第75話 いけないアキ先生

 こうして始まったアキの「個人教授」。


 土曜までの5日間、アキは夕食後から寝る前までの数時間、リューに数学を教えることになったのだが……。


「ああ! だめです! X軸とY軸の間にある点Pなんて求めて何になるんですか!」

「落ち着けリュー! それを求める問題なんだ!」


 とか、


「この式を分解せよ? 九門九龍が通用すれば今すぐにでもバラバラにしてあげますよククク……」

「しっかりしろリュー! 気を確かに!」


 といった様に、かなりの難作業だった。

 

 しかしそれも日を追うごとにめきめきと改善し、金曜日には自力で全ての模擬問題に正解出来るまでになっていた。


「おお、すごいぞリュー! 全問正解だ!!」

「本当ですか?! やったぁ!!」

 リューは感動の涙を浮かべ、アキの手を取った。

「ありがとうございますアキくん! アキくんのおかげです!」

「いやいや、リューが頑張ったからだよ!」


 喜びもあって固く握られたふたりの手。

 はからずも繋がれたその手をほどくタイミングをお互いに見計らうも……、

「……」

「……」

 互いにもじもじとして離れることができない。

 いや、離したくなかっただけかも……。


 そんなふうに思っているとリューの顔が赤くなっていく。アキも自分の体温が上がっていくのを感じていた。


 ふたりきりの静かな居間。

 大斗は仕事部屋に籠もっている。

 ふたりを隔てるのは教科書やノートが広げられたちゃぶ台だけ。

 リューの潤んだ瞳は繋がれた手元とアキの顔とをちらちらと行ったり来たりしている。


 もしかして、いい感じなのか?

 アキは息を飲んだ。よくわからない流れでこうなったが、もしかして今結構いい雰囲気?

 何がどういい雰囲気なのかわからないが、心臓の鼓動が早くなっていく。


 も、もうちょっと踏み込んでもいいのかな……?


 アキも高校生男子。そんなふうに物事を考えてしまう年頃なのだ。


 しかし、どこで誰が見ているのやら。世の中思い通りにはならないものである。


 玄関から鍵を開ける音がして、虎子の「ただいまー」という大きな声がふたりのしっとりとした時間を吹き飛ばしてしまったのだ。


「お、お姉ちゃん?!」

 リューは驚いて立ち上がり、玄関へ向かう。

 アキもちょっと残念な気持ちを引きずりつつ、玄関へと向かった。  


 虎子は揃って出迎えてくれたふたりの顔を見るなり申し訳無さそうに視線を泳がせた。


「む、大斗は仕事中か? そうか……ふたりきりの時間を邪魔してしまったか。 無粋な姉を許せ、リュー」

「え?! それは、ええと……」

「むむ? ホントにいい感じだったのか? それは割とマジですまんかったな」

「あ、あのあのお姉ちゃん、突然どうしたんですか? 今日は金曜日ですし、いきなり帰ってくるなんて……」


 リューが誤魔化す様に言うと、虎子はうむ、と頷いて腕を組んだ。


「刃鬼のやつに今夜の『夜回り』を交代してほしいと言われてな」

「夜回りを交代? 随分と急ですね。会長、どうかされたんですか?」

「どうしても外せない用事があるそうだ。私も偶然金曜のうちに仁恵之里こちらに来られそうだったからな。刃鬼あいつには日頃から世話になっているし、ここは一丁私がひと肌脱ごうってわけよ」


「夜回り?」とアキが首を傾げるのをリューは見逃さなかった。


「夜回りというのは、その名の通り『パトロール』です。春の終わりから夏にかけて、特に夜は蓬莱山の『気』……つまり鬼の世界と人間の世界の境界が不安定になるので鬼の出没が増えるんです」 

「そうなのか……その夜回りも武人会の仕事なんだな」

「はい。基本的には武人会の警備の方たちが担ってくれていますが、この時期から夏は強い鬼も稀にですが出現します。だから持ち回りで正武人も参加して、みんなで協力して夜のパトロールをするんです」

