2-8
二十歳の冬と大学二年生の春休みは、雪花がふと気付いた頃には終わっていた。
亮と別れて以降、どんな風に過ごしていたかは覚えていない。どれだけ思い返そうとしても、薄ぼんやりとした切れ端しか浮かんでこないのだ。そう自覚し出したのも随分と後になってからで、そんな己に呆れる気力が芽生えることもついになかった。
喪失感を持て余しているうちに、新学期が賑々しく幕を開けた。三年次の授業や課題はどれも、それまでの二年間は単なる序章でしかなかったと思うくらい専門性が高く、『千年雪』のバイトや星見の集まりと並行してこなしていると、毎日はやたらと濃い後味だけを残してあっという間に過ぎ去った。
忙しない毎日を送りながらも雪花は、時折どうしようもない虚しさに駆られては、ベッドの片隅で膝を抱えて延々と泣き暮れた。心の全部を捧げ尽くした亮との日々が、赤々とした色と熱を保ったまま、脳や体から一向に消えなかったからだ。
湖が見える小さな駅で亮と別れた日のことを、雪花は今も鮮明に覚えている。
あの後、アパートまでどうやって戻ったのかよく分からない。N谷行きの電車に一人で乗ったことも、駅からアパートへ歩いて帰ったことも、全て己が身で経験した出来事のはずなのに、それらしい実感はまるで伴っていなかった。
亮と別れた後の記憶として、雪花が覚えているのは二つだけだ。帰宅してからの三日間、寝食も惜しんでひたすら泣き続けたこと。それから一ヶ月が過ぎた頃、いつもと変わらぬ間隔で生理が訪れたことだ。
自宅のトイレに座り、下ろしたショーツに薄くついた経血を見た時の絶望を、雪花はきっと一生忘れない。
初めてのセックスで、何も着けずに一晩で三度も交わったから、淡い期待を抱いていた。もしそれが現実のものとなったら、どれだけ苦労しても構わない。誰に何と謗られようと、命を賭す覚悟で守り抜こうと思っていた。
だが、それは叶わぬ夢だった。残された一縷の望みは実を結ぶことなく潰え、代わりに雪花の胸に悲惨な色をした染みが際限なく広がった。
「……あんなに、したのに」
湧き上がる痛烈なひりつきを言葉に変えた途端、かっと炙られた両の瞼は幾粒もの涙でびしょびしょになった。
「できたって、よかったのに……」
世界とは、運命とはなんて非情なのだろう。全てを呪う重さで打ちひしがれたことが、未だかつてあっただろうか。その夜、雪花はまた一睡もせずに泣き濡れた。
結局、雪花には思い出しか残らなかった。最後の願いもあえなく失せて、これで雪花と亮を繋ぐものはなくなった。五年ぶりに再会してからの短い日々はそう遠くない未来、ゆっくりとでも過去に埋没していくだろう。記憶の鮮度を保つことは誰もできない。分かっている。生きていくとは、つまりはそういうことだ。それでも雪花は、その真理に最後の最後まで抗いたかった。
今を生きるのは、実はとても残酷なことだ。生きていれば、どれだけ悲しんでいても腹が減り、眠気や疲労にも適度に襲われる。しかし雪花には、そのどれもが胸を裂くほどつらかった。亮と出会ったことや過ごした時間、交わした言葉の数々がいつか褪せてしまうなら、時間など今すぐ概念の根底から瓦解すればいい。そんな滑稽な世迷言を、雪花は常にどこかで真剣に考えている。
難解な専門科目を学んでいても、カフェで友達と談笑していても、『千年雪』でパンの香りに包まれていても、気付けば着地点のない物思いばかり巡らせている。もしこの心をちらりとでも明かしたら、他人は雪花にどんな気遣いと言葉をかけるだろう。時々そんなことを思っても、確かめてみる気はついに起きないまま、大学三年生の日々は春から夏へ着実に移り変わっていった。
亮と別れた後は、毎日をただ機械的にこなしている感覚しかなかった。だがこれから先もずっと、そのように過ごし続けることはできないだろう。望むと望まざるとにかかわらず、訪れる明日は雪花の頭を、徐々にではあるが振り払えない力で現実へ引き戻す。
泣きたい気持ちは常にあっても、誰かの前で本当に泣いてしまうわけにはいかない。規則正しく生活しないと体調が狂うし、メールや電話を無視するとあらぬ不安を周りに与える。嘘をついてシフトに穴を開けた手前、『千年雪』でのバイトを疎かにするのもだめだ。それに何より、物憂げな様子を少しでも誰かに見せたら、何かあったのかと訊かれてもおかしくない状況に陥る。
