魔素窟にて

第4話 身体よ、動け、動け、動け、動け……

 ひんやりした床で目が醒めたらしい。あたりは暗い。

 体がかなり冷えている。

 僕は何やら動きにくい手を動かしてお腹をさすろうとした。しばしの後、お腹に触れた手は、服の感触ではなく、つるりとした肌を捉えた。

 下の方もすーすーしている。


 その感触に少しばかりギクリとした僕は、もう一度、もう少し下の方に手を動かしていく。

 今度は地毛に触れた。


 毛が何やら硬い。しかも、これ以上手を下の方に動かすことがためらわれるレベルの硬さである。実際に毛の先に何が存在しているのかは、男子である僕はもちろん知っているので、ひとまず手の動きを止めた。


(うーん)


 ひんやりした床の感触の方を確かめる。背中はもちろん、お尻の方も冷たい。床に肌が直接触れているのだろう。


 なぜだか知らないが、僕は、どうやらすっ裸らしい。

 ここは僕が常駐しているお客様のオフィスだ。来週からの次フェーズに向け、報告書を書き始めていたのだった。


 そう、ここは、地域フィナンシャルグループのホールディングスの孫会社様。今風というかアメリカ風の名前のフィナンシャルグループがまとめる形となってはいるが、古くは明治の終わり頃から地域に寄り添ってきた、多摩地区の名門銀行グループ企業のオフィスなのだ。

 金融機関といえば、働いている皆さんも、仕事机も地味で堅実なものだという。開発受託会社のプロジェクトマネージャーとして入室が許されている範囲でも、年配もののオフィスチェア、総務部門にあるかなり大きくて固そうな金庫などが僕の目に入った。前の渋谷系のお客様の現場とはだいぶ雰囲気が違った。


 もちろん、僕も紺の地味なスーツに地味なネクタイでお客様のオフィスに通っていた。顔立ちだって、まぁ母親譲りの金髪なところはさておいて、地味な方だと思う。


 プロジェクトマネージャーを務めさせていただいているシステム開発の方も、フィンテックという横文字が冠されているが、開発の大半はとても地味だ。一円どころか、その小数点以下である一銭や一厘の誤差も許さないようにDecimalという単位で利子計算を設計された旧システムの稼働は継続したまま、国内の債権用の受発注システムを円以外の通貨にも対応させていくことがプロジェクトの主眼だ。円も銭も縁がない外国通貨を複雑な為替レートの下で、許容された誤差の中で扱えという、要求項目を満たすことはかなり過酷なのだ。

 これから始まる、開発内容を結合していくテスト業務は、時として、隷属とか忍従とかいう言葉こそがお似合いのものになるかもしれない過酷さだ。


 そんなプロジェクトを取りまとめ役となった僕には、さっきも言ったようにそれなりに立派な机と椅子があてがわれている。


 なんというか、大正・昭和の感覚でいえば、お硬い名家を切り盛りするために遣わされお金の勘定を任された執事の一人といった立場なのだ。満州国時代、おじいちゃんが子供の頃過ごした家はそれなりの名家で、家には執事も召使いもいたらしい。ソ連に渡ってからの若きおじいちゃんはそれなりに身分が保証された通訳だったわけで、執事か召使いのような立場だったのだろう。


 そして、僕はお硬い会社の雇われ執事。そう思い、ひんやりした床に合わせ、動揺する心をクールダウンさせていこうとした。

 そう僕は、プロジェクトマネージャー。案件を御預かりしている立場。かつての言葉でいうならば、執事なのだ。


 だが、すっ裸。なぜに裸なのか、ということはさておき、会社の立場、世間体というものが浮かぶ。僕の心拍数が上がりはじめた。

 ま、まさか、週末とはいえ、お客様のオフィスで服を脱いで寝てしまったのだろうか。酔いが回って服を脱いだ、なんてことはこれまでの僕になかったことだし、今も僕には心当たりのある記憶はない。


 けれども、素っ裸はとにかくまずい。非常にまずい。

 お硬い銀行で、金髪の外国人風の地味顔の男が裸。顔が地味だろうが、新聞ざたに、というかネットで炎上しそうなネタだ。

 まだ真夜中らしくかなり暗いのが救いだ。ともあれ手探りでいいから服を探そうと思う。だが、体がうまく動かない。足に力が入らないのだ。


 つい、《裸執事》の歌詞が浮かぶ。下町の中学を卒業する頃から、ITに疎いマーマには内緒で見て日本語の勉強を兼ねて見ていたyou○beかニコ動で見つけたあれだ。

 歌は命じる。《すべてをさらけ出せ。脱げぇ、脱げぇ、脱げ、脱げ》、と。すでに新人社会人だった僕は、執事なのに裸、というその歌のパワーにちょっとやられ、しばしば口ずさんだものだ。


 うん、今はすべてをかけたい。身体よ、動け、動け、動け、動け。


 首は動かせた。

 あたりを見回す。座っていたはずの椅子はない。というかオフィスにあった机もPCもプリンターもない。

 加えて、僕の服も見当たらない。ICカードはどこだろう。あれなくして入退室はできないはずだ。


 代わりに少し先に壁がある。ここはそんなに大きな部屋ではない。


 普段のオフィスとは別の部屋で素っ裸らしい。ソファなどの備品が取り外された会議室なのだろうか。


 たまたま備品が出ていた関係で入退室のロックがかかっていない、とか……

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