2-5
「今日は基本のオムライスです。それではペアに分かれて調理を行ってください」
佐久間さんの淡々とした挨拶にも慣れてきた。オムライス、誰の好きな料理なんだろう。卵が好きなのかな。それともご飯が好きなのかな。
「松井さん、たまには私と組んでくださいよ」
渋沢さんが率先して松井さんのところへ歩み寄った。よかった。これで私は今日は安泰だ。彩香ちゃんと組もうかと後ろを振り返ると、優斗くんと連れ立っていく彩香ちゃんが見えた。
ということは、今日は八神さんとペアになる。この前の松井さんとの会話を思い出すと怖い。
「あ、八神さん、よろしくお願いします」
ビクビクしながら声をかけると、八神さんは私に一瞥をくれただけでスッと調理台の方へと行ってしまった。
こんな状態で協力して調理なんかできるんだろうか。不安しかないけれど、やらないわけにはいかない。愛想笑いを浮かべたまま、後ろをついて準備を始める。
今日の八神さんはクリーム色のシンプルなエプロンをつけていた。さらさらと流れる長い髪の毛をひとつに結んで、若さのある首筋が見える。松井さんよりは年下だと言っていたけれど、何歳くらいなんだろう。
「えっと、八神さんが、具材を切りますか?」
チッと小さく舌打ちが聞こえた気がした。今のは私に向かってしたんだろうか。返事はないけれど用意された食材を切っていく八神さん。返事くらい、してくれてもいいのに。
私はレシピを確認して調理工程を覚えることにした。最後の薄焼き卵で包むところが難しそうだ。カルボナーラの時みたいに失敗したらどうしよう。不安が胸に渦巻いていく。添えられた写真を見ながら、イメージの中で調理を繰り返してみる。
油を引いたフライパンに卵を流し入れる。先に作っていたチキンライスを乗せて、ちょっとずつ返していく。だけどフライパンの重さも、ガスの熱さも、卵の破けやすさも夢の中の出来事みたいで現実味がまるでなかった。
八神さんはもう具材を切り終えようとしている。私は慌ててチキンライスを作る準備を始めた。
「…………」
八神さんは何も言わずに、私のところへ切った具材を置いて、使った包丁やまな板を洗い始めた。
松井さんとペアを組んだ時と比べて、作業が淡々と進んでいく。煩わされる会話もない。でもどこか味気ない。料理を作りに来ているのに、望み通りのことができているのに、この味気無さはどこから来るものだろう。
「ケチャップ、もっと」
分量通りの調味料を入れていると、向かいで洗い物をしている八神さんがぼそぼそと言った。
「でも、そんなに入れたらしょっぱいですよ」
「たくさん入れた方が美味しいでしょ」
この前食べた、彩花ちゃんのグラタンを思い出す。とてもしょっぱかったのは、八神さんが調味料を足していたんだ。
「今日は分量通りに作らせてください。ご自宅で作る時に、好みの味付けに変えてくださいね」
「家で、なんて」
洗い終えた八神さんが隣に来た。
「子供は味覚が敏感だから薄味、旦那も健康を気にして薄味、お義母さんたちも高齢だから薄味。私が作るんだから、ここでくらい私の好きなように味付けさせてよ」
決して大きな声ではないのに、言葉の一つ一つに力がこもっていて、圧倒されてしまう。
「そ、そういうふうに、ご家庭でも言えばいいんじゃないですか?」
「嫁に人権なんてないのよ。いい嫁を演じてるのだって楽じゃないの。ここでくらい、好きにさせてくれたっていいでしょ」
「で、でも……」
そんなに結婚って大変なことなんだろうか。好きな人と一生一緒に添い遂げることに、試練は付き物なんじゃないかな。あとは家のため、家族のためにという大義名分があるのだから、そのくらいは我慢するのが美徳だと思うのだけれど。
「だから、ケチャップ」
そう言って八神さんは勝手にケチャップを足そうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて制して、ほとんど出来上がっているチキンライスを半分だけお皿に移した。
「こっちのは八神さんの分なので、好きにしてください」
フライパンに残ったチキンライスを八神さんに押し付けると、ぶちゅーっとトマトケチャップを大量に絞り出した。見てるだけで口の中に唾液が溜まる。あんなにかけなくたって、きっと美味しいのに。
だけど嬉々としてケチャップをかける八神さんを見ていると、そんな言葉も言えなくなる。
別のフライパンを取り出し、卵を焼いて完成させることにした。何回もイメージトレーニングした、薄焼き卵。表面の水分が飛んできたら自分の分のチキンライスを乗せて、卵で包んでいく……はずだった。
チキンライスを乗せるところまでは良かった。そこから先は悲惨だった。卵が破けてボロボロになってしまった。裂けた卵がみすぼらしい。オムライスの完璧な状態を作ることの大変さが身に染みた。
今日で三回目の料理で、そろそろ慣れて来てもいいのに、私ってこんなに不器用だったのかな。あと何回失敗したら、写真通りの完璧な料理を作ることができるのだろう。
フライパンからお皿に移動させるところで、また形が崩れた。味に変わりはないのだろうけれど、見た目の違いでこんなにも気持ちが落ち込むなんて思ってもみなかった。
「次、八神さんどうぞ」
