3

 「そろそろ結婚しよっか」

 優雄があまりに唐突に言い出したので、雪花はつい声を呑んでしばらく目が点になった。

「……ちょっとごめん。今、何て?」

「だから、俺たちそろそろ結婚しようかって。お互いだいぶ落ち着いてきたし、ちょうどいい頃合かなと思ってさ」

 互いの休みが奇跡的に重なった平日の夜、カセットコンロでよく煮えた豆乳鍋をつつきながら、雪花が聞き逃したと思ったらしい優雄は、事もなげに同じ言葉を補足しつつ繰り返した。

「……それ、今言う?」

「え、嫌なの?」

「い、嫌じゃない……けど」

「けど?」

 優雄がきょとんとした顔で何度か瞬く。

「言うタイミング、もうちょっと他になかった? 何ていうか、ムードとまではいかなくても、もっと他に適した場所とか、場面とか」

「ごめん、それ無理。一億ドルの夜景が見えるホテルの最上階にある高級レストランで、ワイングラスかちーんと合わせた後に指輪を差し出すとか、俺そんな柄じゃないから」

「いや、そこまでやられるのは、それはそれでさすがにちょっと……。ていうか、一億ドルの夜景って。一千万ドルなら分かるけど」

「そんなにだめだったか。これでも結構、勇気振り絞ってみたんだけどな。そうか、プロポーズって、言葉とシチュエーションが釣り合ってないと成立しないのか」

「いや、そういうことが言いたいわけでもなく。……ごめん。あんまり無防備な時に来られたから、びっくりしすぎてつい真面目に突っ込んじゃった」

「いいよ、別に。貴重なご意見どうも。で、どうする? 嫌なら今のうちに言って。一生の問題だから、遠慮されるとかえって傷つく」

 何度となく訪れて馴染みきった恋人の部屋で、優雄は缶ビールをちびちびと飲みながら、途端に食べる手を止めた雪花を見やる。雪花は器と箸をことんと置くと、

「嫌……じゃない。嫌なわけ、ない。びっくりしたけど、じんわり嬉しい」

 そうぎこちなくはにかむと、酔い始めてもいないのに頬が急激に赤くなった。すると次の瞬間、鍋のガスを切った優雄がいきなり雪花を押し倒す。慣性のままその身を受け止めた雪花は、ぎょっとしてつい身を強張らせるが、

「ありがとう」

 思いがけない抱擁に応える耳たぶに、僅かに震えた優雄の吐息がくすぐったく触れる。

「守るから。俺、一生傍にいるから。だから雪花も、隣にいてくれ」

 一瞬、泣いているのだろうかと思った。雪花は全身の緊張を解いて彼の背を抱き、

「……うん。ずっとずっと、傍にいる」

 その温もりが胸の奥底をつんと刺し、微かに生まれた痛みが脳を短く揺する。いくつもの感情が光の速さで駆け巡り、溢れる代わりに僅かな涙となって眦に滲んだ。

 熱っぽい優雄のキスが雪花に降る。伝わり合う感触や温もりに全てを委ね、雪花は息も忘れるほど静穏に、そして緩やかにその覚悟を決めていった。

 進学を機に家族と離れ、最北の地で暮らし始めてから、今年で八度目の冬になる。日に日に積雪量が増す厳寒の中、雪花の二十七歳の誕生日がすぐそこまで迫ってきていた。



 亮と別れてからの数年、雪花の心は恐ろしく空虚だった。

 大学卒業後、管理栄養士となった雪花はN谷市内の総合病院に就職した。それと同じくして、N谷駅から徒歩圏内にある特別養護老人ホームで働き出した理学療法士の優雄と、友達を越えた恋人として付き合い始めた。

 毎日は仕事を中心にめまぐるしく過ぎていくが、雪花はそれをあまり過酷とは思わなかった。休日は優雄と二人で過ごしたり、大学時代の友人と遊んだりして、それなりに満喫していたからだ。しかし、それを充実した日々と思えたのは最初の半年ぐらいで、社会人生活もすっかり板についてきた頃、雪花の心は無視できない虚しさに蝕まれていった。

 一番の原因は、雪花が亮を少しも忘れられなかったことだ。失恋の痛みはとっくに乗り越えたと思っていたのに、優雄との恋愛関係が深まれば深まるほど、無意識のうちに生まれた翳が胸の片隅を詰まらせる。それは日に日に心を音もなく潰しては、拭いきれない濃く大きな染みへと変貌していった。

 優雄に非はない。彼はいつだって誠実に、まっすぐ雪花を見てくれた。ごくごく軽い口喧嘩もたまにするが、それがもつれて険悪になった経験はない。だが、心を侵食する染みの消し方が分からずにいる雪花には、優雄の不器用な優しさはつらいものでしかなかった。

 学生時代は知らなかった優雄の新たな一面に触れた時、雪花の脳裏を掠めるのはいつも亮の面影だ。仕事帰りの夜や休日、寄り添ったり抱き合ったりしていてふと、隣にいるのがどうして亮ではないのだろうと思うことが時々ある。そして我に返った瞬間、絶望よりも重く打ちのめされるのだ。

 くだらない感傷だと掻き消してしまえばよかった。優雄と過ごす空気の中に、亮と感じ合っていたものをつい探してしまう。重ねた唇の厚みと熱に、優雄ではなく亮の温度を思い出そうとする。

 その最たるものがセックスだ。初めて肌を合わせた時に優雄は、彼なりのやり方で丁寧に雪花を愛した。自分だけが感じたその決定的な違いに、安堵のような落胆のような気持ちを抱いて涙した雪花はきっと、この世の何より愚かな顔をしていただろう。

 彼にしかないひたむきさで愛をくれる優雄に、二度と会えない亮の面影を重ねては比べ、探しては求め続ける。その罪悪感に耐えられなくなった雪花は、恋人として初めて迎えた秋の終わりに、何の前触れもなく別れ話を切り出した。

「忘れられないの、彼のことがずっと。もう二度と会えないけど、大事な部分はきっと一生、彼のところにあるままで。そんな気持ちで、優雄と付き合い続けるなんてできない。だからあたしたち、別れよう? だってそんなの、誠実じゃないもの」

 面と向かってそう告げられた優雄の顔を、雪花は一生忘れない。袈裟切りより痛い傷を負わされたような表情だった。二人してその先の言葉を浮かべられず、どれだけの長い時間、沈鬱に目を伏せていただろう。

 優雄は睫毛を震わす雪花に触れることはせず、かといって激情を露わにすることもなく、精一杯の冷静さを保ちながら訥々と返した。

「……少しの間、離れてみよう。別れるんじゃなくて、距離を置くんだ。少しじゃなく、時間がかかってもいい。雪花の気持ちの整理がつくまで、雪花からまた連絡をくれるまで、俺はじっと待ってみるよ。それでも無理、どうしたって俺のことは好きになれないって言うなら、それはそれで結構きついとは思うけど……でも話を聞く限り、俺に可能性が全くないわけでもない気がするんだ。だから」

