第6話 大武丸

 9月2日

 高村山荘に一馬はやって来た。岩手県花巻市にある彫刻家・詩人の高村光太郎の旧居だ。旧居と、高村記念館を含めた一帯の名称として用いられることもある。一般財団法人・花巻高村光太郎記念会が管理する。 

 

 高村光太郎

 1883年(明治16年)に彫刻家の高村光雲の長男として生まれ、練塀小学校(現在の台東区立平成小学校)に入学。1896年(明治29年)3月、下谷高等小学校卒業。同年4月、共立美術学館予備科に学期の途中から入学し、翌年8月、共立美術学館予備科卒業。


 1897年(明治30年)9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。1902年(明治35年)に彫刻科を卒業し研究科に進むが、1905年(明治38年)に西洋画科に移った。父・高村光雲から留学資金2000円を得て、1906年(明治39年)3月よりニューヨークに1年間2ヶ月、ロンドンに1年間1ヶ月、その後パリに1年滞在し、1909年(明治42年)6月に帰国。アメリカでは、繁華なニューヨークの厳しい生活の中で「どう食を求めて、どう勉強したらいいのか、まるで解らなかった」と不安で悩んでいる時に、運良くメトロポリタン美術館で彫刻家ガットソン・ボーグラムの作品に出会う。感動した光太郎は熱心な手紙を書き、薄給ではあったが彼の助手にしてもらった。このようにして昼は働き夜はアート・スチューデンツ・リーグの夜学に通って学んだ[3]。世界を観て帰国した光太郎は旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。また、同年、神田淡路町に日本初の画廊「瑯玕洞」を開店する。


 1912年(明治45年)、駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。1914年(大正3年)10月15日に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1916年(大正5年)、塑像「今井邦子像」制作(未完成)。この頃ブロンズ塑像「裸婦裸像」制作。1918年(大正7年)、ブロンズ塑像「手」制作。1926年(大正15年)、木彫「なまず」制作。1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、その後1941年(昭和16年)8月20日に詩集『智恵子抄』を出版した。


 智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表し、日本文学報国会詩部会長も務めた。歩くうた等の歌謡曲の作詞も行った。1942年(昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞。1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし、同年8月には宮沢家も花巻空襲で被災し、辛うじて助かる。


 1945年8月17日、「一億の号泣」を『朝日新聞』に発表。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。


 1950年(昭和25年)、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。翌年に第2回読売文学賞を受賞。1952年(昭和27年)、青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作。この像は「乙女の像」として翌年完成した。


 1956年(昭和31年)4月2日3時40分、自宅アトリエにて肺結核のために死去した。73歳没。


 山荘を出て、コンビニでザ・テレビジョンを立ち読みした。 

 今月末で『ザ・ベストテン』が終わる。

 レンタカーに乗って山奥に向かった。

 たくさんの廃車が積まれているところに一式は立っていた。

「スクラップ工場か」

 一馬は呟いた。

 一式は麻薬中毒者だった。一馬はギャングに入っていた。ギャングのボスはあのピエロだ。

 一馬はアタッシュケースを持って、車を降りた。

「若狭君だっけか?悪いねぇ」

 カラスがギャアギャア鳴いている。

 一馬はアタッシュケースを開けた。中に入っていたのはクスリじゃなく、ニューナンブだった。

「どーゆーつもりだ……?」

「悪く思うなよ?」

 パンッ!💥

 一式の白いYシャツが血で真っ赤に染まった。

 🌀タイムスリップまであと1人


 一馬は岩手県内の雫石町にやって来た。

 大武丸って伝説が残されている。

 岩手山やその周辺に伝わる田村丸伝説では、岩手山の山頂にある鬼ヶ城に棲んだ鬼が大武丸であり、岩手山にはのちに神として田村丸が岩鷲大夫権現(岩鷲山大権現)として現れ、烏帽子岳(乳頭山)には田村丸の妻である立烏帽子神女が、姫神山には2人の娘である松林姫が現れたという。


 中世の岩手山は鎌倉御家人・工藤氏の流れを汲む栗谷川氏(厨川氏)が大司祭となって祭礼が行われていた。『岩手山記』に掲載された「陸奥州岩手郡岩鷲山縁起」には、田村丸の鬼人退治と源家の安倍征討が語られる。この縁起は出所不明だが、南部氏に関する事績が見えないため、内容は古態を残していると推測される。往古から代々祭事を司っていた工藤・斎藤家の手による岩手山の縁起で、栗谷川如行の名前が見えることから慶長以降の江戸時代初期に古記録から如行が転写したものとみられる。


『田村三代記』や『三代田村』と異なる物語で「平城天皇の時代、坂の上刈田丸が勅命で奥州霧山嶽へ大道連勝高を討伐に向かうが敗れて、岩手郡池田の庄田村で生玉姫と契る。苅田丸は観音の力により大道連勝高を退治する。生玉は田村丸を生む。田村丸は鳥海山の三郎坊から剣術を習い、長じて田村将軍利光となり、弟の千歳と共に奥州谷嶽の悪郎高光の兄弟を退治した」と語られる。

  

 雫石は温泉やスキー場、小岩井農場を擁するなど、観光に力を注いでいる町である。

 氷期の石器が発見されるなど、その歴史は古い。町内各地の遺跡から先史時代にはすでに人々が定着していた形跡がある。大和朝廷の勢力が雫石地域に至り開拓の手が伸びたのは、延暦20年(801年)の坂上田村麻呂の頃であった。


