第三章
3-1
「皆さんこんにちは。今日も前回の続きをやっていきましょう。」
今日は平田さんたちの刺繍教室だ。長く受講している母の友人たちだから教えることも多くはないのだけれど。
「分からないことがあったら聞いてくださいね」
一応声をかけて窓の外を見やる。庭の楓は葉っぱが全て落ち、枝だけになった姿はひどく寒そうだ。どんよりとした雲が垂れ込めて、今にも雪が降りそうな冷たい空気が窓越しに伝わってくる。が、温かい部屋の中ではどこか他人事のようにも見える。
「お料理教室の方は順調なの? 紀子ちゃん」
「とっても充実した時間を過ごしていますよ。一緒に通っている方たちも面白い人ですし、毎回色々なお料理を覚えられて楽しいですし、次の授業が待ち遠しくて待ち遠しくて」
自分の刺繍の手を止めて平田さんのおしゃべりに応える。楽しいのは本当だった。あの日、平田さんたちに言われなかったら、こんなにワクワクする気持ちを知らないままだっただろう。
「ふふふ。楽しそうな様子がこっちまで伝わってくるわ」
「お料理教室に通い始めてから、紀子ちゃん変わったわよね」
藤島さんと岸上さんも、おしゃべりに参加する。私は岸上さんの小鳥のモチーフをぼんやり眺めていた。
「雰囲気が明るくなったし、このお教室でも前よりも先生らしさが増した感じよね」
「しっかりしたっていうか、ハッキリするようになったっていうか」
「そうそう。たくさん笑うようになったし、こうしておしゃべりもするようになったし」
「自分じゃよくわからないですよ」
苦笑しながら、話を遮った。自分では自分の変化がよく分からない。料理教室に通う前と今とで何かが変わったんだろうか。
「公子さんも安心ね」
「紀子ちゃんは実家を出たことないんでしょう?」
「そうですね。一人暮らしはしたことないです。周りで一人暮らしの友人たちを見ていて、憧れとかはほんの少しありましたけどね」
ポンッと口から出た自分の言葉にびっくりした。一人暮らしの友人たちに憧れていたっけ? 全部自分一人でやらなければならないのは、大変そうだなと思ってはいた。バイトに明け暮れていて忙しそうだし、余裕がなさそうな時だって見ていた。だけど、どこか生き生きとしていたように見えたのも事実だけど、自分がそう思っていたことに今、気がついた。
「公子さんは紀子ちゃんがお料理教室に通うの、すごく心配してたのよ」
「紀子ちゃんのことをすごく大切にしてるものね」
「そうですね。とても、大事にしてもらってます」
母が私のことを大切に思ってくれているのは常々感じていた。私のことを一番に考えて、習い事も、友人関係も、食べるものも、着るものも、全部母が管理していたのだから。
「おしゃべりしていたら、手が止まっていますよ。春までには仕上げる予定ですから、もうちょっとがんばりましょう」
「ついつい夢中になっちゃうのよね」
「そうそう、楽しくてね」
きゃっきゃとはしゃぐ様子は女学生のようで、過ごす時間が楽しくなってくる。
しばらくは黙々と布に針を通し、白いキャンパスに色をのせていく作業が続く。糸が布を通り抜ける音が微かに聞こえ、それをかき消すように外の木枯らしが窓を叩いていく。
料理教室に通い始めて、食事は時々私が作るようになった。その度に母はつまらなそうな顔をしてブツブツと文句を言う。それでも作ったものは全て食べてくれるし、父はとても嬉しそうに食べてくれる。あの最初のカルボナーラに比べたら、私もだいぶ料理に慣れてきた。食材を切るのだって速くなったし、次の工程がイメージできるようになってきた。
ひとつ成功しては、ちょっと失敗して、その次は上手にできて。一歩一歩変わっていく景色が楽しい。
「さあさ、コーヒーが入りましたよ」
母が人数分のコーヒーを持って部屋へ入ってきた。
「あれ? お母さん、私の作ったクッキーあったよね? せっかく作ったのに」
「そんなものお出しできるわけないでしょ。口に合わなかったらどうするの」
そんなものって。レシピ通りに作ったし、食べられないほど不味いなんてことないのに。
「えっ、紀子ちゃんが作ったクッキーがあるの?」
「紀子ちゃんが作ったんだもの、きっと美味しいわ」
