第二章

2-1

「あの、申し込みをした二条なんですが」


「はい、玄関開いてますのでどうぞ中に」


 インターフォンから聞こえたのは、ハスキーで良く通る女性の声だった。

 今日は料理教室に通う初日。何度も確認してしわくちゃになった地図が、私の手には握られている。目の前には、西洋風のこじんまりとした個人宅。周囲の建売住宅とは違う、個性的な外観。恐る恐る門を開けて、中へ入った。

 父から料理教室を紹介されてから、事前に教えてもらったのは場所の地図と当日の持ち物だけだった。たったそれだけの情報で、当日を迎えるのは初めてだ。

それまでの習い事は、先生の名前からクラスの雰囲気、どんな生徒がいるのかまで、全て母が調べて教えてくれていた。わからないところなんて何もない状態で、万全にして行っていたのに。


「行けば分かる」


 父はその一点張りだった。他に何も話すことはないと、取り付く島もなかった。母はそわそわと、必要な持ち物を出したり仕舞ったりを繰り返しては、イライラとした溜息をついていた。


「こんにちは。よろしくお願いします」


 部屋に入ると、艶やかな美しい黒髪のショートカットの女性と、白髪に輝くショートカットの女性が八人掛けのテーブルに座っていた。

 テーブルの右手には、しっかりと磨き込まれた調理台が四台ある。殺風景とも言える部屋の中の、調理台の存在感に圧倒されてしまう。


「あら、新しい人? またお教室に通うのが楽しくなるわ」


 白髪の方の女性が上品に笑いながら言った。


「私がここの教室で教えている佐久間瞳です。今日は前回授業に出れなかった生徒だけが来るイレギュラーな回ですか、プレということでちょうどいいでしょう」


 佐久間さんはそう言うと、私に座るように促した。ビビットな赤色のジャケットが、なぜだか私を責め立てているように感じる。


「二条紀子です。今日からよろしくお願いします」


 座りながら頭を下げると、白髪の女性が藍染の袖をまくり上げながら、ポットから飲み物を注いで手渡してくれた。ふわりと香る香ばしい匂いに、優しいレンガ色。ほうじ茶だった。


「渋沢和子です。こちらこそ、よろしくね。今日は私と八神さんの二人しかいないのだけれど、普段はあと三人いるんですよ」


 渋沢さんはお茶の他にお菓子も私に手渡しながら言った。まるで田舎のおばあちゃんのような雰囲気だ。

 生徒数は全部で五人。私が入ったことで六人になるそうだ。調理台が四台しかないということは、二人一組で調理をするのだろうか。名前も顔も、どんな人かも知らない人と一緒に作業することができるだろうか。


「今日は一人で全部の調理ができる、贅沢な時間よ。楽しみましょうね」


 調理台に目を向けていた私に、渋沢さんが楽し気に言った。


「……こんにちは」


 ガラリと扉が開き、入ってきたのは私より若い黒髪ロングストレートの女性だった。モノトーンでまとめた服装がなんだか現実味がなく、どこか白々しかった。


「全員揃いましたね。こちらは今日から一緒に授業を受ける、二条紀子さんです。皆さん、よろしくお願いします」


「二条です。よろしくお願いします」


 改めて紹介され、慌てて立ち上がって頭を下げるも、あとから入ってきた女性はこちらを見ようともしなかった。

 この人が、さっき渋沢さんが言っていた八神さんなのだろう。


「それでは早速調理に入りましょう。支度をして、調理台についてください。必要な材料、調理器具などは全て揃っています。レシピも一緒に置いてあるので、その通りに作ってみてください。わからなくなったら声をかけてください」


 佐久間さんの説明を合図に、てきぱきと身支度を整える渋沢さんと八神さん。二人に倣って、エプロンと三角巾を身に纏い、手を洗って調理台へついた。

 台の上には、ベーコン、卵、にんにく、牛乳、チーズ、パスタ、そして各種調味料がきれいに並べられている。他の台を見ても同じように並んでいるので、佐久間さんは几帳面な人なのかもしれない。

 レシピには「カルボナーラ」と書いてある。各工程に一枚一枚写真が添えられ、丁寧に説明がしてあった。これなら初めての私でもなんとかなりそうだ。

 まずはベーコンを切るということだったが、ここで悩んでしまった。ベーコンの大きさは写真でも確認できるのだけど、肝心の包丁が写っていない。包丁立てには、四角いものや、スタンダードな形のもの、細身のもの、大型のものと様々な種類の包丁が刺さっている。一体どれを使ったらいいのだろう。

