競馬の日
~ 九月十六日(木) 競馬の日 ~
※
身近な失敗例を見て戒めとせよ
『一〇二六時・神取隊。
小さなウインドウがデスクの左隅、虚空に表示され、すぐに閉じた。シックなこげ茶と黒をベースにした調度が機能的にレイアウトされ、各所に置かれた観葉植物が心を安らかにする五十平米ほどの執務室。その部屋の最奥で、マホガニーのデスクに向かうこの部屋の主は一人、たっぷりとボリュームのある栗毛を左手で弄びつつ、薄紫のシャドウを湛えた切れ長の目でデスク上に浮かぶ多種多様な情報を追っていた。
「あら、北米西海岸で小麦が暴落してるわね。これは買い、っと」
「……相変わらず、一度にいくつものことが処理できるんだな」
耳にかけたヘッドセットからは無感動なため息が響き、国際連合月面軍新兵器開発部部長、
「ママのためだからね。そりゃ頑張れるわよ」
「お前を捨てた女を母と呼ぶか」
「捨てられたのはパパだけよ? あたしにとっては、昔からの愛を貫いたまぶしいママ。そんな女の陰謀も知らずにころっと騙されて内乱に加担させられたパパとは違うわよ」
高機能チェアーの座面にまで届く豪奢なウェービーヘアは長身で引き締まった体をした彼女を大人の女性へ、准将という高級官職に相応しい貫禄を与えてくれているが、見た目とは裏腹に人をからかったりイタズラを仕掛けたりするのが大好きな彼女にして会心のやり取りだったのだろう、ふふと一つ笑い声を漏らすと、機嫌よく言葉を次いだ。
「最近、開発費が潤沢に回ってきて助かってるわ。パパのお陰なの?」
「……議会の総意だ。高速減衰弾、強化装甲服について実績をあげてきた件と、この間のプレゼンが効いたのだろう。お前の嫌いな、私利私欲で太った
「パパもその一人なんだけどね。議員宿舎にトレーニングジムを作ってあげるだけであんなに喜ぶなんて」
ヘッドセットから絶え間なく届くため息に、いい加減うんざりし始めた柚歌は、結論だけ口にして退屈な時間を締めくくることにした。
「…………ママが、呼吸をし始めた」
「そうか……」
それきり返事がないことを終了の合図と受け取ったのだろう。柚歌は久しぶりの親子の会話を切り上げて、待たせていた客人を部屋へ招き入れる。
「失礼します」
神取亮子は、帰投した後も休むことなく任務をこなしていた。それらは戦隊長である藍染柚歌に命じられた執務がほとんどではあるが、今日は多少熱のこもった報告書を作成したせいでいつもより報告が遅くなっていた。
「准将。本日の件は私のミスです。申し訳ございません」
執務室へ入るなり、亮子は深々と頭を下げる。そんな親友の態度に寂しさを感じながら、柚歌は努めて明るく受け答えをした。
「サキ、ねえ。ひょっとしたら、たったの一コマで女王に近づけたかもしれないのに。ちょっと残念だったわね」
そして高機能チェアを机から引いて両手で伸びながら、柚歌は浮遊ウィンドウに表示された報告書を斜めに読んでため息をついた。
「薬剤を投与された恐れのある羅弥兎人。不利な証言を潰すために殺したのはグスタフ・カーン大佐。まあ、しょうがないんじゃない? あいつ悪人だし」
「必ず軍より早く羅弥兎人を捕獲するという任務が、今回は遂行できませんでした」
「だから、いいってば」
亮子が再び頭を下げる姿を見た柚歌はデスクにバンと突っ伏し、伸ばした片腕に頬を乗せてだらしない格好になると不貞腐れた声をあげる。
「も~! 亮子、堅過ぎ! それと、もっと他の連中といる時みたく話して~!」
「いえ、上官に対する当然の態度です」
朝、会った時とは違って生気のない瞳のまま答える亮子。
それも仕方ない。久しぶりだろう、死を目の当たりにしたのは。
だが、そう考えていた柚歌の予想とは異なり、神取亮子は思考をフル回転させて、この親友のしっぽを掴むべく、何十手も先を読んで、言葉を紡ぐ。
「……彼が軍人である以上、どうとでも理由付けが出来ます。対応手段がありません。それより、彼の行動の影響で部下達のメンタルケアが必要な状況です。滝乃、天宮は死傷の目撃に対する耐性が軍人のそれに達しておらず、深刻なダメージを受けているものと判断します。よって、明日の軍事行動から外すことを提案します」
終始淡々。そう報告した亮子だったが、自ら口にしたことで二人の表情を思い出してしまい、感情に負けたことを表す言葉を紡ぎ始めた。
「……今回の件、事前に察知されていたのですよね」
「あら? なんでそう思うの?」
「部下が、危険にさらされました」
柚歌は、この大切な友人が自分のことを疑っているという事実に泣き出しそうな思いをしていた。確かに自分は把握していた。だが、あんな形で羅弥兎人を殺害されるなどそれこそただの偶然だ。
本当なら、桜子も剣も抱きしめながらごめんなさいと言いたい。そんな気持ちでいることくらい頭のいい亮子なら分かっているはずだ。私のことを慰めてくれたっていいはずなのに、その頭のよさのせいであたしの計算の結果なのかもしれないと疑っている。
「なによう。あたしばっか悪者にして」
「……なにも、後ろめたいことは無い、と?」
「無い無い! 何を疑ってんのよ!」
