その4 温泉逃避行

(前置きが長いのは私の文章の癖です、手っ取り早く読みたい方は飛ばしてお読みください)


 昨年(2010年)は仕事の関係で東京に単身赴任していた。久しぶりの一人暮らしは懐かしくも煩わしく面倒くさくもあったが、結局のところやはり一人は楽しい。寂しい、人恋しいとはあまり感じなかった。しかし、久しぶりの東京生活も1ヶ月、2ヶ月すると、なんともいえない不思議な気分になってくる。

 田舎の風景が見たくなったのである。

 「田舎」というのは、自分の故郷という意味ではない。故郷などもう見飽きている。私が見たいのは故郷ではなく、ただの「田舎」なのだった。

 自分がこういうセンチメンタルな気分になるとは想像もしていなかった。今までそんな気分に浸ったことなど一度も無かったのである。それが、いつの間にかGoogleの画像検索で、田園や湖などの写真を眺めてしまうようになった。こういう風に書くのは照れくさいのだが、年を取ったということなのだろうか…と、ぼんやりと考えていたのだが、自分の身の回りにある本を眺めると、その考えは氷解した。


 この「ぶらりオタク旅」に寄稿させていただいてしばらく経つが、この原稿を書くために、作家の紀行文をたくさん読んでいたのである。国内から海外まで、様々な紀行文を読んでいるうちに、どうも、私は旅行に出たくてたまらなくなってしまったのだろう。しまいには、書店で旅行雑誌を片っ端から読む始末で、ほとんど病気である。

 しかしなかなか長期の休みは取れない。簡単に取れるとすれば、1泊2日ぐらいが限度だ。移動ばかりの旅行というのは疲れるし、あまり得るものも無かろう。遠出はやめて、関東近辺の観光地に行こうか…と、普通そう考えるが、やっぱり、私はどこか病んでいたのだろう。ふらふらと見知らぬ街を歩きたいという欲望に駆られてしまったのである。

 放浪。漂白。言葉はいいが、実際にやってみる、というのは簡単ではない。フラッと旅館に現れて、泊めてくれなんてとても言えない。友人の白山氏にこの話をしてみると、氏は笑って「そりゃあ、旅慣れてないからですよ」と明朗におっしゃった。それは、そうだ。そういえば、そもそも私は一人旅をほとんどしたことが無いのであった。これではしょうがない。

 放浪、漂白という目標を下方修正して、どこかに泊まることにするか。旅館が良いな。最近は一人で泊まれる旅館も増えているというし…などと、また思考をめぐらせていると、


 そうだ、温泉だ。


 温泉に浸って旅館のテーブルの上で静かに趣味の文章を書く。外には川のせせらぎぐらいしか聞こえない。ふむ、私好みでいいではないか。そうと決まれば、温泉も巨大な歓楽街ではなくて、ひっそりとしていて欲しい。

 なぜ温泉なのかとおっしゃる方もいるだろうが、昔、作家は温泉に行って逗留し、原稿を書いたらしい。温泉地には作家が泊まった宿というのをアピールし、部屋を当時のままにしている旅館もあるという。私は別に作家ではないが、同人誌の原稿を書いている時など、毎度毎度同じ机に向かって原稿を書く、というのは、だんだん気が滅入ってくるものである。それに、わざわざノートパソコンを持っていかなくても、私にはポメラという武器もある。こういうのを持って静かな温泉に行って文章を書く、というのも悪くは無い。

 よく「都会の喧騒を忘れ…」などと言うが、私に言わせれば田舎には田舎の喧騒もある。喧騒というと言葉が違うかもしれない。わずらわしさ、とでも言おうか。周囲を見渡しても知っている人しかいない、という状況は、侘しい。

 だから私は旅に出たくなってしまう。誰からも知られずにどこかに行ってしまいたくなる。昔、「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」と言った作家がいたが、私もそれにならって、なんにも用事がないけれど、温泉に行って来ようと思う。


 さて。電車を使って1時間ぐらいで行けるところで、温泉などないだろうか。神奈川だと箱根や湯河原、静岡まで足を伸ばせば熱海や伊東など有名温泉が花盛りである…が、人が多そうなので今回はパス。群馬のほうは法師温泉や湯宿温泉など、静かな温泉が多いが、移動時間を考えるとちょっと難しい。

 では山梨はどうだろう。縁が無いのか、それまで一度も訪れたことがなかった県であった。調べると、甲府市内に湯村温泉という温泉がある様子。いきなりひなびた温泉街というのはハードルが高いから、温泉と旅館という条件で、湯村温泉に行ってみるか、と考えたのである。

 湯村温泉に決めたのにはもう1つ理由があった。竹中英太郎記念館があったからである。

 竹中英太郎は画家で、江戸川乱歩や横溝正史らの小説に挿絵を描いた人物として有名だ。私は単純に、怪奇幻想の世界の画家として知っているだけで、そういう展示物がたくさんあったら面白そうだと思っていた。