それだけは絶対に避けたいと思った。この身に起こった出来事を言葉にしたら、雪花は今度こそ本当に跡形もなく壊れるだろう。手付かずの悲しみや絶望が、心の中にまだいくつも散らかったまま、それに触れるだけの勇気さえ持てずにいるというのに、誰かに何かを気付かれでもすれば、そんな現実を自ら認めざるを得なくなる。
それを免れるためにも、雪花はどの場でも努めて明るく振る舞ってみせた。無理にでも笑うことで保てる自我がある。その危うい境地が、雪花自身を良くも悪くも守っていた。
大学三年生の秋と冬は、それらしい実感が伴わぬまま難なく過ぎていっていた。ある程度の成績を保ちながら、単位を一つも落とさないように授業や課題、実習をこなすのは理屈で考える以上に大変だったが、その忙しさは雪花にとって逆に救いでもあった。
何かしらやることがあるというのは、ある意味においてありがたいことだ。忙しいと、未だ寒々しいほど空っぽな己と向き合う暇を作れない。泣きたくて仕方がない衝動に駆られても、他にまだやるべきことがあると思うとやり過ごせた。亮との別離で虚ろになった心を別の何かで満たすより、空洞なりにバランスを保つことに精を出すほうが性に合っている気もした。
だがそのうち、毎日の授業や友人たちとの付き合い、ゼミの課題やバイトなどと並行して、就職活動や国家試験も視野に動き始めると、相も変わらず空っぽな心が、それまでとは違う意味で不穏になった。勉強は今も必死に続けているが、雪花には将来のヴィジョンがまだ何もない。卒業後に就きたい業種も曖昧で、大学生活を経て何かを乗り越えた感覚も生まれていなかった。
無為に流されて過ごすのは良くない。それは強く感じている。しかしどれだけ考えみても、この先どうすればいいのかが全く見えない。それどころか、向き合うべき現実など知りたくないし、知らなくていいと思う自分さえいる。
手応えのなさを持て余したまま、気付けば雪花が暮らす北国には、身が凍るように厳しく長い冬がまたやってきていた。
己の道を完全に見失った雪花に変化が訪れたのは、誕生日を迎えて二十一歳になり、無事に三年生の春休みに突入した真冬だった。
それは、春休みスタート記念と銘打った星見の飲み会で、優雄が切り出した話がきっかけとなった。
「農業体験って興味ない? 俺、家が畜産業やってるんだけど、外部に募集かけて毎年そういうのをやってるんだ。明後日からの一週間、朝から晩まで牛の世話をひたすらやるのがメインだけど、バイト代は出るし、寝るとこと食事のうまさは保証する。どう?」
宴もたけなわの頃に出された提案に、雪花を含む五人がその場で手を挙げた。
三年生で挙手したのは雪花だけで、仲良しの希実は愛想笑いを武器に辞退した。尤も、雪花以外の面々は酒の勢いもあり、単に面白がって参加したにすぎない。
しかし、優雄は雪花が真面目に手を挙げたことが意外だったらしい。飲み会終わりの帰り道、久しぶりに並んで歩いた短い時間にそんな言葉をかけられた。
「ちょっとびっくりした。杉原ってこういうの、一番に断りそうなイメージだったけど」
「別に大した理由はないよ。春休みはバイトと勉強以外にすることないし、実家に帰れない理由が一つでも多くほしいなと思っただけ」
ややつっけんどんにそう告げると、優雄は納得したのかそれ以上は言わなかった。その引き際がやけに潔くて、今度は雪花が少し意外に思ったくらいだ。
優雄とのやりとりはそれだけで終わり、その後一緒に帰った希実には予想どおり、彼に気があるから乗ったのではとさんざんからかわれた。雑に見えない程度の適当さでかわしたが、少なくとも優雄や希実にとって、雪花の挙手はそれだけ意表を突かれるものだったらしい。
農業体験中も、そんな風に囃し立てられるのだろうか。それはなかなか面倒だと思ったが、だからといって翻意することもない。雪花は『千年雪』に長めの休みをもらい、出発日として指定された三日後の早朝、一週間分の荷物を詰めたスーツケースを引きずって待ち合わせ場所を目指した。
