第十二話 目覚める親友

 それを知ったのは出張から帰ってきた晩の事だった。

 出張とかをした時は宏之の所にはよらず直接自宅に帰宅する事が多かった。

 今日も直に家へと向かっていた。


~ 2004年8月7日、土曜日 ~

 小さなロケバスの後部座席で私は寝ていた。

 そのバスは私の家に向ってくれていた。

 隣には綾が座っている。

 そんな彼女に凭れ掛けながら仕事疲れで眠っていたわ。

 彼女も同じように。そして、私は夢を見ていた。

 夢の中の私は海、湖、河川、プール、どこかは分からないけど、水の中で漂い目を閉じていた。

 私の口から漏れる息。それが小さな泡を無数に作り、水上へと向かってゆく。

 苦しくはない。

 目を見開き、泡の行方を私の瞳は追っていた。

 凄く澄んだ水の色。

 どのくらい深い位置に私が居るのかなんて知らない。

 でも、空の青さも、流れる雲もはっきりとその場所から眺めることが出来た。そして、私は夢の中で、その清く澄んだ水の中で泳ぎだす。

 泳いでは休み、泳いでは休み、そんな繰り返しをしていた。

 時折、体の正面を空のほうへ向け、私追うように流れていた雲を見つめていた。

 いくつもあった雲、その形が次第に変化してゆく、色までも白から、人が持つ肌の色へと。

 やがてその形がはっきりとした物に変わっていた。

 微笑む春香、陽気そうな宏之、朗らかな慎治、淑やかそうに表情を緩める詩織、活気に満ちた翠の顔。

 みんなそんな顔を私に向け、何かを口にしている・・・。

〝頑張れ、頑張れって〟そんな風に私には聞こえて来たわ。だから、私はまた夢の中を必死に泳ぎだす。

 また、私自身では分からないくらいの距離を泳ぎきっていた。

 再び、水中越しに空を向く。みんなの顔があった。

 私に安らぎを与えてくれるみんなの顔が・・・、・・・、・・・、でも、その顔が徐々に形を失って、元のぐにゃりとした雲の形に戻ってゆく。

 一瞬凄く不安になった。だけど、直ぐにまた一つの大きな造形を作り始めた。

 それはアイツの顔、バカっぽそうで能天気な男幼馴染の顔、貴斗の少年の頃の表情だった。

 他の誰よりも、私自身を偽らないで、素のままの素直な私自身を曝け出すことが出来るアイツのその表情。

 その一番に私の心を満たしてくれる彼の顔が急に、急速に遠のいて行く。

 初めは彼のほうから遠ざかっていってしまうんだと思っていたわ。でも違った。私の方が水中のさらに深くへと落ちていた。

 突然、私の口から漏れる息が薄くなっていた。それとともに私の意識も。

 私の体が徐々に小さくなって行く、今の大人の体の私から、高校生、中学生、小学生、幼稚園、四歳くらいの私へと。

 泳げなかった頃の私へと。

 私は水中で体全身をばたつかせもがいていた。

 溺れていた。

 私、このまま死んじゃうの?

 あっ、もう私・・・、完全に意識が途切れる私、虚ろのな瞳の私、そんな私が認識できる訳ないけど、必死な顔で沈んでゆく私を追いかけてくるアイツの顔が見えたような気がする。

 アイツの体の一部から紅い靄が水に溶け出していた。

 そこで私の意識が完全に途切れたの・・・、・・・、・・・。

 それは私の遠い記憶。

 詩織、貴斗、それと私達の家族ぐるみで向かった旅行先の海での私が溺れた事件。

 私を助けてくれたのは剣パパってことになっていたけど、本当それは嘘。

 本当に溺れている私を助けてくれたのは脇腹を怪我していた貴斗と、彼の兄、龍一さんだった。

 私や詩織が危機に瀕している時、殆ど、必ずといっていいほど助けに来てくれるその二人の兄弟。でも、兄と違って弟の方は彼自身がどんなに傷ついていても、傷を負っていても彼の動きを止め様としない事を知ったのはずいぶんと後になってからのことだった。だから、私や詩織は知らず、知らず、何度も、私達の所為で、あいつを危険な目に合わせちゃっていた。

