも一瞬。

 背後から飛んできた爽やかな挨拶に大斗の事など吹き飛んでしまった。

「やあ、アキくん。それに、澄!!」

 円だった。


「ま、円……!」

 澄は飛び退くようにアキの背後に回り、彼を盾にするようにして円を避けた。

「こ、こっち来んな!」

「相変わらず照れ屋さんだなぁ澄は」

「この反応見てどうやったらそんな言葉が出てくんのよ!」


 アキを挟んで睨み合う(というか澄が一方的にだが……)ふたり。

 あくまでも友好的な円に対して露骨過ぎる嫌悪感を向ける澄の態度に、アキは少々不愉快な気分だった。


「おいおい澄、そりゃあんまりじゃねーの? 円はわざわざお前に会いに来てくれてんだし、そんなに邪険にすることないだろ?」

「アキは円の事をなんにも知らないからそんなことが言えるんだよ! 大体、結婚なんてするわけねーし! つーか無理!!」

「まぁ、そりゃそうかもしれないけどさぁ……話ぐらいしたら?」

「あたしは嫌なの! いーーやーーー! むーーーりーーー!!」

「お前なぁ……」


 ちょっと剣呑な空気になってしまった。

 好意に対してこんなにあからさまな拒絶はあんまりだ。円は正々堂々と男らしく好意を示しているのに、澄は完全に門前払いなのだ。


 しかし円は特に怒るでもなく、至って冷静且つ紳士的に澄と向き合った。

「澄、なんでそんなに頑ななんだ? そんなに俺が嫌いか?」

「……うぅ……」

 口籠る澄。その態度から決して円の事が嫌い、という訳でも無さそうだ。

「ならどうしてなんだ? 言ってくれ。俺に至らないところがあるなら、それを直すよ。だから……」

 あくまで真摯な円。その真剣な瞳に澄の視線が戸惑う。

「あたし……あたしはさぁ……」

「なんだ?」

「あたしは……もう、付き合ってる人、居るから……だから、無理なの」

「は?」


 その場の全てが硬直した。

 リューですら知らない情報に、そこにいる全員……特に円が慄いた。


「つ、つ、付き合ってる? だ、誰とだ?」

 震える声で問う円。澄は俯いて……

「……アキ」

 ぽつりと呟くと、アキの手をその小さな手でぎゅっと握った。





「…………………………………………え?」


 それはリューの口から零れ落ち、静まり返ったその場に恐ろしいほど残響する『え』だった……。

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