 その言葉どおり、それから優雄はぱったりと連絡を寄越さなくなった。それが彼なりの譲歩であり優しさだと気付くまで、そして雪花がもう一度、優雄に会いに行きたいと思えるまで、実に二年もの歳月を要した。

 優雄と離れてからの月日は、感傷に上せきった胸を鎮める冷却期間であり、普段は触れようともしない細部まで、自ら触れにいくための時間でもあった。

 優雄ともう一度向き合いたければ、亮との恋が終わった現実を、骨の髄まで沁み込ませなければいけない。ただ思い知って、打ちのめされるだけでは足りないのだ。大袈裟な比喩ではなく、実際にそこまで悶え苦しんで痛感しなければ、どうしたって前へ進めそうになかった。

 忘れられないなら、忘れられないことに折り合いをつけて生きるしかない。だけどそれは、この先に続いているかもしれない未来まで摘むことと、よく似ているようで実は全く違う。

 二年の時間を費やして、ようやっとそれを実感として掴んだ雪花は、優雄の二十五歳の誕生日の日、それまで連絡を絶っていた彼にメールを送った。

 それからさらに一年半が過ぎた頃、優雄は恋人関係に戻った雪花に、改めて正式なプロポーズをした。

 亮のいない未来を生きる決意を完璧に固めてからは、いたずらな感傷に耽ることはもうない。そして、これからを共に生きていく優雄との結婚や同居を、雪花はとても自然な形で考えられるようになっていた。

 結婚を決めてからというもの、雪花と優雄の毎日はそれまでにない形で動き出した。

 結婚式は優雄の故郷で、親族だけを集めた簡素なものを執り行う。それから少し経った後、N谷市のホテルで友人知人を招いた披露宴を開く。入籍と結婚式の日取りを雪花の二十七歳の誕生日にするというのは、結婚に向けた話し合いを本格的に始めた段階で、優雄がまず言ってくれたことだった。

 入籍後は優雄が暮らすアパートに引っ越し、雪花は今勤めている職場で正社員からパートに移行し、子作りを見据えながら家事と仕事をこなしていく。そう決めてからは、結婚式を目指して毎日がさらに慌ただしくなっていった。



 結婚の挨拶と報告のために一度、雪花の実家を訪れたいと優雄が言い出したのは、N谷市で今年初の積雪が観測された日だった。

「ちょうどっていう言い方は変だけど、T田行きの寝台列車が三月のダイヤ改正で廃止になるんだ。せっかくの機会だし、旅気分も兼ねてそれで帰省しない? 今から計画すれば、切符も多分まだ手に入る」

 休みの日は決まって訪ねてくる優雄と、時間が許すかぎりじっくりと愛し合った後、努めて自然に切り出された話に、雪花は曖昧に笑ったまますぐには頷けなかった。結婚式の詳細を詰めていきながらも、雪花が地元の家族にまだ何も知らせていないことを、優雄は訝るのではなく純粋に心配してくれていたのだ。

 互いの家族に関わる重大事だから、早いうちにきちんと話をしなければならない。だが、それをどうしても躊躇ってしまう理由が雪花にはあった。かといって、いつまでも先延ばしにしていいはずがない。

 雪花はまたしても時間をかけて決心を固め、優雄の提案を受け入れた。それからちょうど一ヶ月後の二月中頃、廃止の影響で利用率が短期間で急増する中、奇跡的に取れた寝台列車の二人用個室を使って、雪花は優雄とともに時期外れの里帰りへと旅立った。

 寝台列車に乗るのはこれが初めてだ。それを使った旅がどんなものになるか、雪花には漠然としか思い描けない。二人が乗る寝台列車は雪がちらつく夕方、定刻より二十分遅れてN谷駅に入線した。

「俺は乗ったことあるよ。高校卒業後に行った一人旅の時と、帰省の時に何度か。でも個室は使ったことないな。高いから、一人の時は一番安い雑魚寝のとこで充分なんだよ」

 二人分のスーツケースを手に乗り込んだ優雄は、どこか緊張した面持ちでついてくる雪花を気にしながら、指定された二人用個室を見つけて入っていく。

「T田に着くのは明日の九時半。でも道中の雪が心配だな。今日明日と本州でも降るらしいし。今はちらつく程度だからまだいいけど、途中でひどくなったら立ち往生するかもしれない。まあ売店でいろいろ買い込んだし、車販もあるから困窮することはないだろ」

 優雄があらゆるつてを駆使して取った部屋はメゾネットタイプで、簡易のシャワールームもついていた。お世辞にも広いとは言えないが、動きづらくて悩むほど窮屈でもない。さながら動くビジネスホテルだと思いながら、雪花は一階にあるツインベッドのうち、窓側のほうに腰を落ち着けた。

 列車は適度な振動を伴いながら、一定の速度で走り続ける。陽が暮れた後の車窓は延々に暗いままだが、朝陽の眩しさを考えてブラインドは下げておくことにした。

 思った以上に快適だ。それが雪花の素直な感想だった。列車で夜を明かすのが初めての雪花を気遣っていた優雄は、その言葉にほっと胸を撫で下ろして笑う。

「飛行機も便利だけど、たまにはこういうアナログな旅もいいだろ? スピード重視もいいけど、俺的には時々こういう情緒がほしくなる」

「うん、悪くはないよね。旅らしいというか。それによくよく考えてみたら、二人でどこか泊まりがけで出掛けるのって初めてだし」

 荷物を置いて二階の座席に移動すると、真向かいに座る優雄が雪花に缶コーヒーを手渡した。

「飛行機だと早いけど、何となく味気ないよね。別に一人の時はそれでいいんだけど」

「しかし、食事は全部持ち込みでよかったの? 食堂車とか行きたかったんじゃ」

「ううん、これでいいの。何となく、乗ったら部屋から出たくないなあって」

「もしかして、金のことを気にしてる?」

「全然。むしろごめんね、あたしの希望ばかり聞いてもらっちゃって」

「俺はいいよ。雪花が楽しいならそれで」

 列車の走行音しか響かない夜の中、夕食用に買った駅弁や酒、おつまみをテーブルに広げ、二人でいつもより時間をかけて味わっていく。優雄はビールの缶を開け、牛肉がたっぷり載ったステーキ弁当をうまそうに頬張った。

「何もしない、ただ乗ってるだけ、座ってるだけ、食べるだけの時間って珍しいよね」

「そうだな。社会人になってからは、何においても仕事がメインで、なかなか忙しなかったから」

「それもあるけど、何ていうか、二人で過ごすのは同じでも、アパートにいる時と時間の流れ方が違う気がするの。何でだろう、旅だからかな。帰省だけど」

「新鮮?」

「うん、ちょっと不思議な感じ。でもいいの。本当は、この時間がほしかったんだ」

 口にすると、言葉は雪みたく溶けてしまう。その感覚をすんなりと受け入れている自分に気付き、雪花は思わず唇の端だけで小さく笑った。以前ならきっと、そんな感傷は単なるひりつきとしか思えなかっただろう。

