第1章 手紙 12

無事に研修二日目と三日目が終わる。三人ともそれぞれがホール・厨房・入浴を見学したり、一緒に介助を行った。そして、四日目も無事に終わりに細井から一つ提案を言われた。俺と杏奈はまさか細井からそんな事を言って来るとは思っていなかったから、言われた時は驚いた。

内容は別におかしな事ではないが、大人しくて真面目な細井がまさかって言う様な内容だ。それは、明日、三人で打ち上げをしたいと言う話。

俺も杏奈も細井の突然の申し込みにOKする。

「研修が終わって夜になったら駅前で集合で良いですか?」今まで見て来た細井の表情の中で、一番イキイキとしてる様に見える。

そして、研修の最終日が訪れた。

俺が入浴を担当し、杏奈が厨房、細井がホールの担当として介助に入って居た。

「西野君は、何で介護の仕事に就こうと思ったの?」入浴介助をしながら主任の福田さんに突然聞かれた。別にいちいち隠す事も無いけど、話せば長くなるなと思い、簡単に説明だけをした。

「前に、知らないおばあちゃんと、施設の人達に助けられた事があって…その恩返しでも無いけど、こんな俺でも誰かの為に役に立ちたいなって思いまして」

目を大きく見開いた福田が「偉い!だけど、こんな俺なんてって言う様なマイナスな発言は駄目だよ。誰かの為ね…私も同じ様な気持ちで始めたけど、やっぱ理想と現実は違うから、最初の気持ちなんて半分くらいしか残ってないよ。もう、毎日が研修で少しは解ったと思うけど余裕もないし、利用者さんとの関わりなんてちゃんと出来てないし…」

表情が少し曇った様に見えたが、すぐに元気な福田さんに戻り、お昼までに残り二人入浴しようと言って来た。俺は、研修で学んだ通りに介助を行う。

最後の一人が入浴を終えて着衣介助している時だった。

ホールの方から大きな物音が聞こえて来た。それと同時に職員の声や、利用者様の声が聞こえて来る。福田さんは「西野君、あっちも気になるけど、ホールにはみんな居るから。私達は私達の仕事をしましょう」と冷静な判断を出した。研修生の俺を一人残して他に行く様な人間なら主任なんてなれないなと、俺でも理解が出来た。俺に言った後、介助中の利用者さんにも優しい口調で「大丈夫ですから安心して下さいね」と声を掛けていた。

いくら、仕事が出来ても、相手を不安にさせない声掛けが出来ないと駄目だと思い、今さっきの福田さんのやり取りをメモに残す。


入浴介助を終えてホールへ行くと、ホール内は騒がしく荒れていた。あれ?細井は?とホール内を探すと、床に座り込んだまま動かない細井が視界に入る。

その目の前には施設長の村田と男性職員が誰かを支えている様に見えた。

「福田さん、救急車を呼んだから外に出て案内して」こんな状況なのに、穏やかな口調で施設長は的確な指示を福田さんに出した。

「痛いよ痛いよ…」支えられている利用者さんの声が聞こえて、意識がある事に安心した。俺は細井に歩み寄って手を差し伸べて立たせると「僕がいけないんだ…僕がいけないんだ…僕が…」動揺しているからか、同じ言葉を繰り返している。

体は小刻みに震えて涙を流し始めた。何があったのか知らないけど、こんな事は初めてで俺もどうしたら良いのか解らなかった。ただ、細井と利用者さんに何かがあったみたいだって事だけは解る。

救急車が到着し、救急隊に指示を出されて男性職員はストレッチャーに利用者様を乗せる手伝いをした。

「福田さん、ご家族には連絡お願いします。また電話するからね。あと、細井さん。気にしなくて良いのよ、こう言う仕事をしてる以上、どんなベテランでもある事なんだからね」細井に言葉を残して、救急隊の後に続いて施設長の村田さんも救急車へ同乗した。

家族に電話を掛けに行った福田の姿はなく、ここに居る職員に言われるがままに倒れている椅子を戻したり、昼食の準備を始めた。

どの職員も、誰一人として細井を責めたりしなかった。逆に、細井に対して気を遣っている様に見える。事務所から福田が戻ると、三人は休憩に入って良いよと言われた。昼食時、重たい空気が流れていた。

俺も杏奈も何があったのか詳しくは知らない。

聞こうとも思わなかったが、細井が何があったのかを話始めた。

「ごめんなさい。僕がもっとしっかり手を握っていれば良かったんです。急に歩行が不安定になって、揺らめいちゃったのでどうしたら良いのか解らなくて気付いたら転んじゃって…僕も一緒に倒れちゃって…ごめんなさい」どうやら、手引き介助でトイレに行こうとしていたところだったみたいだ。そのまま一緒に転んで椅子に利用者さんの左腕が当たってしまったらしい。

