第97話 光と闇 二

 いよいよ謁見の時。ドリックは目を伏せながら自分にできる最大限の敬意と礼儀を持って前に進み出る。


 人間の儀礼など見たくはないかもしれないが、ドリックにはこれしかできない。研究機関のトップとして国王に謁見する時よりも丁寧に、一つひとつの仕草に細心の注意を払って所作を行う。やがてドリックが跪き頭を垂れると、声を掛けられた。


「面を上げよ」


 しかしドリックはまだ頭を上げない。貴族の間では一度目の言葉で頭を上げるのは失礼だとされている。これは、それだけ相手に畏れ多さと深い忠誠心を捧げているのだと言うことを示しているのだが、これをドリックは今まで面倒だとしか思ったことはなかった。


 しかしこの時、ドリックは初めてその儀礼が生まれた意味を知る。


 上げられないのだ。


 むしろ、上げようとすら思わない。


 あまりの畏れ多さにこのままでいいと思ってしまう。自分の顔を尊き御方にお見せするのが失礼だとすら感じるほどだ。そしてだからこそ、ドリックは改めて思うのだ。


 自分は、真に仕えるべき主を見つけたのだと。


 この嘘偽りない気持ち。真心から自然と行動できているのがその証だった。しかし慈悲深き神はそんな畏まるドリックを気遣ったのだろう。苦笑しながら話しかけてくださった。


「ドリック・ペイソン。そんなに固くならずとも、お前が普段から俺のことを敬っているのは知っている。だから細かいことは気にせず、頭を上げよ」


(ッ! 私の名前を……!)


 ドリックは驚愕し、感動する。神が、こんな低俗な存在である自分の名前を覚えてくださっているとは夢にも思わなかった。


 モンスターたちですら自分のことを名前で呼ぶ者はいないのだ。過去を思えばそれで当然だし何の不満も無い。だと言うのに、彼らの主であるこのお方は、自分を名前で呼びその存在を認めてくださっているのだ。


 ドリックの目からは自然に涙が零れ落ちた。


(何という寛大さだ。まさしく超越した存在……。これが、神と言うものなのか。……敵うはずもない。このお方に比べたら、人の国の王など。あぁ、なんと小さきことか……)


 謁見の時、国王から最初に名前を言われることなど有り得ない。まずはどちらの立場が上なのかを分からせるために名を問い、答えさせるものだ。


 舐められないため。


 自分の優位性を保つため。


 同じ人間と言う土俵の上でそんなちっぽけなものを小競り合うくだらなさ。


 それに比べ、自ら相手の立場に合わせ手を差し伸べてくれるその寛容さよ。細かいことを気にするなとは正にその通り。王だ貴族だなどと身分に囚われていては決して至れない領域。


 格が違う。


 偉大さの、格が違うのだ。


(これが森羅万象を極めし者の余裕なのだ。その位置に留まっていては誰も自分の相手などできないから。あえて目線を下げる、それが、頂きに立つ者……!)


 ドリックは涙を拭く。この床に垂れ行く涙は自分の忠誠心の表れだが、こんな顔のまま頭を上げるわけにはいかない。不敬だと承知しつつも腕の袖でゴシゴシと目を擦った。


(よし……!)


 そして意を決して顔を上げたドリックの目に映ったのは、崩れた天井から入り込む温かな光によって、次々と異なる輝きを放つ丸い玉。


 ダンジョンが誇る神秘の宝石、ダンジョンコアだった。


「おぉ……」


 その神々しさにドリックは溢れ出る感嘆を抑えることができなかった。メイハマーレから今の御方がダンジョンコアのていをとっていることは聞いていたので驚きは無い。しかし、研究者として何度かダンジョンコアを見たことがあるドリックでも、ここまで美しいダンジョンコアは見たことが無かった。


(内に秘めたる、その存在の輝きが溢れ出ている! 素晴らしい。なんと、美しい光か……!)


