共通ルート1 怜の話

 トーストとベーコンの香ばしい匂いで目覚めるいつもの朝。僕、須藤真呂太(すどう まろた)はぬくぬくベッドから出て窓を開ける。

 都心からは少し離れた場所のため、外はまだ夜から抜けきっていないような風が吹いている。閉まり切っていた部屋と僕の中に、その綺麗で静かな空気を取り込み、寝ぼけた体を起こす。

 名前にぴったりのマロ眉が、嫌なトレードマークの高校二年生。

 四月の頭にここに引っ越してきたばかりの、学園では転学生という立場の僕だが、小学生まではこの家に住んでいた。

 そのあと別の場所に引っ越したが、またここに戻ってきた、という、少しだけややこしい状況。

 一度住んでいた場所といえど小学生の頃のこと。感覚的には新居であるこの家に慣れるまで少し時間はかかったが、今日は桜ももうとっくに散ってしまったゴールデンウィーク明け。

さすがにもう見慣れた天井を、寝起き眼でぼんやりと眺める。

連休で朝日を久しく浴びていなかった体は、まだ少し寒い風に吹かれ、後ろのぬくぬく天国に舞い戻りそうになる。

甘美な誘惑を断ち切るようにドアを開く。微かだった朝食の美味しそうな匂いがより確かに感じられ、お腹が早くくれとせがむ音を出す。

慌てずに急な階段を下り、リビングのある一階へ。しかし、美味しそうな匂いの源であるリビングがある右へは曲がらずに、風呂場のある左に曲がる。

洗面所から香る爽やかな匂いに疑問を覚えながら、スライド式のドアを開くと、妹がそこにはいた。

 いつもはツインテールに束ねた長い髪を、今はおろしている。

ほんのり濡れた髪が白く華奢な肩や腰にまとわりつき、なんとも扇情的である。

大きく丸い瞳ともっちりとした頬。そしてふっくらとした唇をつけた、幼くも美しい顔は僕を見つめてポカーンといった表情だった。

さらにその下。

首から鎖骨へと降りてきて、二つの果実へと辿りつくはずだった僕の目線は、しかし気づくと小さくくぼんだへそまで来ていた。

もう一度視線を上に上げてみると、ささやかすぎる丘を発見した。果実ではなく、丘。

いや、これでは身内のひいき目が入っているだろう。

果実でも丘でもなく、“板 ”である。

かろうじて体全体のバランスと真ん中にチョコンと二つ付いているもの、そして目の前にいる子が僕の妹、つまり女性であることから、それはふっくらと膨らむはずの女性の象徴 “おっぱい ”であるのだろう。

しかし僕は今「実は妹じゃなくて、弟でした!」と言われても、冷静に受け入れられる自信があった。

 確かに、服の上からでもそこまで大きいとは思ってはいなかった。しかし “ここまで ”とは……。

妹といえど、さすがに女性らしさ、男性らしさが出てくる年齢からはお風呂はもちろん、目の前で着替えることもなくなっていたから今まで気が付かなかった。

まさか妹が、学園でも『美少女トップ五』に入るほどの可憐な少女の胸が、貧しいでは言葉が足りないほどだったとは。

“貧乳 ”ならぬ “胸板 ”だった。“ちっばい ”とからかうことすら憚られる。

これだったら “男の娘 ”と変わらない。

まぁ、僕の可愛い妹に勝てる者などいないだろうから(ましてや男にいるはずもないだろう)から、やっぱり胸がなくても妹は世界一なのだが。


 そう僕が結論を導きだすのにかかった時間はわずか一秒。

決して、妹を長い時間、上から下まで舐めまわすように観てはいない。そこのところは誤解しないでほしい。

ちなみに下には、水色に大きめの白い水玉模様の下着をはいていた。

妹のふにふにとした小さな手には、それとお揃いとみられる上を持っていたから、風呂上りの着替え中だったのだろう。

いつもはもっと早い時間に入っているはずだが……。寝坊でもしたのだろうか。

 そこまで僕が考えたところで、ようやく妹の思考停止が解除された。

ポカーンと可愛らしく開けられた口はわなわなと震えだし、大きな目はさらに見開かれる。そして風呂上りで赤い頬はさらに赤く染まった。

「いつまで見てるの」

 そう呟くように言った妹に、僕は安心させるための笑顔をでこう言った。

「大丈夫。まだ発達途中だから」

 次の瞬間、僕の右頬は妹の頬よりも赤く腫れ、洗面所に一歩も足を踏み入れることのなく、開けられたドアはゴロゴロピシャンという大きな音を立てて閉まったのだった。

 

 その後、すっかり冷めてしまった朝食を食べているときも、毎朝飲んでいる牛乳が、優衣のコーヒーに注いだら無くなってしまって「帰りに買わなくちゃ」と僕が思っているときも、いつもの通り一緒に、電車に乗って隣の『富士野(ふじの)市』にある僕たちの学園、『私立朝親学園』に登校している間も、ずっと妹は口をきいてくれなかった。学校に着いたときに一言、

「今日の部活、遅れる」

 と言ったけれど。

確かに、僕より一つ年下の妹、須藤優衣は常に無口で無表情。僕やごく一部の信頼している人の前でも、めったに表情を崩さないけれど (今日の朝ほどの表情変化は本当に珍しい)、それはいつもよりも冷たい顔と言葉だった。

 ツインテールのツンツン “美 ”少女。たまにはデレてくれないと、おにぃ泣いちゃうよ。


 そんなことがあり、テンションダダ下がりで自分の教室、二年一組に入る。

まず最初に僕に挨拶してくれたのは、このクラスの委員長。

長くきれいな髪を三つ編みにし、メガネをかけている。スカート丈は規定通りの膝より少し上。見た目もきっちりとした性格も、まさに “委員長 ”だ。

しかし、普通委員長というと堅物で融通が利かず、あまり好かれるタイプではないかもしれないが、彼女は違う。

色白で整った顔と、冗談も通じる面白味もある性格で、このクラスだけではなく学園中で人気者だ。

生徒会で書記としても働いている傍ら、『生徒会お悩み相談室』という、生徒の様々な悩みを生徒会が聞く週一回の活動では、予約が殺到するほどだそうだ。

ちなみに、学園の『美少女トップ十』の一人らしい。

僕はあまりこういうことに興味がないのだが、僕の悪友がそう興奮気味に言っていた。

まぁ、委員長と彼は幼稚園の頃からの幼馴染で、恋愛感情の欠片も存在しないような間柄だから、その『興奮』も、別の女の子に対してだったけれど……。

委員長は、僕に挨拶したあと、何かを思い出したように席を立ち、僕に近づいてきた。

「ねぇ、須藤君。さっき……」

何かを言いかけた委員長の声を遮る、乱暴に開けられたドアのガラガラという音。

委員長は少し不機嫌そうな顔で、ドアを開けた男子を見た。

「上地(かみぢ)君! 少しは静かに行動できないの⁉」

 そう委員長が怒るのはいつものこと。着崩した制服でへらへらと笑いを浮かべて、反省の色も見せない上地。僕の悪友である。

いわゆるイケメンで、女子からの人気が高く、その上チャラい見た目と言動とは対照的に、学年トップ五に入る成績優秀者だ。そのため、多少の服装の乱れも教師に容認されている。が、それが許せない委員長に毎度怒られている。

ちなみにチャラいのは見た目だけで、中身は自分で認めるほどの純情なヘタレ。「好きな子に告白できねー!」とこの間叫ばれた。

委員長とは幼稚園児の頃から変わらない「今のような関係」だそうだ。

委員長は美少女で上地も美男子だから、羨ましさや妬ましさのこもった目で見られることもあるようだけど、そんなことはぜんぜん気にしない二人。

「おっ、なに。いいんちょは真呂太とのお話しを邪魔されてご機嫌斜め? おい、真呂太ぁ、放課後だけじゃ飽き足らず、朝も女の子とラブラブかぁ?」

 そうニヤニヤ顔で言う上地に、僕はあきれた顔を浮かべた。

「いや、委員長とラブラブなんかしてないって。ただ委員長は僕に何か用事があっただけだから。そんなこと言ったら、委員長がかわいそうだろ」

 委員長はさっき言った通り、美人で人気者だ。僕なんかとそういうことを言われたら迷惑だろう。

そうすると、上地は少し委員長を見たあと、

「えっと……、とりあえずごめん」

 と、委員長に謝った。謝られた委員長は心なしか落ち込んでいる?