「香澄様ぁ~~~、お家に到着いたしましたの。お早くお目覚めになってくださいなぁ」

 綾の言葉で夢心地だった私を現実に目覚めさせた。

 最後は最悪な展開だったけどね。

「あんがとっ、あやぁ。そんじゃ、明々後日、また仕事場で会おうねぇ。皆さん、それではおさきにしつれぇしまぁ~~~っす」

 綾とバスの中に居るスタッフにそう告げると手を振ってバスから出ていた。

「はぅ~~~、あッついわねぇ、さっさと家に入ってビールでものもぉ~~~ッと」

 夜でも涼しくなる事のないこの暑さを解消させたくてそんな事を言いながら家の玄関の扉に手を掛けた。

『ガラ、ガラ、ガラァ~~~』

「ただいまぁ~~~」

 玄関の引き戸の音と一緒に私が帰ってきたのを知らせる為そんな言葉を出していた。

「おぉ、香澄かお帰り」

「剣パパ、ただいまぁ」

「ふふっ、出張が終われば、そのまま、彼のところへ向かうと思っていたのですけど・・・?ああぁ、そうだった、香澄、詩織君から託を頼まれていてね『お帰りになりましたらご連絡をください』って言われていたんだ。少し休んでから彼女に連絡してあげなさい」

「はぁ~~~い、それじゃビールを軽く一杯飲んでからそうするわ。それとパパには宏之のこと関係ないでしょぉ~~~だっ」

「そうでしたね、恋愛は自由ですから香澄のしたいようにしなさい。ですが、どのような事情になっても私は知りませんから、真登香にも泣き言を言わないように。あっとそれと、丁度よかった。貰い物で地ビールと言うものを頂いていましてね、口当たりがいいから試して見なさい」

「有難う、パパ。物分りのいいパパ大好きっ、チュッ」

「うっ、嬉しいですけど、よしなさい。真登香に見られたら・・・」

「クククッ、パッたらかわゆぅ~~~いっ」

 そう答えを返すとうろたえている剣パパをその場所に放置してさっそく台所に向かい冷蔵庫をあけそのパパが言っていたビールを探した。

 判り易い変わった缶だったから直ぐ見つける事が出来た。

『ゴクンッ、ウッングッ、ゴキュッ、プハァーーーーーーっ』

「ううぅ~~~ン、私はこの一杯の為に頑張って仕事してんのよねぇ」

 なぁ~~~んてオジサンみたいな台詞を口にして空になった空き缶を専用のゴミ箱の中に放り込んだ。

 その一杯で直ぐにほろ酔い気分になってしまった。

 こんな状態のまま、詩織に連絡を入れると彼女が私の家にやって来た。

「こんばんは香澄、お仕事の疲れは大丈夫なのですか?」

「なれてるから心配ないわぁ~~~、それより上がったぁ~、上がったぁ~~~」

 そう言って自室に幼馴染みを通した。

 部屋は家の広さもあって一五畳の和室を与えられている。

 詩織と違ってあんまり物持ちじゃないから無駄なスペースが結構あるわね。

 掃除も大変だったらありゃしないわ・・・

 私は畳の上に夏用の座布団を敷いてその上に座って足を伸ばした。

 詩織は私が出したそれに可愛らしく正座する。

 丁度その時、真登香ママが私の所へやって来た。

「詩織さん、いらっしゃい。大した物ではないですけど、こちらをどうぞ」

 ママはそう言って詩織に冷やしてある緑茶と彼女が経営している手作り和菓子店で売っているそれを差し出していた。

「真登香おばさま、ありがたく頂かせてもらいます」

「それではごゆっくりしていってくださいまし」

 ママはそう口にすると軽く微笑みながらここから出て行った。

「しおりン、ところでアタシに話したい事があるって言ってたけど?」

「そうでしたわね・・・。・・・、・・・・・・、・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・・・、春香が」

