第1章 手紙 5

「大丈夫?」俺は、一言だけ真琴に声を掛けた。これが、俺の考えた最初の一言だった。俺の声を聴いて、頭を押さえながら真琴が静かに振り返る。

「京…どうしたの?」驚いた表情で真琴は俺を見詰めた。

「さっき、店長から電話が着て、仕事中に真琴が倒れたって聞いたからさ。心配で迎えに来たんだよ。家まで送って行くけど立てる?」俺はそっと手を差し伸べた。

真琴は、差し伸べた俺の手を握り立ち上がった。真琴の指は、とても冷たかった。

休憩室のドアの前に行くと、真琴はカバンから車の鍵を出し、そっと俺に手渡した。

「ごめん、明日は大学で車を使うから、私の車で送って貰っても大丈夫?」

鍵を受け取り、「いいよ」と返事をすると、ワガママ言ってごめんねと、真琴が言う。

真琴の家までは、ここから車で10分も掛からないくらいだから、送ったらそのまま歩いて自分の車を取りに来ようと決めた。

店長やバイトの人達に挨拶をし、車へ向かい、助手席に真琴を座らせ、俺は運転席へ行きドアを閉めた。

「京、ありがとね。何か色々あって疲れちゃってさ。あれから夜もなかなか眠れないし。でも、何とか頑張ろうって無理しちゃってたのかな?何かしてないとあの手紙の事を思い出しちゃってさ…」

俺は頷きながら真琴のか細い指を握って「俺が守る、俺はずっと側に居るから」と伝えてエンジンを掛けて車を走らせた。

車は真琴が通う大学まで真っすぐの道にあるコンビニを越したすぐ先を左折し、300メートル程進んだところで右折する。

右折してすぐに、二階建てのアパート『soleil』が見える。ここが、真琴の住むアパート。指定された駐車場へ車を駐車して「今日はここで大丈夫だから…京、わざわざありがとね」と、真琴が言うので、俺は部屋に入るまで外で見守った。

階段を昇って真琴が部屋の前に着くと、「本当にありがとね」と言って、そっと手を振りながら部屋の中に入って行く姿を眺めていた。

部屋に灯りが付いた事を確認すると、俺は来た道を歩き始めた。


大通りまで残り100メートル程の時だった。

誰かが俺の背後に居る様な気配を感じたから、一度立ち止まって振り返った。

そして、辺りを見回す。

誰も居ない…しかし、確かに俺の背後を歩く足音が聞こえた気がした。

耳の錯覚か?いいや、そんな事は無い。確かに、この耳に聞こえたと、自信があった。もしかして、こいつが手紙の犯人か?それとも…

そう思うと、怒りが湧き出して来た。

この犯人も馬鹿じゃない。俺にバレたと思えば、今日のところは引き返すに違いない。逆に、俺が帰るのを確認すれば、真琴の家に堂々と向かい、忍び込む可能性だって大いにある。

深呼吸をし、呼吸を整えて俺は来た道を走って戻る事にした。

その時、暗闇に包まれた細い路地の方から逃げて行く足音だけが聞こえた。

すぐに路地を曲がると、そこには人影は見当たらなかった。

急いで真琴に電話をする。

「どうしたの?もう着いたの?」と、言われた。

無事を確認すると安心してからか、その場にしゃがみ込んでしまった。

『いや、歩いてたんだけど、誰かに尾行されてた気がして…』と言う言葉を飲み込んで「ちゃんと鍵は閉めた?」と、別の言葉を真琴に伝えた。

「いつもそんな事を言わないのに急にどうしたの?子供じゃないんだから大丈夫、ちゃんと閉めたしチェーンも掛けたよ」

それなら良かったと思い「ちょっと心配になっただけだよ、ちゃんと鍵を閉めたかなって確認だよ」と伝え通話を終えた。

今さっきの出来事を伝えたら、余計に不安になるだろうし、もしかしたらたまたま俺が振り返り追い掛けたから逃げただけかもと、自分に何度もそう言い聞かせる。

そんな事は無いだろう…でも、全くの勘違いだったのかもと言う可能性も脳裏に浮かんだからだ。決定的な証拠が何も無い現状じゃ、信憑性に欠けるし。


真琴を送ってから40分程してバイト先へ到着した。

ちゃんと真琴を家に送った報告と、先程の出来事を店長に相談しようと思い、店内へ入る。店長の担当する厨房へ顔を出すと、慌て口調で「ちょっと待ってて」と言われ、休憩室で待つ事にした。