 滴石地域一帯に住む鬼の長(先住民の酋長)、大武丸おおたけまるを雫石の西根地域の中野村に兵を集めて田村麻呂がこれを攻め滅ぼした、と「巌鷲山縁記」に記載がある。中央が藤原氏の専制で地方政治の統制がゆるみ、安倍氏などの辺境在住勢力が台頭するにいたる。


 安倍頼良の六男安倍重任が滴石に在住したが、康平5年(1062年)に安倍氏が衣川柵、厨川柵で敗れると9月17日には戦死した。前九年の役後、清原武則が鎮守府将軍として安倍氏の旧領をほぼ制圧するが、清原一族の内乱から国司源義家の参加した後三年の役が寛治元年(1087年)に起こり清原氏は滅亡、藤原清衡が清原氏の支配地を継承した。


 1189年、源頼朝が平泉の奥州藤原氏を滅亡させると、岩手西部を1189年に常陸相馬の平衡盛(戸澤氏)に与えた雫石地域もそのとき支配下となる。


 南北朝争乱の時代に南部氏、河村氏、和賀氏、葛西氏とともに南朝の北畠顕信に属し、激しく足利方と対立する。南北朝時代には雫石地域は斯波氏と戸澤氏が覇権を争う。その際、1341年に北畠顕信が雫石に御所を置いたことが語源で「御所地区」がある。三迫の戦いで敗れ、石巻の葛西氏を経て、滴石城の河村六郎を訪ねて来る。1345年に戸澤氏、南部政長が北畠顕信とともに斯波氏を攻める。南朝側は足利方の吉良氏と畠山氏の不和や足利尊氏と足利直義の不和(観応の擾乱)の間隙をつき滴石城を拠点として団結し、多賀城を陥れているが、その後雫石地域の記録はない。


 室町時代には地方分権的な大名が各地に形成されたが、雫石地方は戸澤氏の勢力圏として比較的安定していた。戦国時代手塚氏(一説には戸澤氏)、長山村の長山氏、戸澤館の戸澤十郎などの勢力が台頭、境界をめぐり争乱をくりかえしていた。


 天文9年(1540年)、三戸南部の南部高信が沼宮内氏、渋民氏、玉山氏、田頭氏、平舘氏を率いて侵入。戸澤氏のみが服従を拒否したために滴石城が焼失し、戸澤氏は仙北郡に逃亡する。 1545年、日詰の斯波氏の斯波(雫石)詮貞が滴石郷に侵入。一時雫石を支配し、斯波御所(雫石御所)を置く。このとき初めて「雫石」の文字が使われる。


 その後、天正12年(1584年)に南部信直の代に雫石地域攻略が始まり、天正14年(1586年)に斯波氏は敗れ雫石城は南部よしゃれの伝説を生み落城、再び南部氏の所領になる。南部氏は小田原で豊臣秀吉に謁見、服従、所領安堵を許される。天正16年(1588年)、雫石城は豊臣秀吉の命令で破却される。


 その後、徳川政権のもと南部藩の藩政下で280年間、幕末まで続く。雫石地域は秋田藩との藩境を接していたため争いが絶えず、また秋田街道の交易の利便性から橋場御番所が置かれる。雫石通は元禄8年(1695年)、宝暦5年-6年(1755年-1756年)、天明3年-天明4年(1783年-1784年)、天保年間には飢饉が起こり四大飢饉と呼ばれている。


 慶応3年(1867年)、大政奉還を幕府が行うも鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争へと戦火が広がる。盛岡藩は奥羽越列藩同盟に参加し、鹿角口と生保内口に向軍勢を差し向ける。雫石郷からは400名もの農兵が徴発された。野々村真澄を総大将に生保内口に攻め入り秋田藩と抗戦するも、地の利を得ず撤退した。盛岡藩は時勢虚しく、降伏恭順を官軍側に申しでるが、盛岡藩の帰服が正確を欠くとの理由から国見峠に攻め込まれる。橋場口が戦場となる。この戦いで一村焼け落ち、マタギの与吉(よぎ)が、長崎振遠隊斥候隊長福田栄之助を鉄砲で狙撃死させるも、春木場から侵入され雫石郷は占領された。盛岡藩の降伏が受理されて戦争は終わったが現在に至るまで、官軍に占領された時の恐怖は雫石町で語り継がれている。

 

 宵闇の鶯宿おうしゅく温泉にやって来た。

 鶯宿川の両岸にホテルや旅館、民宿が立ち並ぶ。規模の大きなホテルから、自炊部を備えた湯治を行える旅館まで存在する。

 どこからともなく首のない巨体が現れた。

「出たな!?大武丸」

 大武丸は一馬になど目もくれず、美しい女性へと襲いかかった。大武丸は巨大なマサカリを手にしていた。

 一馬はニューナンブをひたすら撃った。

 5発目を心臓にブチ込んだら動かなくなった。

「ありがとうございます。何とお礼を言ったら……」

 女性は高校時代の彼女、備前海子びぜんうみこだった。

 一馬は高校時代、海子とつきあっていた。

 一馬は野球部に所属していた。海子はマネージャーをしていた。

 彼女の父親に交際がバレ、強制的に別れさせられた。

「一人暮らしなのか?」

「はい」

 海子はモルタル製のアパートに住んでいた。

 彼女は麻婆豆腐を作ってくれた。久々の手料理は涙が出るほど旨かった。  

 食事を終え、台所で皿を洗っている彼女を後ろから抱きしめた。

 

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新垣一馬 鷹山トシキ @1982

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