その3 キリストの墓

 2010年、8月の24日から28日まで、友人のQPさんと東北旅行に行ってきた。

 具体的に言うと、仙台から北上し、岩手、青森と三県に渡って旅行してきた。旅の話をだらだら書いても良いが、分量が多そうなので、今回はひとつのテーマに絞って書いていきたい。

 ずばり新郷村である。

 8月26日に、私はここを訪れた。

 「青森県三戸郡新郷村戸来」。ここに、キリストの墓があるというのだ。


 昭和の初め、「キリストは日本で死んだ」という不思議な古文書が見つかった。その古文書によれば、ゴルゴダの丘で磔刑になったのはキリストの弟イスキリが身代わりになったのであり、キリストは日本に来て天寿を全うしたというのだ。

 古文書を発見したのは天津教教祖、竹内巨麿。破天荒な古史古伝「竹内文献」の発見者でもあった。

 その古文書に従い、キリストの墓調査団は青森県へ出発。問題の土地で、二つの土盛りを発見。キリストとイスキリの墓だと断定したのであった。

 …とまあ、と学会のファンの方や、超常現象や超古代史ファンの方には「何を今更」な話なのだが、一応初めての読者の為にもう少しこの伝説について書き記しておく。

 キリストの弟の「イスキリ」という時点でもう怪しさ満点なのだが、現在ではこの「キリストの墓」や「竹内文献」は、竹内巨麿が作り上げたものだということが明らかになっている。そりゃそうだ。古代、日本は世界を支配していた。そしてビッグバン以前に天皇が居た、と主張するような古文書なのだから。キリストの墓については、何をか況んや、であろう。

 また、この話はいわゆる「日ユ同祖論」にもつながる。

 例えば、岩手県の神学博士・川守田英二が、日本の民謡における意味不明の囃し言葉がヘブライ語から来ている、と説いた。たとえば、「炭坑節」の『サノヨイヨイ』は、ヘブライ語の『サーノ・ヨフォイ・ヤーウェ』がなまったものであり、意味は『サノはエホバのみ栄えをあらわせり』、だという。

 また、青森県や岩手県には「ナニャドヤラ」という不思議な民謡が伝わっている。


ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ

ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ

ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド


 書いているだけでもわけが分からないのだが、川守田氏によればこれもやはりヘブライ語であるという。

 古代イスラエルの失われた十二支族が日本に来ていた、という壮大な話だったはずなのに、いきなり「民謡の囃し言葉」というモノに縮小していくのは、良く分からない。川守田英二の説はテレビ受けするのか、最近でもテレビに登場している。

 キリストの墓に関しては、大石神ピラミッドを発見した画家の鳥谷幡山や、日本のピラミッド研究で有名なオカルティストの酒井勝軍、そしてクリスチャンにして女性活動家の山根キクが一枚も二枚も噛んでいるのだが、その辺の話を書くと長くなるので割愛することにする。


 新郷村ではこのキリストの墓を観光資源としている。まさか村民全員がそういう話を信じているのか、と思いきやそうでもなく、かといってこの奇怪な伝説(一種の醜聞とも言えよう)に迷惑しているというわけでもない、という微妙な立場を取っている。村唯一の観光資源だから取り壊すわけにもいかず、かといって突拍子もない伝説を受け入れる訳にもいかない、というジレンマだ。


ここでは単に伝承を集めるだけではなく、当時の原著や報道も展示されています。みなさんの個々の価値観で、神秘の里のロマンに想いをはせてください。

(新郷村HP 伝承館の説明より抜粋)


 「みなさんの個々の価値観で」というところが、村の微妙な立場そのものとも言える。

 しかし私は、この立ち位置こそが、この奇怪な伝説を今日まで残してくれたと思っている。もし「インチキだ」と断罪され(確かに実際インチキだが)墓が破壊されてしまっていたらと思うと恐ろしくなる。

