第63話 足搔き
「スタンピードか……」
質素な家具で構成された落ち着いた雰囲気の執務室に、ヘクターの小さな呟きが解けて消えゆく。
領主館の応接室は貴族としての外面を気にしなければいけないので華美な装飾の施された家具を使用しているが、彼は本来そういったものは好まない。他人の目を気にしないで済む自分の執務室では見た目よりも実用性を重視した家具を使用していた。
自然な木目調が何とも良い味を出している重厚な机に、真っ白で飾り気の無い陶器のカップが置かれる。中には琥珀色の紅茶が注がれ、白い湯気を立たせていた。
「罰しますか?」
紅茶を淹れた執事がヘクターに問う。スタンピードが起きるまでダンジョンの管理を怠った冒険者ギルドのガトーとゲーリィを罰するかと聞いていた。ヘクターはこれに首を振る。
「いや、よい。冒険者ギルドに管理を一任したのは私だしな。彼らに責任を押し付けてしまうのは楽だが、任命責任が無いとは言えまい。それに、彼らを罰したところで他に代役がいない。これから更に紅蓮の洞の潜在脅威度は上がっていくのだ。これまで管理してきた彼ら以上に、上手くコントロールできる人材はいないだろう」
紅蓮の洞は発見された時には既にかなりの規模の大きさを誇っていた。最初から潜在脅威度は高かったのだ。
ダンジョンを構成するありとあらゆる要素。階層数、大きさ、地形、モンスターの種類、ボスに至るまで全てを数値化し、人が安全にダンジョンをコントロールできる指標を定めたものが潜在脅威度だ。
今の紅蓮の洞の潜在脅威度は百六十七。ダンジョン封鎖が決定する潜在脅威度二百までもうすぐだった。つまり、それだけ今の紅蓮の洞はコントロールするのが難しいと言うことだ。
大体他のダンジョンもこれぐらいの数値から何かしらの異常を起こし始める。そう考えればこのタイミングで紅蓮の洞に異常が発生したのは別におかしなことではない。発生した異常の度合いは問題だったが。
「第四階層が審査され直せば更に潜在脅威度は上がると思われますからね。わかりました。では、考えるべきは対応策ですか。このままギルドに任せておいてよろしいのですか?」
「ああ、こちらはこちらでやるべき事があるからな。あの若造が、完全に潰しておくべきだった」
ゴブリンダンジョンにマジックアイテムを持ち込んだ件で、ヘクターは老獪に若い伯爵を追い込み、下らないちょっかいを出せないところまで弱らせていた。しかしスタンピード発生の兆候が出たと言う情報が流れた事で、息を吹き返してしまったのだ。
「あの虫の息の状態から盛り返すなど、あの愚物にできるとは到底思えないのですが」
「こちらの寄り親と敵対関係にある侯爵家の差し金だ。ゴブリンダンジョンに目をつけられてしまったらしい。前々から注目度の高いダンジョンではあったが、研究員たちの報告がそれを加速させてしまった」
「超古代文明、ですか」
「ああ。それだけの情報だ、本来であれば嘘か真かの判断に時間がかかるものだが、あの研究馬鹿のドリック・ペイソンが異常な執着を見せていた。それが報告に信憑性を持たせてしまったのだろうな」
「あれは……異常でしたね」
一度、調査終了の報告にドリックたちが領主館まで戻って来た時の事だ。
ドリックは人が変わったとしか思えなかった。元から普通とは言いづらかったが、ゴブリンダンジョンを賛美するような言葉を繰り返し、人類が如何に重い罪を犯してきたのかを身振り手振りを交えて必死に訴えていた。その姿はまるで宗教にのめり込んでしまった人間のようで、執事――ゼルロンドは身の毛がよだつのを感じたものだ。
そしてそんな異常なドリックの姿を、領主館に来るまでの道中で間者たちは見ていたのだろう。調査隊の報告待ちをしていたのはヘクターだけではない。注目度の高いダンジョンの情報を求めてその利益にありつこうと、ヘルカンの街には様々な派閥の間者が入り込んでいる。その者らを通じて情報の確度を計っているのだろう。今、ヘルカンの街には様々な思惑が渦巻いていた。
「全く、上位貴族らしい嫌なやり方だ。自らは決して表に出ず、手札を用いて安全に利益を得ていく。カモにされる身としては腹立たしくて仕方がない」
ヘクターが眉間に皺を寄せる。長年、この街の発展に尽くしてきた者として、その成果を横から掻っ攫われるような真似をされるのが許せないのだろう。
「上からのサポートは無いのですか」
「当然ある。利益を得たいのはこちら側だって同じだ。あってこの状況なのだ。敵が多すぎて手が回っておらん。頭の痛い事だ」
両肘を机に置き、組んだ手に額を押し当てるヘクター。最近の問題事の多さに疲れが見えるその姿は、ヘクターをいくらか老けたように見せていた。
そんなヘクターをゼルロンドは気遣う。
「しかしそれもこれも、スタンピードさえ阻止できれば全て解決します。敵の狙いはスタンピードの責任をヘクター様に取らせて追放させる事なのですから。スタンピード直前の状態にしてしまったと言う事を責められるかもしれませんが、ヘクター様のこれまでの実績を押し出せば問題にはならないはずです。冒険者ギルドもダンジョン内での殲滅作戦を進めていると言う話ですから、スタンピードは起きな……」
「起きる」
ゼルロンドの慰めをヘクターは一刀両断する。
「スタンピードは、必ず起きる」
「っ、ヘクター様……」
