第117話 ひとつの顔は神が与えてくださった。 もうひとつの顔は自分で造るのだ
「……魔王様は、まだあそこに?」
「うん。もう少し時間がかかるかもしれない」
ヴォルフにそう問われたトーリは、表情の読めない顔でそう言った。だが、心なしか不機嫌そうにも見える。
ヘイゼルが矢を射った後、魔王が止めを刺し、完全に『勇者』の死亡は確定した。ベヒモスにも確認を取ったのだから間違いはない。
各国に勝利の伝令を出し、一段落ついたところで、ベヒモスは魔王が帰ってきてから、色々なすり合わせをすると言い残し、どこかへ行ってしまった。きっと継承の為の処理など、やることがあるのだろう。
肝心の魔王は、ぼんやりと空を見ていたかと思うと、いきなり何もいないところへ話しかけたり、少々不安に思う言動はあったが、今のところは落ち着いているらしい。
まぁ、落ち着いているといっても、泣いていることには変わりない。ヴォルフは実際その光景を見ているわけではないので、深くは語れないのだが。
ヴォルフとヘイゼルは勇者の死亡が確認された際に、トーリとの視界の同期は切ってしまっている。幸いなことに、ユーグに渡された魔石のおかげか、体に異常は全く見られなかった。
ありがたいと思うのと同時に、心苦しくなる。果たして、自分のせいで何人の人々が死ぬことになったのだろうか。考えても仕方がないことだとは思うが、やはりやりきれないものを感じる。
石自体はすぐにユーグに返却した。本来であれば、危険性を鑑みると、国の金庫で誰にも触れられないようにして保管するのが筋ではあるが、あれは女神がユーグに残した、たった一つの遺品だ。取り上げることなんてできそうもない。
それに女神の意思を継いだユーグであれば、そうそう悪用はしないだろうと思ったのも事実である。何かあれば、またその時考えればいいだろう。
「――そろそろ帰ってくるみたい」
思案に耽っていると、トーリが冷静にそう告げてきた。
――気が重い時間の始まりだった。
城に返ってきた魔王は、何もかもいつもと同じように見えた。泣き喚いて腫れていてもおかしくなかった目でさえ、無理やり治したのか赤み一つ見当たらない。本当に弱音を吐きたがらない人だと思いながら、ヴォルフは苦笑した。
そしていつもであれば飛び掛からんばかりに駆け寄っていくユーグとトーリの二人も、今はどこか躊躇いを感じる。
――待っているのだ。彼女の第一声を。
責められるのかもしれない。怒られるかもしれない。嫌われるかもしれない。――憎まれるかもしれない。
その可能性は大いにあった。はっきり言って、自分達は彼女に何をされても文句は言えないのだ。それどころか、いっそ責めてもらった方が気が楽になるだろう。
皆自分達が犯した罪を自覚している。その罪を裁く権利があるのは――一人蚊帳の外にされ、女神に大嘘を吐かれた魔王ただ一人だ。
――そして、その時はやってきた。
魔王は不自然に押し黙る自分達を見渡し、はぁ、と小さくため息を吐いた。そして悲し気に笑い、ばかだなぁ、と小さな声で言った。とても怒っている様子には見えない。
「……何も聞かれないんですか」
「まぁ、色々と言いたいことはあったんだけど。もういいや」
言わない方が罰になることもあるし、と付け加えて、彼女は苦笑した。ああいった作戦をとられても仕方がなかった、とでも言いたげな顔だ。
「本命を倒したことの連絡は……もうしてあるよね、当然。なら、私の仕事はこれで終わりかな。ああ、疲れた」
そのまま彼女はぐぐっと伸びをした。言動はいつも通りのはずなのに、切り裂かれてどす黒く変色している服が、その違和感を加速させている。いや、実際におかしいのだ。あまりにも
