第2話 いつかのあの日
「ここをさ、こんな感じにしたらどうかな?」
そう言って彼女はテーブルの上にある五線譜が書かれてある紙に音符を書き込んだ。それを僕はpcの音楽ソフトに入力する。入力された楽譜を簡易的に演奏してくれる便利なソフトだ。
「こんなもんかな」
微調整をして入力された譜面がpcの画面上に出る。繋がれたイヤホンの片方を彼女に渡して、もう片方は自分の耳に着けた。機械的な音がリズムよく流れた。
その日はお互い、昼間に大学の授業やらバイトやらがあったせいで、彼女と顔を合わせたのは六時を回ったぐらいだった。いつも待ち合わせている喫茶店は、夜になるとバーに変わるから、今日は少し家から遠いファミレスで会うことになった。行きつけの喫茶店よりいくらか騒がしいけれどこんなのもたまにはいいかもしれない。僕はコーヒーを頼んで、彼女はココアを選んだ。彼女はコーヒーが苦手だという。
「徹夜するときとかどうしてるの?」
「実はねー、私、徹夜したことないんだ」
彼女は誇らしげに胸をはった。そんな子供っぽいところがより彼女の魅力を際立たせていた。彼女と音楽を作るようになって初めて音楽ソフトなるものを使ってみた。これが思った以上に有能で、僕が弾くギターより良い音を出す。これまで僕は楽譜すら読めなかった。それが今ではある程度だけど理解できるようになったのだ。彼女の影響に違いなかった。
「ねーねー、作詞って何個かもう書いてるの?」
彼女の視線はテーブルに置いてある詞を書いてある手帳だ。手のひらサイズのそれは深緑のカバーがされてある。
「まあ、ね。一応何個かは書いてあるよ」
僕はそう言いながら自然にノートに手をやる。ほんの少し僕の手が早く手帳に触れて、猫パンチのように飛び出した彼女の手には届かなかった。
「むうー、鋭いなあ」
「だから見るのはダメって言ってるだろ。音楽が出来てからでないと見せないって」
「ちょっとぐらい……」
「ダメ」
彼女はバタンとテーブルに突っ伏した。僕は安心の溜息を吐きながら、手のひらサイズの手帳をカバンにしまった。
「でもさー、詞を知ってた方が合った音楽になると思うんだけどなー」
「それが出来なかったらこうしてるんじゃないか」
彼女は恨めしげに見るけれどここだけはまだ譲れない。初め、詞をもとにして曲を後付けしようとした。けれど全然出来なかった。詞のイメージに押されすぎて音楽として成り立たなかったのだ。だから彼女と話し合って先に音楽を作ることにした。
「分かりましたよーだ。でもね、私も大変なんだよ、覚えるの。歌詞が分かるのが遅いからさー」
「それは……分かってるよ」
「ならさー、今日は君の奢りね」
「へっ? いやいやそれとこれとは」
「ふーん」
「わ、分かったよ。今日だけだよ」
と言うわけで今日のお代は僕が持つことになった。財布は軽くなる一方だけど、彼女にはそれを許容させる魅力がある。特に彼女の歌声は格別だ。僕らが作った音楽が想像以上に聴かれたのも彼女の力が大きいだろう。
「よく考えたら、レコーディングはいつでもいいから歌詞を覚える期限なんてないよね」
「……」
チューと彼女は新たに頼んだジュースのストローを吸いながら、器用にも両手で自分の耳を塞いでいる。それでいて僕の方をうかがって、僕が完全に諦めるのを待っている。
「はあ、分かったよ。一度言ったことだ、男に二言はないさ」
「さっすがー、それでこそ我が相棒だよー、なんてね」
僕はやっぱり溜息をつくしかなかった。彼女もそれ以上は僕をからかうことなく真面目に話し合いをした。いやそれまでを適当にしていたわけではないのだけれど、なんと言うか無駄口を叩かずに、と言う意味である。曲作りも順調に進み、気付けば八時を回っていた。
「あっ、もうこんな時間だ」
僕が指摘すると彼女はとても驚いた様子だった。それだけ没頭していたのだろう。とにかくもう帰る時間だった。
「ううー、電車間に合うかなー」
彼女は頬を膨らませながらぼやいた。彼女は自宅住まいで門限が厳しいらしい。
「じゃあ急がないと……」
「んうんんい……」
彼女は残っていた飲み物を片っ端から飲み干した。それぐらい良いのに、と思うけど彼女は許せなかったらしい。
「だって君が奢ってくれるんだよ、残すのはなんか悪いよ」
そう言うので僕はありがとうと苦笑いながら礼を言った。
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