第84話 一之瀬流VS呂綺魔琴

 空気が一変した。


 穏やかな午後の図書室が、湿気漂う地下牢の様に絶望的なモノに変わってしまった。


 魔琴の心がざわつく。

 それは空気の変化が原因ではない。

 リューの殺気に気圧され、無意識に右足を一歩引いてしまったのだ。 


 そんな理由で後退するなど、魔琴にとって初めての経験だった。


「き、気がついてたんだね……いつから?」

 泡立つような怖気おぞけを押し退け、魔琴は姿勢を元に戻す。

 僅かにでも均衡を崩せば後戻りは出来ない状況だ。魔琴は慎重に間合いを取る必要に迫られた。


「はじめからです。澄も気がついてた筈です。武人会を侮らないでください」

「あ、あはは……まいったなぁ」


 リューはいつでも戦闘に臨める態勢だった。しかし、魔琴はそうではない。むしろ戦闘を避けようとしている。


 リューは魔琴から特別な何かを感じていた。

「……魔琴。あなたはマヤですか?」

「そうだよ」


 ………。


「やばっ!」

 言ってから直ぐに魔琴は手で口を塞いだが、時既に遅し。


(マヤなんて知られたら、ボクが『呂綺』魔琴だっての、バレちゃうかも……)


 素直な性格ゆえに嘘が苦手な魔琴。しかも二の句が出てこない。


「……マヤなんですね」

「ま、マヤっていうか、マヤ? まぁ、マヤなんだけど……はい、そうです」

 魔琴は観念し、制服の胸ポケットから黒い手帳を取り出した。

「それは……」

 リューはそれを知っている。

 平山不死美も同じものを持っているからだ。


 特別な身分の『鬼』のみが所有するパスポート……武人会はそれを持つ鬼との戦闘を日本政府から『原則禁じられている』

「ま、そーゆーことで。今日はひとつ手帳これに免じて……」

 魔琴の自己申告は、その時点で確定したのだ。


「……わかりました」

 魔琴の正直で素直な反応に、リューは肩透かしを食らった様な気分だった。

 或いは即座に戦闘状態になる事を予想していたが、その気配はない。むしろ、魔琴からは敵意すら感じられない。


「……」

 であれば、無駄な戦いをする理由もない。

 そもそも戦闘が許される状況ではない。


 リューは殺気を収め、臨戦態勢を解いた。

 それは即座に魔琴にも伝わり、ふたりはもとの『少女』へと戻った。


(あれ? 突っ込みがない……リューはボクが『何家なにけのマヤか』追求してくると思ってたのに……?)


 そんな魔琴の心中を知ってか知らずか、リューは続けた。

「……私はマヤのことはよく知りません。会長からは必要な事しか教えて貰っていませんし、情報収集は私の仕事ではありません。私は武人として仁恵之里の人達を守る……それが私の責務です。それが出来れば、私はそれでいいんです。あなたのことを必要以上に詮索するつもりもありません」