 取り留めのないことを考えていたら、ビールをちびちびと味わう優雄の眦がふいに和む。その仕草に雪花は小首を傾げるが、そのうちつられてゆるりと頬が緩んだ。

「そういえば、ちょっと訊いてもいい? 実は前から気になってたこと」

 努めてさりげなく切り出した雪花に、優雄が裂きイカを一本つまみながら視線を寄越す。

「どうしてあたしのこと、好きになってくれたの?」

 裂きイカを食べる優雄が、途端に言葉を詰まらせて忙しなく瞬く。

「随分と唐突だな」

「そんな驚くこと? あ、もしかしてあんまり訊かれたくなかった?」

「いや、不意打ちストレートだったから、ちょっと面食らっただけ」

 優雄は裂きイカをもぐもぐと噛みながらビールを啜り、少し考え込んでから言葉を探す。

「星見の新歓、覚えてる? 初めての顔合わせの後に行った新歓」

「うん。全員で駅前の居酒屋に行ったよね。当時の先輩たちも含めてみんなで」

「そう。あの時、自己紹介タイムがあったじゃん」

「あったね。壁際から順番に、新入生が名前と所属学科を言ってくやつでしょ?」

「そう、それ。あの時、俺が何て言って自己紹介したか覚えてる?」

「覚えてるよ。向こうにいる平らで優しい雄と覚えてください、だったよね」

 その時の光景を思い起こして、雪花はつい遠い目をしてしまう。思えばあれが初めての飲み会で、優雄と言葉を交わした最初でもあった。

「あの時の優雄の自己紹介、みんな大爆笑だったよね。あたしもつられて笑っちゃって。それで優雄の後だった新入生みんな、自己紹介って笑い取らなきゃだめなのかなって空気になったのを覚えてる。先輩たち、すごい受けてたからさ」

「その飲み会が終わった後、大体の面子が駅方面だったから、何となくみんなでずらずら帰ってた時、ちょっとだけ二人で話したことも覚えてる? 北下が声かけてくるまでの、ほんのちょっとの短い間」

「さあ……どうだったかな。何せ新歓の思い出っていったら、優雄の強烈な自己紹介と、初めて飲んだお酒が美味しかったことぐらいしか、すぐには浮かんでこないなあ」

 首を傾げたまま唸る雪花を、優雄はナッツを口に放り込んで面白げに笑う。

「その時言ったんだよ。ちょっとだけ並んで歩いてた時に、雪花がさ。向平君の自己紹介、めちゃめちゃ面白かったけど、そんな自虐に走らなくてもいいんじゃない。優しい雄なんて言わないで、優しくて雄大なとかのほうが絶対いいよ。優しい雄って確かに笑い取れるけど、若干自虐っぽいんだよねって」

 思いがけない言葉を受けて、今度は雪花が面食らう番だった。

「……そんなこと言ったの? あたしが?」

「うん。覚えてない?」

「……ごめん、さっぱり」

「だろうな。でも俺は覚えてる。何気ない会話だったけど、俺は控えめに言って、雷に打たれたレベルの衝撃だったから」

 優雄はブラインドを下げた窓に凭れ、缶酎ハイの蓋を新たに開ける。そして少しだけくいと煽ると、

「あの自己紹介って、俺の鉄板なんだ。考えたのは幼なじみ。中学入ってすぐのホームルームで、全員が順に自己紹介しなきゃいけなくなった時、うまい自己紹介なんて思いつかないなって、後ろの席だったそいつに言っちまったのが運の尽き。じゃあこういう感じで言ってみろよ、絶対笑い取れるからって。別に俺は笑いなんて求めてなかったけど、そいつが出した案以外、特に思いつくものもなかったし、そもそも自己紹介なんて考えるの自体面倒だしって、そいつが言ったやつをそのまんま、ごくごく軽い気持ちで言ってみたんだ。そしたら大受け。クラス中大爆笑。以来、俺の鉄板になった」

 雪花は海鮮弁当のご飯をじっくりと咀嚼しながら、少し目を逸らして語る優雄を見つめて聞き入る。

「受けたことは正直、嬉しくも何ともなかった。むしろ何だか苦々しかった。俺自身が笑い者になった気がして。でも、それを言うと受けると分かって、自己紹介の度に笑いとして求められることが結構あったから、別にいいかなって境地にだんだんなっていったんだ。幼なじみは別に悪い奴じゃない。今でも普通に仲良いし、当時も奴に悪気なんて微塵もなかった。ただ俺が勝手にちょっとわだかまってただけ。青臭いかもしれないけど」

 優雄はナッツと裂きイカを順につまみながら、

「だから雪花に言われた時、目が覚める思いがしたんだ。ああ俺、自虐が滲んでたんだなって。自分的に無意識でも、心の奥に根付いた感情が実はあったんだと思ってさ。と同時にちょっと驚いた。この子、人を見る目あるなって。人の何気ない言葉とか、些細な仕草に隠れた機微とか、そういうのにちゃんと気付けるというか、見抜ける子なんだと。初めて会ったタイプの人間だったから、余計鮮烈に感じたのかもしれない。それが雪花の第一印象。あの時の驚きは一生忘れないね。だって雪花だけだったから、あの自己紹介を自虐って言ってきたの。他の奴らはみんな、酒の席のネタ程度にしか思ってなかったし」

「ごめん。本人、何も覚えてないっていうか、多分それ、無自覚で無意識に言ったと思う……」

「いいんだよ、雪花はそれで。俺が勝手に度肝抜かれただけだから。でもその後、杉原雪花って人間に、一気に興味が湧いたんだ。どういう子なんだろうって、気になって仕方なかった。それが恋か、単なる興味かなんてことは置いといて、それからしばらく観察してみたんだ。別にストーカー的な意味じゃないよ。単にみんなといる時に、他とは違う意識を向けてみただけ」

「はあ」

「それで気付いた。この子、かなり頑なだなって。周りにうまく溶け込んでるように見えて、よくよく突き詰めていくと、実は自分の手の内というか、内面をほぼ明かしてない。誰にも気取らせないさりげなさで、うまいこと線引きしてるんだ。他人に介入しすぎず、自分の領域にも立ち入らせない。いっそ清々しいぐらいの頑なだった。だから余計気になった。無理やりにでも振り向かせたかった。結果、やり方が下手すぎて嫌われたけど」

 雪花は箸をくわえたまま、微妙な苦笑いを浮かべるしかない。

「……ばればれだったんだね。全部、優雄には最初から」

「まあな。理由までは想像もつかないけど。でも、振り向かせたら勝ちとまでは言わないけど、好きになってもらえれば、俺の入り込む余地もできるんじゃないかと思ってさ。まあ、当時はだいぶ向こう見ずな感じでいったから、あれじゃ引くのも無理ないよなってのは、今になったら分かる」

