第28話 桃井、襲来
朝食を終えて、時刻は午前9時半。
予定ではそろそろ武人会からお迎えが来るはずだ、と虎子が言うと、アキの緊張はさらに高まった。
「き、緊張してきた……」
ガクブルしまくるアキに、虎子は肩をすめた。
「さっきからしてるだろう。だいたい、何を緊張する事があるんだ? 刃鬼の家に遊びに行くようなものだろう」
「そんな簡単なもんじゃないだろ……だいたい、虎子も武人会のメンバーなんだろ? それなのに会長を名前で、しかも呼び捨てとか、大丈夫なのかよ」
「武人会は実力主義なんだよ。自慢じゃないが、私は刃鬼に喧嘩で勝ったことがあるからな。つまり私はある意味、武人会会長より偉いのだ。わっはっは!」
「は? 喧嘩?」
「一昨年だったかな、あいつと意見が合わなくてな。売り言葉に買い言葉でそのまま取っ組み合いの喧嘩に発展してなぁ。お互いボコボコだったが、でも勝ったぞ。な? リュー」
虎子は胸を張って笑うが、リューは表情を曇らせ、
「あのときは会長にもシュン兄さんにもご迷惑をおかけして……」
と言ったまま顔を伏せた。
一体何があったのか……。
虎子とリューの様子からして想像を遥かに超える「被害」が出たのだろう。
「まあ、とにかくそんなに不安がることはない。私達も一緒に行くんだし、昼飯も出るから、リラックスしていればいい」
「メシ食う余裕なんてあるかな……」
アキが天を仰いで遠い目をしたその時。突然、彼の背後のふすまがゆっくりと開いた。
そして何者かの人影がゆらりと揺れた。
「え? 大斗さん??」
現れたのは大斗だったが、様子がおかしい。
彼はげっそりとやつれ、精気のない表情には無精髭が張り付くように生い茂り、目が死んでいる。
「また徹夜したのか」
虎子が呆れ気味に言うと、大斗は唇だけを蠢かせて何事かを呟いている。まるでゾンビの様だ。
不気味を通り越して不吉な大斗にアキは戦慄したが、リューも虎子も「またか」といった感じで特に気にしていない。
リューが何も言わずに用意してあった朝食をちゃぶ台に置くと、大斗はゆっくりと着席して黙々とそれを食べ始めた。
「お、おい虎子。なんだよこれ……大丈夫か? 大斗さん」
アキが大斗をチラ見しながら虎子に耳打ちすると、虎子は深いため息をついた。
「いつもの事だよ。締め切り前はいつも徹夜だ。いい歳こいて、予定を守れないどころか予定を立てすらせんのだよこの男は」
「締め切り? 大斗さん、いつも家に居るから何してる人なのか怖くて聞けなかったけど、まさか作家か何かなのか?」
「漫画家だよ。少女漫画家」
「……またまたぁ」
この海賊の様な風貌のおっさんが少女漫画家なんてそんなはずはない。
また虎子が自分をおちょくってるんだとアキはまともに取り合うつもりは無かったが……。
ピンポーン、と玄関の呼び鈴が鳴った。
「お、武人会の迎えが来たかな?」
虎子が立ち上がろうとすると、リューが先に立ち上がった。
「お姉ちゃん、私が行きますよ。秋くんと準備をしていて下さい」
そう言って、リューは玄関の方へと向かった。
「さあ、いよいよだな。アキ」
虎子がニヤニヤしながら緊張の頂点に達したアキをおちょくろうとしたその時だった。
玄関からリューの悲鳴にも似た声が家中に響いた。
「
予期せぬ出来事にアキは唖然とし、虎子は一瞬だけ視線を鋭くし、大斗は手にしていた茶碗を落とした。そして虚空を見つめ、蚊の鳴くような声で呟いた。
「も、もも、ももも、もも」
同時に、玄関からリューと「桃井さん」のやり取りが聞こえてきた。
「リューちゃん、先生はご在宅よね? 上がらせてもらってもいいかしら?」
「え? あの、桃井さん、そんないきなり」
「いきなりじゃないわ。私は何度も先生の携帯に電話してるの。でも出ないの。締め切りは今日よ。正確には午後9時……つまり、もう余裕ないの!!」
「だ、だからといって突然お見えになられても……」
「データも来ないしメールも返信なし、電話も出ないじゃ、直接会って聞くしかないでしょう。原稿は出来てるのか、まだなのか!」
「桃井さん」は相当気が立っている様子で、声も大きかった。リューもかなり押されている。
リューは桃井さんを家に上げまいと踏ん張るが、桃井さんの勢いは増すばかりで、リューという防壁の突破も時間の問題だ。
「おい大斗、原稿はどうなんだ?!」
虎子が震える大斗の肩を揺すって問いただすと、大斗はうん、と頷いて言った。
「あ、あと少しなんだな。あ、あと、あとちょっと、ほんのちょびっとなんだな」
大斗は既に自我崩壊の一歩手前に在るらしい。そのたどたどしい口調は虎子に最悪の事態を悟らせた。
「くそっ、まだ出来上がってないのか!」
額を抑えて天を仰ぐ虎子。玄関からはリューと桃井の攻防が激しさを増している。
(ああ、俺だってそれどころじゃないってのに!)
