第96話 ただ、救いたかった

 これが最後の抵抗になる。


 リューは自分の中に残された力に全てを賭けた。


 背後の羅市に振り向きざまの肘打ちを繰り出し、彼女が怯んだ隙に近くの藪の中へ逃げ込む。

 そして少しでも遠くまで……そんなことを考えていたリューに、羅市が耳元で囁く。


「やめとけよ。余計な怪我が増えるだけだぜ」

「……っ!」


 自分の行動は先読みされている……。

 リューは既に、心身ともに動きを封じられていたのだ。


「もう喧嘩が出来る状態コンディションじゃねぇんだよ」

 羅市は背後から回した手で、リューの身体をまさぐった。


「い、痛っ……!」


 羅市に肋骨をさすられただけで、リューはここまで耐えていた『それ』を声に出してしまった。


「折れてはいねぇが、ヒビは入ってるよ。崖から落ちたときにヤッちまったんだろう。可哀想に……ここだけじゃねぇんだろ?」


 羅市はリューの身体を更に弄る。その手のひらが蠢くたびに、リューの体が鋭い痛みに跳ねた。


「い、痛っ……痛いっ……!」

「我慢するにも限度があるよ。こんな体じゃ、その辺の雑魚にもやられちまうかもね」


 羅市はリューの体が既に戦闘不能であることを看破していたのだ。


「そうだ。『これ』でちったぁ楽になるよ」

「……?」

 なんの事かと思った矢先、羅市は懐から取り出した小振りな瓢箪の栓を抜き、その先端をリューの口の中に突っ込んだ。


「っ!!」 

 途端、瓢箪の中から液体がドボドボとリューの口の中へ流れ込んで来る。

(お酒!?)

 そう、瓢箪の中身は酒だった。


「有栖家自慢の酒だ。酔っ払えば痛いのも嫌なことも、みーんな忘れちまうよ」

「うっ! うぐっ!!」


 火の着くような強い酒だった。

 その余りに強い度数の酒は、口の中から胃袋まで一直線に熱い液体が落ちていく感覚でリューに流れ込み、それは即座に逆流した。


「げほっ! げほっ! うええっ!!」

 強烈な酒の匂いに咳き込み、アルコールを拒絶した胃袋から一気に吐き出される酒。

 リューは羅市からは開放されたが、その場に蹲って吐瀉することしか出来なかった。


「お前さんみたいなガキには、ちと強すぎたかな? だけどこれがいいんだよ」

「げほっ! ……うわっ!?」


 全てを吐き出したと思った瞬間、リューの視界がぐらりと揺れた。

「わっ! あわわっ……??」

 立ち上がろうとしても、脚がもつれて立ち上がれない。視界がぐらぐらと揺れてまっすぐに動けない。


(……酔ってる……?!)

 酒を飲んだ経験の無いリューだったが、この感覚が『酔っている』のだと言うことは理解できた。

 知識でしか知らないものの、これが酒酔いであることは間違いないと感覚で理解していた。

(ほんの少ししか飲み込んでないはずなのに……!)


「お、効いてきたね。酒を飲むのは初めてかい?」

「は、はいぃ……」

「はっはっは! ようこそ酔っ払いの世界へ!!」


 リューは何とか体を起こし、近くの大木に背中を預けたが、立つことはできなかった。

 羅市はそんなリューと目線を合わせるようにしゃがみ込み、虚ろな視線で自分を見つめるリューの頬を優しく撫でた。


「もう痛くねぇだろ? 少なくとも、酔っ払ってる間は痛みもほとんど感じねぇはずだ」

 羅市の言う通り、体の痛みは嘘のように消えていた。


「……もういいじゃねぇか」

 羅市はリューをじっと見つめて呟く。

 その眼差しは、どこか虎子に似ていた。


「……な、何が、ですか……?」

「お前さんはよく頑張った。だから、もういいだろ。十分だよ」

「……なにも……良くないですよ……」

「お前さんはきっと武人として完璧じゃなきゃあいけねぇとか、そんなこと考えてんじゃないのかい? 自分は栄えある『武人会の武人』だから誰でも平等に愛して、誰も傷つけず、どんなやつでも守る。たとえ自分がどうなろうとも、武人としての責務を全うする。そんなふうに、自分を雁字搦がんじがらめにしてねぇかい?」