先輩二名と後輩二名に雪花という顔ぶれを乗せ、優雄の運転で向かった彼の故郷は、N谷から三時間以上は北上した位置にある、見渡すかぎり銀世界が広がる小さな小さな村だった。そこで優雄の家族に迎えられた雪花たちは、到着の挨拶もそこそこに深夜まで、百頭は軽く超えそうな乳牛の世話に従事することになった。
牛舎での仕事は、雪花の想像を数倍も上回る肉体労働だった。その過酷さは体験というより、もはや修業に近いだろう。どの乳牛もがっちりとした体つきで存在感も逞しく、よちよちと歩く仔牛は思わず撫でたくなる愛らしさだが、そこかしこに点在する大量の牛糞を見れば反射的にたじろぐし、餌やりの途中に乳牛から盛大なくしゃみを浴びせられたら、あまりの臭いと不快感に、世話する意欲も一気に失せる。
雪花を除き、参加した四名のうち二名は明らかに、面白半分と興味本位で挙手したことを早々に後悔したようだった。だが、率先してせっせと働く優雄やその家族、他の従業員たちは、たった数時間で音を上げた彼らをむやみやたらと注意はしない。時折あからさまにさぼる姿が散見されても、動いてくれるだけまだましなのだろう。そんな周囲の目線が、注意するだけ時間の無駄と言っているようで、雪花は今までにない角度から社会の縮図を見た気がした。
初めて過酷な肉体労働を経験して、最初の三日間は指示されたことを、指示されたとおりにやるだけで精一杯だった。全身の筋肉が常に強張って痛く、就寝時間も短いので睡眠が明らかに足りていない。それでも時が過ぎていくうちに、汗を流しながら体を使って働くのも悪くない、むしろ気持ち良いと思えてくるから不思議だ。他のメンバーは、優雄がいないところでは仕事の文句ばかり言っていて、話を合わせざるを得ない場面もいくらかあったが、雪花自身は参加してみてよかったと思っていた。
そんな重労働を伴う農業体験ことバイトの中で、雪花にだけ密やかに訪れた出来事があった。それは珍しく雪が本降りにならなかった、五日目の深夜のことだった。
その日も深夜手前まで乳牛の世話に没頭し、雪花たちはまたしてもぐったりと疲れ果て、各自の布団に入るなり一瞬で眠りに落ちた。雪花もあと少しで熟睡に沈むところだったが、寸前で枕元に置いた携帯電話がメールを受信して震えた。
雪花はどろりとした寝惚け眼で画面を開く。メールは数秒前に優雄から来たもので、『寝てる? もし起きてたら牛舎横の物置まで来ない?』という内容だった。
雪花は寝ている他のメンバーを起こさないよう、物音を極力立てずに布団から出ると、ダウンコートとマフラー、手袋をしっかりと着込んで牛舎の隣にある物置小屋へ向かった。優雄の家族も既に眠っているようで、年季の入った広大な家は濃い闇と、空恐ろしいほどの静寂に包まれている。
玄関の前は雪で埋まっていたが、幸い人が歩けない高さではなかった。日中に除雪して作った道もまだ残っており、膝まですっぽりと嵌まる深雪をたどたどしく歩いていくと、物置小屋の前で空を仰ぐ優雄が見えた。雲一つない夜空には満月が煌々と昇り、おかげで街灯がまるでない外でも迷わず進んでいける。
不器用に響く足音に気付いた優雄が、大きな息を吐きながら雪花を振り返る。
「よう。よかった、起きてて。見て、ほら」
体を芯から震わせてやまない極寒のせいで、出てきたことを後悔し始めていた雪花は、優雄の視線につられて黒い空を仰ぎ見る。そして、声もなく胸の奥から息を零した。
薄いヴェールみたいな月明かりの下、どこまでも広がる大雪原に粉雪が降っている。無音ではらはらと舞い散るそれは、ほのかな黄金色を受けて瞬きみたく輝いていた。見たこともない純度のきらめきに、雪花は息をつくのも忘れて惚れ惚れと魅入る。
「今日はいつになくよく冷えるから、もしかしたらと思って出てきた。そしたら大正解。杉原、ダイヤモンドダストって知ってる?」
優雄の声に頷き返すこともせず、雪花は儚く舞い降りる光の粒を見晴るかす。
細かに砕かれたガラスの粉より透明な雪は、人の手で作られた芸術の何十倍も美しい。磨き抜かれたこの繊細なきらめきは、そう容易く目にできるものではないだろう。満月が清かに照らす濃色のキャンバスに、ほんの気紛れみたいな貴重さで自然が描いた至高の絵画。そんな比喩が脳裏の片隅に浮かび、言い知れぬ感慨が雪花に沁み渡る。