「えっと……。さっき言ってた『放課後だけじゃ飽き足らず』ってどういう意味?」

 僕がそう聞くと、なぜか委員長と一緒に落ち込んでいた上地がバッと僕のほうを見た。

「なっ、おまえ……。放課後、この学園の『美少女トップ五』に入る四人とイチャイチャしてるだろ!」

 と、半ば切れ気味で答えられた。そして、顔を少し赤く、鼻息はハアハアと荒く、興奮気味で僕に近づいてきた。

「ここの学園長の娘で、少し男っぽい言動・行動が凛々しくかっこいいと、男子だけではなく女子からの人気も高い、朝親怜」

「そして、ぱっつんツインテールという可愛らしすぎる萌え要素をもちながら、無口で不愛想。しかし、時々見せる笑顔がまさに天使な、須藤優衣。真呂太の妹ちゃんだな」

「無口で不愛想という点では妹ちゃんと同じだが、長く重い前髪で左目が見えない、ミステリアスさに惹かれる男子が急増中で、理系の成績は常にトップの、白波風香」

「横に結んだ髪が走るたびにピョコピョコと揺れる元気っ子、陸上部期待の星、瀬川綾」

「そんな四人と同じ部活で、人気のない部室棟の端で放課後、ハーレム三昧なくせに! 羨ましいな、ちくしょお!」

 最後に僕を指さしてそう締めくくった上地。

いつの間にか、周りには『美少女トップ五』の各々のファンクラブ会員(意外と女子も多い。特に朝親怜には)が集まっており、まるでお国の大統領が演説をし終わったあとかのような拍手と賞賛の声に包まれていた。

ちなみに、上地は、一通り全員のファンクラブに所属したが、何の気持ちの変化か、今はどこにも所属していない。

 僕はそんなみんなの盛り上がりに若干引きつつも、上地の言葉に疑問を抱いていた。

別に、ハーレムとかそんな甘いものじゃないと思うんだけどな。

適格に表現するとしたら、妻や娘しかいない女所帯家族のお父さん的な肩身の狭さだよ、実際。

 ところで、学園の『美少女トップ五』のあと一人は誰なんだろう。優衣と並ぶぐらいだから、よほどの美人だと思うけど……。

もう、そういうのを聞ける雰囲気ではないな。諦めよう。


 今日最後の授業終わりのチャイムが鳴り、憂鬱な時間から解放された生徒たちの嬉しそうな雰囲気に包まれる放課後の始まり。

僕は、委員長とニヤニヤと笑う上地。そして憎しみと羨望の眼差しで見つめてくる同じクラスの『美少女トップ五』各々のファンたちに別れを告げ、まだ空が青く明るいなか、部室棟へと足を向けた。

坂に建つこの学園は、校舎がとても入り組んでいる。

地上四階、地下三階建てで昇降口は一階、入り口は正門と裏門の二箇所にある。正門は地下三階(坂の一番下)にあり、一階へは直通エスカレーターを利用する。正門には学園専用のバスターミナルがあり、『的場(まとば)駅』と『赤根(あかね)駅』からのバス通学の生徒が使用する。

対して裏門は、昇降口から正門と反対側に進み、階段を少し上がったところで、坂の頂上に当たる。ここは、最寄り駅である『上坂(かみさか)駅』から十五分歩いて通学する生徒が使用する。

つまり、お金持ちの学園っぽいエスカレーターは、バス通学の生徒ぐらいしか使わない。徒歩組は駅から坂の多い道を歩いて来なければならない。

エスカレーターを使って悠々と昇ってくるバス組と、十五分歩いて疲れ果てた徒歩組。二つの組には確かに溝が生じている……というのは言い過ぎだけど。高校だから自分で選んだわけだし。それでも、徒歩組の僕は少し文句を言いたくなるような、大変な十五分なのだ。

そんなことよりも、複雑すぎる構造の校舎。私立らしいお金持ちっぽさは、実はあまりない。

増設に増設を重ねたような、無理矢理感満載。坂に建っているから仕方ないのかもしれないが……。意味不明の階数設定。やけに多い渡り廊下。唐突に表れる、一・二段しかない階段。

 まあ、国の最大企業『朝親グループ』の学園といっても、昔は普通の私立高校だったらしいからしょうがないのかな。経営難になった高校を前社長が買い取ったとか……。

ここに来て間もない頃には軽く迷子になった経験が何回かあるほど複雑で、何度委員長に助けられたことかわからない。

部室棟へは、一度昇降口から中庭に出て、正門とは反対方向の裏門(坂の一番上)に向かう。

ちなみに裏門が徒歩組にとっての正門だ。

学校に必ず生えている桜は、正門にしか生えておらず、徒歩組は春になっても学園で桜を見ないことがほとんどだ。たまにバス組の頭に乗っている花びらを見る程度かな。

まぁ、そんな悲しい雰囲気の裏門に向かう途中にある少し古いレンガ造りの建物。それが部室棟である。確か、この学園で一番古い建物らしい。もちろん耐震工事はバッチリとされている。


部室棟の年季の入った重い扉を開けた僕は、一階にある生徒会室の前に立つ女生徒を見つけた。

いや、正確には彼女がここの女生徒であるかどうは定かではない。なぜなら、彼女は制服を着ていないからだ。

白いふわふわとしたブラウスに紺のスカート。少し量の多い髪を低い位置で二つに結んでいる。身長は150 cmあるかないかぐらいの小ささで、幼い少女だった。

そして、とびっきりの美少女だった。

欠点が見つからない顔の作り。

大きな目、服の上からでもわかる真っ平らな胸(優衣と同じぐらいだろうか)、低い身長。そのすべてが統一感をもって、彼女、いや少女を、完璧に作り上げていた。

失礼を承知でいうなら、少女は “とびっきりの美少女 ”ではなく “とびっきりの美幼女 ”だった。

けれど人は見かけで判断してはいけないと言うし、女性は化けるともいう。制服を着ていないことから、ここのOGということもありえるのだ。

とてつもなく可能性が低いことではあるだろうけど。むしろ、この学園に在籍する生徒の年の離れた妹、という説明がとてもしっくりくる、完璧な “美幼女 ”であるけれど。

生徒会室を見ていたそんな美幼女がこちらに気づき、僕を見てニコリと笑った。

反射的に僕も会釈をして固まってしまう。

早く部室に行かなければ、怜さんに怒られてしまうかもしれない。そう思いながら、なぜだか少女から目が離せない。

そんな固まった僕に少女はチョコチョコっと近づいてきて、僕の顔を上目遣いでまじまじと見つめてきた(その仕草一つ一つまでも、幼女そのものだ)。

そして何かに納得したようにこくこくと頷き、

「私は『案内役(ナビゲーター)』です。お気軽に『ナビちゃん』とお呼びください」

と言ったのだった。

「ナビゲーター?」

我ながら間抜けな声でそう聞き返すも、彼女はただ微笑むのみで説明する気はないようだ。

やはり、見た目通りの年なのだろうか。アニメに出てくるような『ナビゲーター』という言葉に、そう感じざるを得なかった。

今はやりのアニメの真似をしているんだろうと思ってそこは深く追求しないことにした。そして、少女は今迷子になっているのではないか考えた。

「えっと……。あなたはここの学園の生徒ではない、のかな?」

はっきりと少女の年齢がわからないため聞き方に迷った結果、年上に対する話し方と、幼い子に対する話し方が混ざったような言い方になってしまった。

すると少女は僕の困惑に気づいたのか、少し考えるような素振りをしたあと、

「私に対する接し方は、そうですね……。後輩に対する接し方と同じで構いませんよ。見た目がこんなだから、敬語を使う方も、使われる方も変な感じがしますし」

と、見た目に似合わない大人びた口調で言った。しかし、声は高めで少し舌っ足らずな話し方のため、頑張って難しい言葉使ってます感が否めない。

「あと、迷子にはなっていませんのでご安心ください。実はこの学園のことはあなたよりも知っている自信があるんですよ?」

ここで少しエッヘンとぺったん胸を張ってから、話を続けた。

「信じるかどうかはあなた次第ですけれど、私は『案内役(ナビゲーター)』なのです。そして私はあなたのことをよく、知っています」

「あなたのことだけでなく、あなたのお仲間さんたちのことも、もちろん知っています」

「 “表 ”も “裏 ”も」

「隠している “秘密 ”も」


「すべて、知っています」


「けれど私がするのはあくまで “案内(ナビゲーション)”だけ」

「あなた方に私が提示できるものはヒントのみ」

「最終的な判断、結末はご自身でお決めください」

「本日はそれだけです。今日は顔合わせのみ、という規定(ルール)なので」

「最後に一言」


「重い想いは降り積もり続けています。選択肢は常にあなたに。分岐点は無数。エンドも無数。どうか、あなたにとってのハッピーエンドを……」


そう言い終わった少女『自称ナビちゃん』は、スカートの裾をつかんで優雅に一礼したあと、僕の横を通って部室棟を出て行った。

僕は、しばらくあの少女の奇妙な雰囲気に飲まれていた。

十分か、はたまた一分だったのか。時間の感覚がなく、宙に浮いた状態でしばらくその場で突っ立っていたけれど、ようやく現実に帰ってきた。

完璧で完全な美幼女、ナビちゃん。

なぜだかよくわからないけれど、あの子の言葉には妙な説得力があった。だからといって、今の話を全て信じるわけではないけれど、今はとりあえず保留にしておこう。

また、近いうちに会えそうな予感がするから。

まぁ、一つ決定事項として。

面白いもの好きな怜さんには、絶対に話さないでおこう。そう決意したのだった。


 ナビちゃんと会ったことによって、もう放課後開始から十分が経過していた。

そのため、早歩きで部室棟の階段を一気に四階まで登り、左に曲がってまっすぐ直進。部室棟の端の端にある我らが部室へと急いだ。

目印は、ドアにかかる『怜の部屋』と書かれた板。

ここの学園長であり世の中のトップ企業『朝親グループ』の社長である父と、その傘下の『朝親学園付属病院』を経営する医者の母をもつお金持ちのお嬢様。それが部長の朝親怜である。(ちなみにこの部室棟の耐震工事をしたのも『朝親グループ』の建設会社らしい)

お嬢様といっても、性格はお淑やかや優雅といった言葉からほど遠い。

端的に怜さんの性格を表すとしたら、まさしく『猪突猛進』。

面白い人や物が好きで、この部活も怜さんに「面白い」と思われた人が集められた。しかし、今はただの仲良しグループの集まりといったようなものになっており、部室に集まってもみんなで駄弁るだけなので、部活動とは言えないと思うが。