ゼルロンドはヘクターの顔を見て自分の気遣いなど無用であった事を知る。希望的観測を捨て去り、後ろ向きな言葉を繰り返すその顔に浮かんでいたのは不安でも絶望でもない。これまで街を治めてきた者としての、事実から逃げない強い覚悟だった。
「スタンピードを現実のものとするために必ず奴らは仕掛けてくる。そしてそれを阻止することはできない。目の前のモンスターを食い止める事に全力を捧げなければならない我らと違って、奴らはモンスターに手を貸すだけでいいからだ。行動の自由度が違う。背後から人間に襲われる事だって考えなければならん。此度の黒幕もあの若造であれば、その手を予測し対策を立てる事もできただろうが、今回のアレは命令をこなすだけの駒だ。裏で糸を引いている侯爵家ならば、この圧倒的有利な状況で失敗するような愚は犯さないだろう」
「……ならば、こちらも裏で動きますか?」
「焼け石に水だ。それに、手を出す相手を間違えれば後々派閥問題が拗れる。それを一々確かめていられる状況ではあるまい」
ヘクターは紅茶のカップを手に取り、口を湿らせる。丁度良い熱さで入れられた紅茶が爽やかな香りを漂わせる。それが鼻腔を刺激し、少しだけ気分を和らげてくれた。
「良い味だ」
「……ありがとうございます」
暫しできた間。静かになった執務室で、ヘクターがゼルロンドに問いかける。
「そういえばお前とはもう長い付き合いになるな」
「そうですね。もう二十年以上になりますか……」
ゼルロンドは目を細めて当時の事を思い出す。平民の自分に声をかけてきたのが、まさか子爵家の当主だとは思わず驚いたものだ。
「かつてはソロでミスリル級まで上り詰め、『オーラ纏い』さえ使いこなし、冒険者としての名声を確実にしていたお前が、私の願いを聞き届け懐刀として長きにわたり支えてくれた事、感謝している」
「……ヘクター様」
ヘクターも昔の事を思い出しているのか、その顔には懐かしむような、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「最初は教養などこれっぽっちも無かったな。元々、そんな事をさせるつもりはなかったが、向上心の強いお前は様々な事に挑戦した。高級な茶葉だって何度も駄目にしたものだが、今となってはどこに出しても恥ずかしくない一流の執事だ。よく頑張ったな」
「……」
「先代の家令もお前の飲み込みの早さには驚いていたものだ。よく、後を任せられる者がいないとぼやいていたものだが、それがまさかお前になるとは想像もしなかった」
ぼんやりと上の方を見ていたヘクターの目が不意にゼルロンドに向けられる。長い付き合いだ。ゼルロンドにはこの後ヘクターが何を言い出すかが、何となくわかっていた。
「このスタンピードで私が追放される事はほぼ確定事項だ。殺される事はないだろうが、寂れた辺境の地に送られる事は間違いない。私ももう年だし、息子もな……。療養の事を考えれば、辺境の生活も一概に悪いとは言えないかもしれん。だが、お前までそれに付き合う事はないだろう。十分な報奨金を渡す故、これからは好きに……」
「ヘクター様。私はまだ、諦めておりません……!」
ゼルロンドは執事としての仮面を取り、戦いに生きてきた者としての顔を覗かせる。
放たれる覇気は元凄腕の冒険者として相応しいもの。一般人であれば腰を抜かして動けなくなるような波動がヘクターに襲いかかる。しかし、貴族として生きる中で鍛えられた胆力が並大抵ではないヘクターは、それに微笑みで答えてみせる。
「フフフ。発破でもかけているつもりか。不要だ。後ろ向きな気持ちで言っているわけでは無いからな。……この街をここまで発展させるのに一体何年かかったと思っている。ただでくれてやるつもりは毛頭ない。最後の最後まで抗うつもりだ」
「ヘクター様。私は負けを前提にして話をしているのではありません。……私にしばらくの間、行動の自由を下さい。最近冒険者ギルドに現れたと言う、異国の戦士と接触を図りたいと思います」
「……ああ、確か名をアテンと言ったか。智勇に優れた異国の貴族と言う話だが」
貴族という事で自分に接触してくるかもしれないと情報を探らせていたが、未だその機会は無い。
どのような人物かは凡そわかっているが、その出自については裏が取れたわけではない。この街を訪れたタイミングの事もある。信頼するにはまだ早い、警戒が必要な人物。それがアテンに対するヘクターの評価だった。
「はい。その者と協力して、必ずやスタンピードを止めてみせます!」
強く言い切るゼルロンド。ヘクターはそこまでして自分に仕えてくれようとする、その気持ちが嬉しかった。
だが、ここからどれだけ頑張ったところで結果を変えることはできない。長年の経験と知識からその事に確信を得ているヘクターはゼルロンド言い聞かせるが、意思の固さを感じ取り、途中で諦めた。
「ゼルロンド。如何に傑物と言えどできる事には限りがある。……言っても無駄か。わかった、好きにせよ。ただし、条件がある」
「何でしょうか」
これだけは言っておかねばならぬと、ヘクターはゼルロンドに厳命する。
「生きて帰れ。よいな?」
「……はい」
ヘルカンの街を襲う未曾有の危機を前に、表舞台から姿を消していた実力者が再び前線に戻る決意をする。大事なものを守るため。スタンピードに、この世の理不尽に抗うための戦力が、着実に集まりつつあった。
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