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ガサガサと揺れる紙袋が歩きにくい。おろしたてのパンプスも、足に合わずに靴擦れを起こしている。スマホを取り出している時間がもどかしいのに、さっきからカバンの中で延々と鳴り続ける着信音。
無視できないくらい、こんなに長くかけてくるのは、多分母だ。呼び出し音が長いか短いかに限らず、私に電話してくるのは母くらいのものだけど。
上がった息を整えるためにも、仕方なく一度立ち止まってスマホを取り出した。
「もしも」
「紀子!? どこにいるの!? もう平田さんたち来てるわよ!」
通話口からこれでもかという音量で聞こえてくる母の声。腕時計に目をやると、まだ十二時三十六分だった。
「今、駅まで来たから、平田さんたちには、待っててもらって」
「そんなこと言って、あなたまだお昼も食べてないでしょ? どうする? 今日はお休みにしちゃったら? 平田さんたちになら、お母さんがそう言ってあげるから」
「待って、待ってて、時間には、帰れるから」
ぜいぜいと上がってくる息を抑えながら、母を説得するのはとても難しかったので、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら電話を切ってしまった。きっと今頃、慌てて平田さんたちにコーヒーを淹れているに違いない。
授業の後に行く買い物を、午前中に済ませることにした今日。こんなに苦しい思いをするなんて思ってもみなかった。コンテストに出品するための刺繍に、時間を多く割きたかっただけなのに。
刺繍に使うフープや糸や布地が入った紙袋を持ち直して、痛む足を引きずりながら足早に家を目指した。平日とはいえ、お昼時の商店街は活気に溢れている。大きな紙袋がぶつからないように注意しながら、できるだけ急いで歩いた。
「あっ、すみません!」
前から歩いて来たカップルらしき二人組の、男性の方へ紙袋がぶつかってしまった。角のあるものや、たいした重さのある荷物ではないので痛くはなかったと思うけれど、申し訳ない。
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
時間のなさと、ぶつかった申し訳なさであたふたとする私に、にっこりと会釈して歩き去って行った。穏やかで、素敵な人だ。
学生時代ですら、私に彼氏と呼べるような存在なんていなかった。かわいい、美人だと言ってくれる友人は多かったけれど、男の子のことは何も分からない。憧れの先輩はいたものの、アイドルに抱くそれとよく似ていた。みんなどうやって人を好きになって、誰かと一緒になるのだろう。
最近母から結婚の話題を聞かされているせいか、そんなことが気になってくる。彼氏と呼べる人がいなくたって、友人同士で楽しく過ごすことができたし、気心の知れた人と一緒に過ごす方が居心地が良かったのに。今まで考えもしなかったことが脳内にチラついて、どうしていいかわからなくなる。
そのうち、私にもそういったことが降りかかってくるんだろう。そう漠然と考えていたけれど、チャンスは来なかった。来なかったからと言って、どうということもないのだけれど、母の口ぶりからして三十を超えたら焦るのがふつうみたいだ。体験したことのないことを、どう焦ったり、危機感を持ったらいいのかまるでわからない。けれど、街行く人たちの中で同年代に見える女性が子供を連れていると不思議な気持ちにはなる。
私に子供ができた姿を想像してみる。でも隣に立つ男性さえも思い描けない私が、子供なんてやっぱり無理な話なわけで。
余計なことを考えていたら、いつの間にか家の前だった。気がつかないうちに息も整って、今では靴擦れの痛みだけが私を悩ませる種。
「ただいま戻りました」
玄関を開け、リビングの扉を開ける。正面にある時計の針は十二時五十七分。一時からの授業にはギリギリ間に合った計算だ。良かった。
「お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした。では早速、授業の方に」
「遅かったじゃない。今、平田さんたちをお見送りしようかと思っていたところよ」
私の声を遮るように、母が言う。