「元気出して、細井君」杏奈が励ますと、俺も続けて励ました。

昼食を終えてホールに戻り、いつもの様にレクリエーションを行った。

いつもの様にと言っても、利用者さんは一人少なく、細井には覇気が消えている。

それでも細井は頑張ろうと言う姿勢が見えたから、俺も杏奈も協力して盛り上げた。

職員さんも気を遣ってか、俺達以上に盛り上げている。

今日は、みんなで風船バレーを行った。

落とさず何回続くかやった結果、59回が今日の最高記録だった。60回目を落としたのは俺だったから、とにかく文句を言われた。ただ、あれは打ち返せないだろうと思いながらも、笑いながら利用者さんへ謝罪をした。当時、どんな悪い事をしても人に謝るとか出来なかった俺が、今ではこうやって素直に謝れている事に驚いた。きっと、俺の昔を知る杏奈も同様に驚いているだろう…

そして、おやつの時間になり、おやつを食べ終わると同時に俺達の研修の終わる時間が近付いて来た。そんな時、ホールに施設長が戻って来て俺達を事務所へ呼んだ。

三人で謝罪をすると、優しく穏やかな口調で俺達に向かって言う。

「五日間研修お疲れ様でした。私達がやってる仕事は、利用者様の命と健康をご家族様から預かり、サポートするお仕事だから、今日みたいな事もたまにはあるのよ。だけど、そのミスや失敗を教訓にして明日から大学での勉強に活かして頑張って下さい。それと、先程の利用者様も命には別状は無いし、左肘の骨にひびが入っちゃって、これからご家族様が施設へお連れするから大丈夫だからね。もし、良かったら卒業したら就職してくれると助かるわ。五日間、大変だったと思いますが、本当にありがとうございました」そう言って施設長は頭を下げる。

今度は俺達がそれぞれ順番にお礼を言って事務所を後にした。

事務所の前には福田が立っていて、玄関まで笑顔で見送ってくれた。

「ありがとうございました」と、三人で一礼して外へ出る。

駐車場に出ると、ちょうど病院から利用者さんとご家族が戻って来たのか、車から降りたところだった。細井は一目散にご家族の元へ向かって謝罪をした。娘さんかお嫁さんか解らかったが、細井に対して気にしなくて良いのよと言い残してインターホンを鳴らして施設内へ誘導されて行った。

俺達の研修はこれで終わった。

「では、これにて!19時に西口のコンビニ前で集合ね」杏奈がイキイキとした口調で言って、そのまま車へ乗り込む。

俺も細井も続けて車に乗り、それぞれが一度家に帰った。


18時半、姉に駅まで乗せていって貰おうと思ったが、姉の姿が見当たらなかった。

「裕介さん、姉ちゃんは?」リビングでノートパソコンと睨めっこしながら仕事の図面を作成している裕介さんに声を掛けた。

「買い物にお母さんと行ったよ。どうしたの?」

「これから研修の打ち上げなんだけど、裕介さんって酒って飲んじゃった?」

「まだ飲んでないよ。俺が送ろうか?この前、迎えに来て貰ったお礼でさ」

「いいの?じゃあ、お願いします」

裕介さんの運転する車で駅へ向かった。向かう車内でバイト中の真琴にこれから駅付近で打ち上げするとだけメールを送った。

細井と杏奈と三人だから安心してと一言添えて。


裕介に西口のコンビニ前で降ろして貰った。

お礼をして、辺りを見回しても杏奈も細井もまだ居なかった。

スマホを見ると、約束の時間まで10分ある。コンビニの中に入って週刊誌を立ち読みしながら二人を待つ事にした。

先に細井がやって来た。どこからどう見てもオタクですって言う様な服装は、遠目で見てもすぐに細井だと解った。逆に、俺なんか黒いパーカーに黒いカーゴパンツって言う全身真っ黒だ。

少し約束の時間を過ぎて俺と同じ様に全身真っ黒な杏奈がやって来た。

「で、どこに行く?細井、決めて来たん?」細井に振ると、慌てて「この近くにネットで評判の居酒屋があるので、そこへ行きましょう」と言って俺達を誘導する。

道中、やっと研修から解放されたからか、研修後の細井は別人の様だった。

普段は大人しいのに「ここのお店は、ネットで調べる限り唐揚げが美味しいらしいです。それと、無制限で飲み放題らしいです」と、とにかく口数が多かった。

この五日間で、俺と杏奈にも慣れて、今までよりも気を許したのかなと思う。

少し歩くと居酒屋へ到着し、店員に席まで誘導された。俺と細井が隣同士で座り、杏奈が正面に座る。

こうやって、今日は細井が居るけど、杏奈と一緒に飲みに来たのは、別れてから初めてだったから、何だか複雑な心境だ。

杏奈は、どう思っているのだろう…何故か、まともに杏奈の顔を見れない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る