 雪花はカシスオレンジの缶を開けて少し飲み、

「何だかんだ精一杯だったんだ、実は。当時は誰にも言ったことなかったけど」

「うん。おいおいとだけど、実はそんな気がしてた。でもそうやって注視してきて、気付いたこともあったんだ」

「何?」

「確かに頑なは頑なだけど、人嫌いってわけじゃない。相手の領域に立ち入らないのも、ある種の気遣いから来てるんだろうなって。周りに合わせても流されることはなくて、空気は読むけど変な遠慮はせずに、自己主張もちゃんとする。悪口や噂話は相槌を打つ程度に留めておいて、人が嫌がることは絶対しない。勉強もバイトも真面目にやって、かったるい授業でもさぼらない。意志が強いというか、責任感があるから、何事にも手を抜かないしやり遂げる」

「買い被りすぎだよ。あたし、そんないい人間じゃない」

「俺流の分析だよ。素直に受け取りな。まあそんな感じで、そうやって観察してるうちに、気付けばどっぷり嵌まってた。好きになったから、余計に知りたいと思ったんだ」

「難攻不落っぽいから攻略したい……じゃなくて?」

「そんな意地悪な言い方するなよ。ゲームじゃなくて純粋な気持ち。だってあの頃の雪花にとって、俺ってば完全にアウトオブ眼中だったから。好きな奴の視界に入りたいと思うのは当然だろ?」

 あまりにストレートな言葉に、雪花は思わずカシスオレンジを吹き出しかける。真面目に語っていた優雄はきょとんとして、

「そんな笑うとこだった?」

「違う。まっすぐ来たから、ちょっとむせた」

「直球がいいだろ? 捻らないほうが、何事も分かりやすくて」

 彼の選ぶ言葉がやたらと面白くて、雪花はつい笑ってしまう。ばかにしているわけではないと伝わったのか、優雄が不機嫌にならなかったことに内心でほっとした。

「……そうだね。確かに二十歳の頃は分からなかったけど、優雄がまっすぐぶつかってきてくれたから、あたしもちゃんと優雄のことを見れたのかもしれない。いつだって気にかけてくれて、言葉には嘘がなくて、この人なら信頼できる、本当の自分を見せても大丈夫って思えたんだ。あの頃のあたしは、自分が信じたもの以外、信じる勇気がなかったから」

 他愛もない、取るに足らない会話をいくつも不器用に編み上げながら、雪花と優雄は寝台列車とともに夜の深みへ吸い込まれる。夕食と晩酌用の食べ物を一通り楽しみ、シャワーを交代で浴びてしまうと、あとは眠って朝を待つだけの深夜がやってきた。

 ルームウェアに着替えた優雄は、布団と枕の位置を自分好みに調整した後、窓側のベッドにちょこんと座った雪花を見やって、

「目覚まし、何時に仕掛ける? 着くぎりぎりまで寝とくか、余裕を持って早起きするか」

「その前に、隣にいってもいい?」

 よほど不意を突かれたのか、体を横たえて携帯電話を触っていた優雄がぎょっとする。雪花は答えを聞く前に壁側のベッドへ移動して、身を起こした優雄の肩にぴたりと密着した。驚きの消えない優雄は当惑しながらも、その肩に手を回してそっと抱いてくれる。

「どうした?」

「そんなにびっくりさせたかな。心臓がどきどきいってる」

「お前から甘えてくることなんてまずないだろ。どうしたの?」

「ちょっと緊張してるのかも。さっきから何だか、体や足下がふわふわする。お酒に酔ったんじゃなくて」

「久々に地元に帰るから? そういえば、あんま帰ってる様子なかったもんな、大学の頃も今も」

「それもある。……けど」

「けど?」

「一番は、秘密を話そうとしてるから。大事なことを、初めて言おうとしてるから」

 優雄がベッドランプのほうを指差し、消すかどうかを仕草だけで訊いてくる。雪花は小さく首を横に振った。

 淡い橙が灯る闇の空間で、二人は壁を背にして寄り添う。一枚の掛け布団を共有しながら、雪花は優雄の肩に深く頬を預けた。

「話すのが遅くなってごめんね」

「いや」

「大学の時からずっとそう。優雄はいつもあたしのこと、奥の奥までちゃんと見てくれてたよね」

「気になるから、気にしてただけだよ」

「分かってたの。いつかはちゃんと話さなきゃいけない。向き合うことから逃げちゃいけないって。……でも、勇気がなかった。怖かったんだ。初めてする話じゃなくても、口にすると現実を否が応でも感じちゃうから、それがどうしても嫌で」

 優雄は雪花の目を覗くことなく、その頭を躊躇いがちに撫でてくれる。その太い指の温度を髪に感じて、雪花の心がわけもなく細やかに震えた。

「あたしね、親を殺されてるの」

 優雄の息遣いがほんの一瞬、断ち切られたように音ごと止まる。

「パパは刑事だったの。ママは元警察官。あたしが二歳の時、車で出掛けてた最中に追突されて死んじゃった。相手はわざとぶつけてきたの。運転してたのは、パパが昔逮捕した人だった」

 雪花の髪を撫でる優雄の指先が、ぎこちなく滑っては止まるのを繰り返す。

「明らかな殺人だった。でもあたしはその時まだ二歳で、何も覚えていないの。パパとママがどんな人だったのか、どれだけ思い出そうと頑張ってみても、今となってはほぼほぼ浮かんでこない」

 頭に触れていた優雄の掌が、雪花の肩を先程よりも強い力で抱く。雪花は優雄にもっと深く寄りかかった。

「……雪花って、兄弟とかいたっけ?」

「いるよ。一番上がお兄ちゃん、二番目がお姉ちゃんで、三番目がお兄ちゃん。あたしは末っ子なの」

「だろうな。そんな感じがする。末っ子っぽいもんな、雰囲気とか気質が」

「ふふ、よく言われる。……でね、お兄ちゃん二人は実の兄妹なんだけど、お姉ちゃんは従姉なの。ママの妹さんの娘。あたしの本当のパパとママは、健兄ちゃんが十五歳、尋兄ちゃんが五歳の時に死んじゃったんだ」

 雪花は腰を浮かし、向かいのベッドに置いたポシェットを取りに行く。そしてすぐ優雄の隣に戻ると、ずり落ちた掛け布団を引き上げて寄り添い、彼に一枚の写真を見せた。

「これね、あたしが赤ちゃんの時の写真」

 ベッドランプしかない薄闇の中、受け取った優雄がそれにまじまじと目を凝らす。

「……ラミネートしてるんだ」

「写真屋さんに持っていって頼んだの、褪せないようにしてくださいって」

「……ずっと、持ち歩いてるんだ」

「うん、実はね」

 写真に見入る優雄が、思ったままの言葉を呟いた。雪花は彼との隙間をさらに埋めて、

「でもね、今まで言ったことないの。これをアルバムから抜き取って持ってることも、パパとママが死んだのは事故じゃなくて、本当は殺されたんだって知ってることも。お父さんやお母さん、お兄ちゃんたちやお姉ちゃん、仲の良い友達も誰にも」