卵を焼いたフライパンを八神さんに渡す。八神さんは慣れた手つきで、薄焼き卵を作り、その上にケチャップの塊のようなチキンライスを置いていく。簡単そうにフライパンを操りながら、あっという間に完璧な形のオムライスを作ってしまった。
「えっ! 八神さん、すごいです! どうやったんですか?」
思わず話しかけていた。「卵の上にチキンライスをのせ、ひっくり返す」としか書かれていなかったのに。どうして八神さんはやり方がわかったんだろう。それにしてもなんて綺麗なオムライスだろう。チキンライスが卵にしっかりと包まれている。ふっくらとして、とても美味しそうだ。
「子供が、オムライス好きだからよく作るの」
何故か恥ずかしそうに言う八神さん。毎日料理をしていると、簡単にできるようになるのだろうか。マヨネーズを大量にかけて食べている八神さんは、食べ物なんてお腹に入れば全部一緒と思っている人だと思っていた。美しい形に出来上がったオムライスは、非の打ちどころのない完全無欠なオムライスだった。
「すごいですね。私、失敗しちゃって、全然上手く作れなかったのに」
「見た目が完璧でも美味しくなかったら意味ないし」
言いながら、その完璧なオムライスにまたこれでもかとケチャップをかけた。
「どうしてそんなにケチャップとか、マヨネーズが好きなんですか?」
「美味しいから」
条件反射的に返ってきた言葉。美味しいとは思うけれど、美味しいの範囲を超えている量なんだけどな。
「ここって、好きな料理や食材をテーマにレシピを決めてくれるでしょ? 私は、マヨネーズとケチャップって言ったの。そうしたら、こういう調味料をたくさん使う料理にしてくれたのよね」
今日の料理は八神さんのリクエストだったんだ。全然気がつかなかった。好きなものが調味料って言うのも、なんだか変な感じがする。個性的、という言葉からははみ出るような気もするけれど、そういうことにしておこう。
「そうなんですね。出来上がりましたし、席に着きましょう」
促してテーブルへ向かうと、他の人はもう着席して待っていた。
「すみません、遅くなってしまって」
「本当よ。せっかくの料理が冷めちゃうじゃない。モタモタしてるからそんなことになるのよ」
相変わらず松井さんは元気だ。気づかれないようにため息をひとつついて、席に座った。
「みなさん、今日もよくできたようですね。ご家庭でもよく作る料理でしょうから基本のレシピになっています。色々なアレンジを加えて、ぜひご家族に振る舞ってみてください。それではいただきましょう」
佐久間さんの前にはお手本通りの完璧なオムライスが鎮座していた。私たちの調理の様子をいつも眺めているけれど、一体いつの間に作り上げるのだろう。そういえば、今日は私たちの調理台に佐久間さんは来なかった気がする。それなのに、料理教室と言っていいのだろうか。
ボロボロになった自分のオムライスを見下ろす。実食の時に惨めになるのはいい加減に終わりにしたい。一口すくって食べてみれば、素朴なオムライスの味がした。アレンジっていうのは、どうやってしていくものなんだろう。
松井さんと渋沢さんのオムライスはお手本のように完璧に見えた。松井さんは口うるさいけれど、料理が上手だ。渋沢さんだって、あんなにご高齢なのにしっかりとしている。
彩花ちゃんと優斗くんのオムライスはちょっと違っていた。チキンライスの上に、スクランブルエッグがのっている。
「薄焼き卵じゃないの?」
隣の彩花ちゃんに声をかける。
「う、薄焼き卵が上手に焼けなくて。さ、佐久間先生に相談したら、す、スクランブルエッグをのせても可愛いよって、い、言ってくれて、そういうふうにしました」
ちょっと照れた様子で言う彩花ちゃん。確かに年少チームの二人のオムライスは可愛いと表現するのにぴったりの見た目だった。でも、佐久間さんがそんなことを言うなんて意外だった。スパルタという訳じゃないけれど、レシピ通りにやらせるのだと思っていた。
「に、二条さんのオムライス、お、美味しそう」
「え、そうかな。卵、失敗しちゃった」
「フライパンの向こう側からこっちに帰ってくるイメージでフライパンを振ったら上手くいくわよ」
会話を聞いていた渋沢さんがふふふと微笑みながら言う。オムライスくらいだったら、父と母に作ってみてもいいかもしれない。自分の練習にもなるし、どうしてもできなかったらスクランブルエッグにするという逃げ道もある。
「そんなことも知らないの? オムライス食べたことあるならわかりそうなものなのにね」
松井さんが馬鹿にしたように言ってくる。誰かのことを嫌だなとか思うことは、今までなかったのに、松井さんは嫌だなと思う。それに佐久間さんも苦手だ。
だけど、一回目よりも二回目、二回目よりも三回目の今日、料理を楽しいと思うようになってきた。できない分悔しかったり、惨めな気持ちを味わうけれど、自分で作った料理をみんなで食べることが楽しいだなんて知らなかった。
父に感謝しなくちゃ。刺繍教室で結婚の話をされて、それを聞いた父が紹介してくれて、仕方なく通い始めた料理教室。最初は父のためにここに来たけれど、もう既に次回の料理教室を考えてワクワクしている私がいる。それは父のためということだけじゃない。
自分のためにワクワクしているんだ。
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