3-5

「紀子、今日は関根さんがお見えになるからきちんとした服装にしてちょうだい」


 朝食を摂りにリビングへ入るなり、母から言われた。


「関根さん? 誰だっけ?」


 寝起きで動かない頭を必死に回転させて、関根という名前の知り合いを片っ端から思い出す。


「もう、お見合いよ、お見合い。ちょっと年上くらいの方が紀子には合うと思ってわざわざ今日来てもらうんですからね」


「えっ? お見合い? 私、言われたっけ。年上ってどのくらい上?」


 料理教室に通う当初の理由は、花嫁修行だったからこんな日が来てもおかしくはない。おかしくはないけど、突然すぎて困惑してしまう。それにそんな大事な話を聞いた覚えがない。私が忘れているだけで、もしかしたら母は言っていたのかもしれないと母を見た。


「事前に言っちゃったら紀子、逃げるでしょう。関根さんだって忙しい合間をぬって来てくださるんだから、そんな無礼なことできないじゃない。いいでしょ、どうせ今日は予定もないでしょ」


「ちょ、ちょっと待ってよ、待って」


 目の前に置かれたパンケーキセットからは、はちみつの甘い香りがしている。スクランブルエッグやボイルされたソーセージの香りも漂って、私の空腹を刺激している。


「なんでそういうふうになるの? 一生一緒にいるのはお母さんじゃなくて私なのに、どうして私の意見なしに進めるの?」


 空腹に気を取られている場合じゃない。目の前の食事よりも優先しなきゃいけないことがある。


「大丈夫よ。紀子はお母さんの言う通りにしていればいいの」


 自信たっぷりに答える母の姿が、ちょっと前までは頼もしかった。全てを母に預けていれば万事うまくいくと、私も思い込んでいた。


「お母さん、私だってもう三十二歳だよ。子供じゃないし、意思もある。私の一生がかかっていることなんだから、お母さん一人で決めないで」


 母の目を真っすぐに見つめて言った。母に意見を言ったのは初めてだった。心臓がバクバクと脈打っているのがわかる。緊張しているのに、ずっと飲み込んできたことを吐き出した解放感で胸がすうすうとした。身体が熱っぽく、じんわりと汗が出てきて気持ちが悪いけど、思っていることを伝えるのは悪い気分じゃない。


「紀子」


 低く冷たい母の声がした。


「お母さんの言うことが聞けないの?」


 怒りに満ち満ちている声色だった。


「紀子のためを思って、お母さんがんばってるのに、わからないの?」


 私のため。私のためって言うけれど、母自身の外聞を守るためのものばかりだったじゃない。私は着せ替え人形のように言いなりになって来たのに、これからもずっとそうやって生きなくちゃいけないの?


「やっぱり料理教室なんかに通わせるんじゃなかったわ」


 どうしてそこで、料理教室の話が出てくるの。あなたが気に食わないだけじゃない。


「今から電話して、辞めさせてもらうからね。紀子はお母さんの言う通りにしていればいいの」


「どうして……!」


 思わず大きな声を上げてしまった。


「どうして、お母さんはいつもそうなの。私のこと考えてるっていうけど、ちっとも考えてないじゃない。お母さんの見栄のために、言いなりにはもうなりたくない。私だって」


「紀子!」


 今度は母が大きな声を上げる。こんなに怒っているのは見たことがない。顔は真っ赤になっているし、両手も震えていて、今にも爆発してしまいそうだ。


「お母さん、聞いて」


「いつからそんな聞き分けのない子になったの? 何もかもお父さんが料理教室に通わせ始めてからじゃない。料理のできない私へのあてつけなの?」


「そんな……」


 そんなこと、思ったことない。単純に、一緒に喜んでくれると思っていたのに。


「私、料理教室辞めたくない。お見合いもしたくない。勝手に決められるのなんてうんざり」


「どうした」


 父がリビングに入ってきた。険しい顔をしている。いつもなら出勤していない時間なのに、どうして父がいるのだろう。わからないけれど、父の顔を見たらホッとしてしまった。


「あなた、あなたが紀子に料理教室を進めてから、何もかも上手くいかないわ。だから辞めさせようと思って、その話をしていたの。今日は関根さんが見えるから早く支度しなくちゃ」


「お父さん、私は料理教室辞めたくない。お見合いだって、今朝聞かされて、受けたくないのに」


 母の言葉に負けじと言い返す。父は驚いたような表情をして私を見ているが、そんなことを気にしている場合じゃない。せっかく仲の良い友人と呼べる人もできて、佐久間さんにも認めてもらえて、料理をすることも楽しくなってきたところなのに。


「公子、どうして紀子に料理教室を通わせたか、わからないのか?」


「そんなことはどうだっていいじゃないですか。今はもう関根さんをお迎えする準備をしないといけないんですよ。それなのにこの子ったら、嫌だとかお見合いを受けたくないだなんて」


 幾分焦ったように、話を逸らす母。


「そんなこと? 紀子のことなのに、そんなこと呼ばわりか? 紀子だってもう三十を超えたんだ。いつまでも子供じゃない。お前が全て世話するのはやめろと何度も言っているだろう」


 知らなかった。父は、母の決めることに私の前で意見したのを見たことがなかったから。


「だからどうだっていうんです。紀子はいつまでも、私たちの娘ですよ。子供の面倒を見るのは親の責務じゃないですか」


 もうほとんど叫ぶようにして、母が言う。


「お前のその考えが、紀子の自分で考えて決断する力を奪っているというんだ。そのために、佐久間さんところの料理教室に通わせているんだから」


「どうして私から奪うんですか!」


 ひときわ大きな声で母が叫ぶ。怒りのためか、涙も流している。急に母が可哀相に思えてきた。どうしてこの人は、全てが思い通りにいかないと気が済まないのだろう。どうしてこの人は、こんなに子供なままでいられるんだろう。優斗くんの方がもっとしっかりしているように思う。佐久間さんのように諭してくれることもしなければ、渋沢さんのように見守ってくれることもない。どうして、母はこうなってしまったんだろう。

 私が、ずっと言うことを聞いて大人しかったせいだろうか。自分のせいかもしれないと思うといたたまれなくなる。


「それに関根さんは五十も越えて、紀子からは年が離れすぎているじゃないか。お前は本当に紀子のことを考えているのか!」


 父もヒートアップしてきて、声に力が入っていく。

 こんな父と母の姿は見たことがない。

 もうほとんど怒鳴り合いの口喧嘩になっていて、その空気の悪さに心が締め付けられる。逃げ出したい気持ちをぐっとこらえて、父に言った。


「お父さん、今日はお見合い、受けたくない。来てもらうのに申し訳ないけれど、気持ちの整理がつかないの。それにもう一度言うけど、料理は好きだし、あそこで友人もできたの。だから料理教室は辞めたくない」


「わかった。関根さんには父さんから連絡しておくから、紀子は心配するな」


 伝えたいことは言葉にした。父はわかってくれているみたいだけど、母にはやっぱり届いていないようだ。金切り声を上げて、ほとんど何を言っているかわからない。断片的に「私が悪いの?」とか「紀子のためを思って」と何度も繰り返している。

 そんな母の姿を見ていたら、どんどん悲しくなってきてしまった。大きくて、頼れて、大好きだった母は、こんなに脆くて、弱くて、小さかった。


「ちょっと母さんと話をするから、紀子は部屋を出てなさい」


 幾分冷静さを取り戻した父が、私にそう言った。

 私にできることはないのだろう。実際そう思うし、仮面のはがれた母の姿をこれ以上見たくなかった。

 母の姿をちらりと見てから、私はリビングを出た。

 出ると同時におなかが鳴って、空腹なのを思い出してしまった。空腹の虚無感と母に受け入れてもらえなかった悲しさが混ざっていた。

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