 優雄がやや驚いた瞳で雪花を見る。上目遣いに見つめ返す雪花が小さく頷くと、彼の表情にゆっくりと諒解の色が広がっていった。

「……そういう、ことか」

「うん」

「そういうこと、だったんだ」

「うん、実はね」

「ごめん。俺、さすがにそこまでは思い至らなかった」

「いいの。ていうか、それがよかったの。絶対に知られたくなかった。みんなの前では、いつも誰にでもよく笑う、明るくてちょっと空気読めないキャラの雪花でいたかったから。どんな時でも笑ってる子って思われていたかったから、本当は全部知ってますなんて、口が裂けても言う気はなかったんだ。幼なじみや学校の友達にも、実は育ての親の家で暮らしてますなんて、明かす気もなかった。だって、言ったら次の瞬間から、相手があたしを見る目が絶対変わっちゃうじゃない? それまで抱いてたあたしへの印象に、ちょっと前にはなかった面が加わるのが嫌でね」

 優雄が雪花に写真を返す。そしてその手で雪花を抱き、何度も何度も髪を撫でてくれた。

「家族はあたしが真実を知ってるなんて、多分夢にも思ってないんじゃないかな。パパとママの話題は時々出ることがあるんだけど、殺人とか殺されたなんて言葉やニュアンスとか空気、絶対に誰も出さないの。多分あたしの知らないところで、あたしの前では、パパとママは事故で死んだことにしとこう、一生それで貫こうって話してるんだろうな。今まで何度かわざと、ばれない範囲のさりげなさで突っついてみたことあったけど、みんな絶対にぼろを出さないの。事実を隠し続けるって、実はものすごく大変だしきついよね。そんな苦労も感じ取ってたから、本当は知ってますなんてことは、余計に言いたくなくて」

「……じゃあ、これからもずっと、俺たちだけの秘密にしとこう」

 優雄の両腕に包まっていた雪花は、耳たぶに触れた囁きに思わず目を瞬かす。

「結婚するとなったら、雪花の身内の誰かがもしかしたら俺に、雪花のいないところで本当の事情を話してくれるかもしれない。俺はそれをそのまま受け取っといて、それ以上の話は誰にもしない。雪花も今までどおり、家族の人に何も言わなくていいよ。本当のことは俺が知ってる。知った上で俺はこれから先、ずっと雪花を守り続ける。だから、このことは俺たちだけの秘密にしよう」

 その言葉が溶けた瞬間、脳裏に浮かんだのは亮の顔だった。二十歳の冬に再会した時の大人びた彼ではない。初めて長く言葉を交わした日、少年と青年の間に身を置いていた頃の亮だ。人影が見えない黄昏を背に受けて、ほんの些細なきっかけから心の膿を潰した雪花に、手を差し伸べてくれた面差しが蘇る。

 虚勢を張り続けることで精一杯だった十五歳の頃、誰かに秘密を明かすのはこれが最後と信じていた。時が経ってから亮以外の誰かに、彼とはまるで違う角度からこんなにも深く、思いがけない形で救われる日が来るなんて、想像すらしていなかった。

 ──俺が歩まなかった陽向の道を行ってよ。俺はそこで、雪花に幸せになってほしい。

 いくつもの歳月の末に、亮の願いは叶った。一生を懸けて叶えてくれる人との出会いを、心から受け入れ信じられる雪花になれた。

 形なきかさぶたを剥ぎ取った胸に、ほんのりと穏やかな熱が宿る。柔らかな震えに体が芯から揺さぶられ、ほろほろと零れた涙で薄闇すら見えなくなった。

「ごめん。俺、今までこっちを振り向かせたいあまり、考えなしに何度も突っついたりして。雪花が守ろうと必死だったものを、無遠慮に抉ってばかりだったんだなって、今更ながら気が付いた」

 優雄が雪花を強く抱き直す。その鼓動に顔を埋め、雪花は泣きながら何度も頭を振った。

「でも、やっと謎が解けた。今まで燻ってたことが全部なくなった」

 優雄は雪花を掻き抱いたまま、その髪に唇を寄せて確かに告げる。

「聞けてよかった。背負わせてくれて、ありがとな。話してくれて、嬉しかった」

 優しく降る声の厚みが嗚咽を割る。雪花は優雄にひしと縋りついて、これまでにない激しさで泣きじゃくった。

 聞いてもらえてよかった。知ってくれてありがとう。本当はそう伝えたかったけれど、それらはどうしたって言葉にならず、砕けた涙声だけが寝台列車の振動に延々と揺られ続けた。



 打ち明け話をした後のことを、雪花はよく覚えていない。久しぶりに両の瞼が腫れるまで泣いて、吐き出した感情の終着点を見つける余力もついにないまま、優雄の腕に包まり眠ってしまったようだった。

 遠くで聞こえる話し声を鼓膜に捉え、雪花は寝惚け眼を擦りながら身を起こす。ベッドに優雄の姿はなく、雪花がきょろきょろと見回していると、彼が階段を下りてくるところだった。

「あ、おはよ。起きた?」

 雪花はつい、ぽかんとしばらく面食らう。優雄は数秒ほど瞬いたが、特に何も言わなかった。そして窓側のベッドに腰を落とし、未開封のペットボトルのお茶を渡してくれる。

 彼があまりにも普段と同じなので、雪花は開いた口がなかなか塞がらなかった。ものすごく深刻な告白をした後に迎える朝だから、何となくぎこちない空気になっているかもしれないと思っていたのだ。その予想が外れた今、雪花は最初こそ拍子抜けしてしまったが、同時に涙が滲みかけるほど深く安堵していた。

「ちゃんと寝られた? 酔ってない?」

 斜め向かいに座る優雄は、お茶を口に含んだまま目を伏せる雪花を、まだ寝惚けていると解釈したらしい。雪花がペットボトルを握ったまま頷くと、

「この寝台、二時間半遅れなんだって」

「え?」

「夜更けに雪がひどくて立ち往生してたんだって。今、車掌の人が来て教えてくれた。豪雪地帯は抜けたから今は普通の速度で走ってるけど、終点には三時間遅れぐらいで着くだろうってさ」

「そうなんだ……。遅れてるとか、全然気付いてなかった」

「遅いなとは思ってたけど、こればっかりはしょうがない。払戻し受けられるからよしとしよう」

 優雄の言葉どおり、寝台列車は予定より三時間近く遅れてT田駅に到着した。生まれ育った街の駅に降り立つなり、むわっと体を包む生温い風と喧騒にぐらりとする。車体に厚い雪を載せた寝台列車を眺めることなく、雪花は人波を掻き分けて進む優雄の後に続いて歩いた。