アキは立ち上がり、取り敢えずリューの援護に向かうことにした。
「お、おいアキ! 待て!」
虎子が呼び止めるのも聞かず、アキは玄関へと走った。
「どいてリューちゃん! このままじゃ締め切りに間に合わないの! そうなると原稿料も払えないのよ? 困るでしょ?!」
「そ、それは困りますけど、お家の中に上がられるのも困ります!」
「なんで?!」
「なんでもです!」
わけのわからない押し問答だった。アキは取り敢えず手が出る前にと、彼女たちの間に割って入った。
「ちょ、ちょっと待って! とりあえず落ち着いて!」
「あ、秋くん?!」
リューはアキに反応して一歩引いた。しかし、桃井はアキに怪訝そのものの視線を投げつけていた。
「……あなた、誰?」
「あ、いや、俺は……」
そこにいた『桃井さん』は、いかにも仕事ができます、といった風貌の若い女性だった。
スタイルが良く、スーツが似合う大人の女性だが、見た目より歳が若いのか、どことなくあどけなさの残る顔が魅力的な、なかなかの美人だった……が、今はかなり気が立ちまくっている様子で、きっと普段なら好印象をもたらすだろう凛とした瞳を限界まで攻撃的なモノに研ぎ澄ましており、アキはその迫力に簡単に気圧されてしまったのだ。
一瞬で静まり返った玄関だったが、静まった意味合いもまた問題だった。
「で、あなたは何なの?」
「あ、あの、ええと」
「リューちゃんの友達? 悪いけどあなたには関係ないから」
桃井が
「桃井さんっ!」
リューがその手を鷲掴み、二人の視線が図らずも衝突。そしてふたりは無言で見つめ合う。
「……」
アキは緊急事態発生だと直感した。
リューらしくない。リューは桃井に対してどこか否定的な感情を抱いている。
アキは桃井の手を離さないまま、視線を逸らすことなく相手を見つめるリューの瞳に不安を感じた。
「リューちゃん。その手、離してくれないかな。私は仕事で来てるの。それとキミも。リューちゃんの友達か何か知らないけど、関係ないなら黙ってて」
そしてアキを押し退けて家に上がり込もうとした瞬間。桃井の腕を掴んだリューの右手に力が入った。
その時。居間から虎子が飛び出して来た。
「まてまてまて桃井さん!」
猛ダッシュで駆け寄りつつ、虎子は右手を突き出し、指を鳴らした。
パチッ!!
