第88話 そして夜が来る

 午後5時。虎子とアキは未だに有馬家の休養所にいた。


 畳張りの休憩室で虎子とふたり、だらだらと暇を持て余していたのだ。 


「……大斗さん、生きてるかな」

 アキが虚空に視線を投げつつ呟くと、だらしなく横になった虎子が目を閉じたまま答えた。

「死んでる寄りの生きてるってところじゃないか?」 

「……リューの追試は上手く行ったかな」

「それはお前が一番良くわかっているだろう」

「……そろそろ帰っても大丈夫なんじゃないか?」

「噂をすればなんとやらだ」


 虎子がスマホの画面をアキに向けた。

 その画面にはメッセージアプリが表示されていて、大斗からの『終わった』という短いメッセージがなんとも言えない悲壮感を漂わせていた。

「修羅場だったのだろう。相変わらず」


 アキと虎子も昼過ぎには帰宅する予定だったが、午後から桃井がやってくる事を思い出した虎子の判断でふたりは帰宅を見合わせていたのだ。

 そして予想通りの修羅場を思わせる大斗からのメッセージ……帰らなくて良かったと、アキはしみじみ思った。



 そう、一之瀬家はまさに修羅場だった。


「キャ、キャンディ……」

 原稿に全てを出し尽くした大斗は最後の一コマを書き終えてすぐ自我崩壊し、ペンを握りしめたまま気絶。

 原稿の手伝いをしていた桃井もまた疲労困憊だったが、震える手で完成した原稿を封筒に仕舞い、深い深いため息をついた。

「なんとか間に合った……」


 予定では4時までに完成しなくてはいけなかったが、それは桃井が設定した『仮の締め切り』だった。

 桃井は大斗の危機感を煽るために1時間の余裕をもたせていたのだ。そして、その1時間は『保険』でもあったのだ。


 結果、時刻は午後5時を少し回ってしまっていたが締切には間に合う……桃井は作戦成功に拳を握りしめていた。


 そしてようやく完成したこの原稿は大斗と自分の努力の証……桃井は言い知れない達成感に満足していた。


 大斗は何度も不死美の協力要請を提案したが、桃井はそれを断固拒否。この原稿は絶対に自分と大斗の力だけで完成させると譲らず、それは既に女の意地ですらあった。

(私だってやれるんだから……平山さんには負けない!)


 独善的だと自覚しつつ、それでも我が道を行く桃井みつき。それもあって、今回の原稿には自信があった。


「それでは先生、私は編集部に戻りますから!」

 横たわり痙攣する大斗の巨体を揺するが反応は無い。まぁ、いつものことだった。

(お疲れ様でした……大斗さん!)

 桃井は大斗に一礼し、荷物をまとめた。


(予定より遅れちゃったけどまだ大丈夫……今から帰れば十分間に合う。タクシーもそろそろ来る頃だし……)

 桃井がこれからの予定を算段しながら身支度をしていると、玄関から物音がした。

(ん? タクシー来たかな?)

 運転手が迎えに来たのかと玄関まで行くと、そこにいたのはリューだった。


「も、桃井さん!?」

「リューちゃんだったのね。おかえりなさい」


 既にいないと思っていた桃井が……

 リューの中で何かが軋む音がした。 

 それはこれまで感じたことのない、危険な感覚だった。


「ごめんねリューちゃん。もっと早くおいとまする筈だったんだけど、予定が押しちゃって……あ、そうそう、大斗さんから聞いたんだけど、試験はどうだった?」


 何気ない会話を振ったつもりだった桃井だが、リューからの反応は無い。

 彼女は表情を強張らせ、言葉を詰まらせていた。


(試験の事、聞いちゃダメだったかな……)

 リューの様子がおかしいことを試験が原因だと思った桃井。しかし……。


「……リューちゃん?」

 リューの視点が定まらず、呼吸も荒いことに気がついた桃井。ただ事ではない雰囲気に、桃井は背中に嫌な汗を感じた。

「ど、どうしたの? 大丈夫?」

 桃井がリューに手を伸ばす。

 それは無意識に、純粋にリューが心配で、助けたくて差し伸べた手。

 その手がリューに触れる直前だった。


「触らないで!!」


 リューはその手を鋭く払い除けたのだ。


 肌と肌が弾き合う、掠れた音が玄関に響いた。

 一瞬前のリューの大きな声とは対象的な程に乾いた音が、その感情の激しさを物語る様だった。


「リューちゃん……」

 桃井は悪寒に震えた。リューの表情を一言で表すのであれば、それは『絶望』以外に無かったからだ。


 その時、リューの心はぐちゃぐちゃにかき回され、頭の中では魔琴の言葉が何度も何度も繰り返されていた。


 悩み事してない?

