第5話悪い人ではない③

「先輩、なんかフラフラしてますよ?」


「してないしてない」


「いや、絶対してますって!」


そろそろ夕方を回る頃合い。一日を前半と後半に分けるなら、前者が学校で後者がバイトだ。そして、僕にとっては後者が本番だ。

学校から歩いて約15分。近いとも、遠いとも言えないところに僕の仕事先はある。

世界的に有名なチェーン飲食店で、立地も駅前となかなかに好条件だ。労働内容はシビアだが、その分賃金は良い。

そして、金をもらうということは、責任を負うということだ。多少調子が悪いからといって、投げ出すことは許されない。


「先輩、顔色悪いですよ。真っ青なんですって! 鏡みてください!」


「美白を意識してるだけだから、へーきへーき」


バックヤードで騒ぐと怒られそうなので、適当に後輩を窘めて着替えを終える。

制服に身を通すと、心持が引き締まるような気がした。不調だったコンディションが幾分がマシになったように錯覚する。


「さて、行くか」


会話を打ち切り、バックヤードを出る。後輩は何か言いたそうな表情をしていたが、二の句を継ぐことはなかった。


「お疲れ様でーす」


心にもない挨拶を交わしながら職場へと入る。

厨房は喧々囂々の様相を呈していた。所狭しと並べられた器具や台座。それらの間を縫うように、同僚たちが忙しなく駆けていく。挨拶が返ってくる様子はない。夕飯時が近くなり、徐々に客が増え始めているのだろう。

悠長にしている暇はない。

早速職務に取り掛かるべく、衛生法に基づいた手洗い、消毒を終える。

そのときだった。


「お前、これどういうことだよ!?」


厨房内に怒号が響き渡る。すわ、何か大きな失態でもやらかしたのかと思ったが、そうではないようだ。

耳朶を聾する大声は、隣の一室から聞こえてきた。


「何で先月より売り上げが下がってんだ!? 例年なら今月がかき入れ時なんだよ、分かってんのか、え!?」


声の主は店長室にいるらしい。その剣幕から、尋常ではない様子が窺える。

客に聞こえるのではないかと危惧するも、その心配は無用だった。怒声以上の喧騒がフロアに満ちているため、気取られた様子はない。同僚のバイトたちも、何事かと足を止めたが、それも一瞬のことだ。バイトリーダーが音頭を取り、何事もなかったかのように業務へと戻る。

僕もすぐさま仕事に入りたいが、困ったことにタイムカードは店長室にある。怒声の主と関わり合いたくはないし、無賃で働くわけにもいかない。どうしたものかと思案していると、後輩が困惑した相好を隠さずに近づいてきた。


「何か怖いことになってますね、どなたがやって来てるんでしょう……」


「店長にモノ言えるとしたら、まあ本社の社員さんじゃないかな」


先程の発言からも、恐らくはそうであろうかと推測できる。売上がないと一番困るのは本社の社員さんたちだろうし。

室内を少し覗き見ると、モニターの前でスーツ姿の男が店長に詰め寄っているのが見て取れた。

幾つかの声が聞き取れるが、どれも罵声に近いもので建設的な会話は一切ない。傍から聞いていても無益な時間を過ごしていることがよく理解できる。


「なーんか嫌な人ですね、偉ぶって」


「まあ、実際僕らより偉いからね」


不満がありありと浮かぶ顔に苦笑で返す。

言っていることは分からなくもない。権威を振りかざし、怒鳴り散らす人に好感を抱く人なぞいないだろう。


「なんですか、先輩はあの人擁護するんですか?」


そのつもりはなかったが、どうやら曲解されたらしい。


「別に、そういうわけじゃないよ。世間一般では良い人ではないだろうし。悪い人でもないだろうけどね」


「いや、何言ってるんですか。悪い人ですよ」


呆れた顔でこちらを見つめる後輩に、乾いた笑いと共に肯定の言葉を返す。

権威を振りかざし、怒鳴り、喚き散らす人間に好意を寄せる人間などいないだろう。怒鳴るだけでは状況は好転しないし、寧ろ中途半端な心象の悪さや委縮から悪い方へと転がるかもしれない。人を動かし、管理するには得策とは言えないだろう。そんなものは悪ではなく、ただの小物だ。


本当に悪と呼ばれるような者ならば、迷わず暴力を振るってくる。

人を動かすには、理想のような高邁な意志だったり、愛だったりと種々雑多ある。その中でも簡易的なものはというと、金と快楽、そして暴力が挙げられる。

人間というのは、究極的には獣だ。そして獣には生存本能がついて回る。暴力は、その本能に直截的に訴えるものだ。

死にたくないという思いが、人の意思を屈折させ、死に物狂いにさせる。

怒鳴られるだけなら、まだマシだ。

頭を振り、嘆息すると室内から男が出てきた。男はこちらを一瞥すると、鼻を鳴らし裏口へと消えていった。


「ごめん、待たせたかな如月君」


「いえ……災難でしたね」


男の後に続くように、店長が顔を出す。

売上が減ったことを理由に叱責を受けていたようだが、昨今流行った病気のことを鑑みれば至極当然のことだ。どこの飲食店も同じことに頭を抱えているに違いない。

一礼して、タイムカードを切る。

退室しようとすると、不意に声が掛けられた。


「如月くん、悪いんだけど別の制服に着替えてくれるかな」


「……と、言いますと?」


決まりが悪そうに、頭を掻く。


「今日来るはずの女の子が風邪ひいちゃったみたいでね、カウンターがひとり足りないんだ。如月君は確か、カウンターの経験もあったよね。君の後輩の教育は別の子に任せるから、宜しく頼むよ」


「そういうことでしたら、分かりました」


後輩と入れ替わるようにして室外へと出る。

その際に、ふと数日前のやり取りが頭を過る。誰かがシフトの交代を見境なくお願いしていたような……。


「そういえばさ、今日休んでる子からメール来てない?」


「あ、篠崎さんですか。自分のところにも来ましたよ。他の人にもメールいってるみたいですね」


後輩が携帯の画面を見せてくる。予想通り、シフト交代要請のメールだ。


「先輩のところにはこなかったんですか?」


「僕は毎日出てるし、何より携帯持ってないからね」


まだ新人の後輩にまでメールを出したということは、交代してくれる人がいなかったのだろう。

これの意図するところは、火を見るよりも明らかだ。

僕は店長に対する同情の念を禁じ得なかった。

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