 そんな怜さんに、僕が選ばれた理由はとても単純。

僕が二年生の春という中途半端な時期に転入してきたからだ。

転入初日の放課後。まだ新しい友人もできず、優衣と一緒に帰ろうとしていたところを怜さんに見つかった。

そして「なんでこんな中途半端な時期に転入してきたの?」的な質問をされた。

学年ごとに違うリボンの色を見ながら、変な先輩だな、と思いながら聞き流していたら、いつの間にか、新しく怜さんが作る部活の部員第一号にされていたのだ。

隣にいた優衣も巻き込まれ、転入早々、僕たち兄妹は変な先輩に変な部活に入らされる、という経験をしたのだった。

 次の日に学校に登校すると、その時は怜さんファンクラブの会員だった上地に、今日のように鼻息荒く問い詰められたっけ。

そこから友人の輪が広がったので、ある意味僕にこんなに早く多くの友人ができたのは、怜さんのおかげと言えるのかもしれない。絶対に調子に乗るから、怜さんには言わないけれど。


 ノックの後、部室のドアを開けると目に入る美人。

開けっ放しの窓から吹き込む風が、黒く艶やかな長い髪をなびかせる。一つ学年が違うだけでここまで変わるのかというくらいに大人びている。

胸も、優衣と比較するのが失礼なくらいに大きい。制服を内っ側からぶち破ってしまうんじゃないか、と妄想してしまうぐらに立派。お腹辺りには、胸による影がくっきりと出来ているほどだ。

そんな体と同じく、大人な顔立ちで、キリっとした目は、こちらを見てほほ笑んだ。

「やぁ、まろ君」

 少し低いアルトの声で僕の名を呼ぶ。

僕の名前を聞いたときから、ずっと怜さんは僕のことを「まろ」と呼ぶ。

正直、名前とぴったりのマロ眉で幼い頃にからかわれたことがあるから、「まろ」という呼び名は嫌いだった。

しかし、怜さんのすべてを包み込むような、優しさを纏ったその言い方は、嫌という気持ちにならなかった。

そして、ナビちゃんに会ったことで少し乱れていた心も、スッと安定していく。

そういうとき、怜さんはやっぱり大人だなぁ、と実感する。一歳の年の差は、意外と大きい。

「こんにちは、怜さん。他のみんなはまだですか?」

 僕がそう問うと、怜さんは耳を澄ませるようなしぐさをした。

「今、少なくとも一人は来るよ」

 僕も怜さんと同じように耳を澄ませてみた。

すると聞こえてくるパタパタという走る音。その音はだんだんと部室に近づいてきて、やがて部室の目の前でキュッと音をして止まった。

そして、バンっという大きな音を出して登場したのは、癖のある栗色の髪をサイドテールで束ねた少女。

丸っこい顔に、時折覗く八重歯が可愛い口。健康的な足と、しっかりと引き締まりつつも、女性らしさを残した太もも。そのふとももをギュっと締め付けるのは、乱れたスカートから覗く、光沢のある黒いスパッツ。白いふとももと黒いスパッツのコントラストが美しく、幼い少女をフッと、女性にしてしまう。

「ごめんなさいっ! 綾、遅れちゃいましたよね?」

 少し息を切らしつつ、ペコペコと頭を下げる彼女は、瀬川綾。

走ることが大好きな、いつも走っている元気っ子で、陸上部とこの部を兼部している。

陸上部では『期待の星』と言われ、夏休み前にある大会に、一年生で唯一出場することが許されたらしい。

そんなすごい彼女だが、一人称が自分の名前だったりと、まだ少し子供っぽいところもある、礼儀正しい僕の可愛い後輩だ。

そして、優衣のクラスメイトで、優衣の数少ない親友でもある。

「大丈夫だよ。まだ優衣も風香も来てないから」

 安心させるようにほほ笑む怜さんは、やはり猪突猛進するだけの人ではないことが良く分かる。時々暴走しすぎてしまうだけ、だと。

「そうですか! よかったですっ。……あっ、優衣ちゃんは今日日直なので少し遅れるって言っといてって言われましたっ」

 安心したような顔をした途端にハッとした顔になったりと、行動だけでなく表情も元気な綾ちゃん。見ていてとても楽しい子だ。

 そういえば朝、優衣が部活に遅れる、言っていたような気がする。

機嫌が悪いのがショックであまり聞いていなかった。そのことを優衣も分かっていたんだろうな。

もう機嫌は直ったのだろうか。兄妹だから別にいいと思うんだけどな。いや、最後の一言がいらなかったのか。毎度のことながら、乙女心は複雑怪奇だな。

 そんな綾ちゃんを見た怜さんは、ニコニコ笑顔で頷いた。コロコロと表情の変わる綾ちゃんは、周りの人を元気にする。

それにしても、今日の怜さんはいつもよりもニコニコしている気がする。何かいいことでもあったのかな?


 機嫌のいい怜さんといつも通り元気な綾ちゃん、そして僕の三人で駄弁りながら残りの三人を待っていると、怜さんが急に、

「そういえば、今二年生は体育で創作ダンスをやっているんだっけな?」

 と言った。

 確かにそうだが……、急にどうしたのだろう。

そう疑問に思っていると、ニヤリと不気味に笑う怜さん。まずい、この顔をしたときの怜さんは……、

「今、踊ってみてくれよ」

 何か(自分にとって)面白いことを思いついたときなのだから。

そして、その思いついたことは、実践するのがとても大変、または嫌な事なのだ。

しかし、逃げることは許されない。まさに猪突猛進、お金持ちのお嬢様、といったところか。

 けれど僕は一応、無理なことはわかっているが、抵抗してみるのだった。

「なんで、僕が急にここで踊らなくちゃいけないんですか⁉」

 そう僕が言うと、怜さんはキョトンとした顔で

「なんでって、面白そうだからだが?」

 悪びれず、本当に面白そうに言う怜さん。

ニッコニッコの笑顔百%だった。

しかも、今日は思わぬところから、怜さんの加勢が現れた。

「まろ先輩のダンス、見てみたいですっ!」

 目をキラキラと輝かせ、こちらを見つめる綾ちゃん。

そんな綾ちゃんを見て、ますます勢いづく怜さんは、もう誰にも止められないだろう。

けれど諦めきれない僕は、この状況を打破するような言い訳を考える。

「いや、でも……。曲ないし、ちゃんと振り付け覚えてないし……」

 目をキョロキョロと泳がせる僕。

 しかし、二対一であるということと、何より綾ちゃんの純粋に楽しみであるような瞳には勝てなかった。

「最初の、ほんの少しだけですよ。ダンスとか苦手で、上手に踊れないんですから、笑わないでくださいね」

 もうどうにでもなれと、半ば自暴自棄的な僕。

椅子から立ち上がり、ドアに近い、少し広いスペースに行く。

 すると、綾ちゃんは満面の笑みでパチパチと拍手をしてくれた。

 すべての元凶である怜さんを睨み付けるように見ると、心底楽しくて仕方ないという表情だ。悪意などは微塵も感じさせないその表情を見ると、怜さんに振り回されることが楽しい、などと思ってしまう。

 つまり僕は、なんだかんだ文句を言いながら、怜さんに振り回されたことによって始まったこの日常を、心の底から楽しいと、そう思ってしまっているということなのだろう。

 恥ずかしいし、負けた気がするから、絶対に怜さんには言わないが。


 どこから知ったのか、怜さんは自分の携帯から僕のクラスのダンスの曲を流し始めた。

 とりあえず、目の前にいる二人の観客と極力目を合わせないようにしながら、うろ覚えのダンスを踊る。

 何かのアニメの曲らしい、高い女性の声。ノリのいいハイテンポ。元の振り付けを少し簡単に変えただけの振りは覚えやすく、どうしても能力に差の出てしまう、クラスメイト全員で踊るダンスにぴったりの曲だ。

 綾ちゃんも手拍子をしながら楽しそうに見てくれており、怜さんは、歌詞を口ずさみながら、満面の笑みを浮かべている。

 初めは最初だけと言っていたが、僕もノッてきてしまい、もう曲は一番のサビの最後のほうだった。

 クルリとターンした僕は、床の板と板の隙間に足を引っかけてしまった。

そして、バランスを崩した僕は、そのまま前に倒れてしまったのだった。


 ふと鼻をかすめる花の香り。髪には、なんだか甘い吐息がかかる。

そして、倒れた割には、何か柔らかいものが僕の顔を包んでいた。

 なんだか嫌な感じがして、とりあえず、まずは立ち上がろうとした。

頬に当たる、柔らかく、しかしそれを包み込むような少し硬い感触。少し体を動かすと、変幻自在にふにゅふにゅと形を変える。

 だんだんと状況がつかめてきた僕は、青ざめ始めた。

 思い切って顔を上げると、間近に見える怜さんの、美しく整った顔。頬は珍しく赤く染まり、驚いたような半開きの口からは、僕が動くたびに甘い吐息が漏れている。

 このまま少しでも近づいたら唇と唇がぶつかりそうな至近距離に、思わず心臓が高鳴り、体が熱くなる。

 と、そんなラノベのお約束のような展開で、またもやお約束のようにやってくる来訪者。

 コンコンとノックの後にドアが開く。

「ごめん、遅れた」

 不愛想な声で謝罪する、ふぅ。そしてツインテールを揺らしながら、少し不機嫌に入ってくる優衣。

 そんな二人が目にしたのは、はたして……。

 怜さんに覆いかぶさり、至近距離で見つめる僕だった。

 過程を見なければ、僕が怜さんを押し倒し、まさに今キスをしようとしているような、そんな状態。

 この時、僕は真面目に人生のエンドロールが流れている気がした。

 最初から最後まで僕のことを見つめていたのは、目を見開いた状態でしりもちをついた綾ちゃんだった。


 赤く染まる、僕の左右の頬。右は優衣、左はふぅに叩かれたものだ。朝も叩かれた右頬は、二重に赤くなった。

 案の定、誤解された僕は、妹と幼馴染に強烈なビンタを食らったのだった。まだ耳がキーンとしている。

 ポカーンと見つめていただけだった綾ちゃんは、ようやく金縛りが解けたようだが、次は困惑した顔で、とりあえず安心するためにふぅに抱きついている。抱きつかれているふうは、僕のことを少し睨んでいる……ようにみえる。