 それはともかく、しばし、読者の皆さんを「歴史と浪漫と脱力」の旅にご案内するとしよう。


 八戸~新郷村


 JR八戸駅の駅前の旅館で起床。ご飯と味噌汁と塩鮭、というようないかにもな朝食。もともと新郷村で一泊する予定だったが、近くにめぼしい観光地がキリストの墓以外に無かったので断念した。宿泊地も少なく、しかも名前が「野ばら」というペンションだったので気が失せてしまったのだ。男二人で「野ばら」に泊まる、というのは、確かに笑い話としては面白いのだが、私はそこまで体を張ってお笑いをしたくないので、別の案を出す。


 すなわち、新郷村から一気に下北半島を北上する。どこか適当な場所で泊まって、翌日に恐山に行くというのはどうだろう。もともとこの旅の目的は、青森県の新郷村と恐山、そして岩手県の遠野であったが、恐山は諸事情により断念していた。しかし行けるのであれば行っておきたい、と、QPさんに恐山への情熱を語ると、QPさんはあっさりと「じゃあレンタカーで大間まで行きましょう。どうせなら最北端まで行きましょうよ」とつぶやいたのである。

 それだ!

 もちろん大間の宿は確保していなかったが、まあ適当に電話でもすりゃいいのでは、という楽観的な考えによりすんなり決まってしまった。


 さて、新郷村に行くのは非常に不便である。

 電車が無いのでバスで行くしかないのだが、バスも2回乗り換えねばならない。バスの時刻表を見たことがないが、良くて一時間に一本というペースだと思われる。こんなことで時間を無駄にしては勿体ない。旅だからこそ時間を贅沢に使いたいという方もいるのだろうが、今回はそれとは別種の、観光目的の旅であるため、時間を有効に使わなければならぬ。

 時間が有り余っている人であれば、バスをひたすら待つというのもあるが、新郷村へ行きたい諸君、ここは素直に八戸駅前でレンタカーを借りよう。もしあなたが車の免許を持っているならば、八戸から小一時間で新郷村まで行けるのである。


 キリストの墓はどれぐらい知名度があるのかと思い、カーナビで「キリストの墓」と打ち込むと、なんと、青森県三戸郡新郷村戸来、と表示される。ナビにちゃんと登録されているのか。もうこれだけで笑ってしまう。


 道はほとんど一本道で、日本の原風景的な森と田んぼの農道をひた走る。

 私は田舎の出身なので、こんな風景に感動するのはまずないだろう、と思っていたのだが、なんだかんだいって、辺り一面田んぼと森、外に出ると虫や蛙の鳴き声がするというような光景を見てしまうと、なんだか別世界に来てしまったようで、不思議な感覚だった。しばらく行くと五戸町に入るが、そんなに奥地という感じでもない。それを通り過ぎて新郷村に入る。郵便局やスーパーマーケットを見つつ、しばらくすると「キリストの墓」という青色の標識が見えてくる。なんだか反射的に笑ってしまう。一部の好事家にしか知られていないと思っていたが、全国区なのか。近くの駐車場に車を止めて外に出る。陳腐な例えだが「となりのトトロ」のような、相も変わらず至って素朴な田園風景だ。


 小さな地図があるのでそれを頼りに進む。5分ほど歩くと、正面に巨大な教会のような施設が見えてくる。これはキリストの里伝承館といい、「キリストの墓」をめぐる当時の記録や由来などが展示されている。

 それを正面に見てちょうど右側に、二つの十字架が並んで立っている。一方がキリストの墓「十来塚」で、もう一方が弟のイスキリの墓「十代墓」であるという(十代塚、と記している本もあるが、こっちの表記で統一しておく)。

 正面にどーんとあるのかと思ったら、わきにぽつんとあるだけだ。妖しげな社でもあるのかと思いきやそれもない。ただ、十字架がたたずんでいるだけである。ごてごてしたキッチュな物が近くにあるだろう、と創造していたのだが何もない。新緑に十字架がたたずむ光景は、どこかわびさびをも感じさせる。

 階段を登って近くで見てみる。下には小さな籠が置いてあり小銭が入れられていた。小さなリンゴと、「ありがとうございます」と記された札があった。宗教ではないだろう、と思ったが、やはり「墓」であるから小銭を入れたくなる感覚があるのだろう。最初は墓のあちこちに小銭が落ちていたため、収拾がつかないと感じた管理者が小さな籠を置いたのではないだろうか。

