はじめましての料理教室

あるむ

第一章

1-1

「紀子、授業の準備は済んだの?刺繍糸ある?足らないものはないかしら」


 毎週木曜日、授業のたびに母は心配を膨らませて私に聞く。

 自宅の一室を改装した部屋には、刺繍をあしらった小物で溢れている。ポストカードサイズの刺繍から、窓を飾るカーテンの裾、ソファカバーにも、全て私が施したデザインが縫い付けられている。

 窓の外ではもの寂しさを孕んだ風が、庭の楓の葉をかすめとっていく。ちらりちらりと朱色が舞っている様子が、季節を感じさせる。


「大丈夫だよ」


 楓の朱を見ながら、義務付けられたように言葉を返す私。


「この前は糸が足らなくなっちゃったって言ってたじゃない?本当に大丈夫?確認したの?」


 なおも食い下がる母をなだめるのは一苦労だ。

 物心ついた時から、母が私の全てを管理していた。洋服を選ぶことも、食事の内容も、付き合う友人も。それが当たり前だった私は、疑問に思うことも、不自由に感じることも、不満に思うこともなく大人になった。

 この刺繍教室がその最たるものだ。

 就活という二文字が学生の心を支配する時期、私も御多分に漏れず、せっせとエントリーシートを書いては、リクルートスーツに身を包み、面接会場へと足を運んでいた。友人たちと顔を合わせれば、やれエントリーシートが、とか、集団面接がどうの、と、愚痴をこぼしながら、そんな時間もほんのちょっぴり楽しみつつ大人になるための準備をしていた。

 そんな時、母が言ったのだ。


「紀子の良さを分からないような会社には入社しなくていい」


 と。

 果たして、その言葉通りになった。私はいい結果をひとつも得ることができなかったのだ。

 だから言ったでしょ、と言わんばかりの母の顔は、どこか嬉しそうだったのをぼんやりと覚えている。私のことを気遣って、一緒に残念がってはくれたけれど、自分の言った通りだったことに対して満足げな様子だった。

 友人たちが次々に進路を決め、一人また一人と未来へ歩んでいく中、私は母の提案に乗って自宅で刺繍教室を開くことにしたのだ。この刺繍は、幼い頃に母に言われて習い始めた。ちまちまとした作業から大きな作品が出来上がった時は感動したし、針と糸と布を見ている間は誰の声も届かない静かな場所にいられるので心が安らいだから、多分どちらかというと好きなことなんだろう。

 卒業してから数年くらいは、満員電車がつらいとか、うるさい上司がいるとか、そんな話で盛り上がるくらいには交流があった。だけど私は母に紹介された生徒さんたちを相手に、刺繍を教える月賦式の教室の先生。社会人になった友人たちの会話に入ることなんてできるはずもなく、薄ぼんやりと話を聞いているだけだった。

 段々と社会というものに慣れていった友人たちは、徐々に疎遠になっていった。大人になるっていうのは、そういうことなのかなと思った私は、わざわざ連絡をすることもなくなった。友人の一人が結婚をしたとの報告を連絡を受けたのが、三年前。それっきり、仲良しグループの連絡は途絶えている。


「こんにちは、今日もよろしくお願いします」


 平田さんたち生徒がいつの間にか来ていたようだ。母と同い年の仲良し三人組。刺繍のお教室を始めるにあたって、教えるべき生徒が居なければお話にならない。いち早く手を上げてくれたのが、平田さん、藤島さん、岸田さんの三人だった。他の生徒さんたちが一年でどんどん変わっていく中、この三人の生徒さんだけは変わらず通い続けてくれている。


「よろしくお願いします。今日は前回の続きですね。分からないところがあれば、遠慮なく聞いてください」


「やだ紀子ちゃんったら。そんなに畏まらなくていいって言うのに」


「もう長い付き合いじゃないの」


「私たちの腕も上がったし、紀子ちゃんはのんびりしてて」


 そう言うと三人組はそれぞれの定位置に腰を下ろし、ぺちゃくちゃとおしゃべりを始めた。雑踏の喧騒のようなそれは、途切れることも、話題が尽きることもなく、授業が終わるまでずっと続いていく。


「この前の平田さんが教えてくれたコーヒーショップ行ったわよ」


「本当?どうだった?こだわりが見える店内でしょう?」


「香りも本当に良くて、良いところを教えてもらったわ」


「そのコーヒーショップ、カフェも経営してたわね。私はカフェの方は行ったことがあるんだけど、そっちも素敵な場所よ」


 どこかに出かけた話か、誰かの噂話が中心で、どうして毎週毎週こんなにたくさん話すことがあるのだろう。

 刺繍教室があってもなくても、私の一日は変わり映えがない。平凡でのんびりとした日々。話題という話題がなくたって、平和的で、誰かに煩わされることも、心を乱されることもなく過ごせて、快適な毎日を送っている。