 怜さんは、そんな僕の頬を見ながらケラケラと笑っているが、少し頬が赤いため照れ隠しも入っているのだろう。

 そして、その中で最も機嫌が悪いのが優衣だった。朝のことも相まって、もう修復不可能なのではないかと思われる。

 いつもにましての無表情からは、逆に怒りしか読み取れず、目は一切僕と合わせようとしない。僕から離れた位置に椅子を持っていき、机に頬杖を突きながら窓の外を見ていた。

 とりあえず、これでこの部活のメンバーはそろった。

 今年の四月に始まったばかりのこの部活は、いつもこの五人で放課後に集まり、駄弁って、空が赤から紫に変わる頃に帰る、ということを続けている。

夏休みには、どこかに遊びに行こうとも話している、ただの仲良しグループだ。

そんな五人の日常が今日は、僕のプライドをかなぐりすてた謝罪と土下座から始まる。


 ようやく誤解も解け、機嫌も(優衣以外は)ある程度回復したころ、ふぅが僕を呼んだ。

 僕の同い年の幼馴染、白波風香。長く重い前髪で左目がまったく見えないことと、口数も少ないことから、表情はおろか、何を考えているかも分かりづらい少女である。

僕が小学生の時まで住んでいた家(今住んでいる家)の隣に住んでおり、よく僕と優衣、そしてふぅの三人で遊んでいた。

 ちなみに「ふぅ」とは、風香のあだ名である。幼いころからそう呼んでいたため、今もそのままになっている。

 ふぅはというと、昔から誰に対しても名前のあとに「ちん」を付けるのだ。僕だったら、

「まろちん、見て」

 と、こんな感じである。すこし、いやとても恥ずかしいが、しょうがない。意外とふぅは頑固なのだ。

 そんなふぅが僕に見せたのは、一冊の雑誌。その表紙に書かれていたのは

「スイーツ特集!」

 思わず大声をあげてしまう僕に、肩をビクッと揺らして驚く綾ちゃん。だがそのことに構う余裕は、今の僕にはない。

「美味しいスイーツの食べられるレストラン、学校の近くにあるらしい」

 僕もふぅも、甘いものには目がない。

 いつもは無表情のふぅも、頬を少し染めている。

 そんなふぅの近くに、僕もハァハァと鼻息荒く、興奮した様子で素早く近づき、横から雑誌を食い入るように眺めた。

「おにぃ、顔と行動が変態なのに、読んでる雑誌は健全すぎる」

「健全、というか女子?」

 という、いまだに不機嫌な優衣と綾ちゃんの会話は聞こえないふりをして。

 そんな僕たちをニコニコと楽しそうに見つめる怜さんは、やはりいつにもまして機嫌がよかった。


 雑誌に書かれた店は、学園の最寄り駅までの通学路に近いところにあるらしかった。ちなみに、部活の僕たちは全員徒歩組だ。

 こんな近くにそんなお店があったなんて、なんたる不覚。

 今すぐにでも行きたいという気持ちを必死に抑える僕。

 今月は金欠なんだ。来月、絶対行くから。と自分に言い聞かせていると、

「今度みんなで、行かない?」

 自分の気持ちを抑えきれなかったふぅがそう言った。

 しかし、少し困った顔の綾ちゃん。

「ごめんなさいっ! 私、甘いものが苦手でして……」

 同様の理由で申し訳なさそうに頭を下げる優衣。

 兄妹でここまで好みがちがうのかと疑問に思うほど、甘いものが大好きな僕とは対照的に、優衣は甘いものを受け付けすらできない。

 いや、甘い食べ物が嫌いというより、甘い匂いが苦手のようだ。嗅ぐだけならまだしも、食べることは無理、らしい。僕ほどでないにしても、同じく鼻が利く優衣だから、けっこう辛いことだとわかり、とても可愛そうになる。

 それなのに、僕のためによくスイーツが美味しい店に一緒に来てくれる、僕にはやっぱり勿体ないほどのいい妹だ。

だから、辛い思いをさせないために、あまりスイーツ専門店には行かないようにしている。いいと言っても、付いて来てくれるから。

 しかし、諦めないふぅ。というか、聞いてなかったの? とでも言いたそうな目で

「スイーツしか置いてない専門店とかじゃなくて、レストラン。普通に料理も美味しいらしい」

 それなら、綾ちゃんと優衣も大丈夫だ。

 嬉しそうな顔でコクコクと頷く綾ちゃん。

 その反応を見たふぅの行動は早かった。鞄からバッとスケジュール帳を取り出し、みんなの予定を確認していく。

「ふうは、本当に甘いものが好きだな」

 そんな怜さんの言葉に瞬時に頷くふぅ。そんなふぅの反応に、ニコニコと笑う怜さんを見た綾ちゃん。

「怜先輩、今日ご機嫌ですねっ! 何か良いことあったんですか?」

 僕以外のみんなもそう思っていたらしく、優衣が同調するようにこくこくと頷いた。

 やはり、今日の怜さんはいつにもましてご機嫌だ。僕が怜さんと出会って以来一番といっても過言ではないのではないだろうか。

「そうかな? いや、たぶんそうなのだろうな」

 少し首を傾げた後、何かに納得したように肯定する。しかし、その『何か』までは話すつもりはないようだ。

「そうですかっ、よかったですね!」

 綾ちゃんも怜さんの上機嫌が移ったようにニコッと笑い、深く追求することはしなかった。

「美味しいスイーツか……。楽しみだな」

 そう怜さんがニッコリと笑ったとき、突如無機質なベルの音が鳴り響いた。

 音源はニコニコ笑顔の怜さんの鞄から。怜さんは驚いた後にすぐさまスマホを取り出し

「ごめん、少し席を外す」

 と急いで部室を出て行った。

 部室に来た頃にはまだ明るかった空はもう赤く染まり、着実に夜の支度を始めていた。


 しばらく怜さん以外の四人で話していると、怜さんが戻ってきたのだが……、様子がおかしかった。

 部室を出るまではニコニコと上機嫌だった怜さんだったのに、戻ってきた今はションボリと黙って椅子に座り、赤く染まった空を眺めていた。

 心配そうに怜さんを見つめるけれど、先ほどの綾ちゃんと同様に、深く追求しない、できない僕たち。

 そんな僕たちに気づいた怜さんは、窓から目を離して何でもないことのように、

「一緒にご飯が食べられなくなっただけだよ」

 と言った。それが怜さんにとって何でもないことだということは、急激なテンションの変化でひしひしと伝わってくる。

 今の怜さんは、さっきまでのハイテンションとは真逆。僕が怜さんと出会って以来一番のローテンションだった。というより、そもそもローテンションの怜さんなんて見たことがなかった。

 そのため、何も良い言葉の浮かばず、無言の僕たち。

 そんな僕たちは悩んだ結果、なにも気にしていない風を装っている怜さんを見習ってみた。

 

 しかし、そんなポーカーフェイスのようなことは出来ない子供な僕たち。結局、いつもより早いけれど、もう帰ろうという結論に至った。

 怜さんのションボリが移ったように、静かに廊下に出る僕たちを包んだのは、夜の訪れの赤紫色。

 このまま帰るのは嫌だ、とそう思った。

 僕たちのリーダー的存在である怜さん。怜さんには、周りのみんなを笑わせる力がある。いつも笑顔で猪突猛進の怜さんが落ち込んでいるのは、見ているだけで辛くなる。こんな怜さんは見ていたくない。