 よく知らない人が

 自分のテリトリーに入ってきて

 嫌だなー的な


 まさにその通りだった。


 その対象が桃井であると、リューはついに自分自身で認めてしまったのだ。



 リューの唇が微かに動いた。

「ご、ごめんなさい……」

 それでも彼女の口をついたのは『その言葉』だった。 


「ごめんなさい……」

 後退あとずさるリュー。

 その瞳からは涙が粒になってポロポロと溢れ落ちている。

 彼女の明らかな異常は見て取れた。 


「リューちゃん、落ち着いて……」

 わけがわからないが、取り敢えず自分にできることをしよう。

 桃井はそう考えてゆっくりとリューに近づくが、リューは桃井から逃げるように後退あとずさってしまう。


「リューちゃ……」

「ごめんなさい!!」


 リューははち切れるように叫ぶと、突然背中を向けて走り去ってしまった。

「リューちゃん!? リューちゃん!!」

 桃井がリューを追って外に出た時には、既にリューの姿は無かった。



 リューに何があったのかはわからない。

 しかし、異常だったのは確かだ。


 そして、彼女の行方がわからなくなってしまったのも、また確かだった。



 一之瀬流が行方不明になった。

 その一報はすぐさま仁恵之里を駆け抜け、午後6時には武人会関係者全員の知るところとなった。



 桃井は一之瀬の居間で泣き崩れたまま、未だに帰らないリューを待った。

「ごめんなさい……きっと、私がいけなかったんです……」

 そんなふうに自分を責める桃井を大斗は慰め続けた。

「違うよ桃井さん、あんたは悪くないよ……」

「でも、でも……」 


 リューのスマホは繋がらない。メールも既読にならない。

 しかし電源は切られておらず、位置情報も確認できた。

 その結果を受け、武人会は速やかに行動を開始していた。



「大斗様! お迎えに上がりました!」

 玄関から若い男の声がした。

 その声に桃井は聞き覚えがあった。

(藤原さん……?)


「失礼します!」

 藤原は断りを入れ、家に上がり込んだ。

 その慌ただしい様子はこの事態の重大さを物語っているようだった。


「そのリュー様からご連絡は……え? 桃井さん!?」

 居間のふすまを開け、桃井の顔を見た藤原は素っ頓狂な声を上げた。

「大斗様、どうして桃井さんが……」

「そうか、藤原は桃井さんと知り合いだったな。桃井さんは今日、仕事で来ててな。そんで、巻き込まれちまったカタチだな」

「い、如何なさいましょう……」

「どうもこうもねぇよ。桃井さんも当事者っちゃあ当事者だ。何があったか、刃鬼さんに話してもらわねぇとダメだろ」

「しかし……」

「モタモタしてる時じゃねえ。俺の独断だ藤原。桃井さんも本部へ連れてってくれ」

「……承知しました」


 桃井にとって大斗と藤原の会話は全く意味のわからないものだったし、彼らの関係性も謎だ。

 ただ、事態は自分の想像もできない展開を見せている……桃井はそれを肌で感じていた。


「なぁ桃井さん」

 大斗がこれまで見せたことのない真剣な表情をしている。桃井は緊張した。

「はいっ!?」

「ちょっとついてきてほしいところがあるんだよ」 

「ど、どこへ……?」

「武人会本部だよ」

「ぶじんかい……?」

「ま、とりあえずついてきてよ……」


 そして大斗は藤原に視線を移した。

「頼む、藤原……」

 藤原は背筋を伸ばし、それに応えた。

「では、参りましょう」


 自分の預かり知らないところで自らの運命が大きく変化しようとしている。

 桃井はそんな胸騒ぎを感じつつ、動き出した藤原と大斗の背中を追っていた。

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