 三人のおしゃべりが始まると、私は手持ち無沙汰になる。三人とも数年ここに通い続けてきたから、それなりに技術を持っているし、私が会話に加わったところでどうにもならない。だから私は、影のように息をひそめるのだ。

 窓枠にもたれかかって外の景色を見ながら、次の刺繍のデザイン案を考える。楓の朱色が綺麗だから、あの色を題材に紅葉した葉っぱでも描こうかな。

 刺繍教室を始めた頃から本格的にコンテストに出品し始めた。母に「刺繍教室に箔をつけるためにもコンテストに出場してはどうか」とアドバイスをもらったからだ。今まで大小さまざまなコンテストに申し込んではみたものの、毎回入選すらしなかった。

 そりゃ、独創性やオリジナリティには欠けるかもしれないけれど、ひと針ひと針丁寧に仕上げて、美しく仕上がるように骨身を削っているというのに。賞を獲る人はいつも決まっていて、それは素晴らしい出来の作品もあることはあるけれど、中には「これが?」と思うものだってある。そんなものを目にする度、私だってと思うのだけど。


「もうそんなコンテストなんかに出さなくたっていいじゃない。なんで競う必要があるの?」


 母は私の落胆した様子を見る度にそう言うのだ。自分が言ったことだというのをすっかり忘れて。

 私のことで思い通りにならないことが、母にはきっと耐えられないのだと思う。

 それもこれも、私が一人っ子なせい。

 母は婚前、子供が嫌いだったらしい。「らしい」というのは、周りから聞いた話を総合すると、ということになるから。

 母は自分の美貌を世界一だと思っていた。誰からもチヤホヤともてはやされ、苦労というものをしたことがなかった。唯一、子供という存在だけは母の美貌も通用せず、友人たちの子供などにイライラすることが多かったのだという。

 実際とても美しい女性であるのは間違いない。だけど、世界一かと言われると、疑問ではある。

 私が物心ついた時から、母は着飾っていて、同級生や他のお母さんと呼ばれる人たちとはまるで違っていた。専業主婦なのに家庭じみた家事を何よりも嫌って、特に料理を全くしなかった。主婦というより、年の離れた姉という雰囲気が似合う人だった。

 小学生くらいだったろうか。当時仲の良かったカナコちゃんの家に遊びに行った時、お母さんという存在のあまりの違いにびっくりしてしまった。カナコちゃんの家は兄弟が多くて、いつも賑やかだった。まずそこから、一人っ子の私とは全然違った。泣いたり笑ったりケンカしたりと、忙しい声が耳に絶えず入ってきて、テレビの音も、ゲームの音も全部が同じ大きさでわんわんと鳴っている。静かにしていれば、時計の秒針がカチコチいう音や、外で誰かが話す声が聞こえるような我が家とはまるで違う。

 それにカナコちゃんのお母さんはお化粧をしていないし、髪だってボサボサのまんまだった。いつもくたびれた洋服を着ていて、妙に真新しいエプロンだけが浮いていた。「こら、ケンカしないの!」と大きな声で怒ったり、「よくできたね」と大袈裟に褒めてくれる姿も、私の母にはないものだった。

 一番の違いはなんといっても、カナコちゃんのお母さんは料理をするのだった。作ってくれたご飯やお菓子はとても美味しかった。

 私の家では、ご飯もお菓子もお金を払って食べるものだった。どこのお店のなにが美味しい、というのも母が決めるから、私は出されたものが美味しいものだと疑いもせず食べて来た。

 カナコちゃんの家では名前のついていない料理がたくさんあった。野菜炒めのようなもの、チャーハンのようなもの、オムライスのようなもの。全部、私が知っている料理とはまるで違う見た目なのに、美味しい味だった。こんなご飯を毎日食べられるカナコちゃんが、少しだけ羨ましかった。

 そうして歳を重ねるにつれ、世のお母さんと私の母は「母」と言えども全く別の生き物だということを思い知らされた。一つ、お母さんが着飾るのはお出かけする時だけ。一つ、お母さんは毎日家事をしている。一つ、お母さんはウザいから反抗するのが子供というもの。一つ、お母さんのことをババアと呼ぶ時期がある、などなど。

 私の母が、世の中のお母さんと違っていても、変だとは思わなかった。同級生たちには羨ましがられる姿だったのもあるし、何より母の言うことは正しかったから。一生懸命愛してくれる母のことをババアなんて呼びたくもなかったし、母にとってよりよい娘でいたかったのだ。

 そんな母に「コンテストに無理に出品する必要はない」と落選する度に言われると、もう諦めようかなという気持ちがどんどん大きくなっていく。準備も労力も膨大だし、努力が報われないのは苦しい。だけど、コンテストに出品しなくなったら、やることがない。これから先、平坦な日常を私はどうやって過ごしたらいいのだろう。