15分程すると店長が休憩室へ来て、事務所へ来る様に促され移動をした。

机に置いてある煙草に火を付けながら店長が言う。

「何かあったって顔だけど、大丈夫か?」

俺は真琴を送ってから遭遇した謎の足音の話を店長に伝えた。店長は、ただじっと俺の話を聞きながら煙草を吸っていた。

「そっか、そんな事があったのか…でも、お前が言う様に信憑性にも欠けるし、やはり決定的な証拠が無いから今は何も出来ないな。でも、お前にしか出来ない事が一つだけあるだろ?暫くは佐々木さんの送迎をするんだな。昼間はまだ人通りがあるが、バイト終了後じゃ暗いし、人通りなんて殆ど無いんだから。確か彼女の家は並榎の陸橋下の方だったよな?あそこら辺だと、夜は人が出歩かないし、割とあそこら辺って昔から暗くて危ないんだよな…」

店長の言葉を一語一句しっかり聞き「解りました。俺と真琴のシフトですが、なるべく揃えて貰う事って可能ですか?駄目なら夜だけでも送って行きます」

店長が俺の肩に手を添えて「シフトは任せろ。でも駄目な時は頼んだぞ?」と優しい笑顔で応えてくれた。

この松原と言う店長は、始めて会った時から頼れる親父って感じで、時には友達の様に冗談を言って来たり、時には厳しく接してくれる俺にはとても大きな存在だった。

一回り以上、年の差があるが、気さくな性格だからか、そんな風には全く感じさせないのが、店長の魅力だった。

何よりも、人間として尊敬が出来る男。俺が、昔暴走族だったと言う話を聞いても、店長はそれに対して嫌な顔を一切見せずに、昔は昔、今は今と言って、今の俺だけを見てくれる立派な大人だ。

まだ、出会って短いけど、この短い期間でも十分に店長の優しさや誠実さを実感している。

この世界に『もしも』なんて存在しないけど、もし仮に中学や高校の教師が店長みたいだったら、不良にならなかったかもなと思った。だからと言って、俺が不良になった理由は特には無い。あるとしたら、姉ちゃんの元彼の影響だろう。

少しヤンチャしたからと言って、親も俺を見捨てたりもせず、だからと言って、抑え付けたりもしないで、俺の選んだ人生を否定など一度もしなかった。

実際、昔から親とは仲が良い方だ。普通なら、不良だと親とは不仲が多く囁かれるが、そうではなかった。うちの親の育て方には、子供は健康で元気なら何でも良いって言う暗黙なルールがあるらしい。

そんな親だからこそ、俺は好き勝手にやって来たけど、だからこそ、高校を卒業してからは心配や迷惑を掛けない様にしている。


その時、事務所にノックの音が響いた。

ガチャっとドアが開き「店長、団体のお客様が来店されたのでお願いします」と、この前入ったバイトの山崎学が頼みに来た。

山崎は、まだ入って日は浅いけど、もう立派な戦力になっている。若いからと言うのもあるが、とにかく仕事を覚えるのが早かった。

何となく、こいつは主力メンバーになるんじゃないかなと思う。そう言えば、この前、山崎から相談を受けたな。どうやら、東さんに惚れているらしい。しかし、いくらお願いしても携帯番号さえ教えて貰えないそうだ。

彼女の言い分としては、異性とは公私混合をしたくないとの事だった。

実際、彼女は同性の真琴とは頻回に連絡を取っている様だ。

真琴も、千春ちゃんは可愛い後輩と言って、かなり可愛がっている様子だし。

「よし、今日の話はここまでにしよう。シフトに関しては、今夜にでもメールするから、それで良いよな?」

返事をして、店長に頭を下げて俺は事務所を後にする。そして、一度、真琴の家の前を通って帰る事にした。

真琴の部屋に灯りはなかった…車も動かした形跡もないし、体調も悪かったし、睡眠薬も飲み始めたと言っていたから、もう寝たのだろうと思い、俺は自宅への道へと車を進めた。

今、真琴が抱ええる不安や恐怖は、俺が感じている以上だろう。俺に出来る事、それをする為に、俺は自分に出来る事を考えた。

何よりも、真琴の身の安全と、精神的支えが必要だろうと、俺なりに答えを出した。その為には、やはり時間が必要だ。なるべく、時間が空いている時や、バイトの後は傍に居ようと決心した。



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