「底冷え以上に寒ければ、いつでも見られる景色じゃないんだ。ダイヤモンドダストは一定の条件が揃わないと起こらないから、狙いすましても外れることのほうが多い。俺はここで生まれ育ったけど、実際に見れたのは数度しかなくてさ」
優雄の言葉が、鼓膜の奥で不思議な響き方をした。彼の低くよく通る一音一音が、熱を宿して溶けるような柔らかさで、満月でやけに明るく見える夜と雪花に吸い込まれる。
「だからって言い方は変だけど、自然発生のダイヤモンドダストって、実はかなり珍しいんだ。観光地のイベントで人工発生させてるやつを見たことあるけど、本物にはやっぱ敵わないよな」
雪花は月明かりを仰ぎ、きらきらと散る粉雪に目を凝らす。
吐息さえ凍る闇夜が、実際のところ氷点下何度になっているかは想像もつかない。就寝前に保湿した肌はぱりぱりに乾いて、筋を動かすだけで頬に鋭い痛みが走る。グローブを嵌めた両手は冷たいだけで済んでいるが、露出している髪と耳は今にも割れて砕けそうだ。
気温があまりに低すぎると、体感は寒いではなく痛いになるのだと、北の冬を二回経験した雪花はよく知っているつもりだった。しかしこの村の冬は、ただいるだけで神経の奥底から麻痺してくる。まるで完全密閉の冷凍庫の中で息をしているみたいだ。
「杉原は本州の都会育ちだろ? だから、自然のダイヤモンドダストなんて見たことないんじゃないかと思って、寝てたらどうしようとは思ったけど誘ってみた。こんな機会は滅多にないから、見せてやりたかったんだ」
優雄の言葉を聞いて、雪花が思い出したのは亮のことだった。ちょうど去年の今頃、亮から唐突に誘われて、真夜中に遠出してダイヤモンドダストを見に行った。名も知らぬ町の雪深い道を二人で歩いて、誰もいない場所を目指したけれど、肝心のダイヤモンドダストには出会えなかった。
果てなく広がる雪原と夜空を、雪花はしばらく声もなく眺める。氷よりも清らに冷えた空気に、薄汚れた紫煙の濁りがふと生まれた。ついと視線を滑らせると、優雄が煙草にライターで火を点けたところだった。
雪花は何だか不思議なものを目にした気分になる。煙草が持つイメージと優雄が、雪花の中でいまいち繋がらなかった。
「……意外。優雄でも煙草吸うんだ」
「でもって何だよ、でもって」
「いや、あたしの勝手なイメージだけど、吸わなそうだなって思ってたから」
「吸うよ。あくまで時々だけど。癖にならないよう、一応気を付けてはいるつもり」
「いつから吸ってるの? 星見のみんなといる時は吸ってなかったよね」
「二十歳の誕生日過ぎてから、先輩に勧められて興味本位で。そうだな、確かに星見の時には吸ってないな。吸ってるぞって、周りに言いふらしてるわけでもないし」
優雄がくわえる煙草の先がほんの一瞬赤く燃え、月で明るい闇空に煙が細く立ち昇る。その軌跡を見ていると、雪花は胸がつんと痛くなった。
「……ねえ、煙草ってどんな味してるの? 苦い?」
「何、杉原、興味あるの?」
「ちょっとだけ。……ねえ、少しもらっていい?」
「やめとけよ。肺が汚れるぞ」
「気にしないよ。ねえ、お願い。ちょっとだけ、ちょうだい」
優雄は少し躊躇うそぶりを見せるが、煙草を口から離して雪花に手渡す。雪花は唇の中央で煙草をごくごく軽くくわえると、ほんの小さくすうっと吸ってみた。
途端に気管が急激に狭まって、雪花は体を曲げて何度も激しく咳き込んだ。慌てた優雄が雪花の指から煙草を奪い、咳が収まるまで背中をさすってくれる。
「そらみろ、言わんこっちゃない」
優雄は呆れ返ったような、どこか申し訳なさそうな語調で軽く責める。雪花はあははと気の抜けた笑いを返し、
「びっくりした。思いの外、強烈なんだね」
「だからやめとけって言ったんだよ」
そうぶっきらぼうに言い放つと、優雄は煙草をくわえ直して深々と吸う。その仕草と言葉が、かつて興味を示して吸いたがった雪花に、吸うと汚れると言った亮を思い起こさせた。今も恋い慕ってやまない彼の面影が、ダイヤモンドダストに目を細める優雄と重なる。