「特別療養棟、Z区画。……あそこに低温保存されている遺体はなんです?」
計算も何もない。売り言葉に買い言葉のようなやり取りから、つい口にした疑念。
だが、そんな言葉に全く動じることもなく、柚歌は気軽に返答した。
「死体じゃないもん」
「……え?」
「ついさっき、また十分の一だけ生き返ったのよ?」
「何をバカな……」
きっとからかわれているのだ。このイタズラ好きは、いつもこうだ。
亮子は扉の前で一礼すると、扉に手をかけた。
だが自分が退室する直前、最も気が抜ける不意を打って、柚歌から反撃が飛ぶ。
「あ、ちびらびって知ってる?」
「……いいえ」
そして亮子もまた、まったく動揺も見せずに返答すると。四角四面な敬礼を残して扉を閉めた。
「こんなことするから嫌われちゃったのかな……」
ギシと音を立てながら背もたれに寄りかかった柚歌は、手を胸に組みながら大きなため息をついた。そして自分は今、どんな表情をしているのだろうかと思い、何気なく部屋の片隅に置かれたサイドボードへ首を向ける。
……写真の中の少女は、母親の手に抱かれて満面の笑顔で笑っていた。そして、あたしもそんな笑顔でいられたらいいのになと写真の中の少女に嫉妬しつつ、閉じた瞳で天井を仰いだ。
「……私も嫌いだけどね、グスタフ・カーン。でも、今日だけは感謝しているわ」
待っていてね、ママ。
あと七つ、必ず取り戻してあげるから。
彼女は人知れずそう呟くと、疲れた心を癒すため、子供たちの下へ続く隠し扉へと足を踏み入れるのであった。
~´∀`~´∀`~´∀`~
競馬をして借金する知人がいる。
借金はダメだ。
ギャンブルはダメだ。
「それには全面的に同意だな」
「今の話、信頼してもらえましたか、お客様」
「完全に同意だ」
「じゃあ、信頼できる私に財布を預けてみなさい。倍にして返して差し上げます」
「倍とは言わず、百万円ほど詰め込んでくれ」
「まさかまたなのですか、お客様」
考えて考えて。
考え抜いて、この結論。
俺は、悪徳金融業者という泥沼からぬけだすことができない人たちの心理について論文が書けそうだなと自嘲しながら。
駅ビル内のブティックで、顔見知りの店員に頭を下げていた。
「あんたしか頼る相手がいねえとは。なんたる人脈のなさ」
「それを本人の前で言ってどうします」
彼女の名前は黒崎
という偽名で暗躍する、西野
地元ではかなり人気のボーカリストにして。
俺が多額の借金をする女。
去年に続いて、また今年もお世話になろうとは。
……昨日、行動は全て報告するようにと先生に言われたが。
早速報告できない案件をセレクトした俺だった。
「いつもお話しする通り、お金を貸してという言葉はお金を返しきった人だけが口にしていいものだと思うのです」
「まったく反論の余地もない」
だが。
ここで引き下がる訳にはいかない。
「秋乃たちが前座やるから」
「そのセンテンスのあとに、百万よこせは普通繋がりません」
「不条理な利息はともかく、今借りてる金は必ず返すから金貸して」
「ですから文脈がとち狂ってますよお客様」
必ず今借りてる金は後で返すから金を貸せ。
ご指摘通り、そんなバカな話はない。
でも、周りの店員さんがひそひそ話を始めると。
萌歌さんは盛大に肩を落としてしぶしぶ承諾してくれた。
「……じゃあ、今回はライブのセッティングもお願いしますよお客様」
「助かる。もちろんそれくらいこっちでやろう。でも、意外とあっさり了承してくれたな」
「バンド仲間にもからかわれているのに、ここでも同じことを言われるなんて御免です」
「なんて言われてるんだ?」
「もうあんな男と別れろと」
「付き合ってねえだろ!?」
「当たり前です。なんで妹の彼氏と姉妹丼しなきゃいけないんですか」
「意味分からん! お前の妹とも付き合ってねえ!!!」
俺が必死に慌てて否定する姿を見て。
ようやくいつもの無表情に戻った意地悪な萌歌さんは。
「それじゃ金貸し側特権として、劇の席をください。メンバーの人数分」
「何とかする」
「これで下らない劇だったら、逆に笑えるのですが」
「内容はともかく、すげえオマケが見れるぞ?」
「オマケは凄くなくていいので、内容を頑張ることをお勧めします」
いやはやその通りだ。
でも、すでにみんなの希望を無理やり詰め込んだせいで意味の分からんものになってるんだ。
「……期待されても」
「百万もかけるのに?」
「仰る通り」
「それで、演目は?」
もはやため息をつきっぱなしの萌歌さん。
これを聞いたら何と言うのだろう。
「……今の状態でいいか?」
「は? まだ演目が確定していないのですか?」
「現在進行形」
「はあ……。それでいいので教えてください」
「月面を舞台にした義理と人情のカーチェイス」
ありのままを伝えた俺に。
萌歌さんは、表情も変えずに野太いため息を吐いたかと思うと。
「…………ちょっとそそりますね」
ほんとに楽しみにしているのだろう。
小躍りするようなステップで仕事に戻っていくのだった。
よかった。
この人が変人で。
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