第103話 忍者の苦悩

 医務室のドアが静かにノックされた。


「……桃井さん、居るかしら?」

 ヤイコだった。


「は、はい。ここにいます」

 桃井は涙を拭い、呼吸を整えてからドアを開けた。

「リューは寝た?」

 ヤイコは小声で桃井に問うた。

 桃井が頷くと、ヤイコは少しだけ表情を緩めた。

 だが、すぐにいつものクールな顔に戻り、

「あなたに話があるの。ついてきて」 

 と、退室を促した。

「……わかりました」


 桃井は静かにドアを閉め、ヤイコのあとを追った。


 ヤイコは何も言わずに黙々と歩く。

 そのピンと伸びた小さな背中に、桃井はヤイコが何を言わんとしているか、察しはついていた。


 だから、桃井は有馬家の長い廊下をこれ以上黙って歩くことが出来なかった。

「ヤイコさん」

「なに?」

「私の記憶も……その、んですか?」

「誰に訊いたの?」

「有馬会長です」 

「……そう」 


 ヤイコは歩みを止め、桃井に振り返った。

 今にも泣き出しそうな顔の桃井とは対象的に、ヤイコはいつもどおりの鋭い表情だった。


「その話の前に、私はあなたに謝らなければいけないわ」

「謝る……? 何をですか?」

「『あなたなんてなんの役にも立たない』なんて、私はとんでもない事を口にしたわ」

「ああ、それですか。でも、本当の事ですし、別にいいですよ……」

「いいえ。あなたはリューを守ったわ。あの有栖羅市に立ち向かい、リューを守ったのよ」

「そんな、大袈裟ですよ……」

「あなたが頑張ったから、リューは無事だったのよ。あなたがいたから、リューは助かったの。それなのに、私はあんな事を……自分が恥ずかしいわ」


 そしてヤイコは桃井に向って背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。


「私の思い上がりだったわ。ごめんなさい。桃井さん」

「や、やめてくださいヤイコさん。そんな、そんなこと……」

 慌ててヤイコを止める桃井。それでもヤイコはすぐには顔を上げなかった。それほどに、ヤイコは自分を恥じていたのだ。

「顔を上げて下さいヤイコさん……私はただ単にリューちゃんを助けたかっただけで……」

「あなたはそれを行動に移す事が出来た。簡単な事ではないわ」

 ヤイコはゆっくりと顔を上げ、桃井を見た。その瞳は、まるで年上の女性のような貫禄すらあった。

「桃井さん。あなたは、すごい人よ……」


 瞬間、桃井の瞳が滲む。

「ヤイコさんっ……わたし、忘れたくないです……!」 

 滲んだ涙はすぐに雫となり、桃井の頬を次々と滑り落ちた。


「……桃井さん」

「お願いですヤイコさん! 私の記憶を消さないで……! 私もあの子たちと一緒に、仁恵之里の未来を作りたい……!」


 ヤイコは桃井を抱きしめたかった。

 桃井の顔を胸に埋めて抱きしめ、慰め、それはできないと言いたかった。


 だが、桃井よりずっと体の小さなヤイコは桃井を包み込んであげることができない。

 任務を最優先に生きてきたヤイコが、桃井を優しく突き放すことができない。

 いつもなら切り捨てることができるような状況に、決断ができなかった。

 それは桃井に一筋の光を見たからだった。


 だからヤイコは桃井にハンカチを差し出し、言った。

「少しだけ時間を頂戴……」

 そして桃井に背を向け、ひとりで歩き出した。


「ヤイコさん? これ……」

 ハンカチを返そうとした桃井に、ヤイコは振り返らずに答えた。

「次に会うときでいいわ。またね。桃井さん」

 そしてつかつかと小さな足音と共に去っていくヤイコの背中を見つめ、桃井は呟いた。


「……って……?」

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