その違和感を一番知覚しているのは、恐らくユーグだ。彼の顔色は、可哀想なくらいの蒼白だった。
そして魔王は、俯いているユーグの方を向いた。
彼女はそのまま顔を青くして立ちすくんでいるユーグの元へ行き、その手を取って言った。
「ありがとう。――最後までレイチェルと一緒にいてくれたんだよね」
「は、い。お礼を言われることなんて、僕は何も……」
「レイチェル、何か最後に言ってた?」
静かな声で、アンリが問う。その声音は優しい筈なのに有無を言わせぬほどの強制力があった。
――その威圧を真っすぐに受けたユーグは、ビクッ、と一度だけ肩を跳ね上げた。怒られているわけではない。それなのに、何故だか恐ろしかった。
だがそれと同時に、ユーグは女神の最後の姿を思い出した。息も絶え絶えで、きっと体中にひどい傷を負っていたはずだ。それなのに、女神様は最後まで自分達のことばかり心配してくれた。そのことを、ユーグはちゃんと伝えなくてはならない。そう思ったのだ。
「女神様は、言ったんです」
震える泣きそうな声で、ユーグは言った。
「――幸せになりなさい、って」
ユーグがそう告げると、彼女は一瞬だけ目を見開き、くしゃりと顔を歪めた。
悔しかったのだろう。苦しかったのだろう。そして何よりも、友を永遠に失った悲しみが重すぎた。
それは怒りにも似た情動で、笑顔の仮面の下にでも抑え込まなければ、立っていられなかったのだろう。その仮面を、女神の遺言はあっさりと剥がして見せたのだ。
「そう……そっかぁ。そんなことを、言ったのか」
魔王は俯いて、その言葉をかみしめるように再度呟いた。ヴォルフは先ほどユーグが言った言葉を反芻する。――幸せになりなさい。何てひどい祝福だろう。
魔王は泣きそうな顔をしながら、下手くそな笑みを浮かべた。その顔には、もう迷いは見当たらない。
「……私も皆に言い忘れていたことがあったんだ。聞いてくれる?」
「はい。何なりと」
唐突に発せられた言葉に、ヴォルフがそう言って頷いた。
恭しく頭を下げるヴォルフを見て、魔王は少しだけ微笑んだ。そしてその場にいる全員に向けて、溢れんばかりの笑顔で、魔王は言ったのだ。
「――ただいま。私ね、ちゃんと帰ってきたよ」
それは戦いが始まってから一度も出ることのなかった心からの笑みだった。
言いたいことはきっと他にも色々あったのだと思う。でもそれすらも飲み込んで、彼女は帰還の旨を告げた。ちゃんと生きて帰ってきたのだと、胸を振って高らかに。
失ってしまったものは、本当に大きい。致命的な損害を受けた国だって決して少なくはない筈だ。本当に大変なのはここからだと、ヴォルフは知っている。
でも、それでも――彼女がこうして生きて帰ってきてくれたという事実が、心の底から嬉しかった。
それはきっと、他の皆も同じ気持ちだろう。女神に対する罪悪感はある。魔王に対する引け目もある。 ――それでも自分達は、胸を張ってこの言葉を言ってもいいのだ。
そして万感の思いを込めて、ヴォルフは言った。
「――お帰りなさい。魔王様」
◆ ◆ ◆
「――かくして、大陸全土に平和が戻り、みんな仲良く平和に暮らしたんだとさ。めでたしめでたし……ってところかな?」
真っ暗な光の差さない空間で、誰かがそう言った。その声は少年のようでいて、年かさの老人のようにも聞こえる不思議な声だった。
「それで、
声の主――便宜上青年ということにしておこう――青年はくすくすと笑いながら、誰かに問いかけた。
