4-2

「お母さんこれ、肉じゃがとマカロニサラダときんぴらごぼう作って来たから食べて」


 大中小のタッパーに詰めて来た料理を母に説明した。


「あ、うん、そう。平田さんたちにはもう部屋に行ってもらってるから」


 ぎこちなく話す母。先週持って来たタッパーは、シンク横の食器かごに置いてある。


「ありがとう」


 私は二階の自分の部屋へと向かった。


「皆さん、こんにちは。遅くなってすみません」


 平田さん、藤島さん、岸上さんはソファに座って刺繍を始めていた。暖房は控えめだけど、窓から入る日の光で部屋は暖かかった。


「私たちが早く来すぎちゃっただけだから気にしないで」


「そうそう。もうちょっとで完成だと思うとついつい根を詰めて作業したくなっちゃうわよね」


「紀子さん、忙しいのにごめんなさいね」


「いえ、これが今の私の仕事ですし、好きなことですから。この様子だと、もしかしたら今日中に完成するかもしれませんね。あとちょっと、がんばりましょう」


 三人の手元を見ながら私は答えた。それぞれシロツメクサに、サクラ、小鳥の刺繍がもうほとんど出来上がって、白いハンカチに浮かび上がっている。春らしい、パステルカラーを基調とした色合いが心を躍らせる。


「最近は外に出ても暖かくて、春が近いのね」


「そうですね。散歩する度に新しい季節の始まりを感じられて、気持ちがいいですよ」


 雑談に加わりながら、私も自分の刺繍を進める。まだ刺し始まったばかりの、バラの庭園をモチーフにした大作。これが完成する頃は、どんな季節が巡っているのだろう。


「菜の花も新じゃがも春キャベツもスーパーに並んでいて、優しい色合いよね」


「この前紀子さんに教えてもらった新じゃがのスープ、とっても美味しかった」


「それ、うちでも作ったわ。私もお料理教室に通ってみたくなっちゃったわ」


「喜んでいただけてよかったです。季節の物をきちんといただくのは贅沢ですよね」


 相槌を打ちながら、次の料理教室に思いを馳せる。みんなの好きなものに、旬のものを上手く取り入れられないだろうか。付け合わせや、アレンジ料理で何かないかと考えを巡らせる。


「新しい生活はどうかしら? 困ってることや大変なこと、ない?」


「初めてのことばかりで苦労はしますけど、毎日充実していて楽しいですよ。一日の終わりに疲れてクタクタになってベッドに倒れ込む経験なんて、そうそうないですし」


「突然だったわよね。紀子さん、思い切ったことしたなぁって思って、ちょっと心配してたのよ」


「ありがとうございます。そこは私自身もびっくりしました。ですから、母はもっと驚いたと思います」


「そうよね、あの後公子さん、落ち込んじゃって落ち込んじゃって大変だったのよ。」


「そうだったんですね。母にはとても申し訳ない気持ちでいっぱいです」


「でも、紀子さんがしたいようにするのが一番だと思うから、私たちは応援するわよ。公子さんも子離れするいい機会よ。子供が離れたって楽しいことはうんとあるんだから。それを私たちが教えてあげようと思って」


「ありがとうございます。よろしくお願いしますね」


 ぷす、すーーーっ。ぷす、すーーーっ。

 おしゃべりをしながら、手元のキャンバスへ集中する。葉っぱの表現はどんなふうに見せようか。バラの花はどうやって瑞々しさを表現しようか。自分にとって刺繍が、母に言われてやっているだけで、本当や好きじゃないことなのかもしれないと悩んだ時期が嘘のようだ。母が言うこと全てに頷いていた私は、何が好きか嫌いかというのがわからなかったのだ。

 新生活になり、刺繍を目にしない日々になって初めて「ああ、私は刺繍は好きなのね」と気づいたのだ。そしてふつふつと刺繍をしたい気持ちが湧き上がってきた。母に指示されたものだったけど、これはちゃんと「好き」なものだと再確認して、嬉しくなった。


