第四章

4-1

 炊いてあった白いご飯にバターをひとかけ、醤油をひと回し。


「いただきます」


 狭いワンルームのアパートは殺風景だ。ところどころに作りかけの刺繍や、料理本、資格試験の参考書などが転がっている。

 自宅を出てから早二ヶ月。

 家を出ることを決めた日、私は父に相談した。料理教室でちょっとずつ変わっていった私を受け入れてくれたのは、父だったから。自分一人で何とかしようと思ったものの、お金もなく、方法も分からない私は父に頼るしかなかった。三十を越えても子供みたいな自分が恥ずかしくて、申し訳ない気持ちに溺れそうだったけれど、父は喜んで力を貸してくれた。

 年末くらいから、母とは顔を合わせればケンカばかりするようになってしまっていた。ケンカをしたいわけじゃないのに、意見の食い違いから平行線の口ゲンカになってしまう。そんな状況が悲しくて、考えた結果が今の生活だ。

 父に力を借りたとは言え、一人で暮らしていくためには自分でお金を稼がなくちゃいけない。当たり前のことなのに、どうして気がつかなかったんだろう。刺繍教室の継続を母に掛け合ってくれた父に感謝しているけれど、それだけじゃ全然足りない。

 だから佐久間さんに頼み込んでアシスタントとして雇ってもらうことにした。変わるきっかけをくれる料理に、もっと打ち込んでみたいという気持ちも大きかった。

 料理教室で働くようになって料理の腕は格段に上がった。佐久間さんから調理師の資格取得を進められてから、本格的に私の人生がスタートしたような気がした。

 習ってきたことや次回に作る料理の練習をすることもあるけれど、こうして料理とも呼べないような食事を楽しんでいるのもまた事実だ。こんなに簡単で彩りも栄養もない、疲れた身体に美味しいご飯を、私は知らなかった。実家で暮らしていたら絶対に食べなかっただろう。こんなものでもいいんだ、という食事に対する概念が壊れてからというもの、こんな時間が楽しくて仕方がない。

 良い子でいた生活からは、想像もできなかった。

 それまでの暮らしから離れてみると、今まで見えなかったことがよくわかるようになった。

 私がどれだけ甘えていたか。母の負担になっていたか。一人暮らしの楽しさと大変さ。夢があることの充足感。日常を新鮮な気持ちで体験する日々。

 苦労の連続だったこの期間、自分がどれだけ世間知らずだったのか、嫌というほど痛感した。水道光熱費や家賃の支払い方、洗濯の仕方、一人で起床することの大変さ、スーパーで買えるものの値段、一週間分の食費……。わかることの方が少なかった。

 だけどその分、新鮮で、驚きで、全てが輝いている。

 実家で暮らしていた時には想像もできなかった暮らしを、今、している。

離れて過ごすようになっても母との会話は相変わらずだ。でもあの頃のように平行線で、顔を合わせる度にケンカをすることは少なくなっていた。まだギクシャクしてしまう部分が多いけれど、この開放感はきっと母も同じように感じていると思いたい。

 空になったお茶碗を眺めながら今日を振り返る時間が、私の日課になっていた。今日は佐久間さんに調理師試験の座学を習った。私はこれから料理人になりたいのか、こうしてアシスタントとして働き続けたいのか、まだ掴めていないけれど目標がある毎日がなんだか嬉しい。

 私が料理を通して変わったように、まだ見ぬ誰かにも料理を通して変化が訪れて欲しい。

 明日は刺繍教室の日。手早く洗い物をしながら、冷蔵庫を開ける。母に少しでもわかってもらいたくて、刺繍教室の日には日持ちするお惣菜を何品か作って持って行くようにしているのだ。

 食材を確認して、何を作るか考えながら洗濯物を干し、お風呂に入る準備をする。

 こんなふうに過ごしている自分が未だに信じられないけど、私の人生はまだまだ始まったばかりだ。

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