ちょうど一年前、亮と一緒に見た夜の雪原が脳裏に浮かんだ。あの時、亮は雪花に煙草を教えてはくれなかった。彼が味わっていた苦さを知れたかもしれない機会は、後にも先にもその一度きりだった。
初めて知った煙草の苦味は、想像していたより強烈に肺を刺した。こんな苦くて煙たいものを、どうして亮は好んだのだろう。
その理由を知ることはついになかった。彼が煙草を吸い出した時期も、好んでいた理由も何一つ知らないまま、雪花と亮の日々はとうの昔に終わったのだ。
雪花は再び夜空を仰ぎ、多くも少なくもない量で地上を目指し、きらめきながらはらはらと散る粉雪に魅入る。服や髪に触れればたちまち形を失うその脆さに、自分でも驚くぐらい胸が潰れそうになって戸惑った。
あの夜、亮と見られなかったダイヤモンドダストを、彼がいなくなった今、違う誰かと一緒に眺めている。亮と同じく煙草を好んではいるけれど、彼とは全く違う姿形や性格をした人だ。ダイヤモンドダストが起こらない闇の中、最後まで煙草を教えてくれなかった亮はもういない。
その現実にぐしゃりと心を握られ、雪花はいくつもの涙をぽろぽろと流した。
漆黒の空を見て泣く雪花を横目に捉え、優雄が少し面食らった顔になる。
「こんな寒空の下で泣くとほっぺが痛むぞ。一応、氷点下をかなり下回ってるんだから」
懸念が滲む優雄の声が耳朶に触れ、雪花は無意識のうちに泣いていた己に気付く。遠出した夜に確か、似たような意味合いのことを亮にも言われた。そんな記憶が眩く浮かんで、雪花の視界が一層潤んでぐにゃりと歪む。
気遣いの言葉が、こんなにも悲しく聞こえるのはなぜだろう。かつて同じような言葉をくれた亮が、どうして今ここにいないのか。そんな哀情が溢れ返って、雪花は喘ぐように咽び泣いた。
「……叶わない、恋をしたんだ」
優雄が少し戸惑ったように瞬きをする。雪花の意識が遠く及ばないところで、脳ではなく心が直接信号を発し、その声帯をひどく不器用に震わせ続けた。
「絶対に結ばれない、どうしたって報われないって分かってた。それでもほしいと思うような恋をした。……でも、だめだった。どれだけ好きで一緒にいたくても、やっぱり未来なんて最初からなかった」
降りしきる雪の輝きが、小さく鋭利な棘となって静かに積もる。見惚れるほど綺麗なのに、雪花にはそのきらめきが痛々しかった。泣き方が悪くて喉が痛いから涙が出るのか、過ぎ去った恋が悲しいから泣いているのか、だんだん分からなくなってくる。
「好きだったの。初めて会った時からずっと……ずっと好きだったの。忘れたことなんかなかった。離れてたって、五年間ずっと思ってた。もう一度会えた時は、奇跡が起きたって思ったぐらい。……ずっと一緒にいたかった。どこまでもついていきたかった。自分が持ってるもの全部、未来も居場所も捨てたって構わない。そう思うぐらい、心の底から大好きだったの。他に何もいらないから、今もこれから先もずっとずっと……ずっと、一緒に生きていきたかった」
熱くて痛い瞼を、堰き止められない涙が濡らし続ける。まるで迸る感情を冷ますために、体が必死に水分を絞り出しているみたいだ。
「あたしがつらいと思ってたこと、彼だけが深くまで分かってくれたの。あたしが抱えてるもの……全部受け止めてくれたの。かけがえのない人だった。同じぐらい気持ちを注いで、あたし以上に、あたしの幸せを願ってくれた。……分かってたの、最初からずっと。叶わないってちゃんと知ってた。でもね、それでも一緒にいたかった。枷なんて簡単に払えると思ってた。全部を捧げ尽くしたって、あたしは少しも後悔なんかしないのに」
ダイヤモンドダストに飾られた月夜が、音を忘れた静けさで網膜の隅々に焼きつく。この美しさに、できることなら亮と二人で触れたかった。そんな風に湧き出た思いが、雪花の瞼をまた熱く炙っては涙を生む。
「……そいつとは、何で別れることになったの?」
ひたすら言葉に迷っていた優雄が、努めて気遣わしげに尋ねてくる。雪花はグローブを嵌めた右手で涙を拭い、
「……世界が違うから」
「世界?」
「生きる世界。あたしにはあたしの、彼には彼の生きる世界があって、お互いが絶対に交わらない道を歩いてた。出会ったのも言ってしまえば事故で、初めて話した時からずっと、お互い世界が明らかに違うことは分かってた」
