第15話 仁恵之里の高校生
翌朝、アキは仁恵乃里高校の制服に袖を通して鏡の前に立ち、ため息をついた。
正直に言って、気が進まない。
1年生の頃からあまり学校へ行っていなかったアキ。さらに転校生という身の上は精神的にかなりキツい。
本当は行きたくないが、リューの気持ちを考えると無下にも出来ない……。
重い足取りで洗面所へ向かい、顔を洗って廊下を歩いていると、リューの声がアキの背中を呼び止めた。
「おはようございます、秋くん!」
元気一杯、満面の笑みで彼を迎えたリュー。彼女は朝食の準備に追われていた。
「すぐに朝ごはん用意しますからね、待ってて下さい」
「あ、うん……」
生返事で返し、居間へ向かうと既に大斗はテーブルの前で新聞を広げていた。
「おう、おはようアキ」
「……おはようございます」
大斗が既に起きている事が意外だった。彼のイメージからして早起きをするタイプではないと思い込んでいたからだ。
(でも、まだ寝巻きのまんまだ。何の仕事をしているんだ、この人は……)
大斗は朝食を食べる気は満々だが、仕事へ行く気配は微塵もない。むしろ食事を済ませたらもう一回寝る雰囲気すらあった。
「緊張してんのか?」
大斗が新聞を置いてアキに視線を移す。アキは所在なさげにその視線から逃げると、大斗は笑った。
「ははは、そりゃそうだ。俺ならイヤだもん。2年の初っ端から転校とかキツいわ〜無いわ〜」
励ましの言葉とか応援のメッセージなどを予想していたアキの期待はあっさり裏切られ、まるで子供の様な大斗の物言いに驚いた。
他人事の様な態度に腹が立つが、事実他人事なので文句も言えない。
「……でもよ、アキ。高校は絶対楽しいぜ」
力強く断言する大斗の言葉に迷いは無かった。
「最初はいろいろあるかもだけどよ、すぐに慣れるって。なんも考えずに楽しめよ。楽しんだもん勝ちだぜ」
何も考えて無さそうな大斗が言うと、妙な説得力があった。小難しい事を言われるよりも、今のような言葉はアキにとっては救いにも感じられたのだ。
「……ありがとうございます」
「……」
アキは頭を下げ、顔を上げると大斗は無言でアキを見つめていた。
「な、何ですか?」
「なんですかじゃねえよ」
「え?」
何かまずい事でも言ったのかと焦るアキだったが、そうでは無かった。
「敬語とか使ってんじゃねえよ。そーゆーの要らんて。虎子も言ってたろ? 俺らはもう家族なんだからよぉ、やめようぜ他人行儀とか、面倒くせぇのはさ」
大斗が肩をすくめると、リューが朝食を配膳しながら微笑んだ。
「そうですよ秋くん。遠慮は無用ですよ。心配も無用です!」
少しでも不安を和らげようとしてくれている2人のお陰で幾分勇気が出たアキだったが、それでもまだ前向きな気持ちには程遠かった。
しかし、2人の善意を無為にはしまいと気を取り直したが、続いた大斗の一言で空気が変わった。
「そうだリュー。今日、桃井さんが来るからな」
一瞬、リューの全てが全停止した。
(……?)
ほんの一瞬だ。アキがそれに気がつく頃には過ぎてしまっている程度の瞬間だったが、リューに確かな異変があった。
「……わかりました」
呟く様に言い残し、再び台所へと向かうリューの背中は、まるで別人の様に冷め切っている様に感じられた。
朝食が済み、家を出る頃には普段のリューに戻っていたが、やはり気になる。
あの僅かな間の変化は只事では無い。
気になるからとはいえ、それを好奇心で聞き出すのも無粋過ぎる。
アキはそれ以上の詮索をやめ、自分の事に集中することにした。
なにせ今から初登校なのだから。
(やっぱり緊張する……)
アキは初登校の道すがら、極度の緊張から自分がいつ家を出てどこを歩いているのかもよく分からなくなりそうだったが、不意に背中を何か固いもので突かれて我に返った。
「……」
振り返ってみると、小学生が黙って立っていた。
右手にサインペン。左手にスケッチブックを待っている。
どうやらアキはそのサインペンで背中を突かれたようだ。
「……ええと、何?」
いや、小学生ではない。彼女は同じ仁恵之里高校の制服を着ているのだ。
その栗色の長い髪は緩く波打ち大人っぽい雰囲気だが、とても高校生とは思えない小柄さと可愛らしい顔立ちの彼女。大人と子供が混在するアンバランスさがあるが、それが不思議とハマっていた。
ちなみに、リューもそうだがこの少女も相当な美少女の部類に入ると言えるだろう。
ただ、何故か喋らない。
彼女はさっきからずっと黙っているのだ。
「……??」
アキが首を傾げると、その少女はスケッチブックを開いて何やら書き出した。
そしてアキにそれを見せつけた。
スケッチブックには、
《久しぶりだな、アキ》
と、書いてある。
「……?」
身に覚えが無いのでアキがもう一度首を傾げると、少女は憤った様子で再びスケッチブックにペンを走らせた。
《あたしの事も忘れたんかい!》
そしてスケッチブックの角でアキの胸をガシガシと擦り始めた。
「い、痛っ! やめろ! 痛いって!」
執拗に乳首を狙ってくる的確な責めにアキが逃げ回ると、見かねたリューが止めに入り、少女はようやく怒りの矛を(とりあえず)納めた様子だ。
「だめですよ
少女は納得出来ない様子だったが、リューの前では聞き分けが良いらしく、《しかたねーなー。リューに免じて辛抱してやらぁ》と、スケッチブックに書いた。
「秋くん、彼女の名前は
《マジで忘れちゃってんの? しゃーないけど、早く全部思い出せよなー》
と、澄はスケッチブックをアキ向けていた。
……どうやら、澄はリューとは違ってやんちゃな性格らしい。
それにしても、澄はまだ喋らない。
「あのさ、なんで……その、声が……」
アキは澄が何故一向に喋らず、常に筆談しているのかが知りたかったが、もし、病気とか事故とかの影響なのかとも思い、言葉を濁した。
リューはその気持ちも汲んだ様子でにっこりと微笑んで言った。
「澄は言葉の力が強いんです。上手くコントロールしないと
「……ごふ?」
またしても置いてけぼりのアキ。
澄はそれを察して《一から説明してたら日が暮れそ。
澄はスケッチブックにそう書くと、自分の腕時計をリューに見せて何かをアピールした。
「そうですね、そろそろ行かないと遅刻しちゃいます」
顔を上げると、そこには目的地である仁恵之里高校の校舎がその姿を現し始めていた。
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