第151話 彼女が消えるまで

 静まり返った居間に響くのは、時計の秒針が時を刻む音。


 そして胸の中で静かに、だが確かに呼吸をする虎子の吐息。


 そして、アキの心臓の音だった。



(抱くって……) 

 抱っこ、とかじゃないよね。

 なんて無粋な台詞は絶対に言ってはいけない。


 アキは本能でそれを理解していたし、さっきの一言以来何も言わずにぴったりと身を寄せる虎子の温もりが、そのような阿呆丸出しの台詞を完全に封殺させていた。


(いやいや、でも、聞き間違いかもしれないし……)

 この期に及んでアキがヘタレかけたその時、不意に虎子が顔を上げた。


「……」

「……」

 期せずして、ふたりは至近距離で見つめ合う格好となってしまった。


 虎子の潤んだ瞳は昼間の勇猛さとは真逆の可憐さでアキにを訴える。

 白い肌に薄桃色の頬。形の良い唇がわずかに開き、今にも何かを語りだしそうだ。

 或いは、固く閉じる事を否定することによる、ある種の意思表示か……。


 目の前で無防備な表情を晒す虎子の美しさと危うさに、アキはもう何も考えられなかった。

 加えて、さっきまで食べていたプリンの甘ったるい香りと彼女の少し汗ばんだ肌の匂いがもう完全にアキの理性を崩しにかかっている。


 え、マジか。

 マジか?


 アキが決断を迫られた、


 その時!!


 プルル……プルル……と、電子音。

 テーブルに置いてあったアキのスマホの着信音だった。


「で、電話」

 アキが反射的にスマホに手を伸ばすと、その手を押さえつけるように虎子の手が添えられた。

「と、とら……」

 これでは電話に出られない。


 コールは2回、3回と虚しく響くが、虎子はその手をどかさなかった。


『電話なんて出なくていい』


 さっきよりも近くで見つめる虎子の瞳が、そう言っているようだった。


 4回、5回、6回……着信音の度、虎子との距離が近くなる。


 そして7回目……ふたりの唇が触れる直前。

 虎子はスマホを引き寄せ、通話に出た。



「もしもし……おう、澄か」

 虎子はごくごく自然に通話に出て会話をしているが、アキは今にも心臓が口から飛び出して来そうで、息をするのも辛かった。


「……ああ。近くにいるぞ。代わるよ」

 虎子はスマホをアキに手渡すように差し出し、

「澄だ」

 と、いつもと変わらない様子で言った。


「も、もしもし……」

 喉に詰まりそうな声を無理矢理絞り出すと、澄は妙に低い声で言った。

「アキ。ふたりっきりだからって、虎ちゃんに変な事してないだろうなぁ?」

 瞬間、アキの心臓がキュッとなった。


「してない! まだしてない!」

「は? なんて?」

「いや、何でもない! それよりも澄、そっちはどうだ? こ、コミケ!」

「おー、それが大盛況でさぁ。大斗おじさんの漫画って結構人気で。小・中学生の子とかが結構来てくれてたよ。もちろんリューがお面付けて作者のフリして握手とかしてたから安心してね」

