第102話 ありがとう

 下山した一行は武人会本部へと移動し、リューは速やかに治療処置を受け、桃井は一旦隔離された。


 有栖羅市おにを見てしまっただけでなく、接触してしまったからだ。


 とはいえ、その桃井も羅市に頭突きを食らった程度の軽傷。武人はもとより、捜索に参加した武人会本部警備員、有馬流の門弟に至っても人死はゼロ。

 ……刃鬼は今回の一件で一人の死傷者も出なかったことに心底安堵し、また信じられない心持ちだった。


 リューは負傷したものの、怪我の程度は許容範囲と言える。報告によれば有栖羅市と戦闘したというが、それでこの程度で済んだことはまさに奇跡だと感じていた。


(……だけど、いろいろと解決しなければいけない問題も山積みだね、虎子……)


 春鬼以外の『虎子の秘密』知るひとりでもある刃鬼。

 彼は虎子の苦悩と葛藤に思いを馳せた。


 そしてもうひとり、同じく苦悩と葛藤に苛まれているであろう人物の事も気がかりだった。


(桃井さん……)

 彼女の処遇を決めるのも、武人会会長としての努めだ。 


 刃鬼もまた、苦悩と葛藤に苛まれているひとりだったのかもしれない。



 その桃井は刃鬼からの簡単な事情聴取を終えた後、処遇が決定するまでは本部にとどまらなければいけなかった。


 彼女の仕事のあれこれは武人会が例の超法規的な権限でうまいこと処理していたのでその点は心配ないだろう。


 いや、彼女はすでにそんなことを心配してはいなかった。桃井が気にかけているのは、リューのことだけだった。


 事情聴取の後、桃井は本部内で特に拘束されたりはせず、自由に行動することを許可されていた。

 但しスマートフォンなどの外部との接触が取れるものは全て一時的に没収されていた。


 しかし、彼女はそんなことはもうどうでもよかった。



 桃井はリューが休んでいる医務室の扉の前で立ち止まり、呼吸を整えた。


 桃井は医師の許可を得て、リューとの面会を許された……というより、リューが桃井を呼んだのだ。


(私が変に緊張してたら、リューちゃんを不安がらせちゃうから……普段通りにしなきゃ)


「……リューちゃん、入っていいかな?」

 扉をノックし桃井が呼びかけると、中から小さな声で「どうぞ」とリューの声がした。


「……失礼します」

 桃井はゆっくりとドアを開けた。

 そしてベッドに横たわるリューをひと目見ると、こみ上げる熱いものを感じた。


「……怪我は大丈夫?」

 泣き出しそうな気持ちを抑えて桃井が問うと、リューは薄っすらと微笑んで「はい」と、消え入りそうな声で答えた。


「……桃井さん、ご迷惑をおかけして、すみませんでした……」


 こんな時でもリューの口をついたのは桃井への気遣いだった。


「迷惑だなんて……そんな事、ないからね」

「……」

 リューは相当消耗しているのか、それとも薬の影響か、今にも眠ってしまいそうだった。


 深く眠ってしまう前に、と考えて自分を呼んだのかと思うと、桃井の胸が締め付けられる。


 桃井はリューが何者で、どんなことをしている存在なのかを刃鬼から聞いていた。

 もちろん短時間で説明できる範囲でしかないものの、その常軌を逸した環境と人生は桃井にとって衝撃だった。


 にわかには信じられない、とはもう言えなかった。

 桃井は仁恵之里の秘密をその目で見てしまったのだから。

「リューちゃん……」


 リューの瞳が虚ろになっていく。

 すぐにでも眠ってしまいそうだ。

 心身ともに限界を超えて、もう喋る力も残っていないに違いない。

 桃井はリューの安静の妨げになりたくなかった。 


 だからそれ以上の言葉をかけず、リューの頬にゆっくりと手を伸ばして優しくて撫でた。


 するとリューは目を閉じ、呼吸が深くなった。


 眠った……と思ったその時、掛け布団の中からリューの手が静かに顔を出し、頬に添えられた桃井の手に重ねられ、きゅっと握られた。 


「……ありがとう……」


 そう言い残し、リューは眠りに落ちていった。


 あのとき差し伸べ、払い除けられた手が今は優しく握りかえされている。


「……っ、……ぅぅっ……」  


 桃井は肩を震わせ、リューの眠りの妨げにならないよう、声を上げずに泣いた。



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