知らない剣術

「いかがでしたか?」


 いつの間にか僕の後ろに五十一番が立っていた。扉が開いた音もした覚えがない。はっとして身構えるように体を半身に背け、距離をとった。ずっと下手に出ている態度であまり気にならなかったが、この男は妙な威圧感がある。肩幅も広く、白衣から覗く手のひらは硬く、体の厚みも僕の倍はありそうだ。英雄と呼ばれるなら五十一番の方が似合っていそうだ。


「すみませんが、やっぱり何も」


 妙な威圧感を一度覚えると気が引けてしまう。思い出せない罪悪感が急に大きくなってくる。五十一番の伏し目がちな表情さえも怒りが漏れているように感じられた。


「そうですか、残念です」


 苦々しく眉間にしわを寄せながら、五十一番はうつむく。少し考え込んだ後に、僕の目をまっすぐに見て言った。


「剣術の訓練場がありますので、そちらに行ってみませんか?」


「訓練場ですか?」


「そちらの資料にあります通り、あなた様は自らの傷も厭わず戦い続けてきたお方です。剣をとれば何か思い出すかもしれないと思いまして」


 五十一番の言っていることは筋が通っている。その目には怒りは感じられなかった。先ほどの威圧感は僕の勘違いだったのか。僕はゆっくりとうなずくと、五十一番の後について、資料室よりさらに下の階へと案内された。


 豪華な食堂や浴場と違い、こちらは急ごしらえのような雰囲気がある。レンガを積み上げて隙間を粘土で固めた壁、足元は踏み固めただけの土、明かりは簡素なガラスに包まれた松明のような火が灯っているものだった。まるで数百年ほど昔に行ってしまったような気分になる。


 突き当りを三度曲がっていくと、扉もない部屋に通された。物のほとんどない広い部屋で足元は土からウッドチップが敷き詰められた柔らかいものに変わっていた。転んでもケガをしないようにするためだろうか。壁には練習用らしい木剣や盾がかけられている。奥には一人、鎧を身に着けて兜をつけた顔もわからない人が座っていた。


 僕を見るなりゆっくりと立ち上がって、足元に置いていた木剣と盾をとる。無言のままでこちらに剣を構える姿があまりに無機質で足がすくんでしまう。


「さぁ、こちらの剣をお使いください」


 そう言って五十一番は壁にかけられた木剣を示すが、僕はまったくその使い方も戦い方も思い出せそうになかった。


「あの、鎧を」


「必要ですか? あなた様なら不要かと思っていたのですが」


「そんなむちゃくちゃな」


 五十一番は不思議そうな顔をして、僕の全身を頭の先から足先までじっくりと見た。まるで初めて見る動物を観察しているようだ。白衣を着ていることもあって、何かの学者のようにも見える。


「いえ、あなた様ならきっと大丈夫でしょう。木剣ですので万が一ということもありませんよ」


 五十一番はそんなことを言って、僕の背中をぐいと押した。筋骨隆々の五十一番に押されては抵抗のしようもない。剣を構えたまま動かない鎧剣士の真似をするように、壁にかかった木剣と盾をつかんで同じように構えた。


 もし僕が本当の英雄であるなら早く思い出してほしい。どうすれば相手を倒せるのか、どうすれば攻撃から身を守れるのか。考えても考えても何も浮かんでは来ない。


 少しためらっていた鎧剣士が意を決して飛び込んでくる。どうしていいかわからずに剣も盾もなく両手で頭をかばうように振り上げた。鎧剣士が振り上げた木剣はフェイントだった。無防備な僕の腹に盾が叩きつけられる。肺の中の空気が逃げ出して脳が痺れた。腕が一気に重くなり頭を守ろうにも腕が上がらない。


 振り回すように横に薙いだ木剣が僕の頭を捉える。僕は防具もつけていないというのに少しも容赦のない一撃だった。最初の盾攻撃ですでにぼんやりしていた僕が耐えられるはずもない。


 万が一はない、なんて言っていたが、そんなことはない。死ぬ、という言葉が薄れた意識の中で渦巻いている。一瞬で意識が途切れて、その後自分の体がどうなったのかすらわからなかった。


 目が覚めたとき、僕は立っているのか倒れているのかすらわからなかった。少しずつ体の感覚が戻ってきて、自分はまだ訓練場に立っているのだと気付いた。ピントのズレていた視界が少しずつはっきりしてくる。


 僕の足元には鎧剣士がぐったりとして倒れていた。


「あれ?」


「素晴らしい戦いでした。なんという剣さばき。あなた様には盾など不要でしたね」


 確かに木剣を打ちつけられたときは右手に盾を持っていたはずなのだが、今は空いている。手や額には脂汗が滲み、少し痺れる手が僕が鎧剣士に剣を振るったことを証言しているようだった。


「まずはこの人の治療を」


「おっと、そうでした。お優しいですね」


 五十一番が訓練場の入り口から顔を出すと、すぐに白衣とメイド服が入ってきて、鎧剣士を連れていった。


「あの剣さばき、もうお名前は思い出せましたか?」


「いえ、それに本当に僕が勝ったんですか?」


「もちろんです。英雄らしい素晴らしい剣技。おみそれしました」


 僕は狐につままれたような気分で、五十一番の話を聞いていた。僕は何も思い出せないが、体は覚えていたんだろうか。まったく見ていたわけではないけど、ただの木剣で鎧を着た剣士を昏倒させるなんて並大抵の腕じゃないはずだ。


 僕は本当に英雄なのではないか。


 今まで頭の片隅で否定してきた疑念が蝋燭ろうそくの火を吹いたように消える。


 そうか、僕は英雄なんだ。この世界で誰にも負けない英雄。今は記憶こそ失っているが、この体はしっかりと覚えているのだ。あとは脳が思い出すだけだ。そうすれば地下暮らしを抜け出し、栄光と賞賛を全身に受けることができるのだ。

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