「ええーと、つまり、どゆこと?」

「あなたが何者であれ、敵対する理由が無ければ戦う理由もないと言うことです。不死美さんと同じですよ」

「……もし、先にボクが手を出してたら?」

「そんなつもりは最初から無かったでしょう? でも、もしものときは、私は私の責務を果たします。それは許されていますしね」


 何という潔白な心根だろう。

 魔琴は思わず感嘆の声を漏らした。 

「カッコいいじゃん」

 それを受け、リューはほんの少しだけはにかむ様に微笑み、先程とは別人のように優しく問うた。


「それで、あなたは何をしにここへ?」

「ん? ええと……人探しかな」

「人探し? 誰を探してるんですか?」

「あきくんだよ」


 ぞぞぞ……


 魔琴の背筋が凍った。

 引っ込んだはずの殺気が元の位置まで戻ってきてしまったのだ。


「アキくん? そうでしたね。あなたは『何故か』アキくんとお知り合いでしたね……」

「ちょ、怖いよリュー……」

 殺気は殺気だが、生命を脅かすそれとは少し毛色が違う。


 それが何故なにゆえか、そんなことも分からない魔琴ではない。

 だから魔琴は、今度は一歩も引かなかった。


「……そうだよ。偶然っつーか、運命的な出会い方したもんね。それがなにかぁ?」

「えっ? な、なにって……」


 一転して強気な態度の魔琴。

 先程とは攻守が入れ替わってしまった格好に、リューは戸惑った。


「ねぇリュー。あきくんがどこにいるか知ってんでしょ?教えてよ」

「な、なんであなたにそんな事を教えなければいけないんですか?」

「ん? その言い方は知ってるってことだよね?」

「そ、それは……」

「教えてよ。つーか、教えない理由無いでしょ。むしろなんで? ってなるんだけど」 

「あ、あなたをアキくんに会わせる必要はありません!」


 ある種の『宣言』のような言葉は無人の図書室に響いたが、魔琴の心には全く響かない……どころか、その心を逆撫でした。


「は? なにそれ。どーゆーこと?」

「あ、あなたにアキくんを会わせる理由はありません! だいたい、どうしてアキくんと会う必要があるんですか?」

「理由とかさぁ、そんなのイチイチ要る? 好きな人に会いたいだけじゃん」 

「っ!」


 リューはたじろいだ。

 魔琴がはっきりと言葉にした『アキが好き』という強い意志に気圧されたのだ。


 その様子に、魔琴は面倒くさそうにため息をついた。

「あのさぁ、リューはあきくんが好きなんでしょ?」

「っ!!」


 リューは息を呑み、固まってしまった。

 魔琴はそんな彼女に詰め寄った。


「リューはアキくんを独り占めしたいんだよ。アキくんのことが大好きだから、他の女の子とアキくんを会わせなくないんだ」

「え? え? そ、そそ、そんな事は」

 リューの胸元に人差し指を突き立て、彼女の心を刺し貫く様に続ける魔琴。


「あるでしょ。あきくんを独り占めしといて、そのくせ自分からは何もしないであきくんから好きって言わせようとしてる。あきくんから選択肢を奪って、あきくんを自分の思い通りにしようとしてるんだ!」

「ち、違……」

「違わない」

 がたん、とリューの背後で机が音を立てた。

 魔琴に詰め寄られ、後ずさったリューがぶつかったのだ。

 反論も抵抗も出来ず、自分の心の後ろ暗い場所を無遠慮に抉られ、リューは追い詰められた。


「……自覚、あるんだね」

 リューの瞳に溜まった涙を見て、魔琴はその視線の鋭さを増した。

「そうやってなんでもかんでも独り占めするんだ。自分の大切なモノを安全な場所に囲い込んで、自分ごと閉じ込めちゃうんだね。他の人が近づけないようにするんだね」


 瞬間、リューの脳裏を桃井の顔が掠めた。

 何故かはわからない。アキの事を言われていたのに、それは自分の中の桃井に対する感情にも当てはまってしまったからだろうか。


「……嫌な女だね」

 魔琴のその言葉が、リューの心にとどめを刺した。


 それは多分、自分の心の一番どす黒い部分。

 自分自身の嫌いな部分。

 他人に触れられたくない、心の痛い場所……。


 気が付くと、リューは胸元にあてがわれていた魔琴の指先から手首までを両手で乱暴に掴んでいた。


 まるで魔琴を力づくで黙らせようとする行為。それをリューは無意識で行っていた。


「痛い。離して」

 魔琴は不愉快を隠さない。しかし、リューは手を離さなかった。離せなかったのだ。

 心の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたように、リューの心と体はバラバラだった。

 体が、心が、言うことを聞かない。


「離してってば」

 魔琴の言葉ははっきりと聞こえていた。しかし、体はそれを拒否している。

 自らのうちる黒い感情。

それに支配されてしまった恐怖に震える心は、いまにも暴れだしそうな体を制御できなくなっていた。

 このままでは、この均衡が破れるのも時間の問題だった。


 魔琴は無様なまでに弱々しいリューを一瞥すると鼻で笑うように嘲り、低く呟いた。

「……だったら、これは正当防衛だよね」


 っ!!


 突如、リューの両手の中で何かが爆発したような衝撃。

「っっっ!!?」

 弾き飛ばされる様な痛みとともに、リューは両手を上げるような格好になった。


 意味不明な衝撃に戸惑う暇もなく、今度は彼女の顎が弾かれた。

 無防備を晒したリューの顎を、魔琴の拳が掠める様に打ち抜いたのだ。


 コン、という軽い音を残して閃いた拳。

 リューがこれまで体感したあらゆる打撃の中で最も早く、鋭く、そして軽い打撃。


 まるで閃光。駆け抜けた一撃は痺れるような感覚でリューの脳を揺らし、彼女の意識を刈り取ったのだった。

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