「……それは、どうしたって越えられなかったのか? だって、杉原は越えたかったんだろ?」
「越えたかった。越えたかったよ、本当は。そのために全てを捨てても、あたしは全然構わなかった。……だけど、越えられなかった。彼が、越えさせてくれなかった」
その言葉を口にした瞬間、雪花は見えない何かにまた胸を強く突かれた。
亮の真意は、たとえ詳細に語られることがなくても、雪花も奥の奥まで理解していた。亮は雪花を抱いてくれたが、最後の最後はその手を離した。
それは全て、亮の優しさだ。彼は二人で寄り添う未来を諦めることで、やがて訪れるだろう危うい闇から永劫に雪花を守った。己の本心を貫くより、雪花の人間らしい生活と未来が保証される道を選んだ。
「……幸せになってほしかったんだな、きっと。好きだからこそ、さ」
決して多くを語ってはいないのに、優雄はいとも簡単に、そしてさりげなく核心を突いてきた。きらめくダイヤモンドダストが、雪花の濡れた頬に触れては溶ける。
「……そいつとは本当に、もう二度と会えないの?」
素朴に湧いた疑問を、優雄は角を削いだ丁寧さで訊いてくる。雪花はぐすりと鼻を啜りながら小さく頷いた。
「どうしたって?」
「……どうしたって」
「何でそう思うの?」
「分かるの。あたしには……はっきりと」
「可能性は絶対にないの? たとえ一ミリでも」
「うん。もう、絶対に。……明らかに交わることがない道を、一人で行ってしまったから」
潤んだ瞳で唇を噛む雪花を見て、優雄はその先の言葉を継ぐのをやめた。
清かな光を浴びた粉雪が踊る。優雄の吐き出す白い息が、月明かりに包まれた闇の中で、意外なほどはっきりとしたシルエットで浮かび上がった。
「叶うわけがないのに、何で出会っちゃったのかな」
「……後悔してるの? そいつと出会ったこと。そいつを好きになったこと」
単純な疑問として呟かれた優雄の問いに、雪花は涙に喘ぎながらも頭を振った。
「神様は意地悪だよ。あたし、一生忘れられないよ。彼と別れて一年も経つのに、未だにこんなに悲しくなるの。どれだけ泣いても泣き足りない。誰といても何をしてても、気持ちはずっと痛いままで、時々どうしようもなくなるの。だって初めてだもん、こんなに誰かを好きになったの。今までずっと彼のことだけ考えてきたのに、それ以外の生き方なんてできないよ。今もいろんな気持ちが消えないの。思い出になっていくなんて嫌。でも、忘れちゃうのはもっと嫌。彼を忘れて生きてく自分なんて想像できないし、したくないよ」
まるで駄々をこねる子供だ。随分と久しぶりに箍が外れて、戸惑う感覚より迸る感情の勢いのほうが、雪花の中で圧倒的に勝っている。
優雄は雪花を見つめていたが、ふいに星が微かに瞬く空へと視線を逸らすと、
「全部だったんだ。杉原にとって、そいつは」
ぽつりと零された言葉に、雪花は涙の乾かない瞳で頷いた。その響きは淡々と闇夜に呑まれたが、突き放すような冷たさはまるでなく、むしろ慰めよりも温かな感覚で雪花に触れた。
「自分にとっての全部を失くしたなら、打ちのめされもするよな。生き甲斐を失ったのと、重さ的には変わらないわけだから」
優雄は雪花の目を見ることなく、独り言を諳んじるように呟いた。それは思いを率直に変換し、声にそのままぽんと乗せるだけの簡素さで、ひび割れる手前まで冷えきった真夜中に吸い込まれる。しかし、そんなさりげなさを貫きながらも、雪花が初めて拙く明かす本音に、優雄なりに寄り添おうとしているのがまっすぐに伝わってきていた。
「忘れなくてもいいんじゃないかな、別に。少なくとも俺は、忘れる必要ないと思う。男女関係なく、昔好きだった相手の名前や顔を、何となくでも覚えてるのと本質的には一緒だろ。誰にだって、忘れられない恋愛の一つや二つあるさ。そういうの、忘れるべきとか忘れちまえなんて惨いこと、俺は言えないな。まず言わないし、言われても嫌だと思う」
慎重すぎるほど丁寧に言葉を選びながら、一言一言にほんのりと熱を灯す話し方で優雄は言う。