 メイハマーレから、御方とお会いする時はそのお姿に見惚れて礼を失することのないように気を付けろと言われていたが、そんなの無理な話だ。


 この幻想的な輝きは万人を魅了して止まないだろう。そう確信できた。


 その時の話の流れで、神である御方が何故ダンジョンコアに宿ることになったのか、と言うことを聞いたことがある。想像の範疇を出ないが、何億年もの歳月を生きるには、さすがの神といえどもその肉体が持たなかったのではないかと教えてもらった。


 そして魂をダンジョンコアに移行する反動で永い眠りにつき、最近になってお目覚めになられたのだ。


(おそらく御方が眠りにつく前に、既に世界の衰退は始まっていたはずだ。しかしそれを食い止めるだけの力がもう残っていなかった。だからこそ世界を再構築可能なダンジョンコアに魂を移したのだろう。こうなることを見越して、いずれ自らの手で世界を正しい姿に戻すために……!)


 御方より少し斜め前に目線を向ければ、そこにはどこか誇らしそうな顔をするドラゴニュートが控えていた。しかしそれも当然だ。神の手足となって働き、神の横に控えるなど、そんな栄誉は他にどこを探したって存在しない。ドリックはこのダンジョンのモンスターたちが純粋に羨ましかった。


 気づけば、ドリックが御方のお姿を拝見してからしばらく時間が経っていた。その事にハッとしたドリックは再び頭を下げる。


 メイハマーレからも注意されていたと言うのにかなり無礼なことをしてしまった。御方はそんなドリックの反応を予測し待っていてくださったのだろうが、これは謝罪しなければならないだろう。


「も、申し訳ございません、御方! あまりにも神々しいお姿に感動し、我を忘れておりました!! 何卒、何卒お許しを!」


「……よい。……フゥ。さて、そんなに頭を下げてばかりでは話が先に進まないだろう。俺は何も怒ってはいないから、今一度頭を上げるが良い」


「ハハァ! 慈悲深きお言葉に感謝いたします!」


 もう失態を見せない。強い決意のもとドリックは気を引き締めた。


「祈りの最中に呼び出してすまなかったな。実はお前に頼みたいことがあるのだが、ひとまず話だけでも聞いてもらえるか?」


「お引き受けいたします!!」


 エンジン全開のドリックは話も聞かずに即答した。この素晴らしきお姿を見れば道中に感じていた不安など吹き飛ぶ。


 神が私ごときに頼みがある? そんなの引き受けるに決まってる。自分に役立てることがあるのなら何を捨ててでもその役目を全うしてみせる。ドリックにそれ以外の選択肢などあるはずがなかった。


「あー、ドリック。お前の熱意は買うが、事はお前の命に関わるかもしれない。話だけでも聞いておくことを勧めるぞ」


「ご配慮、痛み入ります。しかし何の問題もございません! 貴方様のお役に立つことこそが、私の使命でございます。この命が必要とあらば今すぐにでも捧げましょう!!」


「……そうか」


 ドリックの力強い宣言にドラゴニュートが小さく頷いたのが見えた。少しは自分のことを認めてもらえたのかもしれないと思うと嬉しくなる。


 何でも来いと言わんばかりに心の中で構えるドリックに、それでもお優しい御方はさり気なく説明してくださった。


「では、当人の了承も得られたので俺の実験に付き合ってもらうとしよう。実は、先の人間たちの大侵攻を打ち砕き、その多くをダンジョンが吸収した結果、俺は新たな能力を得るに至った。だがその能力は使える対象が限定的でな。このダンジョンではドリック。お前にしか使えないのだ。故にどのような効果があるのか、お前に試したいと言うわけだな。……以上のことを踏まえてもう一度だけ聞くぞ。本当に、よいのだな?」


 再三の問いかけ。ここまで言われればきっとほとんどの者が怖気づき話を断るのだろう。


 しかしそこは狂信者ドリック・ペイソンだ。切り返しが違う。


「おおぉ。永き眠りによって失われていた、力の一つをお取り戻しになられたのですね! 心からお慶び申し上げます!! さあ、私はいつでも構いません! 存分にお試しください!!」