「……そんなこと……」

「なにがあったか知らねぇが、お前さんの理想が現実に追いつかなかったんじゃねぇのかい? だから山まで逃げてきた。誰も傷つける心配のない、この山にな」

「ち、違う……私は、逃げてなんか……」

「認めろよ。お前さんの理想は、逃げることすら許さねぇのか?」

「わた、私は……」

「逃げてもいいじゃねぇか。我慢して自滅するくらいなら逃げて生き延びろよ。そんで、またやり直せばいいだろ……」

「……ああっ!!」


 それは嗚咽だった。


「私、私は……桃井さんにひどいことを……!」

 リューは号泣した。涙が堰を切ったようにこぼれ落ち、声は嘘のように震えた。 


「私は! 守らなきゃダメなのに! 武人だから! 皆を守らなきゃダメなのに! でも、傷つけてしまった! 桃井さんはなにも悪くないのに! それなのに、私はいつも桃井さんの事を考えると……桃井さんを……傷つけてしまう……!!」

「桃井さん? ……そっか、そいつと一悶着あったんだね。でもよ、お前さんは別に悪気はなかったんだろ?」

「でも……でも!!」

「きっと桃井さんってのも分かってくれるよ。大丈夫さ」 

「うっうぅ……うわあああっ!!」


 自分の中に溜まった何かを吐き出す様にリューは叫んだ。羅市はその様子を寂しげな瞳で見つめていた。


「お前さんを見てると、魔琴と被るんだよ」

「……魔琴……?」

「そうだ。知ってんだろ?魔琴の事」

「……はい」

「魔琴もお前さんみてぇに何々じゃなきゃいけねぇとか、何々であるべきだ、みたいなモンに縛られてる。お前さんと同じ様に、自分から縛られてんだ。誰も強制なんかしてねぇのに、そう思い込んでんだよ」


 羅市はリューに近づき、その見た目とは裏腹にたくましい手のひらでリューの頭を撫でた。


「こんなガキのくせに、お前さんも魔琴も、背負ってるモンが重たすぎるんだよ。ガキはガキらしく、毎日楽しく笑ってりゃあいいんだ。しんどいことは、あたし達『大人』が引き受けらぁ」


 羅市はゆっくりとリューの右肩に視線を移し、唇を寄せた。

「ら、羅市さん……?」

「ちょっと噛むぜ」

「か、噛む?」

「そうだ。しばらく動かせない程度にな」

「え? え?!」

「当分の間は難儀するだろうが、来年の今頃には元通りになる。その頃には、全部終わってるよ」

「な、なんで……」

「もうお前さんは戦わなくていい。武人なんてやめちまえ。自分を縛ってるモン、全部捨てちまえ。そうすれば、もっと自分に素直になれるよ……」


 羅市は『目標』を見定めると、ゆっくりその口を開いた。

 そして……。


「ッッッ!!」

 リューが声にならない声を上げた。

 羅市がリューの肩に噛み付いたのだ。


「い、痛い……! 羅市さん、痛い……っ!」


 抵抗するように羅市の髪を掴むリューだったが、酔いが回っているために全く抵抗にならなかった。


「……いくらあたしの酒でもこの痛みは消せねぇか……すぐ終わるから、もう少し我慢しな」

「あっ! ああ! 痛い! 痛ッ……!」


 羅市は慎重に噛み付いていた。

 出来るだけ神経を避け、腱を狙う。

 断裂させないように、しかし半年は動かせない程度に、慎重に、慎重に、治癒しやすい様に傷付ける為に……。


「嫌だ……やめて……羅市さん、やめてください……」

 涙ながらに懇願するリュー。しかし、羅市はやめなかった。


 こうすれば、リューはもう戦えない。

 そうすれば、彼女は戦わなくていい。

 その間に、自分が全てを丸く収めて見せる。


 羅市は決意にも似た心持ちでリューの肩に止めを刺しに行く。


「……助けて……」

 リューが最後の言葉のように、掠れた声でその名を呼んだ。


「助けて……アキくん……」




 その時だった。



 ドゴォッッッ!!


 鈍過ぎる衝突音と激しい衝撃が、羅市の後頭部で炸裂した。


 まさに『鈍器で殴られる』を地で行くような痛みに、羅市はたまらずリューの肩から口を離した。


「いっっっぇなあ! 誰だァお前さんはぁ?!」


 羅市の後頭部を攻撃し、リューの危機を救ったその人物は、まさに鬼の形相で羅市を睨みつけていた。


 間に合ったのだ。

 リューの危機に、その人物は間に合ったのだ。


 リューはその人物を見て、目を丸くした。


「……桃井さん……!?」


 そう、その人物は、桃井みつきだったのだ。


 桃井は自分で持つのはこれが限界と言わんばかりの大きな石の塊を振りかざし、羅市に向かって叫んだ。


「今すぐリューちゃんから離れろ! さもないと、もう一発食らわすわよ! この……鬼ぃぃぃっ!!」



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