「だから、杉原は否定しちゃだめだ。そいつと出会ったこと、そいつを好きになったこと。意味のない出会いなんて、一つもありはしないから。生きる世界が違ったって杉原は言うけど、だからといって、その恋愛自体が間違いだったなんてことはない、絶対に」
優雄は言葉そのものに強い意味を宿すように、
「悲しいなら、我慢せずに泣いとけ。そのうちきっと、気持ちが凪ぐ時が来るから。忘れるんじゃない。綺麗に形を整えて片隅にしまう、それだけだ」
優雄の言葉に頷こうとした瞬間、熱い涙がまた雪花の頬を濡らした。涸れかけた感情の泉からまたしても何かが湧き上がり、鼻の奥につんと痛みが走る。舞い散る雪が頬に触れ、涙の熱でじゅわりと溶けて同化した。
「痛みを抱えたままなのはきつい。だから、つらい時は溜めずに吐き出せ。全部が全部、好きだったからこそなんだから」
その言葉に、心に埋まっていた最後の箍が壊された。雪花は堪えきれず、わななく声でわあっと泣いた。隣に優雄がいることも、氷点下の夜に佇んでいることにも構わずに、最後の一滴まで惜しみなく振り絞るように泣き叫ぶ。
すぐ傍に立つ優雄は、それ以上何も言わなかった。降りしきるダイヤモンドダストを眺めながら煙草を吹かし、雪花の涙が止まる時を無言で待っていてくれた。その決して口にはしない気遣いが、雪花の心に散在した箍の残骸まで綺麗に洗い出す。
その夜見た月の明るさと雪の白は、今までにはない形で脳の一番柔いところに浸透した。刻まれるというより、染みつくと言ったほうが近いだろう。それは余韻よりも確かな印象をしていて、押しつけがましさや義務感が一切ないところが、雪花の胸をまたじわりと深く慰めた。
両目が真っ赤に腫れ上がり、頭ががんがんに痛くなるまで泣いたその夜を境に、それまでの雪花を形作っていた何かが静かに終わりを告げた。
そして、代わりに生まれた真新しくて微かな何かが、これからの心を一からぎこちなく紡ぎ始める。その感覚に名前をつけるなら、分岐点という言葉がきっと一番近い。
奔流みたく溢れては尽きた涙の後、降り積もっていったのは覚悟だった。確固たる質感こそないが、諦念や絶望とは違うとはっきり分かるそれは、これから歩む人生が亮と交わることは決してないという確信を、言葉にはない手触りで教えてくれた。
あの夜をきっかけに雪花は変わった。あまりにささやかすぎるから、他人にはとても伝わらないだろう。しかし当の雪花本人は、その変化を何よりも強く自覚していた。
変わったものと変わらないものの差が、以前より明確に分かるようになった。変わらないと信じているものが、これからも変わることのないよう願う気持ちは今もある。だが、時を経て変わっていく何かがあることを、無性に悲しく思う瞬間があったとしても、素直に認められる境地に向かえつつあった。
亮と別れて以降、凄絶な悲しみに支配されてばかりだった雪花は、優雄の前で号泣した夜をきっかけに、それ以外の感情も少しずつ抱けるようになっていった。
尤もそれらの変化が、一朝一夕で雪花に馴染んだわけではない。ふとした時に亮との記憶が蘇り、滂沱の涙に暮れる夜はまだある。しかし雪花は、その悲しみから徐々にでも顔を上げられるようになっていた。胸に刺さった棘は未だ抜けず、その痛みはもしかしたら一生消えないかもしれない。だが、それでも前を向くということを、様々な感情の波を泳ぎながら、雪花は覚えていったのだ。
大学生活最後の四年次に入ってからは、雪花は自然に笑えるようになった。楽しげに見せたくて笑うのではなく、楽しくて笑っている時が増えた。卒業論文の準備や就職活動、校外実習や『千年雪』でのアルバイト、国家試験の勉強や友人たちとの遊びといった一つ一つを、余裕を持って丁寧に取り組める心地になってきていた。
中でも一番変わったのは、優雄との距離感だろう。誰にも言わずにいた話を打ち明け、みっともなく泣き濡れる姿を目にしても、雪花に対する優雄の態度が変わることはなかった。彼は雪花の独白を吹聴したりはせず、深夜に二人で落ち合ったことすら誰にも匂わさなかった。