 切符の払戻しの手続は全て優雄がやってくれた。長蛇の列を抜けてようやっと改札を出た時、故郷に帰ってきたという実感が雪花の中にやっと広がっていく。

 優雄は二人分のスーツケースを器用に引きながら駅構内をさくさくと歩き、

「家族が迎えに来てたりとかするの?」

「ううん。だって、家族には言ってないもん」

「えっ、マジで?」

「帰省するとは言ってあるよ。結婚相手を紹介したいから今週帰るねって」

「それだけ? 俺の人物像や式の日取りとか、そういう具体的な話は」

「まだしてない。結婚相手を連れていくとだけ言ってる。だって電話でできるような話じゃないし、そもそも帰省の日にちや時間を前もって伝えちゃうと、健兄ちゃんが無理やりにでも休みをもぎ取って、駅まで迎えに来ちゃうもん。公衆の面前で、超がいくつあっても足りないシスコンぶりを発揮されると、あたしはともかく周りや優雄がどん引きするでしょ。だからサプライズのほうがいいの。会うなりフィアンセをフルボッコにされても困るしね。警官だから理性があるないは置いといて、健兄ちゃんはマジでそういうのしかねないぐらい、末っ子のあたしが大好きだから」

「……随分と冷めた妹だな。久々に帰ってきた妹の隣に彼氏がいて、打ちのめされる兄貴のほうが逆に気の毒になってきた」

「あはは。でもまあ、それはある種の建前として」

 雪花は小首を傾げる優雄の腕を引っ張って、コインロッカーにスーツケースを入れて身軽になると、駅ビルの地下にある小さな花屋へ立ち寄った。

「すみません。仏花を二束と、白百合の花束を作ってもらえますか」

 その言葉を聞いた優雄が、初めて得心のいった顔になる。雪花は瞬きだけで彼に応えると、次は駅構内のスーパーへ向かい、線香や蝋燭、ライターをてきぱきと選んで会計を済ませた。

 雪花主導の短い買物を終えた二人は、ロータリーに戻ってタクシーに乗り込む。雪花は先に乗り込んで、白百合の花束を崩れないよう丁寧に抱えた。

「すいません、S山霊苑までお願いします」

 後部座席のドアが自動で閉まり、タクシーがゆっくりと発進する。そして、市街地を抜けた先にある郊外の小山を目指して走った。

 車外の景色を物珍しげに眺めつつ、優雄がどこか腑に落ちた顔で口火を切る。

「墓参り?」

「うん、そう。実家に戻るより先に、どうしてもまず行っておきたくて。ごめんね、何の前触れもなくいきなりで」

「いや、それはいいけど。でもいいの? 家族とするより先に、俺みたいな部外者を連れていって」

「部外者じゃないでしょ。少なくとも、あたしにとっては」

 花束が振動でずり落ちないよう、雪花は膝の上を常に気にする。その手の強張りにつられるように、紡いだ言葉も若干の震えを伴った。

「ずっと前から決めてたの。もしこれから先、一生添い遂げたいと思える人に出会えたら、その時は一番に、パパとママに会いに行こうって」

 優雄は少し神妙な面持ちになるも、それ以上何かを言うことはせず、代わりに雪花の手をさりげなく握った。掌を通じて伝わる温もりが、雪花が時間をかけて育ててきた覚悟を密かに掬い、沈黙よりも穏やかな丁寧さで形作っていく。

 刻一刻と迫ってきている。いつか必ずやってくると知っていた、でも本当は訪れることなどないのではとも思っていた、一つの始まりと終わりを同時に刻む瞬間が。ここまで辿り着くのに、いったいいくつの葛藤や痛みを越えてきただろう。

 タクシーは四十分ほどかけてS山霊苑の入口に到着した。霊苑は市街地を臨む小山の中腹より上にあって、頂上には火葬場も兼ねた斎場が併設されている。

 雪花と優雄はタクシーを降り、手を繋いで緩やかな坂道を歩いていった。

 平日の昼間だからか、人の姿をほとんど見かけない。葬列に出会うこともなければ、霊柩車が横を通り過ぎることもなく、枯葉色の木々に抱かれた霊苑内はとても静かだった。途中で水桶と柄杓を借り、花と手分けして持ちながら、二人でゆっくりと坂を登る。

 小山の中腹に当たる区画の片隅に、雪花が目指す墓はあった。桶の水を零さないようにしながら、雪花は最前列の右端に建つ墓石の前で足を止める。

「着いた」

 雪花は大きく息を吐いて、かちかちに固まった両肩から力を抜く。隣に立つ優雄が、少し意外そうな響きでぽつりと呟いた。

「木村家之墓……」

「あたし、元は木村って苗字なの。杉原っていうのは、ママの妹さんのお家でね。木村はパパの実家なんだけど、パパは一人っ子で、おじいちゃんとおばあちゃんも随分昔に死んじゃってるから、木村のお墓と杉原のお墓はうちが管理してるの。杉原のお墓も、区画は違うけどこの霊苑にあってね。だからお墓参りの時はいつも、杉原と木村のお墓をはしごする感じで行くんだ」

 盆からしばらく経っているせいか、供えられた仏花はぼろぼろに枯れている。雪花はそれを丁寧に取り去り、買ってきた新しい花を綺麗に立てた。そして二人で墓石を洗い、優雄が灯してくれた蝋燭で線香に火を点ける。

 新しい花が活けられて印象が明るくなった墓前で、雪花と優雄はしゃがむと静かに合掌した。

 優雄は先にそっと立ち上がり、長く手を合わせる雪花から少し離れた位置に立つ。雪花はやがて瞳を開くと、白百合の花束を墓前に供えた。

「久しぶり、パパ、ママ」

 呼びかけた途端、反射で視界が潤みかける。だが、雪花は精一杯の力でそれを堪えた。

「長いこと来れてなくてごめんね。本当はもっとちゃんと、まめに来るべきだったのに。寂しい思いをさせちゃったね。……今日はね、パパとママに、一番に伝えたいことがあって来たんだ」

 どこかか弱く揺れる雪花の声が、さやさやと髪を揺らす風と微かに重なる。何も語らず、何にも動じない墓石にきっと宿っている、目には映らぬ存在と真正面から向き合う気持ちで、雪花は努めて静穏に言葉を紡いだ。

「パパ、ママ。あたし、結婚するんだ。大学の同級生の向平優雄君。今日、一緒に来てもらったの。パパとママに、一番に会ってほしくて」

 優雄は少し離れた位置に立ち、訥々と墓石に語りかける雪花を見守る。その佇まいはまるで空気に溶けるようで、とても彼らしい気遣いだと思ったらまた涙が出そうになった。

「前から決めてたの。もしいつか結婚したい、一緒にずっと生きていきたいと思える人に出会えたら、まずパパとママに会わせようって。……思ってはいたけど、本当にそんな日が来るのかなって実は半信半疑だったから、時間はかかっちゃったけど、無事に叶えられてよかった」