 目をキラキラさせて待ち構えるドリックに、その意思は変わらないと見て取ったのだろう。御方は小さな声で、唐突にその能力を行使なされた。


「<堕落>ぅぅ……」


 その声を聞いた次の瞬間。ドリックは、絶叫した。


「オオオオオオオオオオオォォォォッ!!?」


 突如全身に走る激痛。跪いていることもできずにドシャリと床に倒れ伏す。


 ありとあらゆる細胞が弾け飛んでは高速で再生するような感覚。肉体は絶え間なくボコボコと隆起し、まるで身体の中で得体の知れないものが暴れ回っているようだ。


 ドリックは無意識から、痛みから逃げるように頭を床に打ちつけるが、割れた額は血が出る間もなく治ってしまう。


 苦痛から逃げられない。意識を失うこともない。


 やがてドリックの頭は真っ白になっていき、何も考えられず、焦点もぶれて白目をむく。


 このまま死ぬのか。


 それは思考とも言えない思考。その身は死なずとも、ドリックの魂だけが搔き消えようとしていた。


 ドリックは肉体を残し、精神の奥深く、奈落に堕ちる。そして二度と戻れなくなるよう、暗い蓋が徐々に閉じていった。


 狭い空間を暗闇がゆっくりと支配しようとした時、不意に、蓋の隙間から一瞬だけ煌めく小さな光が見える。ドリックは反射的に腕を伸ばした。


 到底、届くはずもない距離だった。しかし、光には届かずとも、ドリックの腕は蓋が完全に閉まるのを防いだ。腕の太さ分の隙間から差し込む光がドリックの顔を照らし出す。


 その眩しい光を見て、ドリックは思った。


 あの光が欲しいと。


 あの光は私のものだと、強く想った。


 自分の道を塞いでいる暗い蓋が邪魔だった。あの光を手にするために、そこまで飛んで行くための翼が必要だった。


 だからドリックは願った。必要なもの、全部。その代わり、要らないものは全て捨てた。


 いつの間にか、その肉体に漲る力が宿っていたドリックは、行く手を阻んでいる蓋に手を掛け、それを強引にこじ開ける。


「オオオオオオオオオオオオオオッ!!」


 気づけば、現実の肉体が膝立ちになっていたドリックは、全身全霊で咆哮を上げる。


 強力な渇望のもと、ドリックの意識が身体に戻ってきた時、その目に映ったのは大聖堂の天井から降り注ぐ祝福の陽光だった。


 そして、その光を辿って視線を下に落とすと、そこにあったのはこの世で最も美しいと思える光。


 ドリックに微笑みかけているように見える、至上の御方のお姿があった。


「あぁ……。神よ」


 ドリックの手は祈りを捧げるように、自然と柔らかく組まれる。そんなドリックの姿を見て、御方のおそばに控えるドラゴニュートが息を飲むのが気配で分かった。


 その感覚を不思議に思うこともなく、ドリックが目を開けそちらに目線を向けると、やはりドラゴニュートは何やら驚いた顔をしていた。


 自分の方を見ながら何をそんなに驚いているのかと、朦朧とした頭で考える。なかなか考えを纏められずにいると、正面から穏やかな声を掛けられた。


「……気分はどうだ、ドリック」


 御方……。


 御方が、自分に話しかけていらっしゃる。そう思うと、ドリックの意識は急浮上した。


「お、ん、方……? ッ、お、御方! これは、申し訳ございません! 何やら、頭が霞がかっているような感じがしまして! しかし、気分は悪くありません。むしろ、妙にすっきりとしていて、何と言いますか。今なら空でも飛べるような、生まれ変わったかのような、そのような気がいたします!!」


 焦って馬鹿なことを言っているな、と頭の片隅で思うが、それを聞いた御方はおかしそうにお笑いになられた。


「フフフ、言い得て妙だな。まだ自分の身に起きたことを把握できていないか」


「身に、起きたこと……?」


 それを聞いてドリックは自分の身体を見渡した。


 皺が目立っていた手の肌は若かりし頃のように張りが戻り瑞々しくなっている。手の爪は全て真っ黒に染まり、その輝きはまるで黒曜石のようだ。


 細身の身体のせいで余裕のあった服は、今や肉体にぴったりと密着している。それは服が小さくなったのではない。ドリックの肉体が盛り上がったのだ。それを認識すると、ドリックは自分の内に溢れ出るような活力が湧いているのが分かった。


 今まで感じたことのない力強さに、本当に生まれ変わったような気がして、様々な感情が巻き起こってはそれらが打ち消し合い、何も考えられなくなる。


 そして極めつけは、床に落ちる一枚の黒い羽根。


 巨大な黒鳥が落としたのかと見紛うほどのその羽を手に取ると、その時の反動で目の端に黒いものが映る。


 ドリックがそちらに視線を向けると、そこにあったのは雄々しい漆黒の翼。


 人という枠から逸脱した証である片翼の翼が、ドリックの背中から生えていたのだった。

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