「なるほど。色々と大変だな武人会……」


 と、そこで虎子が横槍を入れた。

「何を言う。お前も武人会の人間じゃないか」

「え? ん、まぁ、そうだけど」

「だからお前も来い。アキ」

  

 突然のお誘いに反応したのはアキではなく、リューだった。


「お、お姉ちゃん? 今、なんて……?」

「刃鬼から『アキも連れてくるように』と言われてるんだ。アキが今後武人会の人間としてやっていくには夜回りは避けて通れないし、良い勉強にもなるだろう、と言うことらしい」

「え! え? そんな、いきなり夜回りとか危ないですよっ」

「私もそう言ったよ。でも、刃鬼はそれでもアキを連れてこいっていうからさ。あいつなんだかんだ言っても私達のボスだからな。従うしかないだろう」

「で、でも……」

「まぁ心配するな。私がアキとペアになればいいだろう? それでも不安か?」

「い、いえ、とんでもない! お姉ちゃんとなら一番安心です……」


 言葉ではそう言っても、腑に落ちきっていないリュー。そんな彼女の胸中は重々承知の上で、虎子は続けた。


「とまぁ、そういうわけだ。アキ。一緒に行こう」

 唐突なご指名に、わけもわからずアキは当たり前だが戸惑っていた。


「……あのさ、今から?」

「そうだ。今からお前を夜回りに連れて行く」

「マジで今からかよ?」

「マジだよ。つーか私が何のために早く帰って来たか聞いてなかったのか? 刃鬼がお前をご指名なんだ。拒否権なんてハナから無いんだからね!」

「いや、ツンデレみたいに言われてもな……明日の件もあるし」


 アキが弱々しくリューに視線を投げると、リューは少しだけ困ったようにだが、笑顔でそれを受けとめた。


「私は大丈夫ですよアキくん。アキくんのお陰で明日は自信満々でいけます! だからアキくん、夜回りをお願いします」

 そう言って深々と頭を下げるリュー。

 そうまでされてはアキの取る行動は1つしかないだろう。


 そうしてアキは虎子とともに夜回りの集合場所である有馬家へと向かった。

 時刻はもうすぐ午後9時だ。

(アキくんも頑張ってます。私も頑張ります!)


 そう思いリューがもうひと踏ん張りしようと参考書を広げると、ふすまの向こうからデカい足音が響いた。間違いなく大斗だ。

 程なくふすまがスライドし、顔をのぞかせたのはやはり大斗だった。


「……風呂、お先にーって、あれ? アキは?」

 濡れた頭をバスタオルで乱暴に拭き上げながら、大斗は居間をぐるりと見回し、首を傾げた。

「あ、お父さん。アキくんは今頃……」


 リューが事の経緯いきさつを説明すると、大斗は「夜回りか……また夏がくるのか」と、どこか忌々しげに呟いた。


「まぁ、それはそれとしてだリュー。お前、明日は追試なんだろ?大丈夫なのか?」

「ええ。アキくんのお陰でバッチリです!」

「お、そっか。アキのためにも、頑張れよ」

 リューの笑顔に安心したか、大斗も笑顔で応えた。 

「……そうだ、リュー」

 大斗は居間のふすまを閉める直前、背中越しに言った。


「明日、桃井さんが来るからな」


 こんな時、リューは一瞬押し黙る。

 それはほんの僅かな時間なので、その理由を知る者でもなければ気にもとめないだろう。


 しかし大斗は知っている。

 知っていながら、ずっと知らないふりをしていた。


「……わかりました」

「ん。じゃあ、俺もう少し仕事してそのまま寝るから。お前も程々にしとけよ。前日頑張りすぎて、試験当日睡眠不足じゃシャレになんねーからな」

「はい。もう少し勉強して、お風呂に入って、早めに寝ますね」

「おう。頑張れよ」

「ありがとうございます。おやすみなさい、お父さん」

「ん。おやすみ」


 リューは参考書を開いて問題を見つめるが、しばらくは心の整理に時間を取られた。


 明日、桃井あのひとが来る。

 今、アキが夜回りをしている。


 彼女の不安の中に、明日の追試は既に無かった。 

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