 その後、詩織が報せてくれた事に驚き、嬉しくなると同時に何か言い知れない不安も感じてしまったわ。

「しおりン、それ本当?だったら明日さっそく見舞いに行かなくちゃ、明日、明後日は出張明けだからお休みなのよ」

「それでは私も香澄にお供致しますね。ただ・・・」

「ただ、何よ、言いたい事があるならはっきり言ってちょぉ~~~だぁ~~~いっ」

 詩織のためらいの表情を見た私は彼女に抱き着きその体をくすぐってそう言った。

「やめてったら、香澄どこを触ってるのよぉ~~~ばかぁ、お話しますから止めてください」

 私のくすぐり攻撃に堪えられなくなった彼女は口篭もっていた事を話す気になったようだ。だから、その手を止め聞く体勢に入いる。

「ッで?何を言いはぐってたの」

「香澄、冷静に聞いてくださいね」

 詩織がそう言ったから表面上はそうしていたけど内心は酷く動揺していた。

 驚く事を二つ聞かされた。

 それは春香の容態について彼女、目を覚ましたのはいいんだけど何らかの認識障害があって今が2004年である事を判っていないらしいわ。

 それと私のいない間に宏之が毎日、春香の見舞いに行っているって言うこと。

 宏之については何となく予想はついていたからそれ程心を乱す事がなかった。

 春香の事は・・・、あんまりにも可哀想だわ。

 せっかく目を覚ましたのにそれじゃあんまりよ。

 それとそれらとは別のもう一つ驚く事を聞かせてもらった。それは貴斗の事だった。

 彼が毎日見舞いに行く理由、それは宏之のためだったらしいわ。

 私と宏之は恋人同士なのに貴斗は今でも宏之と春香の関係を信じているみたい。

 なんだか腹が立つ。

 この前街中であんな事を私に聞かせたくせにどう言う積りよっ。

「お話はこれで終わり、私そろそろ帰らせていただきますね。明日、私、午後から用事がありますから春香のお見舞いには9時ごろ向かいましょう」

「わかったわ、了解よ!」

 そう言葉を返して詩織を玄関口まで送って彼女と別れた。


~ 2004年8月8日、日曜日 ~

 今朝、春香の所へ行く為に詩織が私の所へ迎えに来てくれた。

 彼女と一緒に駅前の生花店によって見舞い用の花を買いそこからバスに乗って国立済世総合病院へと向かったわ。

 病室に入る前、幼馴染みに二つ、三つ注意事を促されていた。そして、その中に声を掛けながら入室する。

「春香、お見舞いに来たわよ」

「私も、およばせながら参上させていただきました」

「しおりン、なんか言葉が変よ」

「そうかしら?」

「香澄ちゃん、やっと来てくれたのねぇ、ついでに詩織ちゃんも」

「ハァ、お酷いですわ、私はついでなのですね、春香ちゃん」

「しおりン、そんな事を気にするなんてぇ~~~、小さい、小さい」

「二人ともお見舞いに来てくれて有難うね」

 春香、何となく雰囲気が違うのは詩織が言っていた障害のため?

