第26話 私の好きな〇〇

 翌朝、リューはキッチンで朝食の準備に追われていた。


 朝の忙しい時間に3人分の朝食と、3人分の弁当の準備はかなりハードだが、リューはてきぱきとリズムよくこなしていた。


 朝食はいいとして、3人分の弁当の内訳はこうだ。

 1、在宅勤務の大斗の分。

 2、自分の分

 3、アキの分




 なのだが、今日もアキの分は彼の部屋の前に置いておくことになってしまうのか……。


(お父さん、まだ起きそうにないですね)

 リューは大斗の仕事部屋の戸をほんの少しだけ開け、薄暗い室内で泥のように眠る大斗の大きな影を見てため息を吐いた。


(また徹夜したんでしょうか。寝不足は身体に障るっていつも言っているのに……)

 リューは部屋中に散乱した原稿用紙やペンなどの仕事道具を不安げな瞳で見つめ、そっと扉を閉じた。


 不安といえばもう一人。

(アキくんは今日も……)

 と、彼の顔を思い浮かべたその時だった。

「おはよ」

 リューの背中を、彼女の待ち望んだ声が優しく触れるように呼び止めた。

「あ、アキくん!」


 アキは制服姿で、どこかバツの悪そうな顔を隠すように言った。

「あの、その……なんつーか、心配かけて悪かった」

「……」


 リューの瞳にじわじわと涙が溜まっていく。

 アキが戻ってきてくれた!それに学校の制服を着ているということは、つまりそういう事だ。

「アキくん……ううっ」


 感涙にむせぶリュー。以前ドキュメンタリー番組で観た、何年も引きこもっていた息子が社会復帰した時の母親の気持ちが今なら痛いほどよくわかる。

「うう……あうっあ、あきぐぅん」

「ちょ、泣くなよ、泣くほどの事か?」

「泣くほどの事ですよぉ……私、心配したんですよぉ」


 リューは大斗の事などすっかり忘れ、アキの帰還を心から喜び、そして虎子に心の中で何度も感謝の言葉を繰り返した。

(お姉ちゃん、お姉ちゃんのお陰ですよ! ありがとうございます! ありがとうございます!!)


 襖を破壊したことはまぁ置いておいて、自分だけの力ではきっとアキを立ち直らせる事は出来なかっただろう。特に、昨晩自分が眠ってしまってから、きっと説得をしてくれたに違いない。

(さすがお姉ちゃんですっ……!)


 兎にも角にもアキが復活してくれた事が何より嬉しいリュー。ルンルン気分で朝食も済ませ、弁当もしっかりふたり分包み、片方をアキに手渡した。


「さぁ秋くん、学校へ行きましょう!」

 大斗の分の弁当の事はすっかり忘れ去り、テンション高めで玄関を飛び出したリュー。

「ま、待てよリュー。どうしちゃったんだよ……?」

 リューがどれほど心配したか、そして今がどれほど嬉しいか、当のアキにはよく分かっていないが、そんな事はリューにとってどうでもいい事だった。リューには、こうしてアキが隣にいてくれる事が何より嬉しかったのだ。


「……あれ?」 

 アキはふと玄関脇に目をやり、首を傾げた。

「どうしたんですか? 秋くん」

「いや、あれって虎子の自転車じゃないか?」

 アキが指差す先には、虎子のマウンテンバイクが無造作に停められたままになっていた。


「お姉ちゃん、まさか走って帰ったとか……」

「いやいや、あの距離をか? あり得ないだろ。だいたい、虎子が帰ってったのは真夜中だぞ。いくらなんでも、それは無いだろ」

「そうですよね、いくらお姉ちゃんでも……」


 リューはまるで主を失ってしまったかの様に佇む虎子のマウンテンバイクを、不安げな瞳で見つめていた。




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