 そして、どうにかしようとして出た言葉。

「みんなでご飯食べに行きませんか? さっき話していたレストランにでも」

 果たして、それを聞いた怜さんは少し驚いて、そして申し訳なさそうな顔のあと、嬉しそうに微笑んだ。

 いつものニコニコ笑顔ではなかったけれど、大人な笑みにすこし見とれてしまう。

「ありがとう、まろ君。広い部屋で食べる独りの夕食は、美味しくないからね」

 感謝の後に、少しの本音を吐露した怜さん。

 良かった、僕の言葉は間違っていなかった。心の中でホッと息を吐く。

 それはみんなも同じだったようで、落ち込んでいた僕たちを取り巻く空気が緩んだ。

 そんな中、一人申し訳なさそうに手を挙げる少女。

「ごめんなさいっ! 親が……こういうの厳しくって」

 私のことは気にしないで怜先輩を笑顔にしてあげてください、と言うような顔で笑う綾ちゃんだった。

 行きたい気持ちを押し殺しての言葉だということがすぐにわかった。

 すると僕が口を開くよりも先に、

「大丈夫」

 気持ちはちゃんと伝わってるから、と優しい笑顔を浮かべたのは、ふぅだった。

 優衣と同様に滅多に笑わないふぅの、あんなに優しそうな顔は本当に珍しい。

 そのことがわかる綾ちゃんは、それゆえに、その笑顔にとても安心したようだった。

 深く一礼をしたあと、いつも通りのダッシュで帰っていった。


 学園の最寄り駅『上坂』に行く途中に通る大通りから、少し路地に入ったところにあった、レンガ造りの趣あるレストラン。

 三時のおやつよりは遅く、夜ごはんの時間よりは少し早かったので、店内はあまり混んでいなかった。

 少しメイド服に似た、可愛い制服ウエイトレスさんに案内されて席につき、まず僕とふぅはメニューのデザート欄を確認して、美味しそうな写真に涎が垂れそうになる。

「おにぃ、今日の夜ご飯はこれなんだから、デザートだけは許さないからね」

 と、デザートしか頼みそうになかった僕(とふぅ)に釘を刺した優衣。通常メニューにも目を通す。

 しかし、おにぃは見逃さなかった。優衣がウエイトレスさんの服をじっと見つめていたことを。

 優衣は、コスプレチックな洋服が大好きなのだ。私服はいつも軽めのゴシックロリータ。まぁ、見た目の可愛さで全くコスプレらしさは出ず、普通に似合っているけどね。さすが、我が妹。

 僕がそんな兄馬鹿全開のことを考えている中、一つの料理から目を離さないでいるふぅ。(無表情のままだけど)キラキラとした目で呟いた。

「オムライス……」

 このレストランの人気料理らしく、大きな写真付きで載っていたのは、ふぅの昔からの大好物であるオムライスだった。

「風香はオムライスが好きなのか?」

 普段はあまり言葉から感情が読み取れないふぅが、嬉しそうに言った言葉に反応する怜さん。それに珍しくかすかな笑みを浮かべて、コクコクと頷くふぅ。

 そんなふぅを見て、久しぶりに僕もオムライスが食べたくなってきた。そして、それは二人も同じらしく、結局みんなオムライスを頼むことになった。

 しばらくしてからテーブルに届いたのは、黄色のふわふわそうな卵と、その上にかけられた真っ赤なケチャップのコントラストが見事な、オーソドックスなオムライスだった。

 キラキラとした幼い子供のような目でスプーンを手に取り、準備万端のふぅに僕たちは笑いを堪えながら手を合わせた。

 それは、四人にとっても、久しぶりの大勢での夜ごはんだった。


 絶品オムライスを食べ終わり、優衣はコーヒー、他の三人がデザートを頼んで待っている間、

「オムライスは、初めて食べた父の料理なんだ」

 懐かしそうに口を開いた怜さん。

 その表情は少し嬉しそうであり、同時に悲しそうでもあった。

「幼い頃、私の誕生日に両親が忙しい中、時間を頑張って空けてくれて……ささやかな誕生日会を開いてくれたんだ」

「父の作ってくれたオムライスと、母の作ってくれたイチゴのショートケーキ。一口食べたところで仕事の電話が入ってお開きになっちゃったけど……」

 そこでニッコリ、泣きそうに微笑んだ。

「私が覚えている、初めて両親と夜ご飯を食べた記憶で、最後の記憶でもある」


「きょうも、パパとママはおしごとなの?」

 広い家。広い食卓。長いテーブル。

 そこに独りで座り、寂しそうに夜ご飯を食べる少女。

 この国のトップ企業『朝親グループ』の社長であり、有名私立学園『私立朝親学園』の理事長でもある父。そして『朝親学園付属病院』の経営者でもある医者の母。

 両親が家にいることのほうが珍しく、帰って来たとしても一瞬のこと。

 夜ご飯を食べる暇もなく、忙しそうにまた出て行ってしまう。

 使用人を雇っているため、まだ幼い少女でも独りで暮らせる状況は完璧に整っている。

赤ん坊だった頃も、母の柔らかさは知らず、知っているのは哺乳瓶の無機質な冷たさ。

使用人はたくさんいるけれど、幼い少女の寂しさを紛らわすことはできない。

 朝は急いで食事をして家を出るため寂しさは感じないが、夜帰ってきて、独りで食べる夜ご飯は辛かった。

そんな寂しい食卓が一度だけ賑やかになったことがある。

 私の六歳の誕生日。

 その日は本当に珍しく、両親二人の予定が夜に一時間だけ空いていた。

 両親は、けして娘のことが嫌いなわけではない。むしろ反対に、とても娘を愛している両親で、常に罪悪感と戦っている。

 こんなんじゃ罪滅ぼしにもならないと思いながら、無理やりに、強引に作った一時間。

 少女にとって、初めてのことばかりだった誕生日。

 実は、父の趣味が料理だったことも。母の大好物がオムライスであることも。

 実は、不器用でメス以外の刃物を上手に扱えない母のことも。父の大好物がイチゴであることも。

 ケチャップを頬にベッタリとつけた私を見て笑った、両親の笑顔も。

 両親がこんなにも愛し合っていることも。

 両親が、私のことを本当に、心から愛しているということも。

 すべて、すべて初めて知ったことだった。

 開始三十分後に会社からの連絡が入ってお開きになってしまったけれど、怜は両親の申し訳なさそうな顔を見て、安心した。

 私はパパとママに愛されている。

 パパとママも、私と一緒にいられなくて寂しいと思ってくれている。

 自分だけではなかった、と。

 けれどその事実を知ったことは、余計に寂しさは増す結果となってしまった。

 私も、両親も望んでいる三人での夜ご飯が実現しない現実。

 そんな現実から目を逸らさせてくれる場所があった。

 親の地位ばかりを見て、幼い少女の顔色を気にする、つまらない大人たちとは真逆の、私のことを、ただの一人の少女として、笑いかけてくれて、慕ってくれる人たち。

そんな面白い人たちがいる学園から帰らなければいけない夕方。夜の始まり。

 その時間になると、私は赤く染まっていく空を見ては憂鬱な気分になるのだった。

 私は夜が嫌い。

 独りが寂しいから。


「今日、母とご飯を食べられる予定だったんだ。けど、さっきの電話で……」

 急な仕事が入って、帰れそうにないと連絡がきたのだった。

 愛娘との食事を邪魔されて、怒っている母の声を聞いて安心したけれど。でも、やっぱり悲しいし、寂しい。この感情に慣れることなんて、不可能なのである。

 怜さんの話がひと段落したところで運ばれてきた、お待ちかねのデザート。

 怜さんが頼んだのは、イチゴのショートケーキだった。

「美味しい」

 と、とても嬉しそうに呟く怜さん。

 いつもはキリッとしている大人びた瞳は少し潤んでいるが、今まで溜まっていたものをすべて吐き出したような、とてもスッキリとした顔をしていた。

 僕はチョコレートケーキ、ふぅはガトーショコラを、恍惚の表情で食べる。

綾ちゃんがいないことに少し寂しさを覚えながらも、四人ともいつものテンションで駄弁っていると、

「そういえば、私と風香が初めて出会ったときも、風香は甘いものをたべていたな」

 怜さんが思い出したようにそう言った。

 そういえば、僕が中学生に上がると同時に引っ越したあと、学園に入学する前に、怜さんと出会ったと、ふぅが話していたことを思い出した。

 怜さんの言葉に、無表情で頬にチョコをつけたふぅがコクリと頷いて肯定する。

 怜さんは笑ってふぅの頬についたチョコを紙ナプキンで拭き取りながら、懐かしそうに目を細める。

 口元を拭かれたふぅは、少し恥ずかしそうに窓のほうを見たあと、

「怜ちんと会ったのは、確か病院に隣接されたカフェ。そこのイチゴパフェ、本当に美味しかった」

 そのイチゴパフェを思い出したのだろう。一瞬、ふぅの口元がふにゃっと緩んだ。

 そんなふぅを見て、まるで母親のように微笑みながら、怜さんはうんうんと頷いた。

「イチゴパフェを口にするたびに顔が一瞬だけ緩んでね。面白い子だったから声をかけたんだ」

  

「それ、美味しい?」

 母が経営する『朝親学園付属病院』に隣接したカフェ。そこに独りでイチゴパフェを食べる少女がいた。年は、同じか少し下、といったところか。

左目は長い前髪で隠れ、私を見上げる顔は、無表情で無感情で不愛想。

少し怖いと感じてしまうけれど、私を見つめつつも、一定のペースで口にパフェを運び、口元を緩める少女は、なんだか可愛らしかった。

「誰?」

 短い一言。

 食べているんだから邪魔しないで、というような拒絶がこもっている。

 相当な甘いもの好きなんだと、出会って五分も経たないうちにわかった。

「ごめんね、あまりにも美味しそうに食べているから。ここのイチゴパフェ、美味しいよね」

 父の大好物であるイチゴを使ったパフェは、ここのカフェでもっとも手が凝っているデザートである。

 父のことを大好きな母が、そう命令しているからだ。

 ここのカフェも『朝親グループ』の傘下で、改めてこんな大企業を束ねる父の凄さが身に染みる。

 目の前の少女は、自分と同じ意見の私に仲間意識をもったのか、無表情で無感情な瞳が微かに輝く。

「そう! ここのカフェのデザート、全種類食べたけど、イチゴパフェのクオリティーだけ異常に高くて……。よくある安いパフェみたいにコーンフレークを多用してなくて、最後まで甘酸っぱいイチゴの味が続く。絶対このイチゴは高級品。生クリームは、イチゴの良さを邪魔しないほど良い甘さ。すべてに手間と愛が込められている。なのに値段はファミリーレストラン級。これを作っている人は、イチゴがすごく好きなんだと思う。断言する。このカフェのイチゴパフェは日本一。世界一かどうかは、海外に行ったことないからわからないけど」