 そんな風に怪訝に思いながら周囲を見渡す。

 すると今の時間帯、居る筈も無い私の恋人がそこに居た。

「何で、宏之、アンタがここにいるのよ?今日バ・・・、アガガガァ」

「さっき、ご注意したはずでしょ、何がありましても驚かないでくださいねって」

 言い掛けていた言葉を途中で幼馴染みの詩織によって阻止されてしまった。

 私の耳元で小さくそう注意されちゃったわ。

「こんにちは柏木君」

「ハハッ、甲斐性なしのアンタがここにいるの、珍しいわね」

「甲斐性なしで悪かったな、俺は貴斗よりましだと思うぞ」

〈今の貴斗と比べたら誰だって甲斐性あるように見えるわよ、宏之の馬鹿!〉

「ハァ~~~、柏木君もそう思いますか貴斗君の事?」

「ウフフフフフフッ」

「アハハハッ、しょげない、しょげないしおりン」

 そんな現実じみた詩織のその言い草に春香は昔と同じような笑いを私に見せてくれた。

 落ち込む幼馴染みを励ましてあげたわ。

「今日もその藤原君は詩織ちゃんと一緒じゃないのね」

「ごめんなさい。貴斗君、バイトでお忙しいですから」

〈貴斗のあの馬鹿は少しでもしおりンの傍にいてあげようとは思わないの?昔の彼だったら絶対ありえない事だわ。それが恋人同士って関係じゃなくても〉

 しばらくの沈黙が訪れると春香に異変が起きた。

 それを見るまでは詩織から聞かされていた事は半信半疑だったけど現実はそれを突き付ける様に示してくる。そう、春香は私達の目の前で一瞬気を失う。

「・・・・、エッと今私なんて言ってたんだっけ・・・、・・・、・・・。あれれれれ?皆いつここに来てくれたの?」

 私は、春香のその姿を間近で見た時、心が軋んだ、痛かった。

 私のやってしまったあの行いは、春香が目覚めてくれても、彼女を傷つけてしまっていたの・・・。

〈嫌ぁーーーっ、せっかく春香、目覚めたのに・・・〉

 私は本当は泣き崩れてしまいそうだったけど、傍に詩織が居てくれたお陰で、我慢して、心の中だけで、慟哭していたわ。


*   *   *


 春香の異常な症状を前にして冷静ではいられなかったけど、詩織がそんな私をフォローしてくれたから最悪な事態になる事は無かったわ。

 それから、暫くして私達の前に春香の妹、翠が登場した。

「どうしてアナタがいるんですか?」

 彼女の姉の前でも嫌悪感を隠さず彼女は私にそう聞いてきた。

「あたり前の事を聞かないで翠。アタシは春香の親友よ!見舞いに来て当然でしょう?」

「アナタ、貴女ハッ、ホントに本当にそう思ってるんですか?」

 春香が事故に遭う前は私の事凄く慕ってくれたのに今では宏之の事もあって私の事を酷く嫌っていた。

 私と翠の間には今、大きな溝が出来ている・・・。でも、私はその溝を今までほったらかしにしていたわ。

 宏之の事しか頭になかったから・・・。

「翠ちゃん・・・・・・」

「翠、いい加減にしなさい、あなた何言っているか分かっているの?」

「だって、おねえちゃんっ!」

「いいから、翠はだまってなさいっ!」

 たまにしか見ることの出来ない春香の本気で怒った顔、其れを向けられた翠は口を尖らせて、不貞腐れるように姉に従った。

「いいのよ、春香。あんたは気にしなくて」

 現実を何も知らない春香はそう言って私をかばってくれる。だけど、どうしようもなく惨めな気分になってしまう。だから私は彼女にそう答えていたわ。

「でっ、でもぉ」

「香澄がそういうのですから春香ちゃんはご心配しないで」

「春香、私もしおりンも用事があるからそろそろ帰るわ」

「えっアッ、いけないスッカリ、お忘れしていました」

 自分の時計を見て幼馴染みにそれを知らせてあげた。

 病室の外に出るとやり場の無い色々な感情のせいで宏之に食って掛かっていた。

「どうして、今この時間バイトのはずでしょ?」

「バイトの時間はずらしてある。何でそんな怒った風に言うだよ」

「別に怒ってなんていないわよ」

「何だよ、その言い方は?俺が春香の見舞いに来ちゃ行けないのか?」

「そんな事、言ってないでしょ!」

「あぁ、言っている、言っているよ、言葉に出さなくてもお前の口調がなっ」

 宏之のその言葉に今の自分が本当にそうなっているのに気付く。

「そんな事・・・、ないわよ。それより、宏之アンタ毎日ここへ来てるんだって?春香には私とあんたの関係、伝えてくれたの?」

「まだだ!まだ言ってない」

「何でよ!約束したじゃない。春香が目を覚ましたら一番にその事を宏之から伝えてくれるって。どうして、言ってくれないの?」

 いつの間にか感情の赴くまま言いたい事を口にしてしまった。

 今の春香にそんな事を伝えてみた所で意味が無いのを頭の中で判っているのに涙を流しながら宏之にそう言ってしまっていた。

「俺もすぐそうしようと思ったよ!だけどあんな状態の春香にそんな事、言って意味あるのか?」

「それは・・・・・・」

〈宏之・・・、アンタもちゃんとそれわかってんだね・・・、ごめんなさい〉

「そうよ、香澄少し落ち着きなさい」

「しおりン」

 詩織は取り乱している私の抱きしめ、優しい口調で私を宥めてくれる。

「今は言えないけど、春香がもう少し状態が良くなったら必ず伝えるから。香澄・・・、それまで待っててくれ」

「宏之がそう言ってくれるなら・・・、わかった」

〈わがまま言ってごめんなさい宏之〉

「香澄、すまん、それとありがう。それじゃ、俺今からバイト行くから。藤宮さん、香澄の事よろしく」

 病院の外に出ると宏之はそう言って私の元から離れて行ってしまう。

「香澄、元気出してください、辛いのは貴女ばかりではないのですよ」

「しおりン、ごめんね、泣き言みたいなまねしちゃて・・・。アンタの方がもっと苦労しているはずなのに」

「いいのよ、気にしないで。私はそれでも貴斗の事をお慕いしておりますから」

 私の幼馴染みは本当に健気だった。

 詩織の事を少し見習わないといけないようね。

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