 ひとまず、ベーコンをまな板の上に乗せてみる。弾力のある薄ピンク色の肉の塊が、堂々と私を見ている。今から小さく切られてしまうとは夢にも思っていないのだろう。

 どの包丁を使うのが正解かわからないので、私の作業は早くも暗礁に乗り上げた。こっそり他の調理台を眺めてみると、二人ともスタンダードな形の包丁を使っているようだ。それを確認して、私もその包丁を抜き出す。

 学生時代の調理実習で触った以来の包丁は、思っていたより手にずっしりときた。恐る恐るベーコンの表面に刃を当てると、ぷつりと肉を断つ感触が微かに伝わってくる。簡単に切れていくベーコンに、軽く感動を覚える。


「左手の指は伸ばしていると怪我の原因になりますから、指を丸めて拳の形で具材を抑えて切ってくださいね」


 通りがかりに佐久間さんが声をかけていく。その声に驚いて、包丁を滑らせる手が止まった。中途半端な位置で止められた包丁は、肉の途中で行き場を失くしていた。

 もう一度気を取り直して切ってみたが、切り口が少し歪んでしまった。残念な気持ちになったけれど、仕方がない。切り終えたベーコンはまな板の上で誇らしげに見えた。続いてにんにくを切り、次の工程に移る。

 お湯を沸かすため鍋を手に取ったが、これもどの鍋を使ったらいいのだろう。大中小と大きさがある。またまた他の台を見てみると、中くらいの鍋を使ってパスタを茹でているようだった。私もそれに倣ってパスタを茹で、あとはメインのフライパンでの調理を残すのみだ。

 だが、レシピに書かれている言葉が難解になってくる。「中火」とはどのくらいの加減なのだろう。「固まってきたら」とはどの程度の固まりを指すのだろう。

 渋沢さんも八神さんも、そういったところは全く質問していない。ということは、知っていて当然の知識なのだ。誰もがわかっていて当たり前のことを、今さら聞くなんて恥ずかしくてできない。でも、知らないままでは調理工程に入って行くことができない。

 そういうことは全部最初に教えてくれればいいのに。教えてくれさえすれば、私だってできるのに。

 何度も何度もレシピを読み返すけれど、中火の意味も固まってきたらの程度もわかるはずがなかった。


「二条さん、どうしましたか」


 突っ立っているだけの私を見て、佐久間さんが声をかけてくれた。


「えと、あの。手順を覚えようと思って、レシピを読んでいました」


「そうですか。二条さんは料理は初めてだと伺っていますので、わからないところがあったら遠慮なく聞いてくださいね」


 佐久間さんはそう言うと、私のそばを離れていった。

 察して教えてくれたらいいのに。恨めしく佐久間さんの背中を見ていたけど、全然気付く気配はなさそうだった。

 仕方なく、また他の人の調理の様子を見てみる。だけどもうほとんど出来上がっていて、参考にできることがなかった。

 失敗するのは嫌だった。でも、みんなが知っていることを聞くのも嫌だった。

 意味はわからないままで、レシピに書かれていることを実行してみた。心臓が痛いくらいに跳ねて、これでいいの?間違ったことをしていない?笑われたらどうしよう、と不安な言葉が頭の中を駆け巡っている。

 止まっているわけにもいかず、次から次へと手順を実行していく。

 フライパンからお皿に盛り付けたが、ところどころ、ソースの塊ができて美味しそうとは言えない出来だ。とても惨めな気持ちになる。

 ふと顔を上げると、もう他の二人はテーブルについていた。

 私も慌てて不恰好なカルボナーラを手にしてテーブルへと急いだ。


「二条さん、お疲れ様」


 渋沢さんが声をかけてくれて、またほうじ茶を差し出してくれた。


「みなさん、よくできたようですね。今日のレシピも差し上げますので、ぜひご家庭でも作ってみてください。それではいただきましょう」


 佐久間さんが簡単な挨拶をすると食事が始まった。

 私のお皿にはぼそぼそのソースが絡まったカルボナーラ。渋沢さんも、八神さんもお手本のようなカルボナーラがお皿に乗っていて、とても恥ずかしい。

 一口、口に運んでみると見た目通りぼそぼそとした食感が気になった。でも味の方は問題がなく、これを自分一人で作ったと思うとなんだか感動してしまった。よくできた、なんてとてもじゃないけど言えない出来。だけど、がんばった味がする。一人でやりきった味がする。