 さて、湯村温泉に出かけたのは8月。

 思えば、暑い盛りに温泉、しかも盆地に足を踏み入れようと思ったのだろうか。もう少し季節を選べよ、と思うが。

 家を出て中野。『魔の系譜』(谷川健一、講談社学術文庫)、『もののけの正体』(原田実、新潮新書)買う。

 高尾で降りて昼食。隣に座っていたおじさんが、おしぼりの袋を「パン!」と大きな音を立てて開けたので、箸を落としそうになってしまった。

 高尾で中央線の甲府行きに乗り換え。風景を見たかったので各駅停車に乗る。山梨に入ると山々と森、そして木々が目を引く。大月からそれが顕著になる。別に鉄道マニアでもなんでもないが、車窓から周囲を眺めるのは何年ぶりだろうか。なぜか樹木が懐かしく感じられる。こういう時間を気にしなくてもいい旅は、恐らく初めてだろう。足を組んでゆっくり本を読んでいられる。


 ようやく甲府市に到着。
のどかな地方都市である。山梨市が県庁所在地だとばかり思っていたが、どうもこっちのほうらしい。湯村温泉行きのバスに乗ろうとしたが、1時間後だというので、予定を変更して武田神社へ。ずいぶんこぢんまりとした神社だった。鶏が放し飼いにされているのが印象的である。伊勢の神宮もそうだが。創建は大正時代だという。お守りをいただいて、もう一度甲府駅に戻り湯村温泉へ。「湯村温泉郷」と書かれた看板が怪しく光る。犬の散歩をしている婦人や、学校帰りだろうか、並んで歩いている小学生などが目に付いた。


 旅館へチェックイン。暑いし平日だし誰も居ないでしょう、と聞いたら一人泊まっているというので驚く。温泉旅館のシーズンはやはり冬なのだろうか。太宰治が執筆した宿であるらしい。

 温泉に3度も4度も浸かる人がいる。私の親戚や友人にもいる。温泉旅館に来たのだから浸からなきゃ勿体無い、とか、ただ単に温泉が好きだから何度も入っている、とか。私は夕方に一度浸かり、朝にもう一度浸かるのが限度だ。温泉旅館というと、社員旅行で行って宴会をしてしめにラーメン、というような昔の一連の流れを想像して、あまり好きではなかったのだが、こういう静かな温泉には好感を持った。


 翌日、チェックアウトしてしばらくぶらぶらする。

 竹中英太郎記念館が開館する時間となったので、中に入ってみる。館長の金子紫氏が出迎えてくれた。コーヒーを飲みながらしばらく雑談。

 竹中英太郎は明治39年(1906年)博多に生まれ、若いころは水平社の運動に参加したり、労働運動に参加したりしていたらしい。熊本水平社の創立に関わって検挙されたこともあるという。絵は生活の糧として描いていたのだという。その後、横溝正史が編集長をしていた雑誌『新青年』で、江戸川乱歩の「陰獣」の挿絵を描いたところ注目を浴び、江戸川乱歩のほかに夢野久作や甲賀三郎、横溝正史、大下宇陀児などの作品に挿絵を描いた。なかでも横溝正史「鬼火」の挿絵は有名である。

 しかし、昭和11年(1936年)、30歳の年に筆を折り、突如満州へわたった。満州では出版関係の仕事に就いていたようだが詳細は不明だ。戦後は甲府に住み、息子・竹中労の作品に挿絵を描いたり、映画『戒厳令の夜』の美術を担当したりしたが、以前の幻想的な絵は影を潜めてしまった。

「竹中英太郎の何に惹かれて来られたのでしょう」とそのものずばりの質問をされ、びっくりしてしまう。私は竹中英太郎の一面しか知らなかったからだ。

「いやあ、陰獣の絵が好きで、惹かれて来てしまいました」

 というと、いろいろお話をしてくださるので、しばし金子さんの思い出話を聞く体勢に。いろいろ話して気がつくと12時を過ぎていた。画集もあるということなのだが、持ち合わせが無かったのでまた後日買うことを約束し、美術館を離れた。

 しかし温泉地にこんな幻想的な場所があるとは驚いた。今度はもうちょっと涼しい時期に行きたいなあと思った。


 さて、湯村温泉に行って一人旅に自信をつけた私は、もっと鄙びた温泉に行こうと考えた。周囲が歓楽街というのは困るので、もっと静かで、温泉旅館しかないような温泉街を探してみた。なかなか東京近辺からは見当たらないが、ネットなども見ていろいろ調べてみると、下部温泉なる温泉が見つかった。場所は山梨県南部。また山梨県か。

 そういえばつげ義春もこんなことを書いている。


 下部鉱泉は甲州一の名湯として有名だが、私は昭和四十六年に身延まで来て、最近では三年前(五十七年)に隣の甲斐常葉に来ておりながら下部には寄らなかった。よく知られているから歓楽地かと思い、それと沸し湯というのが物足らぬ気がしていた。しかし開放的な温泉とくらべ、鉱泉はどことなく日陰臭い味があるのが、だんだん分かるようになってきた。