「そ、そうか。大斗さんは?」

「スーツ着させてリューの後ろでボディーガード役やってもらってたよ」

「俺なら怖くて近寄らないな」

「まぁ、そこはコスプレ的な扱いで問題なかったよ。そうだ、リューに代わるね」


 澄が一旦通話から離れると、すぐにリューの声が……

「……アキくん、お姉ちゃんに何もしてませんよね?」

「どんだけ信用無いんだよ俺は!」

「あはは、冗談ですよ。澄に言えって言われたんですよ~」

 通話の向こう側からは澄の笑い声が聞こえてきたが、アキとしては笑っていられる心持ちではなかった。

 なにせ、のだから……。


「アキくん、そちらは大丈夫ですか? なにか困ってないですか?」

「だ、大丈夫だよ。こっちよりそっちの方が大変だろ? コミケって人がすごいって聞くし」

「はい、ものすごい人の数で……でも、たくさんお客さんが来てくれましたし、それだけお父さんの漫画が愛されてるんだなぁって思えて、娘として誇らしかったです!」


 嗚呼、リューって本当にイイ子だなぁ……アキは自分の浅ましさを浮き彫りにされるようで胸が痛かった。


「明日は東京観光をして、夕方には帰りますからね」

「そうか、でもせっかくだからゆっくりしてきたら? こっちのことは心配いらないし」

「そうしたいところですが高速道路の渋滞があるかもなので、早めに行動しようかと……」

「確かに。……わかったよ。気をつけてな」

「はい! ありがとうございます。……お姉ちゃんに代わってもらえますか?」

「ん、わかった」


 アキが虎子にスマホを渡すと、彼女たちは短い会話の後に通話を終了した。

「あちらは上手くいったようだな」

 虎子はそう言いながらアキにスマホを手渡す。

「そ、そうだな」

 アキがスマホを受け取るが、虎子はその手を引っ込めなかった。

「……虎子?」

「こちらはまだ途中だったな」

「え」


 またしてもふたりは見つめ合う格好になり、アキに再度緊張が走る――。

 が、虎子は突然俯き、ため息をついた。

「……アキ。お前の前では、覚悟が鈍る」


 虎子は呟くように言いながら、アキとの距離を縮めた。

「私のが顔を出してしまう」

 にじり寄る虎子。アキは全く動けないでいた。


「いつもなら耐えられるが、今日は駄目だ。藍殿を思い出してしまった。思い出、とかいう美しいものではなく、あの人を思い出してしまった……不覚だ。私は春鬼との試合には勝ったが、勝負には負けてしまったのかもしれない。心のこんなに深いところまで、あの刃が届いていたとは……」


 虎子の瞳が再び潤む。少女と女性が混在する端正な顔が、その表情が、何かを求めている。


「……不義理だと分かっている。みっともないと自覚もしている……武人だのなんだのと偉そうな事を言っても、お前に……殿お前に縋ってしまう。ともすれば、利用しようとさえしている。そうして寂しさを紛らわそうと……所詮、私はそんな女なんだよ……軽蔑するだろう?」

 自分を嘲笑わらうような表情の虎子。その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……しないよ。軽蔑なんて、するわけないだろ」

 アキはその涙を受け止めるように、虎子を抱きしめた。


「……俺はまだ子供ガキだから、愛とかはよく分からないよ。けど、虎子が藍之丞さんの事を滅茶苦茶好きだって事はよくわかる。その気持ちに軽蔑なんてするわけないだろ。俺に藍之丞さんを重ねたいなら好きなだけ重ねろよ。俺は構わないから……絶対に軽蔑なんてしないから、大丈夫だから……」

「……」


 アキはただただ純粋な気持ちで虎子を抱きしめていた。

 不思議なことにさっきまで感じていた下心やよこしまな期待など一切無く、虎子の体を抱き寄せていた。

 それはきっと、人として人を大切に思う気持ちがそうさせたのだ。


 虎子の乱れた呼吸は徐々に穏やかになり、やがて言葉になった。

「……藍殿……」

 彼女の腕に力が入り、虎子はアキの身体を強く抱きしめ返した。


 しかし、すぐにそれが緩くなった。

 正確には彼女のせいで、緩んだのだ。


「……虎子!? 腕が……!」

 それに気がついたアキは声を上げるが、虎子はそのままの姿勢でアキを離そうとはしなかった。

「……もうダメか。今日は思ったより武力を使ってしまった。私をここまで追い詰める程に春鬼が腕を上げたと喜ぶべきかな……?」


 ふふふ、と掠れるように笑う虎子。

 次の瞬間、虎子の左腕の感触が消えた。

「虎子!」

 アキは虎子から一旦身体を離そうとしたが、虎子がそれを許さなかった。

「アキ、このままでいてくれ」

「で、でも……」

「怖いんだ。この瞬間だけは、何度経験してもだめだ。だから、側にいて欲しい。今日だけで構わないから……」


 余りにか細い声。虎子が虎子じゃないようだ。

 心細さに震える虎子を、アキは少しでも守りたかった。

 彼女を苛む恐怖から、少しでも守ってやりたかったのだ。


「……分かったよ……」

 アキがそう応えると、虎子は安堵したような吐息を漏らした。

「……出来れば、目を閉じていてくれ……」

「目を?」

「……消えてしまうところを、お前には見られたくないんだ」


 もう、何も言えなかった。

 アキは言われた通りに目を閉じ、その代わりに虎子を抱きしめる腕にもう少しだけ力をこめた。


「こうして消えてしまうとき、いつも思うんだ。このまま本当に消えてしまうんじゃないかって……二度と目を覚ますことは無いんじゃないかって。そう思うと、怖くてなぁ……」


 虎子の身体が急に重くなった。

 きっと、身体を支えていた脚が消えてしまったんだろう。


 あんなにも勇ましく戦える虎子が『怖い』だなんて……アキはその恐怖を思うと胸が苦しくて、苦しくて、息が詰まる……。


「大丈夫……大丈夫だよ虎子。また、いつもみたいに会えるよ……ほら、リューが待ってるだろ? 大斗さんも、澄も、俺も……みんな、虎子の事を待ってるんだよ……」


 アキの声が震えているように、虎子の声も同じ様に震えていた。

「……ありがとう、アキ……」


 ぱさり。

 衣擦れの音と共に虎子の感触が消え、アキの腕の中には彼女がほんの一瞬前まで着ていた服だけが残されていた。


 もう、そこに虎子は居なかった。


「……虎子……!」

 アキは虎子の服を抱きしめた。


 彼女の肌の匂いとプリンの甘い香りがまだ虎子がそこにいるようで、切なくて、悲しくて……。


 アキは急に静かになってしまった寂しい居間で、ひとり嗚咽したのだった。

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