「美味しいわね」


 渋沢さんがニコニコ顔でおしゃべりをしている。綺麗にパスタを巻いて、口へ運ぶ様子が上品で見とれてしまう。


「美味しい、です」


 私もなんとなく返事をする。


「二条さんは少し火加減が強かったようですね。次回はもう少し弱火にすると、ダマにならずにソースを絡められると思いますよ」


 佐久間さんが私のカルボナーラを見ながら言った。

 カッと顔に血が上る。みっともないって言われているようで恥ずかしい。


「そこの火加減、難しかったもの。次はきっと成功しますよ」


 渋沢さんがフォローしてくれるけど、恥ずかしさが増しただけだった。もう早く食べて、なくしてしまおう。


「八神さん、マヨネーズはそのくらいにしてください」


 大急ぎでパスタを口に運んでいると、佐久間さんが八神さんを注意している声が聞こえた。

 ほうじ茶で流し込みながら八神さんのお皿を見ると、そこには山盛りになったマヨネーズ。お手本通りに作られた完璧なカルボナーラは見えなくなって、大量のマヨネーズが山を作っていた。


「えっ」


 びっくりして思わず声が出てしまう。


「……この方が美味しいの。文句、ある?」


 ギロリと睨まれてしまった。蛇みたいに鋭く冷たい眼差しに、足がすくんだ。びっくりして声を出しただけなのに。

 八神さんは私から視線を外すと、パスタを食べ始めた。あれはもう、マヨネーズを食べているんじゃないだろうか。カルボナーラの味なんて、するんだろうか。見ているだけで、胸焼けがしそうだ。


「八神さんね、マヨネーズとか、ケチャップとかが大好きなのよ。ちょっと変わってるけど、悪い人じゃないから」


 渋沢さんがこそこそと私に耳打ちしてきた。

 八神さんみたいな人をきっと偏食というのだろう。今まで見たことのない食べ方に面食らってしまったが、本人が好きならそれでいいのかもしれない。


「ねえ、二条さんはどうしてお料理教室に通おうと思ったの?」


 食事もほとんど終えた頃、渋沢さんがワクワクとした様子で私に聞いてきた。渋沢さんという人は、表情が豊かで本当にこのお料理教室を楽しみにしている様子が伝わって来る。私が来た時も、自己紹介の時も、料理中も、今も、とても楽しそうで、見ているこっちまでウキウキとしてくるような、そんな感じだ。


「あ、はい。そろそろ、結婚した方がいいんじゃないかって言われて。でも、結婚ってどうしていいかわからないので、ひとまず花嫁修行した方がいいんじゃないか、と。それで、父が勧めてくれたこちらの教室に通うことになったんです」


 私が答えると渋沢さんは、複雑な表情を見せた。


「そ、そう」


 戸惑っている、というふうに見えた。何か困らせることでも言ってしまったんだろうか。今日一番よくしてくれた人に、失礼なことを言ってしまったのか。もしかして、渋沢さんが結婚していない人だから、気にしているとかなのかもしれない。


「今時、花嫁修行に料理教室なんて時代錯誤もいいところですね。しかも自らが望んだのではなく父親に言われて、だなんて。自分の意思はないんですか?」


 佐久間さんがぴしゃりと言った。

 両親の意向に沿うことの何が悪いというのだろう。料理教室に通う理由だって、家庭料理を美味しく作るためなのだから、未婚の私は花嫁修行と言ったっていいはず。ただそれだけのことを、どうして厳しく言われなければならないのだろう。


「二条さんは好きな食べ物とかあるかしら? ここではみんなの好きな食べ物からレシピを決めてくださるの。今日は私の大好物、パスタの回だったのよ」


「好きな食べ物……」


 渋沢さんが違う話題をくれたものの、好きな食べ物と突然聞かれても困ってしまう。食卓に並ぶ料理は、すべて母が決めていたから好きとか嫌いの話ではなかった。母がせっかく選んでくれたのだから、食べなければいけないもの。

 学生の時だって「私らしい」食べ物を、友人たちが選んでくれていた。不味いものではなかったし、それが周囲の思う私のイメージなのだとしたらそれを守らなければならなかったから、不満もなかった。

 結婚したら、食事は私がすべて考えて決めなければならないのだろうか。旦那さんになる人が、全部決めてくれた方が楽だろうな。それとも、母に一週間分の献立を決めてもらうのはどうだろう。きっと栄養バランスや和洋中のバランスも考えて決めてくれるに違いない。


「特に、ありません」


「そう……。ここに通いながら、何が好きか、自分を発見していくのも、いいわね」


 渋沢さんは考え考え、答えた。

 気まずそうに微笑む渋沢さんの表情が私には不思議だった。

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