 案内板があり、


キリストの墓

 イエスキリストは二十一才のとき日本に渡り12年の間神学について修行を重ね33才のとき、ユダヤに帰って神の教えについて伝道を行いましたが、その当時のユダヤ人達は、キリストの教えを容れず、かえってキリストを捕らえて十字架に磔刑に処さんと致しました。しかし偶々イエスの弟イスキリが兄の身代わりとなって十字架の露と果てたのであります。他方、十字架の磔刑からのがれたキリストは、艱難辛苦の旅をつづけて、再び、日本の土を踏みこの戸来村に住居を定めて、百六才長寿を以て、この地に没しました。この聖地には右側の十来塚にイエスキリストを、左側の十代墓に弟イスキリを祀っております。以上はイエスキリストの遺言書によるものと謂われております。


 と記されていた。


 QPさんを見ると、十字を切ったり手を合わせたりして拝んでいる。「いやあどういうやり方で拝めばいいんでしょうね」とおっしゃるので、「まあいろいろやっておきましょう」と言って、私も取り敢えず拝んだ。おそらく何もなかったわけではないだろう、と思いながら。


 さて、昭和10年に調査団が発見したという「二つの土盛り」とは何だったのだろうか。キリストの墓であるというのは除外して良いとして、2つの可能性があるだろう。

 1つは、まったくの捏造であるという説。すなわち調査団が新郷村に入る以前に、竹内巨麿が土盛りを作ったというもの。しかしこれは可能性が低い。普段何も無いところに突然土盛りが出来ていたら、すぐに村民に気づかれてしまうだろう。

 もう1つの可能性は、もともと何者かの墳墓であったという可能性である。古墳か何かだったのだろうか。豪族の古墳だった、というのは突拍子もないが、けっこう大きな土まんじゅうなので、誰かがここに葬られていた可能性は捨てきれないと思うのだ。

 そうだったとすれば、その上に十字架を立てて「キリストの墓」「イスキリの墓」などと記すのはトンデモないことではあるのだが…。


 キリストの墓を拝み倒した後は「キリストの里伝承館」を見学。

 あちこちに短歌があるのが面白い。趣味なのだろうか。

 入り口には一箇所だけ写真を取れる場所がある。まあ、内容は…予備知識のない人には参考になるだろう。

 小さいがおみやげ物売り場があり、十字架の描かれた湯飲みを買う。なんというミスマッチ。熱心なクリスチャンが見たら卒倒しそうだ。

 ついでに車を走らせ、道の駅で少し買い物。やはり農作物が多くて安い。酪農も盛んで牛乳やヨーグルトが販売されているのが印象的だった。あまりにも安いので枝豆や茗荷の漬物を購入。夜の酒の肴にしようという魂胆である。せっかくなのでヨーグルトを買い、外で食べてみたが味が濃く美味しかった。

 例えば「キリスト饅頭」のようなべたべたなおみやげ物が無いのが面白い。


まとめ


 漫画家・小坂俊史は、著書「わびれもの」(竹書房)の中で新郷村を訪れたことに触れ、こう述べている。(P100)


 この村にあったのは軌跡のバランスを保った日本的な予定調和―

 神秘やミステリーとはある意味対極ですが十分楽しむ価値のある奇跡だと思います


 そう、なぜか、鬱蒼たる茂みの中にキリストの十字架が立っているという光景は、妙に合っているのである。ニコニコ動画的に言えば「混ぜるな自然」というやつだ。

 この地で、5月にはキリスト祭りが執り行われ、神主(!)が祝詞を奏上するという。近くの神社の神主が出張祭典として行っているのだろうが…。


 竹内巨麿、酒井勝軍など、不思議でグロテスクな歴史観を仮託した「竹内文献」。それは歴史の博覧会というか、秘宝館といった感じの、キッチュなものだった。しかしそこから生まれ出たキリストの墓は、なぜか日本の風景に溶け込んでしまったように思える。静かに佇む二つの十字架は、侘びさびというか、枯淡な禅味のようなものを感じてしまう。


 それはまるで砂漠に現れた楼閣のよう。

 巨大な蛤が鳥になる夢を見て、口から吐き出した幻。


(初掲:「ぶらりオタク旅」)

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