 その興奮で赤く染まった顔と、言い終わった後に最後の一口食べたときの、恍惚な表情を見た他の客は、羨ましそうな顔で空になったイチゴパフェの容器を見つめている。

 最初の印象とは全く違う少女の甘いものに対する愛情に圧倒され、しばらく言葉が出なかった。

 少女の愛の叫びと美味しそうな表情を見ていたら、私もイチゴパフェが食べたくなってきた。

「私も久しぶりに食べたくなった。相席させてもらってもいい?」

 少し恥ずかしそうに目線を外しながら頷く、こんな面白くない場所で見つけた、面白い少女。

 一個人について知りたいと心から思ったのは、そういえばこれが初めてだったということに、あとになってから気が付いた。


「それから、よくそのカフェで話すようになったんだ。でも、私が高校生になってからはぜんぜん会ってなくて……。まさか学園で会えるとは思ってなかったよ」

 ふぅの父親は薬剤師をしており、幼い頃によく父と一緒にそこの病院に行っていたそうだ。そのときに食べたイチゴパフェが忘れられず、時々あのカフェに行っていたときに怜さんに出会った、ということらしい。

 父の影響もあり、薬学に興味があったふぅは、医者である怜さんのお母さんにいろいろと教わったみたいで、今では自分で薬の試作品を作るほどだという。

 その話を聞いた僕は、関心したようにコクコクと頷くと、なぜか一瞬ふぅに見つめられた。しかし、すぐに目線を逸らす。

「怜ちんとそこのカフェで会わなくなってからも、怜ちんママにはすごくお世話になった」

 僕と会わなかった約四年の間にそんなことがあったのか。

 確かに、小学生の頃から薬についての知識は多かったけれど、再開してからのふぅは、更に専門的になっていた。

 引っ越してきた次の日に、お隣さんのふぅの家にお邪魔したとき、ふぅの自室に大量の薬学についての、専門書や実験器具などが置いてあったことを思い出した。

 一見すると、無表情で無感情で不愛想なふぅ。長い前髪で左目が見えないことも合わさって、少し怖い印象を受けられることも少なくない。

 小学生のときも、いつも僕と優衣とふぅで遊んでいたため、友達もあまりいない。

 そんなふぅを引っ越してから内心心配していたのだが、どうやら杞憂だったようだ。

「ここのガトーショコラ、美味しい」

 上機嫌で、微かにだが笑うふぅ。

 みんなを優しく包んでくれる怜さんは、ふぅにとって、大切な友達になってくれたのだろう。

 昔は、こんなに人前で笑うことなどなかったのだから。


「今日はありがとう、まろ君」

 美味しいご飯とケーキを食べ、会計を済ましたあと、怜さんは僕を真っすぐ見つめてそう言った。

 もうすっかり夜の空になり、浮かぶ月の光が、怜さんを少し冷たく包み、風でなびく髪をキラキラと輝かせていた。

「夜ご飯を食べようと誘ってくれて、本当に嬉しかったよ」

 怜さんはいつもの楽しそうなニコニコ顔ではなく、初めて見せる泣き笑いのような笑みを浮かべていた。

 根本的な問題が解決したわけではない。今日もまた家に帰れば、怜さんは広い家で独りぼっちだ。明日の夜ご飯は独りで食べなくてはいけない。

僕らは家族ではないのだから。その人にとって、母親は一人しかおらず、父親も一人しかいない。

怜さんの寂しさを、悲しみを紛らわすことができるのは今日だけだ。

だから、僕は何もしていない。何もできない。

そう言おうと思って口を開こうとしたが、怜さんに目で静止された。

僕がなにを考えているのか、それを理解した上で、怜さんは僕に感謝している。

「私が勝手に助かっただけだ。救われただけだ。だから勝手に礼を言わせてもらうよ。ありがとう」

 今度は晴れ晴れとした笑顔を浮かべ、いつもよりも軽い足取りで帰っていった。

 いつもの、放課後の部室で会う怜さん。

 ものすごい美人で、お金持ちのお嬢様。学園の憧れの的でもある。

 けれど性格は猪突猛進という四字熟語がぴったり。

 暴走しすぎるのが玉に瑕だけど、心の底から楽しんでいる、あの笑顔を見ると許せてしまう。

 そんな自分の楽しいことを、ただただ追及しているような、僕らの部長。

 しかしその内面は、寂しがり屋で独りぼっちが嫌いな、ただの少女。

 そんな怜さんの意外な一面を見たことで、更に僕たちは怜さんのことを好きになってしまい、怜さんに無理難題を押し付けられても、振り回されても、それでもいいと思ってしまう。

 だってそれは、寂しいことが大嫌いな少女が、自分だけでなく周りも、寂しい想いをしないようにと考えた結果なのだから。

 やはり怜さんは、ほかの人のことも考えられる大人だ。周りの人を笑顔にする力を持った怜さん。そんな彼女に僕は前よりも強く、一歳の差を感じたのだった。


 僕と優衣、ふぅの帰り道。

 僕の隣をふぅ。そして、少し後ろを優衣が歩いている。

 この並び方は、決して優衣の機嫌がまだ悪いわけではない。昔から、いつもこの並びなのだ。

 あかね色に染まる空の下、まだ帰りたくないと駄々をこねながらの帰宅。それが僕たち三人が小学生だった頃までの日常だった。

 そういえば、小学生のときまではふぅがツインテールだったな。優衣は髪の毛を結んでいなかった。 

 いつからだっただろう。優衣が髪をツインテールにするようになったのは。


 家に着いてから、毎朝飲んでいる牛乳を飲み切っていたことを思い出した。飲むのが僕だけならまだしも、優衣も朝のコーヒーに使うのだ。学校帰りに買おうと思ってたのに、と後悔しても遅い。

 愛する妹のため。リビングでテレビを観ていた優衣に一言行ってから家を出て、近くのスーパーへと走った。

 無事に牛乳をゲットして近道である公園を突っ切っていると、電灯の下に人がいるのを見つけた。少し近づいたところで、危うく僕はスーパーの袋を落としてしまいそうになった。