「さあさ、コーヒーが入りましたよ」


 母がトレーに乗せて、コーヒーを五つ運んで来た。授業は二時間のコースなのだけど、そのうち一時間は母も交えたおしゃべりタイムに変わってしまう。手元を見続けて細かい作業をするから、集中力が必要だし休憩も大切。そう言って母が休憩時間になるとコーヒーを淹れてくれるようになったけど、実質の授業時間は半分になってしまった。

 それでも不平不満を言う生徒さんがいないのだから、きっとそのくらいでちょうどいいのだろう。


「いい匂いね」


「どこのコーヒーかしら」


「この前、駅前に新しくできたカフェのものよ」


「あの行列がすごかったところ?さすが公子さんね」


 私もカップを一つ手に取り、香りを確かめる。口に含めばスッキリとした苦みと、あとから爽やかな酸味が追いかけてきた。

 生徒と母がおしゃべりに興じている間、私は自分の刺繍を黙々と進めることにしている。母が話題の中心になって、それぞれを気遣いながら楽しくおしゃべりをしているから、私は何もすることがないのだ。時々刺繍に関する質問が飛んでくるけど、考えているうちに次の話題に移っていく。聞くともなしに会話を耳に入れながら、色とりどりの刺繍糸を想像の通りに刺していく時間。


「それじゃあ、そろそろお暇しますね」


 平田さんの声で、ハッと我に返る。チェストに乗った時計に目をやれば、午後二時五十四分。もうそんなに時間が経っていたなんて。


「あらあら、もうこんな時間なのね。皆さんとおしゃべりするのが楽しくて、時間があっという間だわ」


 キリが良いところまで刺しておきたかったけど、そうもいかない。残念そうに言う母に続いて、玄関先まで三人組を見送りに行った。


「では、また来週お待ちしてますね」


「楽しかったわ」


「来週も楽しみに来ますね」


「ごきげんよう」


 弾んだ声で会話をしながら、三人組はくるりと背を向けて帰って行った。その足取りは軽く、充実していることが見て取れた。


「私たちも休憩しましょうか」


 三人組が角を曲がって見えなくなると、母が私にそうつぶやいた。


「今日はなんのケーキ?」


 授業の後は甘い物と決まっている。だいたいは近くのケーキ屋さんなどの生菓子を母が用意しておいてくれる。授業をがんばったあとに食べる甘い物は格別だった。


「今日はぶどうのタルトよ。今が旬だものね」


 まあるいお皿に乗って出てきたのは、緑と青のコントラストが美しいぶどうのタルトだった。瑞々しい色と真っ白な生クリームがお互いを引き立て合っていて、宝石のように見える。

 フォークでぶどうを刺してみると、ぷつりと弾力のある果肉から果汁が溢れ出た。口に入れれば、シャキシャキとした皮の食感が小気味いい音を立てる。ぶどうの酸味は生クリームの甘さが覆い隠してくれる。

 そこに母が淹れ直してくれたコーヒーを口に含む。授業が終わった合図が私の心に染みわたっていく。


「ねえ、金森さんのところの娘さん、名前なんだったっけ?あの子、離婚して帰って来たらしいわよ」


「そうなんだ」


「しかもお子さんも、相手方のおうちに置いて来たんですって。子供が可愛くないのかしらね」


「どうなんだろうね」


「そうそう、荒井さんのところの娘さんね、二十八にもなるっていうのに定職に就かず、結婚相手も見つけないで、フラフラしているみたいよ」


「私より、若いじゃない」


「紀子は美人だし、働いてるんだから気にすることないわよ」


 耳に流れ込んでくる噂話も、授業が終わったことを告げる合図だ。

 さっきまでしゃべっていたにも関わらず、母のおしゃべりは止まらない。勢いは衰えることなく滝のように言葉が母から噴き出し、私はその洪水に巻き込まれる。くたびれてしまうこともあるけれど、生徒が帰ってしまうと母の相手は私しかいないのだから仕方がない。

 ここ最近、母の口から結婚というワードを多く聞くようになった気がする。どこそこの誰々さんが結婚したとか、離婚したとか、子供が生まれたとか。ふと気がつけばそんな話題ばかりになっていた。


「私も、そろそろ結婚した方がいいのかな」


 恐る恐る母に聞いてみる。


「そんなこと、紀子が気にする必要なんてないわ。紀子と釣り合う男性なんてそうそういない、この世の中がどうかしているのよ。もし結婚する時は、お嫁に行くんじゃなくて、お婿さんを取りましょう。その方がお母さん、安心だわ」


 早口で返ってきた母の言葉。

 もやもやとした気持ちは残るけど、母が気にするなと言うのだからそうなんだろう。

 ふう、と溜息をついて、残りのぶどうタルトを食べることにした。

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