第25話 畳の上では死ねない身の上

 アキはゆっくりと目覚めた。

 ゆっくりゆっくり、確かめる様に。


 全身が軋む。痛みが覚醒を促すどころか、妨げる。


 ここが自分の部屋で、布団に入って横になっている事に気がつくのに随分時間がかかった。


「……気が付いたか」

 布団の側には虎子が座っていた。


 彼女はアキの顔を覗き込む様にして彼に問うた。

「気分はどうだ?」

「……痛ぇ」

 アキの口から、今考えている1番の思いが零れ落ちた。すると虎子は可笑しそうに笑った。

「ははは、痛いか。そうかそうか。その程度で済んで良かったよ」


 虎子は机の上に置いてあった洗面器でタオルを濡らし、アキの額へ置いた。

「九門九龍に伝わる整復術を施しておいたから、痛みもすぐに引いていくはずだ。幸い骨折も無いし、多少熱が出るが明日には元気に登校できるだろう」

「登校? ってことは……」

「今日は日曜だよ。しかも夜だ。お前は丸一日気を失っていたんだ。まったく、よく寝る男だな、お前も」

 虎子はまた、愉快そうに笑った。

「……別に寝たくて寝てるわけじゃねーよ」

 リューにコテンパンにされた時の事を言っているのだとすぐにわかった。


「……リューは?」

 アキが問うと、虎子は時計を指差した。

「もう寝たよ。武術家たるもの、早寝早起きだ」

 時刻はもうすぐ日を跨ぐ程度に深夜だった。


「とはいえ、寝たのはついさっきだ。それまでずっと、お前に付きっきりだったんだぞ?」

 虎子はアキの額のタオルを交換しながら言った。

「この果報者め」

 ふふ、と彼女は薄らと微笑んだ。


「……放浪して、何か得るものはあったか?」

 その声色は優しく、まるで小さな子供に問いかけるような慈しみがあった。

「別に……」

「そうか。それもまた収穫よ」

 虎子はアキの素っ気ない返事を笑顔で受け入れ、それ以上何も言わなかった。


 沈黙が流れる。

 虎子は何も言わない。何も訊かない。しかし、アキは訊きたかった。訊かずにはいられなかった。

「……強いんだな、虎子は」

 アキの記憶にしっかりと刻み込まれた虎子の超人的な強さ。あの化物おにをこんな細身の女性が難なく倒して退けたなんて未だに信じがたいが、それは紛れもない事実だ。


「ん、まあ、これでも武人会の武人だからな。あの程度は雑作もないよ。それよりアキ、お前は鬼に襲われたというのに取り乱したりしていないが、大丈夫なのか?」

「……そりゃ、怖いよ。でも、自分でも怖いぐらい落ち着いてるよ。なんか、父さんも鬼と戦ってたんだって思ったら、結構平気で」

「ほう、ご尊父を?」

「……俺の父さんも武人会だったんだろ?」

「そうだ」

「……強かったのかな」


 虎子はほんの少しだけ俯き、視線を戸惑わせる様に自分の手元を見つめていた。

「前にも言ったが、私はあの頃まだ武人ではなかったし、秋一郎氏の戦いをこの目で見たわけでは無いから確たる事は言えないが、刃鬼からは武人会の中でもトップクラスの実力者だったと聞いているよ。そうでなければ、多くの命を救うことなどできまい」

「……」


 アキの沈黙が自分の言葉を咀嚼するための時間だと理解していた虎子。一旦間を置いて、続けた。


「お前はお前でいいじゃないか」

 虎子が言うと、アキは目線だけ虎子へ向けた。

「お前と秋一郎氏は確かに親子だが、別の人間だ。父親が偉大な武人だったからと言ってお前もそうなる必要はない。皆がお前を歓迎しているのは純粋に仲間が増えることを喜んでいるんだよ。少なくとも私やリューはそうだ。だから、お前はここでの新たな生活を楽しめばいい。それとも、それを拒否してまた暗闇に戻るのか?」


 それを訊いたアキはそっと目を閉じた。瞼に浮かぶのは、空虚で荒んだ東京での生活だった。


「……仁恵之里ここがお前の生きるべき場所だ、アキ。闇に生きるな。陽の光の下で生きろ……リューと、と、共に、ひ、陽の光の下、で……」


 突然、虎子が苦しそうに声を詰まらせ始めた。

 胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべている。


「ど、どうしたんだよ虎子、大丈夫か?」

 アキが布団をはねあげて起き上がると、虎子はそれを右手で制した。

「大丈夫だ……ここ最近少し疲れがたまっている様でな。すぐに治まる。心配無用だ」

「いや、でも……」

 虎子の額には冷や汗が滴っている。顔色も悪い。それでも虎子はアキに「寝ていろ」と声をかけ、彼に優しく布団を掛けた。


「……私はそろそろ帰るとするよ。明日も早いんでな」

「む、無理すんなよ。体調悪いんなら今日は泊まってって、会社なんて遅れて行けばいいだろ?」

「はは、そうしたいところだが、明日は大事な仕事があるんだ」


 虎子はまるで老人の様にゆっくりと立ち上がり、振り返った。

「じゃあな、アキ。今日はこのまま寝なさい。明日の朝には全快間違いなしだ」

「本当に大丈夫か?やっぱり泊まって……」

「ありがとう。だが、大丈夫だよ」


 そう言い残し、部屋を出ようとしたところで、アキは虎子が携帯を忘れている事に気が付いた。

「虎子、携帯スマホ……」

「ん、ああ。うっかりしていた」

 虎子は畳の上に置き去りにされたスマートフォンに右手を伸ばし、拾い上げ……た、はずだった。

 はずだったが、携帯はピクリとも動かなかった。


 それどころか、アキには虎子の右手が携帯をすり抜けた様に見えたのだ。

「?!」

 アキが目を丸くした瞬間、虎子は素早く左手を差し出して携帯を拾い上げ、何事もなかった様に笑顔を見せた。

「……また会おう、アキ」

 そして彼女は去っていった。


(……見間違いだよな。俺も疲れてるんだよ……っていうか、ボロボロだし……)

 そんな事を考えているうちに、アキはすぐに深い眠りに落ちていった。



 その頃、虎子は暗い廊下の壁に体を預けながら、まるで怪我人の様に玄関を目指していた。

「まずいな……丸2日、たなくなっている……」

 彼女はゆっくりと廊下を進み、徐々に夜の闇の中に消えて行った。


「私には、まだやらなければいけない事が沢山あるんだ……だから……まだ……」




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