 はたしてそこにいたのは、今日生徒会室前で会った、あの美幼女だった。

 電灯の光に照らされ、笑顔で佇む少女は、知らない人が見たら軽くホラーだった。

 まるで僕が、この時間にここを通るのを知っていたかのようだ。

「こんばんは、須藤真呂太くん」

 当然のように僕の名前を呼んでくるナビちゃん。自己紹介をしたのは(あれを自己紹介といえるのかは置いておいて)、ナビちゃんだけのはずだ。

「言ったでしょう? あなたのことをよく、知っているって」

 確かにそう言っていた。

 妙な説得感、威圧感に押され、ナビちゃんがただの可愛らしい幼女ではないと、本能で悟った。

「どうしたの、ナビちゃん。今日は顔合わせのみって規定(ルール)じゃなかったっけ?」

 もう何にも考えずに、彼女の話を聞くことにした。とりあえず、この本能に従ってみよう。そう決意した。

「はい、そうなんですけど、そうだったはずだったんですけど……意外と展開が早かったので。では、とりあえず」

 そこで、一回言葉を区切って、

「第一話完結です。おめでとうございます」

 と、小さな手でパチパチと拍手をしながらそう言った。

 第一話完結? どういう意味だかさっぱり分からないんだけど……。とりあえず、突っ込まずに話を聞いてみることにする。あとできちんと説明してくれることを期待して。

「はい、良い判断ですよ、須藤真呂太くん。それでは、一気に話しますね。妹さんが心配してしまいますし」

 そうしてくれると助かるな。というか、ナビちゃんは僕の心が読めるのだろうか。言っていないことにまで答えてくれている気がする。

「言ったでしょう。あなたのことはよく、知っているって」

 その一言で片づける気らしい。まぁ、いいや。突っ込まないで聞くことにしたんだから。

 そう僕の心が決まったのを見計らって(読み取って?)、ナビちゃんはなぜ今ここにいるのかの説明を始めた。

「時間がないので手短に。簡単にいえば、あなたは一話完結方式の物語の主人公なのです」

「その記念すべき第一話が、今日の朝親怜さんの物語。まだ一応後日談がありますが、もう完結と言っていいでしょう」

「そして残り四話です」

「順番は決まっていませんが、一つの話に入ったらその話が完結するまで、次の話にはいけません」

「一話ごとのエンドは三種類。ハッピーエンド、ノーマルエンド、バッドエンド」

「今回はノーマルエンドです。まぁ、無難ですね」

「ちなみに、ハッピーエンドにいったら残りのお話は強制的になくなります」

「一部バッドエンドにいっても、強制的に残りのお話はなくなることもあります」

「また、五話目の最終話でハッピーエンドまたはバッドエンドにいかなかった場合は、強制的に “友情エンド ”送りです」

「一部の女子が喜ぶ展開ですが、あまりお勧めはしません。あなたにとってはバッドエンドに近いと思いますから。そういうことは薄い本でやってもらいましょう」

「ヒロインは、あなたが所属する部活の部員全員です」

「ヒロイン、という言い方は正しくありませんね。あなたのお話もありますから」

「基本操作は “人生 ”と同じです」

「セーブもロードもできず、選択肢も表示されない」

「もちろん、攻略本もありません」

「よく “ただのクソゲー ”認定される “人生 ”と同じルールで、あなたには頑張ってもらいます」

「けれど、さすがにノーヒントだと可愛そうなので、案内役(私)がいます」

「あなたにヒントを与えることが私の使命」

「あまり多くは語れませんが」

「今お話ししている事前情報もヒントの一つです」

「そして、今日はヒントをもう一つご用意しています」

 ここでナビちゃんは、楽しそうにニッコリと笑った。

「この物語では、あなたの “過去(トラウマ)”を掘り返すものです」

「第一話ではその要素は少ないかもしれませんが、後半の話になるにつれて、あなたの過去(トラウマ)に深く関わっている話になります」

「もう決定事項なので変更不可です」

「この物語が始まったのは、偶然ではなく必然ですので」

一息ついてから、また微笑むナビちゃん。

「私が今日言えるのはここまでです」

「さぁ、早く妹さんのところへ帰ってあげてください。きっと心配していますよ?」

そう言って長かった言葉を締めくくった。

僕の “過去(トラウマ)”。

そのことを知っているということは、本当にナビちゃんは僕のことをよく、知っているんだな。

当人のナビちゃんは、僕が少し目を離したすきに姿を消していた。

夜の暗い公園をぼんやりと照らす街灯の下。僕はナビちゃんの言葉を少し考察したあと、妹のために早く帰ることにした。

考えることを諦めたとも言えるかもしれないけれど、それでもいいのだと直感的に感じる。

この物語が始まったのは『偶然』ではなく『必然』。

僕が何をしても、何を思っても、この物語は終わらない。進むしかない。

コントローラーが存在しない、すべてがオートで進む “ゲーム ”のようなもの。

簡単にいえばこれは “ギャルゲー ”というものに似ているのだろう。僕はあまりそういうものはやらないけれど、男だし、知識として知っている。

“恋愛シュミレーションゲーム ”。そう考えると、ハッピーエンドは “そのお話のヒロインと結ばれるエンド ”ということになるのかな。

なら、妹のルートでハッピーエンドにいきたいなぁ、と兄馬鹿全開なことを考えながら、妹が待つ我が家へと急ぐのだった。


案の定、帰りが遅くなった僕に、優衣はリビングでドラマを観ながら

「遅かったね」

 と一言だけ言ってきた。

 僕が家の門を開けたとき、バタバタという音が玄関からしてきて、優衣が今持っているリモコンが逆なことには、突っ込まないであげた。

 妹にはできるだけ嘘はつきたくないけれど、しょうがないと諦める。

 一番近くのスーパーが品切れだったとか適当な嘘をついて自室へ。

 自室に入るなりベッドにダイブ。朝とは打って変わった冷たさと、変わらないふかふかで僕を包んだ。

今日はいろいろあって疲れた。

とくに二度のナビちゃんとの会話。彼女との会話は精神的にとても疲れる。

僕の “過去(トラウマ)”。触れられるだけで脳が揺れるように痛くなる。はっきり言って不快だ。ましてやそれを、初対面の少女に言われるなど。

しかも、それをただの物語の、“ゲーム ”の一部として扱っているところも。

ゴロゴロとベッドの上で転がっていると、少し心が安らぐけれど……。

「おにぃ」

 そんなとき、突如として聞こえた優衣の声。僕が返事をすると、ドアを開けて部屋へと入ってくる。

 正直、今は誰とも話したくない、話せない精神状態だけど、優衣だけは例外だ。

 僕の表情を見て、心配そうな顔をする優衣はさすが我が妹だ。僕がベッドに腰かけると、優衣も隣に座って来た。

「怜さんの話を聞いただけじゃない。何があったの」

 僕の顔を覗き込むようにして目を合わせながら、そう聞いてくる。

 先ほどのように嘘をつくかどうか悩んだ。しかし、優衣は僕が秘密を作ることをとても嫌う。だから素直に話すことにした。優衣なら大丈夫だ。僕の “過去(トラウマ)”には彼女も関わっているのだから。

