第36話  身も心も

「あの……できれば人化してほしいんだけど……」

「い、いや、それは無理だ!」


 オフィーリアの提案にブンブン首を振るディルク。

 彼が夜は頑なにドラゴンの姿を取り続ける理由は分かっている。でも――


「……私が『いい』って言っても?」

「え?」


 真ん丸に見開かれた金色の瞳を覗き込むようにして見つめ、オフィーリアはひとつ深呼吸したのちに口を開いた。


「私は……ディルクのことが好き。愛して、いるわ。たとえ種族や寿命が違っても、ずっと一緒にいたいの。だから……」

「オフィーリア……」


 ディルクは人型に転じると、緊張と羞恥で言葉を詰まらせたオフィーリアを優しく抱きしめた。


「夢みたいだけど、現実なんだよな。本当に嬉しい。君が俺を意識してくれてるのは知ってたけど、いつ他の男に目移りするのか気が気じゃなかった。俺がドラゴンじゃなくただの人間だったら、君を悩ませずに済んだのにって……ずっと悔やんでた」


 たとえドラゴンは人と結ばれる生き物だという前提があったところで、立ちはだかる種族の壁は彼を苦しめていたのかもしれない。


「ごめんなさい。待たせたのは私が意気地なしだっただけで、ディルクは何も悪くないの。人の姿でもドラゴンの姿でも、ディルクを好きなことには変わりないもの」

「……ありがとう」


 ディルクは柔らかく破顔し、ゆっくりとオフィーリアの頬を撫でて髪を漉く動作を繰り返しながら、息のかかりそうなほど顔を近づけてくる。


 それの意図するところが分からないほどオフィーリアは鈍くない。うるさいほどの動悸を耳の奥で聞きながら目を閉じると、小さく息を飲んだ音が聞こえたのち――唇が重なった。


 羽毛で撫でるような触れ合いを繰り返し、得も言われぬ幸福感に包まれる。

 言葉にできない幸せを伝えたくてディルクの背に腕を回すと、一気に口づけが深くなった。

 それに翻弄されながらもどうにか応えていたオフィーリアだが、ふとした弾みに彼の体がわずかに震えていることに気がついた。


「ディル、ク……怖いの?」

「怖い……そうだな、怖いよ」


 息継ぎの合間にそう問えば、震えた声が返ってきた。


「俺はどんなことをしても、ジークフリードに勝つ。たとえ刺し違えてでも。君を守るためなら命は惜しくない。その覚悟は嘘じゃない。でも……それで君に二度と会えなくなるのは、たまらなく怖い。こんな女々しい自分が情けなくて、君に男は嫌われるんじゃないかって……」


「私と一緒に生きたいって言ってくれてるのに、嫌うなんてとんでもないわ。愛のためとかなんとか言って、簡単に命を捨てられる人の方がよっぽど無責任で最低よ。だから、ディルクは女々しくなんかないし、そう思っていてくれてとても嬉しいわ」


「……はは、俺はいつも君に励まされてばかりだな。使い魔じゃなくても、一生君に頭が上がりそうにない」


 ディルクは苦笑しながらつぶやいたのち、少し体を離して恭しくオフィーリアの手を取った。


「情けないついでに懇願する――オフィーリア、君を俺のものにしたい。結婚しているわけでも明日の保証があるわけでもない。君を傷つけるだけかもしれないと分かっていても、どうしても君が欲しいんだ」


 予想しなかったわけでも覚悟がなかったわけでもないが、いざ正面からそう言われると思わず固唾を飲んでしまう。

 でも、愛しい人がまるで神の許しを請うかのように見つめてくるのに断れるはずもなく……むしろそれが自分の望みでもあることに気づいてしまったオフィーリアは、今にも卒倒しそうになる自分に喝を入れて静かにうなずいた。


*****


 その知らせが舞い込んできたのは、まだ空が白み始めない夜明け前だった。


 玄関をドンドンと叩いて現れたのはブラン。

 ジークフリードらしいドラゴンの影を遠方に捉えたと報告があった。


 クリスが時間稼ぎに迎撃に出たらしいが、ハーフであるディルクが敗退を余儀なくされる相手だ。悠長なことは彼の命が危ない。


 彼は急ぎ家を飛び出して巨大な銀のドラゴンへと転じ、例の麻痺薬を仕込ませた。大きな刷毛を使って爪に丹念に薬液を塗り込む。


「クリス、大丈夫かしら……」


 オフィーリアは人間の視力では捉えられないくらい遠くで戦う少年を案じるが、ブランは余裕すら感じる笑みを浮かべた。


「あいつは、すばしっこくて逃げ上手なんです。心配いりませんよ――っと、こんなモンですかね、アニキ」

「ああ、助かった」

「じゃ、俺は一足早くクリスに合流します。真打のアニキはどうぞごゆっくりー」


 使い終わった道具をオフィーリアに預け、ブランは黒いドラゴンへと姿を変えるやいなや、挨拶をする間もなく飛び去ってしまった。


「ゆ、ゆっくりしてちゃダメなんじゃないの?」

「時間差で打って出るのも一つの作戦だが、単に気を利かせてくれただけだろう」


 あっという間に豆粒大になってしまったブランを見送るオフィーリアに、ディルクはため息交じりに答えつつ体ごと彼女に向き合う。


「オフィーリア。俺は必ず、奴を下して帰ってくる」

「気をつけてね」


 彼は金の目を細めてうなずき……ずいっと顔だけオフィーリアの前に突き出した。


 何を求められてるのか一瞬分からなかったが、「その、頬でいいから……」と控えめにつぶやかれた言葉に、キスを求められたのだと悟り赤くなった。

 すでに体を重ねたあとだというのに、こんなことで恥ずかしがっているのもおかしいが、慣れないことに照れるのは仕方がない。


 だが、グズグズしていては二人の命に関わる。

 見た目は冴え冴えとしているのに触れると温かい不思議な鱗に手を添え、唇を寄せる。


「……いってらっしゃい、ディルク」

「いってくる」


 キスのお返しなのか甘えるように軽く頬を寄せると、ディルクは名残惜しさを振り切るように姿勢を正して、朝日の昇りゆく空に飛び立った。


 眩しい銀のドラゴンの後姿を見えなくなってもずっと見つめながら、オフィーリアはただただ彼の無事を祈り続けた。

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