青年の声の先には、一つの大きな影があった。まるで壁に埋め込まれたかのように四肢を拘束され、首には逃げられない様に大きな鎖が付いている。まるで囚人のような有様だった。
「どうしたい、と言われても。どうにかなるのですか、これが」
「それは君の返答次第だよ――
拘束されている部屋の主――レイチェルは、青年のその言葉にため息を吐いた。
レイチェルが意識を取り戻した時には、もう既にこのありさまだった。きっとこの暗い場所は、呪いの中核だ。
レイチェルは自分が意識を保ったままに、あの矢の中に閉じ込められたのだと察し、絶望した。
――覚悟はしていた。だが実際に永劫の孤独を提示されると、やはり気が滅入る。
そんなことを思いながら、レイチェルはずっとことの成り行きを見ていた。
ユーグの泣いている姿。ヘイゼルが矢を射る姿。のたうち回る勇者。矢を抱きしめて泣いている己の親友を、ずっと見ていた。
アンリが勇者を討ち取った瞬間は、本当に安心した。自分の犠牲が無駄にはならなくて、心から良かったと思う。
きっと今後はこの矢は危険物として破棄されるか、城の奥深くに封印されてしまうだろう。そうなれば、これからは外を垣間見ることすら適わなくなる。完全な闇の中にひとりぼっちだ。
それに大切な人達のことがこれで見納めかと思うと、誇らしいけれど、やはり寂しかった。
だがレイチェルにはもう言葉を伝えるすべもないし、どうすることも出来ない。仕方のないことだ。
……そんなことを考えている時に、この青年はいきなりレイチェルの前に現れたのだ。
――そして、驚くべきことにレイチェルはこの青年を
「……かみ、さま?」
ただの人間だったレイチェルを『女神』へと押し上げた存在が、そこにいたのだ。
急に目の前に現れた神様は、特に大事な話をするでもなく、先の会話のように取りとめのない話を繰り返している。全く持って意図が読めない。
それにどうしたい、と問われても正直返答に困る。
そもそもここにいるのは『女神レイチェル』の残りかすでしかない。どんなに時を重ねたところで、アンリが望む様に復活なんて出来るはずもない。そのことは、嫌になるほど分かっていた。
「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
レイチェルは冷静な声でそう問いかけた。青年がここに現れた瞬間から、どうしても聞きたいことがあったのだ。
「貴方様がただのちっぽけな人間でしかなかった私を、神の座にまで押し上げたのは、
――そう、冷静に考えれば何かがおかしかった。まるで全てのピースがアンリのことを
一つ一つをみればそこまで違和感はないが、遠くから見ればその異質さがよく分かる。
「ちがうよ」
けれど、青年はそれをあっさりと否定した。
「
何でもないことのように言いながら、青年は続ける。
「――君が
「…………」
「だが、君の働きは本当に素晴らしかった。私の想定を遥かに超えていったからね、推薦者としてはとても誇らしいよ。――だから特別に選ばせてやろうと言っているんだ」
この神様は、いったい自分に何を選ばせようというのか。逃れられない牢獄の中で選ぶことなど、何もないというのに。
「ふむ。不満そうな顔だね。はっきり言わなければ分からないのかい?」
そう言って、青年は続けた。
「このままだと、君は祟り神に堕ちてしまうぞ」
「……え?」
「君は元々蛇神の流れを汲む者だからね。普通の子らよりも少々堕ちやすいんだ」
「で、でも何で私が」
納得がいかなかった。だってレイチェルは全てを受け入れた上でここにいる。今さら誰も恨むつもりなどないし、祟る気もない。それなのに、何故?
狼狽えながら聞いたレイチェルに、青年は言った。
「今は平気だろうさ。だが百年、千年、万年経っても君は同じことが言えるのかい? たかだか数百年しか存在していない君が?」
「それは……」
ぐっと言葉に詰まる。絶対にありえないとは、言い切れなかった。
「だから私は君に三つの選択肢をあげよう。好きな物を選ぶといい」
――青年が提示した選択肢は、簡単に言えば『消滅』『転生』『現状維持』の三つだった。
『消滅』はそのままの意味で、レイチェルの意識ごと世界から消してしまうということ。
『転生』とは神としての体を捨て、新しく人間として一からやり直すということ。
そして『現状維持』とは、このまま気が狂うまで暗い闇に囚われ続けるということ。
「一応言っておくけど、転生場所はランダムだし、またこの世界に生まれることは難しいかもね。よっぽどの幸運がないと無理だよ。記憶も無くなってしまう可能性の方が高いからね。また彼女と巡り合うのは、砂漠の中で一欠けらの金の粒を探すよりも厳しいと思うよ」
「融通はしてもらえないのですか?」
「駄目かな。あまり贔屓が過ぎると君の魂に傷がつく。神に愛された者は早死にするってよく言うだろう? つまりはそういう絡繰りなのさ」
それを聞いて、レイチェルはままならないな、思った。
だがこうやって、高次元の存在がわざわざ目の前に現れて、選択肢を出してくれること自体が破格の対応なのだ。我儘なんて言えるはずがない。
「さぁ、どうする。消えるか、生まれ変わるか、見守り続けるか。好きなものを選ぶといい」
青年は再度同じ言葉を繰り返す。きっとレイチェルが選ぶまで、きっと何度だって繰り返すのだろう。
「……どうして」
「ん?」
「どうしてここまでして下さるのですか? 私は貴方様から見れば、何の変哲もない路傍の石の様なもの。気に掛ける謂れはないはずです」
いくら説明を聞いても、ずっと腑に落ちなかった。ご褒美と言われても全然ぴんと来ない。
レイチェルが不満そうにそう聞くと、青年はくすりと笑った。
「心配性なんだね。それはとても賢いことだけど、可愛くはないかな。――でもまぁ、理由か。言ってしまえば『迷惑料』の先払いというやつだよ」
「め、迷惑料?」
「そう、迷惑料さ。魔王と呼ばれた少女は、ついに
おとぎ話を語るかのように、楽しそうに青年は言う。そして奇しくも、かつて青年がレイチェルに与えた命題を彼は口にしたのだ。
暗い空間の中で、ばさり、と何かが羽ばたくような音が聞こえた。
「さあ選べ、運命という流れを泳ぎ切った強かなる魂よ。――これが、最後の問いかけだ」
青年の方から、温かい光があふれてくる。そして青年――白い大鴉は、そう告げたのだ。
「私は――」
迷いながらも、願いを告げる。後悔はあった。不安もある。けれど、きっとこれが最善だと胸を張って言える。
――レイチェルが告げた選択を、白鴉は黙って聞いていた。まぁ、このか弱き女神がしそうな選択であったとだけ言っておく。
「成る程。ああ、心得た。時が来るまでしばし待つといい」
そうして空の王である白鴉は、大きく翼を広げ羽ばたいた。彼にとって、空間の仕切りなどあってないようなものだ。彼はどこにだって飛んでいけるし、どこにでも入れる。
それが彼が空の王たる所以なのだから。
「ああそうだ。魔王の少女というわけではないが、何か最後に言い残したことはないか?」
あの時、アンリが勇者に最後の言葉を聞いたように、白鴉はそうレイチェルに問うた。
結局のところ、レイチェルにはいまいち彼のいう意図が理解できなかったし、言いたいことも半分しか伝わっていないだろう。
けれどレイチェルには、この神様にずっと言いたいことがあったのだ。初めてまみえたあの日から、ずっと言いたかった言葉がある。
「――
そう言って、レイチェルは微笑んだ。良い人生、いや、良い
それもみんな、この神様に出会えたおかげた。そう考えると、いくら感謝しても足りないくらいだ。
「……まったく。奇特な子だね、君達は」
そう言い残して、白く輝く鴉は去っていった。
レイチェルは一人残されたまま、暗い闇の中で目を閉じる。
――願わくば、これからの彼らの行く末が優しいものでありますようにと。
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