 周囲には優雄以外に一人としておらず、遠くの足音や話し声が響いてくることも今はない。やや冷えた風が時折髪をすり抜け、その姿を優雄が何も言わずに見ていてくれる。それが、張り裂けんばかりに疼き出した雪花の心をかろうじて支えていた。

 時が来た。誰とも知れぬ声が、脳裏の奥底で柔らかにこだまする。ずっとずっと秘め続けた、恐れながらも抱え続けた心を晒す時がやってきた。いつかきっとという名の猶予期間はここで終わる。この機会を逃したら、言葉にする勇気は二度と持てまい。いつかではなく、今でないとだめなのだ。

 雪花は優雄を振り返る。その瞳が声を発さず、ただ一度強く頷いてくれたのを見て、雪花はようやっと恐れと躊躇いを捨て去った。

「パパ、ママ。……あたし、パパとママが死んじゃって悲しかったよ。小さい頃、何であたしはお父さんとお母さんを、本当の親だと信じてたんだろうね。二歳の時に、パパとママが死んじゃったから? 小さくて、まだ全然何も分かってなかったから? 末っ子のあたしを傷つけまいと、周りがいろいろ心を砕いてくれたから? ……でも、パパとママからしたら、ひどいことに変わりはないよね。だってあたし、お父さんとお母さんに本当の話を打ち明けられて、自分は違う親の子供だったんだって、ショックを受けたんだから」

 本音を声に乗せてみると、その残酷さに我ながら改めてぞっとする。墓石に宿る両親の魂を、拳で力一杯殴りつけている感覚だった。

「お父さんとお母さん以外の親がいるって知って、あたしすごくショックだったよ。泣いちゃうぐらい傷ついた。でも、パパとママが本当は殺されたんだって知った時、もっとショックでわんわん泣いた。……ひどすぎるよね。パパとママは、何も悪いことしてないのに。正しいことをしたのに逆恨みなんて、そんな理不尽なことってない。パパとママを殺した犯人は許せない。許せるわけない。……でも本当はずっと、何も知らずに笑ってた自分が一番許せなかった。パパとママを忘れた自分が、何よりも残酷で罪深い悪だって思ったんだ」

 数えきれないほど長く巣食っていた膿に、奥まで貫通する刃を自ら突き立てた。この感覚を味わうのは二度目だ。忘れもしない十二年前の真冬、初めてちゃんと向き合った亮に言葉のナイフで刺された。あの時も、雪花の中で人知れず育っていた膿が、生々しい痛みを伴って歪に潰れた。

 だが、その時とは違う形でじわじわと膨らみ続ける別の膿があることを、十五歳の雪花はまだ露も気付いていなかった。

「……あたしね、時々考えてた。パパとママを忘れて育つあたしを見て、天国のパパとママはどう思ってるだろうって。パパとママのことを知った後も、あたしは家族にすら本当の気持ちを隠し続けた。小さいプライドを守るために、作り上げた自分を壊さないために、あたしはあたしに蓋をした。二度と開かないでって、それはそれはきつく閉めて。……寂しいとか悲しいとか、痛いとかつらいとか、そんな権利もあたしにはないと思った。だって覚えてないんだもん、パパとママのこと。覚えてない人間が、覚えてない人を悼んで悲しむなんてずるいじゃん。だから余計言えなかった。言ったらだめって、ずっと思ってた」

 まるで血の塊を飲み込んだみたいに、喉が塞がれて息遣いが苦しくなる。

「でもね、本当はずっと寂しかった。お父さんもお母さんも大好きだけど、あたしを産んでくれたパパとママに会いたかった。会えないのが悲しかった。写真をずっと持ってたけど、記憶に浮かんでこないのがつらくて、申し訳なくて。……そのうち、お父さんとお母さんの愛だけじゃ満足できなくなって、本当の気持ちを抱えてるのがつらくなって、家を飛び出した。あたしは逃げたの、家族から。周りの気持ちから。……そしてそのうち、パパとママのことを考えることすら、つらくなっていったの」

 言葉の一つ一つを針に変え、その雨に全身で打たれている心地だった。この身の全てが、痛くて痛くてたまらない。だが、その痛苦を丸ごと咀嚼してでも向き合わなければならない今が、雪花をがんがんと殴りながらも支えている。

「それからずっと、天国のパパとママが見ててつらくなるようなことばかりしてきた。実家にもほとんど帰らないで、たまに帰っても家族とちゃんと向き合おうとしないで、のらりくらりかわすスキルばっか身に着けて、それで挙句」

 人殺しを是とする亮に恋をした。両親を理不尽に殺されたと自覚しながら、雪花は暗殺業を貫く亮に人生を捧げようとした。そして、叶わぬ恋を思い出として整理することなく、むしろこの世の終わりみたく嘆き悲しんで、その未練を長い間ずるずると引きずって過ごした。

 その罪深さに気付いたのはつい最近だ。優雄と添い遂げる決意を固めて、結婚式の準備を始めていった頃、雪花はその重さと改めて向き合うことになった。

 亮を愛したことを悔いてはいない。間違いだったと思うことも一生ないだろう。だが、暗殺を生業とする亮を愛し抜く重みと罪深さを、当時の雪花は何一つ理解していなかった。

 あれから七年が経った今なら分かる。亮は雪花が理解していなかった先の先まで見据えた上で、違う道を歩む決意をしたのだ。己が一生を懸けて背負う業を、両親の死に傷つけられた過去の雪花にも、その事実を抱えて進んでいく未来の雪花にも、負わせることのないように。どれだけ悲しまれようとも、亮は亮なりのやり方で雪花を守った。

 それらは全て、雪花が何年も経った後に思い至ったことだ。当時の亮の真意を質すことはもはやできない。しかし、それが間違っている気持ちは不思議と湧いてこなかった。

 言葉には到底変えられない感慨に支えられて、雪花は己と向き合う覚悟をやっと定めることができた。

 今まで誰にも言っていなかったことがある。家族や友達だけでなく、全てを捧ぐほど愛した亮にも打ち明けずにいた思いが、言葉と声で吐き出される時を待っている。それは雪花にとって、紛れもない罪だった。

「ずっとずっと、ごめんね。パパとママを忘れちゃって、パパとママの死を重荷みたいに思ってごめんね。産んでくれたのに……たくさんたくさん愛してくれたのに、本当にごめん。死にたくて死んじゃったわけじゃないのに。パパとママは何も悪くないのに。……なのにあたし、受け止められなかった。本当は心の中でずっと、パパとママを責めてた。何でいないの、どうして死んじゃったのって。ずっとずっと、パパとママの死が重かった。たくさん愛されて育ったのに、写真だってちゃんと残ってるのに、思い出せないことが悔しくて仕方なかった。……きっとあたし、自分でパパとママを消しちゃったんだ。重たく思うあまり、愛されたことも忘れちゃおうとしたんだ。ごめんね。本当にごめん」

 ──面白いと思わない? だから人は初めて感じたり経験したり、出会ったりしたことは一生忘れないんだって。何かロマンチックじゃない? だって、初めてはいつまで経っても消えないんだよ。

