第6話悪い人ではない④
スマイル、という英単語がある。意味としては、笑顔を指し、決して形あるものではない。況してや、飲食物でもない。
当店では、そんな形而上的事物をサービスとして取り扱っている。価格は0円。無料。オールフリー。
これは、『食で笑顔を』という本社が掲げている社訓によるところであり、謂わば企業理念に過ぎない。サービスと銘打っているものの、ただのスタンスの現われであり商品などではない。ただの飾りだ。それ故に、メニュー表にも隅っこの方に掲載されている。
僕が何を言いたいのかというと……。
「あとぉ、スマイルひとつください!」
「は?」
つまり、本来なら滅多に注文されないようなものだということだ。
眼前の、如何にもギャルといった風貌をした女子が携帯をこちらに向けながら馬鹿丸出しで笑っている。してやったりといった表情がこれ以上なくうざったい。
適当に笑ってやればいいのだが……そんなものを頼んでも腹は膨れない、お前の自己満足に過ぎないだろ、そんなものに付き合わせるな、そもそもカメラを向けるな肖像権の侵害だぞと毒づきたくて仕方がない。と、いうのも僕が完全に憔悴しきっているからだ。
女の背後をちらりと見遣る。
フロア内は見渡す限り人で埋め尽くされており、長蛇の列は店外にまで伸びている。
尋常ではない熱気が店内に満ちており、喧騒は都市部の交差点となんら変わりないレベルだ。
夕飯時とはいえ、あまりにも混雑している。これはやはり、一部の学校が夏休みに入り学生の客が増えたからだろう。それはつまり、幼年の客が増えるということでもあり……。
「ほぉらお兄さん、笑って笑って!」
こういうことに帰結するわけだ。
忙しいのにそんなもん頼むなと滔々と諭してやりたい。だが、頼まれた以上、断れないことに変わりない。
胸中に渦巻く黒い感情と、非現実的な言動を飲み込み僕は笑った。
「ちょwww 本当に笑ったんですけどwww」
しばき倒してやろうか。
こいつが頼んだ安いコーヒーを頭にぶちまけたい衝動を抑え、僕はひたすら笑みに徹する。
「ご一緒にポテトはいかがでしょうか?」
「いらなーい!」
死〇というド直球な悪意が脳裏に浮かぶ。売り上げにも貢献せず、悪戯に店員の時間を奪うだけの客とか存在価値あるのか……?
固まっている僕を前に、女学生が口角を上げて下品に笑う。
「顔が硬いんですけど、もっと柔らかく! 笑って笑ってスマイル~」
「すみませんね、オプション付きだと有料になるんすよ」
「なにそれ、ウケる(笑)」
ウケるな。
女と、その背後の学生集団が腹を抱えて笑っている。店員からかうのチョー気持ちいい! などとのたまっている。こういうのが、学生特有の青春だとしたら僕は断じていらない。
「ご注文は以上でしょうか」
「以上じゃないでーす!」
「かしこまりました、お会計100円になります」
「かしこまってなくね?」
「お次のお客様どうぞー」
「え、ちょ、これマジ???」
女学生たちを脇の待機列へと押しやり、次の客を迎える。これといって風采の上がらない男が前に出てきた。女学生のようなふざけた雰囲気はない。
「チーズバーガーとポテトM、ドリンクはコーラ。セットでお願いします」
「はい、かしこましました」
普通のやり取りが、何故かこの上なく心地良い。人間に一番必要なのは良識なのだとはっきり分かる。
「えーと、あと……」
「……?」
メニュー表に目を滑らせる男。目当てのものを見つけたのか、財布を取り出しながら満面の笑みで口を開いた。
「スマイルひとつください!」
……なるほど。
僕は真顔で返す。
「100円になります」
「お金取るんですか!?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます