第160話 逃げないで

 神社に特設された簡易酒場には大斗と不死美しかいなかった。

 酒場の店員や他の住民は皆、試合会場に行ってしまっていたからだ。

 だからこそ、桃井の放った平手打ちの音は殊更良く響いた。


 パァン! という乾いた音は蒸し暑い夜の闇に溶け、打たれた大斗は被弾インパクトの衝撃で俯き、その様子を不死美は椅子に掛けたまま無表情で見つめていた。


 桃井は思わず叫んだ。叫ばずにはいられなかったのだ。

「……何やってんですか大斗さん! なんでこんなところにいるんですか!!!」


 ゼェゼェと肩で息をする桃井。

 会場から酒場までのそう長くない間の全力疾走だったが、桃井はしたたる汗でシャツをびっしょりと濡らしていた。

「リューちゃんが……リューちゃんが、戦ってるのに!!」

 桃井は涙目で声を振り絞っていた。


 そんな桃井に冷たい視線を投げる不死美。

 彼女は激昂するでも罵るでもなく、抑揚のない声で桃井に問うた。

「桃井さん。どうしてそんなことをなさるのかしら?」


 桃井は乱れる呼吸に無理やりねじ込むように答えた。

「……純粋に、許せないからです」

「あら。一体全体、大斗さんがあなたに何をしたというのです?」

「私じゃありません。リューちゃんにです」

「……理解できませんわ」

「あなたにわからなくても、いいんです」


 桃井は不死美から視線を切り、俯いたままの大斗に語り掛ける。

「大斗さん、試合会場に行きましょう。そして、リューちゃんを応援しましょう」

 しかし、大斗は何の反応も示さなかった。

 彼にも思うところはあるだろう。それは無理もないことだが、桃井には今の大斗の姿は思考放棄以外の何物にも映らなかった。


 不死美は立ち上がり、桃井と対峙するように彼女の前に立ちはだかった。

「桃井さん。あなたはご自分が何を言っているのか、自覚がおありなのかしら」

「……ありますよ」

 そう答える桃井の視線は刃物のような光を帯びていた。

 そんな刺すような視線をまともに受け、不死美にはそれでも動揺の欠片もない。


「そうですか。では、あなたは大斗さんに実の娘が傷つく様子をただ見ていろと、そう仰いたいのですね」

「そんなことは言ってません。私は、大斗さんはリューちゃんの試合を見るべきだと……見なければいけないと思っただけです。リューちゃんが命を懸けて戦っているなら、大斗さんもそれなりの覚悟を持つべきだと考えたからです」

のあなたがそんな事を言うのは筋違いではなくて?」

「それを言うなら、平山さんだって他人でしょう」

「……あなた、傲慢だわ」


 不死美が眉をひそめ、不愉快を隠そうとしていない。

 彼女に対する桃井の認識では、それは絶対にしない表情かおだ。

 そのくらい瞳に怖気を感じて後退りそうな足に喝を入れ、桃井は不死美を睨み返すと再び大斗に訴えた。

「大斗さん、リューちゃんを見てあげてください。リューちゃんならきっと、その……」

 たが、続く言葉が出て来なかった。


 リューの勝利は魔琴の死を意味する。

 リューと魔琴の関係性を知らない桃井だが、魔琴の様子からしても憎しみ合う間柄ではないだろう。むしろ親しい関係……友人という表現が最も妥当に違いない。

 であれば、リューが勝利それを望むはずが無い。

 しかし、望む望まないに関わらず魔琴に勝たなければ、それはリューの死を意味する。


 桃井は言葉に窮した自分を見下すような不死美の視線を感じていた。

 しかし、そんなものはもう気にもならなかった。

 桃井は自分の事よりも、リューの事を何よりも優先したかったのだ。


「……大斗さん。わたし、怖かったんです」

 桃井は腹の底から絞り出すように語る。


「リューちゃんが山で行方不明になったとき、羅市さんに襲われてるリューちゃんを見たとき、すごく怖かった。ホント言うと、逃げようと思ったんです。でも、それじゃダメだって……リューちゃんがやられちゃうって思って、逃げちゃダメだって……。こんなの結果論ですけど、今は、あの時逃げなくて、本当に良かったって……」


 桃井が鼻をすすった。

 そして、彼女の頬を大粒の涙が滑り落ちていく。

「こんな事言うのは無責任だってわかってます。余所者の私がこんなことを言うのも筋違いだって。平山さんの言う通り傲慢だって。それでも、それでも、無礼を承知で言わせてください」


 桃井は息を大きく吸い込み、そしてそれを言葉にした。

「大斗さん、逃げないで……」


 大斗は俯いたままだった。

「……」

 なんの反応もなく、彫刻のように沈黙を守っていた大斗。

 そんな彼を、桃井は待った。

 信じて待ったのだ。


 やがで、その野太い声が「不死美さん」と、言葉を紡いだ。

「……試合会場まで、頼めねぇかな」

 彼は顔を上げ、先ずは桃井を見た。

 その瞳に力があることはひと目でわかった。

 そんな瞳が……桃井が大好きなその瞳が、輝きを取り戻していた。

「頼む。不死美さん」

 そして大斗は不死美を見た。

「……本当によろしいのですか?」

「ああ。だから、頼むよ……」

「……承知いたしました」


 直後、不死美の足元から闇が這い出て、すぐに大きな渦になった。


 瞬間移動……! 


 桃井も過去に見たことがある不死美の起こす奇跡。

 その奇跡が、自分をも包み込んでいた。

(わ、私も……?)

 不死美の闇は知ってか知らずか自分を巻き込んでいる。

 それならそれで好都合……桃井は吹き荒れる闇に身を任せることにした。


 そして空間転移していく闇の中で、桃井は不死美が笑顔を浮かべたのを見逃さなかった。


 それはほんの僅かな間だったが、不死美は確かに微笑んでいたのだ。


 この状況に全く似つかわしくない、満足そうな微笑。


 桃井はその艶笑に背筋が凍る思いだった。

 余りに美しく、余りに不吉なその表情かお


 しかし、それも直ぐに闇に包まれ、何もかもがその場から消えた。

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