「紀子さん、お料理も作って持ってきてるんですってね。今時こんなできた娘、そうそう居ないわよ」


「公子さんにお料理をおすそ分けしてもらったことがあるの。とっても美味しかった。あんなに美味しい料理を食べられるなんて、公子さんも徹さんも幸せ者よ」


「今の紀子さんの方が輝いて魅力的よ」


 三人に代わる代わる持ち上げられて、苦笑まじりの笑顔になってしまう。実際に行動してみると、遅すぎるくらいの変化だと自分では思っているから。

 もっと早くに行動を起こしておけばよかった。もっと早くに気づくべきだった。もっと前に変わるきっかけがあったかもしれないのに。そんなことが頭をよぎっては去っていく。


「おしゃべりも楽しいですけど、もう少しですから完成させちゃいましょう」


 手元がおろそかになってきたのを確認して、刺繍に集中するよう促した。

 私はソファから離れて、やわらかなインストゥルメンタルの曲を流した。静かすぎるのもなんだか気まずいし、かと言ってガチャガチャとうるさい音も違う気がして。スピーカーから流れて来たピアノの旋律が優しく、耳に心地いい。曲を教えてくれた彩花ちゃんに感謝した。

 午後の日差しは温かで、じんわりと私の眠気を呼び起こす。この日差しの中でウトウトするのもきっと気持ちがいいだろう。でも手先が冷えることなく、作業に集中できるのもこんな陽気ならでは。

 しばらくは黙って黙々と作業に没頭していた。三人から質問されることもなく、各々が真剣に刺繍と向き合っていた。


「コーヒーが入りましたよ。少し、休憩してはいかがですか」


 母が遠慮がちに静寂を破って、部屋へと入ってきた。


「ありがとう。ちょうどそうしようと思っていたの」


「集中していると時間が過ぎるのは早いわね」


「どう? 完成しそう?」


「私は、来週かな。今日中に完成すると思ったんだけれど」


 堰を切ったようにおしゃべりが噴出する。黙って作業することが苦痛だったのかな。そう考えたら、胸の奥がチクッとした。

 チョコレートでコーティングされたクッキーをひとつ、つまみあげて口に放り込んだ。一口サイズの小さな形で作っておいてやっぱり正解。疲れた頭と身体に甘い物は必須。大きすぎると食べづらいから、一口で食べきれるくらいの大きさが一番いい。

 母のぎこちなさは見ていて気になるけれど、刺繍教室再開当初の挙動不審っぷりに比べたらだいぶ良くなってきた。四人がおしゃべりを楽しむ声を聞きながら、ウトウトとまどろんでいた。


「紀子、皆さんが帰りますよ」


 母がそっと私を揺り起こす仕草は、ガラス細工を触るように慎重だった。


「あ、ごめんなさい」


「疲れてるんだから実家に帰ってきた時くらい休ませてあげましょうよ」


「ありがとうございます。でも甘やかしちゃだめですよ。実家とは言え、こうして皆さんに刺繍を教えている場所なんですから」


 母は先を歩く三人に続いて部屋を出て行こうとするところだった。

 私も慌ててその背中を追いかける。


「来週こそは完成よ」


「今日中に出来上がらなかったのが、なんだか悔しいわね」


「楽しみがまだ続くんだもの、嬉しいじゃない。まだまだ楽しめるのって有意義じゃない?」


 ぺちゃくちゃと話しながら、三人は遠ざかっていった。

 その背中を眺めながら、庭のあちこちに顔を出す春のサインを数えていた。いつまでも変わらずにいられることなんて、自然にはひとつもない。あの三人が刺繍を完成させるように、母との時間もじんわりと亀のような歩みで良い方向に向かって行くはずだ。


「まだ冷えるわね。お茶でも飲んでいく?」


「うん。お母さん、いつもありがとう」


 以前よりも母に優しく、心からの言葉を言えるようになった気がする。急に他人行儀なところまで心の距離が出来てしまって、ぎこちなさや戸惑いはあるけれど、じっくりと向き合っていけたらいいな。

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