まるで風船が破裂するような音。
中指が乾いた音を鳴らし、虎子は素早くリューと桃井の間に割って入った。
「桃井さん、この前話したじゃないか。連休明けから大斗の友人の息子と暮らすと。彼がその息子くんだよ」
虎子が説明すると、桃井は僅かな間呆けた様に視線を虚空に投げ、その後、直ぐにアキを見つめた。
「……国友、秋くん、だったかしら」
桃井はさっきまでの鋭い眼差しが何だったのかと思う程に、呆けたような
その急激な変化にアキは戸惑って言葉が出てこなかったが、虎子はさも嬉しそうにうんうんと頷いている。
「そうそう。思い出してくれたか」
そして虎子はさり気なくリューの手を桃井の腕から離し、アキを桃井の目の前へと差し出した。
「ほらアキ。ボーッとしてないで、ご挨拶しなさい」
「え? あ、あの……国友秋です」
アキが促されるままに頭を下げると、桃井はさっきまでの攻撃的な空気を無かったことにしてしまう様に、彼女もまた頭を下げた。
「ごめんなさい、虎子さんからあなたの事を聞いていたのをすっかり忘れてて……私は桃井みつきです。大斗さん……いえ、先生の担当編集者をさせて頂いています。よろしくね」
そして桃井は右手を差し出し、アキに握手を求めた。
危機は去ったのか? アキは状況の急変についていけていなかったが、取り敢えず桃井の右手を取り、握手を交わした。
「あ、はい。こちらこそ……って、担当編集者? てことはホントに大斗さんは漫画家なんですか?」
「そうよ。って、そうだ! 原稿! げんこおおお!!」
桃井は再び野獣の様な雄叫びをあげかけたが、虎子がすかさずフォローに回る。
「桃井さん、大斗が言うにはあと少しで完成するそうだ。だから落ち着いてくれ。上がって待ってて貰って構わないから、取り敢えずここで少し待っててくれ」
そして虎子はリューの肩をポン、と叩き、
「な、それで構わないな? リュー」
と、優しく、それでいて有無を言わさない力強さでリューに問うと、リューは静かに「わかりました」と、俯いたまま押し殺すように了承の言葉を発した。
「よし。……おい大斗! 聞こえたか?」
そして虎子は居間へダッシュ。絶賛現実逃避中の大斗の頬をビビビビビビと張った。
「しっかりしろ! お前が働かなかったらこの家はどうなる? お前の様な社会不適合者が辛うじて
そして虎子は大斗の巨体を軽々と持ち上げると、仕事部屋の方へと思い切り放り投げた。
「ぐぅおわあ!」
襖は開いたままだったので、大斗は唸り声とともに仕事部屋の中へとゴロゴロと転がっていった。
「今から桃井さんをここに呼ぶ! 死にたくなかったら死ぬ気で描け!」
「も、桃井さん?! 虎子、それだけは勘弁してくれ! それだけは……」
異様に怯える大斗。虎子もその理由はわかっている。だが、事ここに至っては容赦など無意味なのだ。
「武運を祈る!」
そして仕事場の襖をピシャンと閉めた。
「お待たせした桃井さん! あとはお任せするぞ!」
そして迷う事なくリューとアキの手を引いて家の外へ出た。
「お、おい虎子、いいのかよ? 大斗さん放ったらかして」
アキが虎子に耳打ちするが、虎子は脇目も振らずに家の外を目指す。
「締め切り直前の漫画家とその担当編集者の戦いは一流武術家同士の真剣勝負の激しさに匹敵する。巻き添えを食らう前に逃げるぞ!」
「いやそんな大袈裟な」
アキが桃井を見やると、今まさに玄関から廊下へと上がっていく彼女の後ろ姿が見えた。
虎子もそれを見たが、虎子にはその背中に『鬼の顔』がべったりと張り付いている様に見えた。それは危機を報せる現象に他ならない。
「と、とにかく逃げるぞ!」
「え? ちょ、うわっ!」
虎子はふたりを両肩に担ぎ上げ、猛ダッシュで門へと向かった。
すると丁度、武人会からの迎えの車がやって来ていて、運転手の男が門の呼び鈴のボタンを押す寸前だった。
「あれ、虎子様……って、どうされたんですか? そんなに慌てて」
「
「も、桃井さんが?!」
藤原と呼ばれた運転手の男は慄き、即座に運転席に戻ってエンジンをかけた。
虎子は担いでいたリューとアキを車の後部座席に放り込み、自分は助手席へと飛び込んだ……直後、藤原はアクセルを一杯まで踏み込んで急発進!
彼は即座にサイドブレーキをかけてハンドルを切りまくると車体は豪快にドリフトし、強烈なGと共に爆音を置き去りにして一之瀬家から飛び出した。
「うわああっ!」
突然の無茶な運転にアキは思わず舌を噛みそうになった。しかし藤原は加速する。虎子は「飛ばせ飛ばせ」と藤原を煽る。リューは俯き、静かに目を閉じている。
(な、なんなんだこの状況は??)
こうしてアキは緊張する間も、心の準備も許されないまま、訳もわからず武人会本部へと向かったのだった。
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