第3話 いつかのあの日

 外はすでに暗くなっていて、夜街の方は賑やかそうにネオンの光が漏れている。早歩きで行く彼女のとなりに僕は自転車を押しながらどうにか着いていった。自転車を貸そうか、と提案したけれど彼女は断った。そして駅とは違った方へと歩き始めた。


「こっちだと近道できるの。夜は真っ暗になるから危ないし、通りたくないんだけど……、まあ君もいるし、急がないと行けないから」


 そう言って彼女は僕を先導していく。途中、自転車にはきつい階段を上りきると自然の多い歩道へと出た。そのまま行けば小さな公園があって駅の近くの道に抜けるのだと言う。確かに街灯の数は少なく、彼女が言ったとおり夜にはあまり通りたくない場所だった。


「ここね、お昼はけっこう賑やかなんだよ。散歩している人とかさ、いっぱいいてね」


 少し進むと彼女は歩調を緩めて話し始めた。


「夜はねー、散歩してる人もいるんだけどさ。真っ暗だから急にバッと現れて、……うん、あれは一種の肝試しなんだよね」


 そう語る彼女の顔を見れば、彼女が経験したことだとすぐに分かる。もしかしたらそれが怖くて夜は通らないのだろうか。


「……そのときはどうだったの?」


「それはもう、おじさんの顔が急に浮かび上がったから悲鳴を……って、なんでもない」


 紅くなった顔を隠すように向こうを向いた。僕の引っかけにここまで引っ掛かる彼女は珍しい。間違ってお酒でも飲んでテンションでも上がっているのだろうか。僕は一応謝っておく。彼女がそっぽを向いたままではどこで曲がればいいかも分からないのだ。


「……ここ」


 彼女はいきなり足を止めて暗闇を指した。一瞬何を言っているかが分からなかったがすぐ理解した。公園の入り口が『ここ』なのだろう。暗闇に目を凝らしてみればうっすらと道が見えた。


「よく分かったね、酔ってるのに……」


「……酔ってないしー」


 彼女は口を尖らせながら応えた。それから僕も彼女も黙ったまま、ただ立ち止まっていた。


「そこの看板が目印……」


 今にも消え入りそうな声で彼女は言う。彼女の目線の先には何か動物のシルエットが描かれた看板があった。それでも見えるのはかすかだ。ふと気を抜けば見落としそうなくらい。そこに彼女のしっかりとした性格がみえた。


 公園はいたってありきたりな、でもどこか懐かしかった。塗装の少し剥げたブランコに対をなすようにシーソーが配置されている。木陰になるだろう場所には小さなベンチがあった。明かりになるものはなくて月光だけが僕たちを照らしている。


「あっ」


 暗闇で何かが光った。正確には反射した。小さい丸が二つが動いた。それからの彼女は早かった。小走りでその光その方に向かったと思えば、獲物をしっかりと抱えて戻ってきた。その時の彼女の顔は満面の笑みで、子供っぽさを残したその表情に僕は一瞬ドキッとした。


「子猫ちゃん!」


 彼女は誇らしげに抱えた子猫を僕に見せた。さっきまでのふてくされた彼女はどこに行ったのか。黒色の猫だったからはっきりとは分からなかったけど、ぼんやりと浮かぶ輪郭から子猫だということは分かった。


「こっち来なよー」


「……電車は良いの?」


「猫ちゃんが最優先です!」


 そう彼女が言うのなら大丈夫なのだろう。いや大丈夫ではないか。もういいや、と僕は諦めて彼女が座るベンチに腰かけた。彼女はサンタさんからの贈り物を貰ったときのように目を輝かせて子猫を撫でている。


「猫はねー、ここを撫でてやると喜ぶんだよ」


「うん、知ってる。もう十回くらいは聞いたもの」


「じゃあ抱っこしてみる?」


「い、いや……それは……」


 別に僕は猫が嫌いではない。どちらかと言うと好きなほうだ。けど、どうしてか猫は僕が嫌いみたいなのだ。いつも触ろうとしたら引っ掛かれてしまう。今回も例外じゃなかった。


「ふふふっ、なんで君はそう猫に引っ掻かれるのかなあ」


「そう思うなら、僕に猫を近づけないでよ」


 そんなことを言って彼女が止めるわけがない。彼女は今日一番楽しそうにして僕に猫を近づける。子猫も懲りることなく僕を引っ掻いてきた。


 彼女は僕と違って猫に好かれる体質だ。彼女に威嚇する猫は見たことがない。それ以上に彼女は猫を好いている。どれくらいかと言えば、今みたいに猫がいれば何であろうと彼女の中の優先順位では一段下がる。


「君はたぶん、猫に対する攻撃ふぇるもんでも出しているんだよ」


「ふぇるもん?」


「それぐらい分かるでしょ」


 ふぇるもんなんて知らないけど、彼女が僕をからかっているのは分かった。彼女は僕が文系であることを良いことに、理系の話をしている、ということにしておこう。


「ふーん、そんなことも分かんないのかー」


 彼女はご満悦だ。さっきまでの落ち込みはどこにやら。きっと猫から何か力を分けて貰ったのだろう。この世の猫は皆、彼女を活性化させるフェロモンでも出しているに違いない。


「まあそれにしてもとてもをかしい猫だね」


「……おかしい?」


 彼女は僕の言葉に眉をひそめた。それから子猫の身体をあちこち見始めた。僕の言うおかしな部分を探している。


「どこもおかしくない」


「いいや、とってもをかしいよ」


 彼女は抗議するように僕を睨んだ。そんなことされても先にしてきたのは彼女だ。彼女もそれを理解しているから無言で視線を送ってくるのだ。


「をかし、ぐらいなら理系でも分かると思うけどね」


「むぅー」


 これでおあいこだ。これ以上からかうことはしない。そうでないと平等じゃない。


「……それで、意味は何なの?」


「調べればすぐ分かるよ、次の時に答え合わせしてあげるさ」


 そのむくれた表情を見れば、彼女が不満を言いたいのだ、とすぐに分かる。けどそんな不機嫌もすぐに解消してしまうのが猫パワーである。自分だけが仲間外れにされているとでも感じたのか、子猫は鳴いて自分をアピールした。


「ん、この子……」


 彼女はさっきまでの表情を片付けて心配そうに子猫を撫でた。その表情は弱った猫を見るときの表情だ。


「どうかした?」


「うん、この子少し痩せすぎてる……」


「連れて帰る?」


「……そうしたいんだけど」


 スマホを取り出した彼女は珍しく浮かない様子だった。いつもならすぐにでも電話をかけて、母親に迎えを頼んでいるのに……。


「お母さんと、……なんかあった?」


 僕がためらいがちに訊くと、彼女は頷いて答えてくれた。それから彼女は簡単に事を説明した。


 母親と大学のことで話し合っている途中で意見が食い違ったらしい。僕が知っている二人はとても仲が良さそうだったから、頻繁に喧嘩する訳でもないのだろう。まあ要するに、喧嘩している母親に迎えを頼むのを躊躇っているのだ。


「うーん。それはさ、もう、きちんと話をするぐらいしか解決策はないかな……。お互いに何か言えてないことがあると思うからさ」


「でも……」


 大丈夫だよ、と彼女を励ます。けど彼女の浮かない表情は変わらない。子猫のことを諦めきれないのか。彼女が母親と話して分かりあうにも時間がかかる。それまで子猫を放って置くことはできないかもしれない。


「仕方ないなー、この子猫は僕が見とくからさ。とりあえずお母さんと仲直りしなよ」


「えっ、でも……。たしか君のアパート、ペット禁止じゃなかった?」


 彼女の言うとおり、僕はペット禁止のアパート住まいだ。けどこれぐらいの子猫なら数日は持ちこたえる。あの恐ろしい大家のおばさんもやり過ごせるだろう。だから僕は彼女に向き直って宣言した。


「大丈夫。一週間……じゃなくて四日ほどなら僕が見とくから。だからその間に仲直りしたらいい」


「うん、ありがと……」


 面と向かって彼女にお礼を言われた。こっ恥ずかしくなった僕はそれを隠そうと子猫に手を差し出した。その瞬間、彼女の膝の上でくつろいでいた子猫は臨戦態勢に入った。ニャッという鳴き声に合わせて繰り出されたネコパンチを僕はもろに受けた。


「痛ぁ」


「ぷっ、ふふ」


「……笑わないでよ!」


 彼女は両手で口を塞いで笑わないようにしている。けど限界はすぐそこで、もうすでに目が笑ってしまっている。


「だって君、ふふ……、抱っこもさせてくれないのに、どうやって、ぷふふ、面倒見るのかな、ってね、ふふっ」


「それも、……うん。その通りだな」


 僕はガックシと項垂れる。彼女の言うとおりだ。僕が子猫に触ろうとすれば引っ掻かれるばかり。面倒なんて見れそうにもない。さっきまでの自分を消してやりたい。


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