 ──すぐに思い出せない記憶なら、意味合い的には忘れたも同然じゃないかな。覚えてることなら、すぐ思い出せるはずだしさ。

 かつて友人たちが言っていた言葉が浮かぶ。彼女たちが言ったことは、ある意味ではどちらも正しい。しかしだからこそ、その言葉は雪花に刺さった。

 ──覚えてるか? 親父とお袋が死んですぐの頃、いきなり住処が変わって驚いたのか、いつも傍にいてくれる親がもういないと分かったからか、雪花はしばらく夜になったらわんわん泣いて、そりゃあもう大変だったんだ。

 大学生の頃、兄妹水入らずの席で健人にそう言われて、心底驚いたのをよく覚えている。あれから雪花は何度も、その頃のことを思い出そうとした。己を限界まで追い詰め削るような苛酷さで、両親を亡くしてすぐの記憶にばかり思いを馳せては、その瞬間を微かにでも掴めないものかと試みた。

 だが、それが実を結ぶことはついになかった。どれだけ長く、切実に思い出そうと努めてみても、記憶は一ミリも浮かんでこなかった。それが大人になった雪花をどれだけ傷つけ、絶望と呵責のどん底へ何度自ら飛び下りたことか。

 頭の中で眠っているだけだから、すぐに思い出せなくても、忘れたわけでは決してないと思う自分と、浮かんでこないということは、忘れてしまったも同然なのではと思う自分が、時折ひどくせめぎ合っては雪花を絞めた。真理を突いた友人たちの言葉は、あれから幾年が過ぎた今も生々しい姿をしている。

 雪花はポケットに入れたパスケースから、肌身離さず持っている家族写真を取り出す。ラミネートしていても古ぼけてきたそれを胸の前で握り、雪花は涙ながらにもう一度墓石を見つめて訴えた。

「本当はずっと大好きだよ。元気に笑うパパとママと、みんなで一緒に暮らしたかった。中高の制服も振袖も、袴もスーツもウェディングドレスも、本当はパパとママにまず見てもらいたかった。テストの成績も受験の合格も、パパとママに一番に褒めてもらいたかった。お喋りもお買物もご飯も、喧嘩も仲直りもいっぱいいっぱいしたかった。遊んだり旅行に行ったり、泣いたり笑ったりいっぱいしたかった。……大好きだよ、パパ、ママ。本当はずっとずっと会いたかったよ。本当はずっと寂しくて、ずっとずっと悲しかったよ」

 玉砂利に両手を突き、雪花は身を丸めるようにして咽び泣いた。ひび割れた慟哭が、風の音しかない墓地の静寂を壊す。最深部まで破られた膿から漏れ出す感情は、それ以上の言葉にはどうしても変えられなかった。

 どれだけの間、泣き声だけが響いていただろう。後ろから伸びた大きな掌が、柔らかくも強い力で雪花の肩に置かれた。

「もう、いいよ」

 横に立つ優雄はほんの少しだけ腰を屈め、

「もう、いいんだよ」

 ふわりと低く降り注いだその言葉が、崩れた雪花にじわりと広がっていく。風よりも穏やかな感触をしたそれは、巨大な膿を全て吐き出した痛みに悶える胸へ伝わり、疼く傷口を少しずつ丁寧に塞いでいった。

 本当は許されたかった。聞いてもらいたいと願う以上に、本当はずっと誰かに赦してほしかった。現実的に罪を犯していなくても、胸に長く巣食う罪悪感を言葉に変えて、その思いが終わる時を誰かに見届けてもらいたかった。

 雪花は顔を濡らした涙を拭うと、握っていた家族写真をパスケースに戻し、もう一度墓石をまっすぐ見据える。

「あたし、幸せになるから。パパとママが願ってた以上に、幸せになるから。パパとママがくれた人生、ちゃんと生きて大事にするから。……産んでくれてありがとう。いつも見守ってくれて、ありがとう。いっぱいいっぱい、愛してくれてありがとう。パパとママの娘に生まれて、あたしは本当に幸せだよ」

 雪花は手についた玉砂利を丁寧に落とし、もう一度手を合わせて深く瞑目した。心の中で祈りと謝罪と、感謝を何度も繰り返す。そしてゆっくりと目を開いた。

 腰を浮かそうとする雪花に、優雄がすっと手を差し伸べてくれる。彼に支えられて立ち上がった雪花は、荷物を持ってくれる優雄に導かれて、墓に背を向けて歩き出した。

 両親の眠る墓が、少しずつ遠くなっていく。雪花はそれを静かに感じながらも、足を止めて振り返ることはしなかった。

 緩やかな坂道を、二人でゆっくりと下っていく。霊苑内には相変わらず人気がなく、頭上に広がる空の青も、来た時とは違う色合いと澄み渡り方をしていた。

「次泣く時は、嬉し泣きだから」

 隣を歩く優雄は唐突にそう言うと、荷物を右手に持ち替えて、仰ぎ見てくる雪花の右手をしっかりと握った。

「だから、嬉しい報告をいっぱいできるようにしよう。次また行く時、一緒に笑って行けるように」

「うん」

 頷いた時、雪花はまだ涙を滲ませながらも、頬と唇は小さく笑っていた。

「ありがとう。あたしの全部、聞いてくれて」

「うん」

「受け止めてくれて、傍にいてくれて、ありがとうね」

 優雄はそれ以上の言葉を返す代わりに、雪花の手を握る指に力をこめた。

 今まで胸を占めていた膿が消え去り、やがて音もなく満ちていく感情がある。その名前を雪花は知らなかった。相応しい比喩も、今はまだ思いつけない。

 それでいい。これから一つずつ、知っていけばいいのだ。今までいくつもの初めてを重ねてきたように、一喜一憂しながら生きていけたらいい。目を逸らしたり、見て見ぬふりをするのはやめにして、弱いところも醜い本音も、全てひっくるめて雪花なのだと、受け止めることができたなら。

 今までそれを恐れていたけれど、たとえほんの少しずつでも、これからは確実に変わっていける。そんな予感を信じられる自分に、雪花は初めて出会うことができた。

 坂を下りきる直前で、雪花は目線だけで後方を振り返る。そこには、なだらかな坂と舞い落ちる枯葉、そして墓石の群れが少し見えるくらいだ。他に誰の姿もいなければ、何かしらの音が響き渡るわけでもない。

 雪花は視線を前に戻し、優雄と寄り添いながら歩いていく。ひりつきが鎮まりゆく胸に、固いままだったしこりを溶かしていく熱を感じた。

 少しだけ振り返ったのは、何かを悔やむためではない。刻一刻と過去に変わりゆく今を、遠ざかるごとに思い出へ移ろっていく記憶の軌跡を、僅かでも見届けられたらと思ったからだ。

 雪花は優雄と歩いていく。眼前の景色だけを映すその瞳が、新たな涙に揺れることはもうなかった。

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