「それにお昼もまだ食べてないじゃない。そんなんじゃ、お腹がすいてしまうわ」
「あら、お昼ご飯食べてからでいいわよ」
「そうよ、私たちは時間があるから待っているのだって全然平気だし」
「それにちゃんと教えてもらいたいから、紀子ちゃんにはしっかりご飯を食べてもらわないと」
母と三人組の連係プレーに、私は何も言えなくなってしまった。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
私の返答も待たずに、母がテーブルの上にお弁当とお茶を用意した。そっと蓋を開けてみると、幕の内弁当だった。様々な種類のおかずが並んで私に食べられるのを待っている。
「ゆっくりで、大丈夫だからね」
「早食いは消化に悪いもの」
「……いただきます」
おしゃべりな四人の話題の中心から早く逃れたかった私は、急いで箸に手をつけて食べ始めた。水っぽさの増したご飯、パサつき始めたシャケ、いくらか萎んだ卵焼き。お弁当というのは、時間が経っても美味しく食べられるように工夫してあるけど、出来立てと比べるとどうしても劣った部分に目が行ってしまう。不味いというほどでもないのだけど、どうせだったら美味しいうちに食べたいと思う。
食事の時間も、食事の内容も母が決めるから私が口を挟める余地なんてない。それに普段は、美味しい状態で食べることができる。今日だけがイレギュラーなのだ。
「そうそう、金森さんの娘さん、戻って来たらしいわね」
「私も聞いたわ。お子さん、向こうのご家庭に置いて来たんですって?」
「戻ってきちゃうのも嫌だけど、お嫁に行かないのも大変よね」
「荒井さんとこの娘さんでしょう? フリーターで、三十も近いのに大丈夫なのかしら」
先週母が言っていたこと、そのままだった。何度も同じ話題で飽きたりしないのかな。
「三十と言えば、紀子ちゃんは?」
えっ、と顔を上げると三人組の目が爛々と光ってこっちを見ていた。ご飯を中途半端な高さで持ち上げたまま、好奇の目の中で固まってしまった。
「紀子ちゃん、三十二でしょう? そろそろ、いいんじゃないかしら」
「田中さんとこの息子さん、三十五くらいだったかしら。しっかりしたところに勤めていて、結婚相手を探しているそうよ」
「紀子ちゃんなら、誰に紹介しても鼻が高いわ。ねぇ公子さん、考えてないの?」
矢継ぎ早に聞かれる質問に、頭がぐるんぐるんと振り回されるような感覚になる。
「紀子はいいんですよ。今は刺繍のお教室だって忙しいですし」
「結婚しても、刺繍のお教室なら続けられるじゃない」
「紀子ちゃん、お料理とかお掃除とかは得意?」
「手先が器用なんですもの、きっといいお母さんになるわよ」
母が割って入るものの、三人組の勢いが衰えることはない。私が、結婚? 男性と一度もお付き合いしたことがないのに?
勝手に盛り上がる三人組に母が応戦しているけれど、劣勢は目に見えている。
「ごちそうさまでした。ゆっくり食事を摂らせていただいて、ありがとうございました。お時間も過ぎてしまっているので、授業を始めたいのですが」
急いでお弁当をかき込んで、立ち上がりざま、四人に向かって言った。
「あら、ほんと。もうこんな時間。おしゃべりしていると時間が過ぎるのは早いわね」
「たくさんおしゃべりしちゃってごめんなさいね」
「公子さん、コーヒーごちそうさま」
ぞろぞろと連れ立って、部屋へと入る。
「今日も前回の続きで、やっていきましょう」
「それより、紀子ちゃん。本当に結婚とか考えてないの?」
「そうよ、三十超えたら時間なんてどんどん早く過ぎていくんだし、幸せは急いで掴まないと」
「お料理教室とかに通うのはどうかしら? 自分から動かないとダメよ」
「ええ、まぁ……。考えてみますね」
私がそう答えると、三人組はやっと満足したのか別の話題に移っていった。
料理は学生時代に調理実習を経験した程度。結婚だって全然実感が湧かないけれど、教室に通ったりして準備や努力をしないといけないのかもしれない。
私はなんにも変わっていないのにな。なおも楽しそうに話している三人組だけが、充実した時間を過ごしていた。
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