「スーパーの帰りに会った子に、少しだけ “過去 ”のことを触れられた」

 その一言だけで、いつもの無表情がいっそう強まった。“無氷表(むひょうじょう)”と呼べるほど、氷のような表情。微かに殺気に似たものが感じられる。

 それほどまでに、僕の、僕らの過去はトラウマなのである。

 そんな優衣を安心させるように微笑むと、とたんに氷が解ける。

「深くまでは言われなかったから大丈夫だよ。まぁ、少し嫌な気持ちになったから、寝て忘れようとしていたところ」

 時間が解決することはない、そんなことを知りつつ、優衣の感情を整える。

 深く突っ込んでこなかっただけで、彼女は本当にすべてを知っているのだろうけれど。

 でも、彼女に出会ったのが僕でよかった。優衣には、妹には、不快な思いをさせたくない。

 ナビちゃんから聞いた、到底信じられない、少し頭のおかしい子の妄想のような話を、僕は優衣にすべて話した。

 話終わったあと、優衣は少し考えて

「学園にいる、幼い少女。噂で聞いたことがある」

 予想していなかった言葉に驚いた。

 ナビちゃんは、学園で僕が知らなかっただけで有名人だったのか。確かに、あの見た目で学園にいたら、目立つか。

 そう思ったら違ったらしい。さすが、生まれたときからの僕の妹。僕が考えていることを察して、首を横に振った。

「私たちの学園の『美少女トップ五』、おにぃ知ってる?」

 また予想していなかった言葉。

 学園の『美少女トップ五』。今日の朝、上地も言っていた。朝親怜、須藤優衣、白波風香、瀬川綾の四人なら知っている。

「そういえば、最後の一人は誰なの?」

朝、上地に聞けなかったことを聞いてみた。

「学園でときどき見かけられる、幻の美幼女が五人目」

 “美幼女 ”。そういうことか。

 優衣がこの話をした理由。その幻の美幼女はナビちゃんに違いない。あの子以外に美幼女なんて言葉がしっくりくる女の子、僕は見たこともない。

「その子だ、確実に。『幻の』ということは、学園の生徒ではないってこと?」

 僕のその疑問にこくりと頷く。そして、補足説明。

「でも、よく学園長室の近くで見かけられるらしい。明日、行ってみる?」

 僕のことに関してのみ、決断も行動も早い優衣。それはとても嬉しいことだけど……。

「この物語の主人公は僕らしいから、僕だけで行くよ」

 それに優衣は “攻略対象(ヒロイン)”だ。優衣との行動率を増やして、次の話を優衣にはしたくない。まだ何もわからない状態だ。変に優衣を巻き込みたくない。

 反論したそうな優衣の頭に手を置く。僕たちが小さいときから、優衣はこうして頭を撫でてやると落ち着くのだ。

「優衣を変なことに巻き込みたくないんだ。こんな話をして今更かもしれないけど……。でも、優衣には秘密を作りたくなかったから」

 撫でながらそう本心を口にすると、優衣は安心したように目を閉じ、

「じゃあ、任せたよおにぃ」

 と僕に託してくれた。

 そして、ベッドから腰を上げドアのほうへ向かって行く。その途中で、

「さっき嘘ついたの、怒ってないわけじゃないから」

「今度嘘ついたら、本当に “針千本以上 ”」

「忘れないで」

 と、少し口を尖らせて呟いた。

 僕は、そのいじけたような反応を可愛いと思いながら笑みを返す。

「ごめん。ちゃんと覚えてる」

「もう、優衣に嘘はつかない」

 僕のその言葉にニッコリと微笑んだ僕の妹は、やっぱり世界一可愛くて、僕には勿体ないと感じるのだった。


 翌日。いつも通りの時間に起床。

 昨日は無言で食べた朝ご飯を、今日は和やかな雰囲気の中で食べ、二人で登校。

 優衣のクラスの前まで来て別れ際に、

「ふぁいと」

 と無表情だけど頬を少し赤らめた妹にエールを送られた。それだけで俄然やる気になるシスコンおにぃ。

 そして放課後。

 教室をいつも通り出て、一階の昇降口へ行くけれど、今日は中庭方面には行かずに渡り廊下を渡って事務室の向かい側。

 扉に書かれた『学園長室』の文字。

 深呼吸をしてから三回ノック。そして聞こえてきた高く舌っ足らずな声。

 覚悟を決めて扉を開くと、果たしてナビちゃんがいた。

「ようこそ、ナビの部屋へ。どうぞ、座ってください」

 高級そうで大きな椅子に包まれるように座った少女は、不敵に笑って僕を歓迎した。

 促されるまま、客人用の長椅子に座る。なんとなく、そんな予感はしていたけど本当に彼女がここにいるとは。

「私は学長と知り合いなんですよ。それでここの部屋を使わせてもらっているんです。ちなみに、このことを知っているのは副学長と須藤真呂太くんだけです」

 と言ってニッコリと笑う。

「あの人は忙しいですから、ぜんぜんこの部屋を使わないんですよ。そんなに忙しいのなら学園長なんて役職、誰かにあげちゃえばいいのに。親バカ親バカ」

「しょうがないから、学園長の仕事はほとんど私が行っています。まぁ、紙にハンコを押すだけですけど。ゴースト学園長ですね」

 呆れたような表情で、国内トップの大企業の社長を馬鹿にしている。かと思ったら、見た目相当の悪戯っ子のような笑顔でコロコロと笑った。

 いったい彼女は何歳なのだろう。年齢不詳すぎる。

「前置きと冗談はここまでにして」

 いったいどこまでが冗談なのか、考えても答えが出そうにないので諦めるしかなさそうだ。 

 ナビちゃんと話していると、考えることを諦める機会が多くて嫌だな。

 そんなことを考えていると、ナビちゃんの顔が真剣な目つきに変わり、空気までも重くなった。

「昨日の話の続きといきましょうか。今回も、時間はあまりありませんが」

 そうだ、時間はない。今は放課後だ。一刻も早く部室に行きたい。こんな正体不明の少女との会話を、早く終わらせたい。

「そんなに嫌わないでください。私は事実を言っただけですし、あれはヒントだったんですよ?」

「始まってしまって、逃れることなどできないのだから。“ゲーム ”を楽しみましょう?」

 やはり、彼女は不気味だ。恐ろしい。人間ではない。

 ただただ楽しそうに、“人生 ”をゲームと同じだと考えている。

僕の過去(トラウマ)を “ゲーム ”の “イベント ”として数えている。

一度寝て、リセットされた頭を使って考え出した結論はそうだった。だから、昨日よりも彼女のことが恐ろしい。

人外の正体不明の生物と会話しているようで、過去(トラウマ)のことについて触れられるのと同じくらいに不快だ。

そんな僕の心を見透かしつつも、彼女は微笑む。心底楽しそうな笑顔。けれど、それは怜さんの笑顔とは全く違う。

彼女の眼は、下位の存在を見る眼だ。

「うんうん。昨日より考えが深まっているようで、とても嬉しいです」

 ニコニコと満面の、不快な笑みを浮かべて話を続ける。

「今日、須藤真呂太くんは部室へこのあと行き、昨日の “朝親怜ルート ”の後日談を観るでしょう」

「そしてそのあとは、おそらく “瀬川綾ルート ”」

「個人的には、須藤真呂太くんにはすべてのルートをノーマルエンドでクリアして私に観せてほしいですね」

「そうすると、昨日あまりお勧めできない、と言った “友情エンド ”にいってしまいますけれどね」

「 “ギャルゲー ”のようなもの、という認識は正しいですよ。ハッピーエンドはヒロインと結ばれることです」

「攻略対象(ヒロイン)の四人の中で、須藤真呂太くんはどの子に “好きという感情 ”を抱くのか」

「とても楽しみです」

 ナビちゃんの話を最後まで聞いてから、僕は疑問に思ったことが一つあった。

「あぁ、確かにルートは全部で五つですよ。“須藤真呂太ルート ”も存在します」

 心を読むナビちゃん。

「そのルートでのハッピーエンドも、似たようなものですよ」

「自分を好きになるルート」

 その説明に納得すると同時に、自分のルートでハッピーエンドになることは絶対にないと確信した。

「本当に須藤真呂太くんは、自分が嫌いですねぇ。ま、いいですけれど」

 つまらなそうな顔でそう呟いて、会話は終了した。

 一刻も早くここから出たい僕は、すぐさま席を立ち扉のほうへと歩いていく。

 扉を開けて部屋を出る。扉が閉まる直前、

「君の考えは正しいよ。私は人間じゃ、ない」

『D@’3,<J\QHY>』

 最後の二言に戦慄する。

 『人間じゃない』。そしてそれを裏付ける、発音することも出来ない意味不明な言語。

 やっぱり、優衣を連れてこないでよかったと、心の底から思った。あんな生物に優衣を会わせたくない。 

 そこまで考えて気が付く。両手のこぶしを、爪が食い込み跡になるほど、強く握りしめていたことに。手のひらはじんわりと汗ばみ、僕はとても緊張していたことを実感した。

 もう会いたくないと思いながら、そんなことはあり得ないとげんなりする。

 頭を左右に振って思考停止、転換。部室へと足を動かし始めた。


 学園長室で、一人佇む少女。

左手にはスマートフォンが握られている、電話中のようだ。

『7Zf[lj\qhy<0qdt@iy:@yd@’ueZwm40tZq』

「そうか。今後が楽しみだな」

 少なくとも、この地球には存在しない言語を発する少女に、日本語で返す渋い、大人の男性の声。

 両者とも声は弾んでおり、楽しそうな会話である。

『3uqf<t;t@s@kfZv[\5ys@ 5o2@s6m4/』

「そうだなぁ……。後輩か幼馴染か実妹か」

『0qdfd@zjet@ees6m4yw@r:s@,%』

「理由は?」

『eaf@yx@ybhw@rwgq@to』

「ナビらしいよ。私は……」

「幼馴染、かなぁ」

『64s@4w@r,>zjouew@r』

「手厳しいなぁ」

『w@f<sl35r@iy」fa’ysbudwejrkw@??????』

「あぁ。約束はきちんと守るよ」

『fe<c;w@f』

『3edwejr』

 そう締めくくった人ならざる少女は、青から赤に変わり始める、不気味な色の空を眺めながら、頬を赤く染める。

 

 ナビちゃんとの苦痛の会話が終わり、部室へと急ぐ僕。

早く、怜さんの大人な包容力に包まれたい。綾ちゃんの元気を分けてもらいたい。ふうとの、何気ない会話を楽しみたい。優衣のいつも通りの可愛さに癒されたい。

 綾ちゃんのように走って部室へと到着して、勢いよくと扉を開けると、怜さんが少し驚いた顔で僕を見つめていた。

「綾ちゃんかと思ったよ。どうしたんだい、まろ君」

 そう言いながら、僕に柔らかく包み込むように微笑む怜さん。

「怜さんは、やっぱり大人の女性ですね」

 心の中で思ったことをそのまま口に出してしまった。恥ずかしいセリフを吐いてしまって、とっさに目を逸らす。

 ナビちゃんとの対話は、僕が思っている以上に精神が疲れていたようだ。

「大人の女性か」

 照れる僕を珍しくからかう様子はなく、そう呟く怜さん。その声色は、少しだけ昨日の落ち込んだ声に似ていた。

僕は、なぜだかわからないけれど失言をしてしまったらしい。大慌てで、理由を考えて出た答え。

「あっ、別に怜さんが老けているとか、そんな意味ではなくて……」

「老けている、ね」

「ああ、違うんです! 別におばさんだと思っているわけじゃなくて……。ごめんなさい、黙ります」

 自分で墓穴を掘りまくってしまった。女性に失礼すぎることを言ってしまい、本気で謝り、黙る。

 そんな僕を見ていた怜さんは、肩をふるふると振るわせて、下を向いている。

 まさか、泣いているのか⁈

 あの怜さんに限ってそんなことはないと思うが、確かに女性があんなことを言われたら、泣くほどショックを受けてもおかしくない……のだろうか。僕は男だから、よくわからないが。

 僕が、どうしようかとオロオロ悩んでいると聞こえてくるすすり泣き。

「くくっ……くぅー。ぷっ」

 いや、これは、

「何笑ってるんですか、怜さん!」

 僕がそう声を荒げると、怜さんは溜まっていた笑いを爆発させた。

 僕が真剣に申し訳ないな、と思っていたのにこの人は……。

「いやだって、ねぇ? なんか恥ずかしいセリフを急に言ったと思ったら、急に自滅しだして」

 さっきの『恥ずかしいセリフ』を思い出して、気まずそうに目を逸らしつつ抗議を続ける。

「いや、でもけっこう本気で反省してたんですよ! それなのに笑うって……」

「いや、うん。ごめんね。私が変な声のトーンで返してしまったからだろう?」

 ひとしきり笑ったあと謝る怜さんだが、その顔からはまだ笑顔が消えていない。

 けれど、だったらあの声のトーンの低さは何だったのだろうか。

「急にまろ君に恥ずかしいこと言われて、私もちょっと恥ずかしかったんだよ。だから少し反応に困ってね」

 怜さんの答えに納得すると、今度は自分の言動が恥ずかしくてたまらなくなる。真っ赤な顔で怜さんから必死に視線を逸らす。

「まろ君」

「なんですか怜さん。しばらく話しかけないでほしいんですが……」

 怜さんの呼びかけに、冷たく答える。しかたないんだ、恥ずかしすぎてまともに怜さんの顔が見られない。

「なにがあったのかはわからないけど……、いつものまろ君に戻ってくれてよかったよ」

 そんな僕に、優しい声でそう呟く怜さんを反射的に見る僕。

 怜さんの顔も僕と同じくらい赤く染まっている。けれど、恥ずかしさよりも、その顔はとても優しさが強く、僕はもう一度さっきの言葉を繰り返していた。

「怜さんは、やっぱり大人の女性ですね」

「懲りないなぁ、まろ君。顔が真っ赤だよ」

「怜さんこそ」

 二人とも、顔を真っ赤に染めながら笑い出した。

 大人な女性の包容力で、僕を優しく包み込み、笑顔にしてくれる怜さん。

 昨日は僕に「ありがとう」と言ってくれたけど、いつも助けられているのは僕だ。

 ナビちゃんとの会話で疲れた心を見抜き、何も言わずに癒して、笑わせてくれた怜さんは、やっぱり大人の女性である。

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悩める少年少女の部活動~これは一つのハッピーエンド~ @CherryMay

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