サバンナのある一日

村野一太

サバンナのある一日

 サバンナのある一日が終わろうとしている。西の地平には大きな太陽がぷるぷると地上から消えようとしている。東の地平には紫色の空にぽつぽつと光るものが見える。

 おんぎゃーおんぎゃーおんぎゃー

「生まれたわッ」

 シマウマのシマ子は母ちゃんの元に走った。産婆がシマ子を見てにこりと笑った。

「よかったわね、弟よ。あんたは今日からお姉さんよ」

 シマ子は嬉しさを噛み殺し、お姉さんとしての視線を、今生まれてきたばかりのぬちゃぬちゃした生き物に、凛として注いだ。おでこに「肉」のような模様があり、可愛らしかった。

 弟はすぐに立とうともがき始めた。シマ子はそんな弟の姿をまばたきもせずに見続けた。

「もう少しよ、がんばって、あなたなら大丈夫よ、さあ、立って姉ちゃんの所に来なさい」

 しかし、弟はなかなか立つことができなかった。

「おかしいな……」

 父ちゃんが煙草をくわえながらやって来た。

「もうそろそろ立ってもらわなくちゃならねえんだけどな」

 父ちゃんは煙草の煙を鼻から出しながら、弟を、故障した車を見るかのように、じろじろと観察した。

「いけねえやッ!コイツ、足が三本しかねえずらッ、これじゃ、いつまでたっても立てねえや。このメス豚、不良品なんて、産みやがって!」

 とぐったりしている母ちゃんを怒鳴った。

 産婆はいつの間にかいなくなっていた。

「おい、シマ子、酒持ってこい」

 シマ子はその言葉を無視して、立とうともがき続ける弟を見続けた。立っては倒れ、立っては倒れる弟を見続けた。

「おい、シマ子、酒持ってこい。いくら見てても無駄だ、コイツは立てねえよ、一生な。ゴミだッ。オラたちはこいつを群れに入れるわけにはいけねえや」

「じゃあ、どうするの、アタイの弟」

「捨てるんだよ、ここに。あたりめえのこと言わすんじゃねえや」

「そんなのイヤ!イヤよ!」

 父ちゃんは無視して、どこかに消えていった。そして、一升瓶を持って再び現れた。

「いいか、シマ子、よく聞けよ」

 父ちゃんは一升瓶をあおり、続けた、

「ここではな、三本足のシマウマは生き延びれねえんだ、それくらいわかんだろ。昨日だって、親戚のミチコおばさんがライオンに喰われちまっただろ、忘れたのか、えっ?足が四本でも足りねえくれえだ、チクショーメッ」

 父ちゃんは再び一升瓶をあおった。

「オラがだな、群れ長さんに、オメエの弟を群れに入れるよう頼んだところで断られるに決まってんだろ、まったくッ。仮にだぞ、かりに、群れ長さんが、いいよ、と言ってもだな、周りが黙ってねえや、なんといっても、民主主義だからな、この群れは。全滅のリスクを背負ってまで、オメエの弟を群れに加えると思うか?年貢の無駄遣いだ、って叫ばれて終わりだ。わかったら、あきらめて、寝ろ、明日は早朝から南の『新島々湿原』に行くみてえだぞ」

 シマ子は父ちゃんの話を聞いていると、涙が流れてきた。泣いているつもりはないのだが、涙が勝手にあふれてくるのだ。

 

 翌朝、天と地のすき間を太陽がこじ開けようとしている。鳥がギャーギャーと朝を告げている。サバンナのある一日が始まろうとしている。

 シマ子が目を覚ますと、弟はいなくなっていた。

 父ちゃんは、ライオンにでも喰われたんだろ、と言っていたが、夜にライオン警報は鳴らなかったので、その可能性はない。もしかしたら、父ちゃんが殺したのか、それとも群れの奴らが殺したのか。

 シマ子には何が起こったのかわからなかったが、死んでいることはなんとなくわかった。いや、生きていたとしても、死んでいるのとあまり変わらない。すぐに死ぬだろう。

 シマ子は、そんなことを冷静に考える自分自身のことが怖くなった。弟が失踪したというのに、それは、ここサバンナにおいては、当然のこととして、悲しみをそそる出来事にはならないのだった。

 当然のように群れについていき、草を食べ、水を飲み、そして、太陽は沈んでいった。

 そのうち、弟の生誕そのものが曖昧なものになっていった。


 十年後

 シマ子のスマホが「ライオン注意報」を知らせた。しかし、それは遠くの注意報でシマ子には関係のないことだった。

 ニュース欄をぱらぱらと眺めていると、パラリンピックの記事にシマ子の目が釘付けになった。

『チーター、100m走三本足クラス、二大会連続の金メダル』

 シマ子が見ていたのはそれではない。

『シマウマ、100m走三本足クラス、銀メダル、シマウマ初の快挙』

 シマ子はその銀メダルを首からぶら下げているシマウマの写真をじっと見つめた。

「もしかして……」

 銀メダリストのおでこに「肉」の模様があったのだ。

 シマ子の十年という、まったく同じ日々を一瞬にして消し去り、あの弟が生まれた日に記憶がもどった。

「そんなことってあるのかしら……」

 シマ子は弟のレースの動画を観た。三本足だが、ちゃんと立って、地を懸命に蹴っていた。速い。シマ子より速い。そのレースをシマ子は繰り返し観た。

 出所不明の涙が再びあふれ出した。

 弟に会いたい。訊きたいこともたくさんある。そして、姉ちゃん、と呼んでほしい。

 しかし、シマ子にそのような願いを持つ資格がないことくらいわかっていた。

「アタイは弟を捨てたのだ……、自立できないと決めつけ、捨てたのだ。自立できないと生きられない、いや、生きる価値がないと決めつけ、群れにとって邪魔者だからと決めつけ、捨てたのだ。アタイが捨てたわけじゃない、でも、捨てたのと同じことなんだ」

 シマ子はたまらなくなりスマホを放り投げた。

「しかし、じゃあ、アタイは自立しているのか。アタイは一匹でこのサバンナを生き延びることができるのか。アタイだけじゃない、父ちゃんはできるのか、母ちゃんはできるのか、群れ長さんは?群れに群がるへのへのもへじ共は?」

 シマ子は、群れのシステムに生かされている。みんな、群れのシステムに生かされている。誰も、一匹では生き延びられないのだ。

 いや、一匹だけ生き延びた。弟だ。三本足の弟だ。

 そして、シマウマには無理だと言われていた、短距離走で表彰台に昇ってしまったのだ。

 シマ子はスマホを拾い、再び弟を見つめた。

 銀メダルを受け取る弟の笑顔に、擦れたところや卑屈さは全く感じられなかった。その笑顔は、強く、優しく、「誰に何と言われようが生き延びてやる」「群れに加えてもらえなくても生き延びてやる」という強い意思を表明していた。その目の奥にあるドスの効いた漆黒の光りは、ライオンの目より、恐ろしかった。

 その恐ろしい目を、シマ子はまばたきもせず、見続けた。怖かったが、見続けた。見続けることで、自分の罪が少しでも軽くなることを願って……

 

 サバンナのある一日が終わろうとしている。群れのシステムがギシギシと回り続けている。異物が潤滑油になることもありえるのだが、群れは、異物を受け入れないまま、サバンナのある一日は終わっていった。

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サバンナのある一日 村野一太 @muranoichita

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