つげ義春『貧困旅行記』(新潮文庫)


 鉱泉とは、辞書で引いてみると「鉱物質・ガス・放射性物質などを1リットル中に1グラム以上含む湧泉(ゆうせん)。広義には温泉と冷泉との総称であるが、狭義には冷泉をさす」とある。下部温泉の源泉は30℃近いそうで、冷泉というのだろう。温泉というよりは湯治に来る人が多いのだろうか。私好みで良いではないか。


 朝、品川から新幹線に乗る。

 確か昔、構内に立ち食いそば屋があったのだが、無くなってしまったのだろうか?見つけることが出来なかった。しょうがないので朝食用に駅弁を買い、新幹線の中で食べる。

 熱海を通過する頃、そういえばMOA美術館があったなあ、とか、「怪しい少年少女博物館」とかいうのがあったかな、とか、いろいろ思い立ったが、途中下車するのはいろいろ面倒そうだし、まあいいや、とやり過ごす。

 三島駅で途中下車し、三島大社に参拝する。正月の片付けか、テントを解体していた。

 東海道本線で富士駅まで行き、そこから身延線へ。富士宮までは各駅停車に乗ったが、ずいぶんとゆっくりである。

 富士宮市はよくある地方都市といった感じだが、建物がすかすかで、駅周辺の商店街はシャッターがかかった店ばかり。とりあえず浅間大社に参拝し、近くで富士宮焼きそばを食べる。期待しすぎたかな。

 その後は特急「ふじかわ」で下部まで行く。

 周囲を山に囲まれた温泉。見事なまでに旅館しかない温泉街。本当に居酒屋も食堂もない。ギョッとしてしまった。下部川の濁流の音が凄くて、1月に行ったからなのだろうが底冷えがしている。

 なるほど、良い感じに鄙びている。

 田舎くさいというのではなく、人気がないとか、薄暗いとか、そういうのを総称して鄙びていると感じるのであろう。


 小高い丘の上に熊野神社があり、熊野権現が温泉を開いたという伝説があるという。社殿は千社札と落書きだらけ。まるで巨大な絵馬だ。昭和47年という書き込みがあってびっくりする。松葉杖をおさめるところがあった。


 旅館の部屋に入ると、一升瓶が置いてあるので驚く。どういうサービスだろう、と思ったら、これは温泉の源泉で、普通に飲むことができるという。飲泉というと硫黄臭かったりえぐかったりして嫌なのだが、飲んでみると普通の軟水で逆に驚いてしまった。 浴場も温泉と冷泉に分かれている・・・まあ、温かいほうは冷泉を暖めたのだろうが。交互に入ると体に良いという。

 夕食で熱燗を飲み、更に「春鶯囀」という日本酒を冷やで飲む。


 部屋でビールを飲もうとしたらつまみが無いことに気づいた。しかし外に出ようにも真っ暗でどうしようもない。予め、適当なコンビニで買うべきであったなあ。

 NHKで「ヒストリア」見る。藤原頼長というので驚く。地味すぎないか。保元の乱で死んだ公家という認識しかなかったが、いろいろと人間ドラマがあったのだな。終わった後、ポメラで記録など打ち込んで就寝。

 翌日は、下部温泉駅から身延駅まで行き、身延山久遠寺へ行く。久遠寺まではバスが出ている。周囲には土産物屋や旅館が多く、ここのほうが充実しているんじゃないかとさえ思う。

 山門を潜ると急な階段が続く。喘息なのできつい(エレベーターもある)。ぜえぜえいいながら頂上まで登ると五重塔が見える。

 その後、駅に戻ったが1時間ほど時間があったので、近くで家族へのお土産としてワインを物色。試飲も出来るというので、ワインとサラダを頼んで飲む。飲んでばっかりいるなあ。

 その後は身延線に乗り込み富士駅まで。この辺でローカル線のスピードにいらいらしてくる。旅情はあるのだがゆっくりなのが我慢ならない。鉄道好きは忍耐との戦いなのだろうなあと思う。時間を掛けて読もうと「私の渡世日記」(高峰秀子)を持ってきていたが、既に読了してしまったので、コンビニ漫画を買って読む。

 三島駅でお昼のラーメンを食べて、そのまま新幹線で帰京した。思えば、湯村温泉に行った時も名物らしきものをあまり食べなかったが、下部においても日本酒を少し飲んだ程度。ほうとうでも食べておけば良かったか。


 下部温泉は非常に静かでよかった。いかにも保養地というような感じも良かったし、飲食店まで車を使わないといけないところ(温泉街は温泉旅館しかない)も良かった。今度は車で来てみようかな、と、少し好感が持てた。


※竹中英太郎については、中井英夫『中井英夫全集7 香りの時間』(創玄ライブラリ)を参考にしました。


(初掲:「ぶらりオタク旅」)

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