知らない手紙

 それからの僕は、すべてを思い出すことに必死になった。


 毎日資料室に通って僕の過去の英雄譚を読み漁り、訓練場に行って木剣を振る。妹を名乗るあの少女とも何度も話をして、僕の子どもの頃の話を聞き続けた。


 数日すると、自分のことが少しずつわかってきた。記憶を取り戻したという感覚はない。ただ、自分ではない誰かの人生を追体験しているような錯覚に陥る。調べなおした記憶が少しずつ染み込んでいく感覚に酩酊しているような浮遊感を覚える。


「僕の、名前」


 しかし、それでも僕の名前は一向に思い出せなかった。地下の生活はいつが昼でいつが夜かもわからない。それでも数ヶ月、あるいは一年も経っているだろうかという気分になってきた。剣の腕は上達し、自分の過去もほとんど暗記してしまっている。


 本来の自分がこうだったのか。それとももう一度、一から身に着けた技術なのか。そもそも自分は誰なのか。真水をかき混ぜ続けているような虚無を感じ続けていた。


 その日も、いつものように資料室へと足を運んだ。最初に見たときは読み切れるはずもないと思っていたそれも毎日必死に読み進めていくと、数も次第になくなってくる。これほどの英雄譚が僕の体のどこかに残っているかもしれないと思うと誇らしく感じられた。


「昨日はどこまで読み進めたかな」


 書架の上から順に読み始めたのだが、もう最下段が近くなってきている。背表紙も表紙もないから、一冊ずつ中身を確認しなければどこからが続きかわからないのだ。一冊手にとっては中身を見る。だいたいこの辺りと思っても、意外と昨日の記憶は曖昧あいまいだ。こんな記憶力だから自分の名前も忘れてしまう。


 三冊目を手にとろうとして、ふと足元に何かが落ちているのに気がついた。よく見ると落ちているというよりも挟まっていると言った方が正しい。書架の足に封筒のようなものが噛んでいるのだ。最初は転倒防止用に噛ませているのかと思ったが、それなら封筒なんて使わないだろう。


 何か気になる。そうだ、ここは僕の資料が置いてあるから入ることのできる人間は限られている。誰が挟んだのか、いつから挟んであったのか。昨日のことも曖昧な僕には思い出しようもなかった。


「中を見たいな」


 魔力のような好奇心に駆られて、僕は封筒を引き抜こうとした。重い書架に挟まれた封筒は簡単には引き抜けそうにない。


「いったいどうやって挟んだんだ?」


 強く書架を押しながらふと考える。僕一人で簡単に動かないこの書架を持ち上げなければここに何かを入れることはできない。つまりこの封筒は落ちているんじゃない。誰かが意図的にここに置いたのだ。


 取り出さなくては。ここには何か、重要なものが隠れているに違いない。僕は資料室の中を探す。ふと目に留まった剣の鞘と兜を持ってきた。剣の鞘を書架の隙間に差し込み、兜を支えにして鞘を押し下げる。少し浮いた瞬間にすばやく足で封筒を踏んで引き寄せた。


 宛名も何もないシンプルな白い封筒だった。踏まれていたせいで少し汚れていたが、封のされていない中には一枚の手紙が入っていた。


『あなたの名前を私は知っています。もしも自分の名前を知りたいのであれば、夕食後に浴場の脱衣所に来てください』


 筆跡は女性のようだったが、誰が書いたのかなどわかるはずもない。とにかく行ってみるしかこの先を知る方法はない。


「それにしても、僕の名前を知っている、か」


 いったい誰なんだろう。そしてどうしていまさらになって僕の名前を教えようとするんだろう。この地下の中で誰一人、僕の名前を口に出そうとする人はいなかったのに。


 いや、そんなことよりも僕の名前だ。僕の名前さえわかれば記憶もすっかり戻るかもしれない。そうすればこの地下から出て、僕は英雄として国から大きな名誉が与えられるのだ。この辛い地下暮らしにも別れを告げることができる。


 夕食まではまだ時間がある。僕は封筒を服の内側に隠し、周囲に悟られないように普段通り過ごしながら夜を待った。


 夕食を終えて、一度部屋に戻って様子を見た後、僕は浴場に向かって歩き出した。夕食が終わると五十一番をはじめとした白衣たちはどこかに消えてしまう。恐らく地上に上がっているのだろう。眠っている間も巡回される方が気持ちが悪いので構わないのだが、今日は特にありがたい。


 壁に張りついて隠れて先を覗きつつ浴場へと向かっていたが、やはり誰にも会わなかった。あんな意味深な手紙があると罠でもあるんじゃないかと考えてしまったけど、どうやら考えすぎだったみたいだ。


 脱衣所に入るとやや小柄な人影が見えた。警戒を怠らないように全身に気を張りながら、ゆっくりと近づいていく。


「お待ちしておりました。手紙を見つけてくださったんですね」


 柔和な笑顔を浮かべて立っていたのは、初日に僕を気にしていたメイド服の妙齢、二十八番だった。

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