§   修道院

きっかけも始まりも分からない。

もう気づいた時にはここにいた。

一つ覚えているのは、ずいぶん前、ここに初めて連れてこられた時のこと。

陽の光に輝くステンドグラス。その光を背に受けて、聖堂を見渡す白い女神像。

そこにある全てのものが眩しくて、思わず目を瞑りたくなった。


成長してからもそれは同じ。

真っ白な空間の中で、私は育った。

ただひたすらに聖堂で祈り続ける日々。

親は知らない。後に、火事で亡くなったのだと教えられた。

私が両親と暮らしていたのは、物心つく前だったと思う。

朧気に覚えているのは、大好きだった絵本を読んでもらった思い出。

それと、開いた扉の前で私を振り返って見る母親の姿。

記憶の中では、母親の口元が僅かに動いて、私に何か言っているようだったけど、なんと言っていたのかは思い出せない。

もしかしたら、それ自体夢だったのかもしれないと、心の何処かで思っていた。


なんて言っていたんだろう。

遠い両親に思いを馳せもした。

きっと優しい人だったんだろうな。私はその人たちに愛されて、幸せに生きていたに違いない。

幸せに……

私の名前を呼んでくれる声も、頭を撫でてくれる温かい手も、思い出そうとするともやがかかって遠ざかっていく。

まるで始めからなかったかのように。


修道院は、どうしてか私には冷たくて、周りの修道女も孤児も、私を避けているようだった。

皆あからさまに私を嫌う素振りは見せなかったけれど、うちに隠した憎悪や怒り、あるいは憐憫が、ひしひしと感じられた。

表面だけ笑顔で取り繕って、その裏では何を考えているのか分からない。

そんな人間に対して、唯一私にできたのは、自分を偽ること。

目の前の人間が、笑顔の仮面を被っているのなら、こちらも仮面で本心を覆い隠してしまえばいい。

そうして神を信じ、真面目で従順な少女を演じるのだ。


ある日、私は院長先生に呼び出された。

聞けば町外れにある教会の管理人が亡くなったらしい。そこで私に、代わりに教会の管理人をしてほしいという。

要点だけを淡々と語る院長。何故私なのかと言うと、院長は少し迷った後に答えた。

〝神の思し召し〟だと。

私はそれを聞いて悟った。

本当は、この人は私を体よく厄介払いしたいだけなのだと。

私は黙ってうなずいた。


その教会には一度だけ行ったことがある。確かその日は収穫祭のために、修道院の孤児たちで林檎を収穫しに行った日だ。

思い返すと、馬鹿みたいにはしゃいでいた自分が腹立たしくなる。

何も知らないで笑っていた頃の、自分。

一番愚かで、一番幸せだった。

「着きましたよ」

乗り慣れない馬車に揺られて辿り着いたのは、小さな教会。

周囲は森で、人の気配はない。庭には背の高い林檎の木が数本、植えられている。

それを見た瞬間、私は動けなくなった。

今目の前のこの場所と、記憶の中の小景が、重なって、重なって。

頭の奥底に沈めていた記憶が、まばゆく輝きだした。


『あはは』

『あはははは』

子供たちの笑い声。

その中に立つ、自分の姿。

和気あいあいと、鮮やかな林檎が籠の中に積まれていく。

『皆、お疲れ様』

修道女が優しく子供たちに言うと、子供たちは嬉しそうに彼女の傍に集まる。

よく見ると、順番にご褒美の林檎を受け取っていたようだ。

『はい、貴女も』

幼い私に林檎を差し出す修道女。私は、きょとんとして、修道女に問う。

『いいの?』

『ええ。頑張った人にはご褒美をあげないとね』

そう神様も仰っているから。

修道女の何気ない一言に、私は首を傾げる。

『神様なんていないよ?』

気づく間もなく、一瞬にして場の空気が凍った。

差し出された林檎を受け取ろうと手を伸ばすと、修道女は慌ててその林檎を自らの方に引き寄せる。

『……やっぱり、これは木守りにしましょう』


多分、その時の私は覚えていたのだ。

扉の前で、母親が自分になんと言ったのか。

否、本当は今までだってずっと分かっていた。

分かっていて、知らないふりをした。

あの時母親が言った言葉。

『神様がなんとかしてくれるわ』

留守番をするのは、一人は嫌だと喚く私にうんざりとしながら、言い放った言葉。

私が夢見ていた幸せな日々は、ただの虚像でしかなかった。

私は、愛されてなんていなかった。

でも当時の私は信じていた。

何時か神様が、両親の心を変えてくれる。

私を、愛される子にしてくれる、と。

……けれど、神様とやらは何もしてはくれなかった。

両親は、私を置いていなくなってしまった。







ほら、神なんて、いないじゃないか。

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