「いえいえ、他人様に食べさせられるようなものではないので」
母の顔が強張ってきた。笑顔の下にあるイライラが手に取るように分かる。私が作ったお菓子なんて、母にとっては恥なのだ。とても悲しくなる。
「そんなふうに言わなくても、いいじゃない。喜んでもらえるかと思ったのに」
「ぜひ、食べてみたいわ」
「大丈夫よ。ちゃんとレシピ見ながら作ったんでしょう? 不味いはずがないわよ」
平田さんたちにぐいぐいと背中を押され、かろうじて笑顔を張りつけているだけだった母は部屋を追い出された。本当に持ってきてくれるだろうか。
「公子さんもそろそろ子離れしないとね」
「紀子ちゃんが頑張ってるんだから、応援しないと」
三人はうんうんと頷き合いながら、コーヒーをすする。
私は親離れできているんだろうか。思えば最近、母から文句というか小言というか、ぶつくさ言われることが増えた。以前の私なら、言われたらもうトライせず、母の機嫌を損ねるようなことはしなかったけれど今は違う。
反抗期、というには遅すぎる。母との関係を壊してしまいたいわけじゃないんだけどな。
「お口に合わないと思いますけど……」
母が渋々といった様子で、お皿にクッキーをのせて持ってきてくれた。初めて作ったアイスボックスクッキー。食事の料理とは勝手が違って大変だったけれど、レシピを検索して忠実に作ったものだ。焼き上がった後に自分でも味見をしてみたから大丈夫だと思うけれど、家族以外の口に入るのを見ると緊張する。
「美味しいじゃない!」
「紀子ちゃん、とっても美味しいわよ。お菓子作りも上手なんて、いいお嫁さんになるわ」
「公子さん、心配することないわよ。こんなに美味しいんだから。ほら、公子さんも食べてみて」
平田さんたちが口々に褒めてくれて、くすぐったい。大袈裟なものじゃないのに。喜んでくれて嬉しい気持ちが、私の中で膨らんでいく。頑張って作ってよかった。喜んでもらえてよかった。美味しくできてよかった。
「誰でも作れる簡単なものなんですから、そんなに大袈裟に褒めないでくださいよ」
「またそんなこと言って。ついこの前までお料理したことなかったのに、お菓子まで作れちゃうのはすごいことよ!」
「そうよそうよ、もっと自慢に思っていいわ」
「甘さ控えめでコーヒーに合うわね。紀子ちゃん、すごいわよ」
三人組の褒める言葉は止まらない。母はもう笑顔を張りつけることを止めたようだった。怒っているというより、面白くないという表情。おもちゃを取り上げられた子供のような、つまらなそうに我慢している顔。
「お料理もできるようになって、公子さんも徹さんも鼻が高いんじゃない」
「刺繍も上手で、おしとやかで女性らしくって、紀子ちゃんは本当にできた娘ね」
「公子さんもすぐにお孫さんの顔が見れるかもしれないわよ」
母の冷たい目に気づいているのかいないのか、お構いなしにきゃっきゃうふふと盛り上がっている三人。それを横で見ている私はハラハラして、クッキーが喉につかえてしまいそう。いつか、母のイライラが爆発するんじゃないかと。いつか、母がヒステリックに怒鳴ってしまうんじゃないかと。
「あらやだ、もうこんな時間」
「本当だわ。そろそろお暇しますね」
「公子さん、紀子ちゃん、ごちそうさま。次回も紀子ちゃんが作ったお菓子、楽しみにしてるわね」
ひとしきり騒いだ後、台風のように足早に帰っていった。
「まったく人の気も知らないで好き勝手なことばっかり言って。私の娘なのよ」
冷たさが言葉に乗って、私の心を冷やしていくようだった。吐き捨てるように言うと、足音を立てて階段を上って、ガチャガチャとコーヒーカップを片付けている音が響く。
はぁ。
うんざりして、思わずため息が出てしまった。慌てて口を手でふさぐ。母に対して「うんざりする」なんて感情を抱いたのは初めてだった。母を悪者にしてしまったような気がして、居心地が悪かった。
ガチャガチャという音がキッチンの方へ移動していくのを聞いて、私はそろりそろりと二階へ戻った。
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