思えば優雄は、雪花が最低限のものだけを持って、二度と帰らない覚悟で亮に会いに行こうとしたことを、誰にも話さずにいてくれた。それだけでなく、あれから時が経ってからも、あの夜の事情を改めて尋ねてくることもなかった。優雄は最後まで詳細を訊こうとしないまま、雪花の気持ちをさりげなく解き放ってくれたのだ。雪花はそこに、今まで見て見ぬふりをし続けた、優雄の人となりを見た気がした。
優雄の実家へ農業体験に行って以後、雪花は彼を避けることはなくなった。これまでのようなそっけない態度はなくなり、言葉を交わす場面や会う回数も自然と増えた。失敗して落ち込んだり、難しい局面にぶつかって悩んだ時、本音まで話して相談するのは、いつも一緒に行動している希実より、優雄であることのほうが増えていったほどだ。
バイト帰りに駅前で合流して、二人で夕食を摂る機会も何度かあった。そして時を経るごとに、その頻度や会う時間の長さも増えていき、毎日のようにというわけではないが、メールのやりとりも多くなっていた。
卒業論文の執筆や国家試験の勉強をこなしながら、雪花は就職活動でも成果を出すことができた。N谷市の郊外にある、それほど大きくはないが地域密着型が売りの総合病院で、新卒の管理栄養士として内定を得たのだ。大学卒業後、国家試験に合格すれば採用するという知らせが、夏休みに入る少し前に郵便で送られてきた。
卒業後も地元には帰省せず、引き続き何年かはN谷市で暮らしたい。そう思って就職活動をしていた雪花にとって、それは卒業後の道を確実に保証してくれる朗報であり、実家で暮らしつつ地元で働いてほしいと、事あるごとに言ってくる母や健人を黙らせる絶好の口実でもあった。
案の定、内定の知らせを受けた母と健人は猛反対し、電話やメールで説得に説得を重ねてきた。父や佐知子、尋人は心配の言葉こそいくつかかけてきたが、そこまで目くじらを立てることはなく、大学受験の時と同じ宥め役を買って出てくれた。
その三人は恐らく、雪花がもう地元で暮らす気はないと見抜いていたのかもしれない。だがそんな節は少しも見せず、また真意を深く問い質すこともせずに、決断をさりげなく後押ししてくれる優しさが何よりも雪花の胸に沁みた。
連日のように母と健人が連絡を寄越してくる中、雪花は卒業論文や国家試験の勉強に一層励み続けた。せっせと積み重ねた努力は無事に実り、当初の予定どおり四年で卒業できる見通しが立った。そして、最大の関門でもあった管理栄養士の国家試験にも全力で臨め、しっかりとした手応えで微塵の悔いもなく終えられた。
在学中に住んでいたアパートは学生専用なので、春からは職場の近くにあるワンルームアパートで暮らすことになる。卒業式が目前に迫ってからは、地元から両親が飛行機で来てくれ、引っ越し作業やその他の手続などを、日数をかけて手伝ってくれた。
姉のお下がりにしては質が良く、あでやかな袴姿で迎えた卒業式の日、出席した母は頬を真っ赤にして泣いていて、もっぱらカメラマンに徹していた父もひどく感慨深げだった。雪花は涙こそ流さなかったが、言葉ではとても表せない感情がない交ぜになって、胸の奥がやけに満たされて息苦しくて不思議だった。
この最北の地に降り立った時に掲げた目標を、無事に全て叶えることができた。その達成感や喜び、充実感や安堵は計り知れない。以前よりさらに逞しい自分になれた実感も、友人たちと記念写真を撮る雪花の頬を、いつになく柔らかに緩ませる一つになっていた。
しかし同時に、何とも言えない寂しさや焦りも地味に募って、浮足立った胸の片隅が微かにひりついたのも本当だ。それはきっと、四年間をともに過ごした友人たちとの日々に、一旦の区切りがつくからだけではないだろう。もしかしたら、両親が言葉にこそしないが抱いている感慨と似たものかもしれない。
アルバイトで世話になった『千年雪』には、卒業式と新居への引っ越しが済んだ数日後、お礼の品を手に両親と挨拶に行った。
客足が落ち着いた昼下がりに訪ねると、レジの椅子に座る奈穂子と、その腰にひっつく舞雪が迎えてくれた。
「雪花ちゃんは本当にいい子で、学校のお勉強で忙しいのに、うちの店をよく手伝ってくれて、わたしも主人もとても助かっていたんです。娘の相手も嫌がらずに務めてくれて、お客さんの評判も上々だったんですよ。本当に自慢のバイトさんでした」
奈穂子は舞雪を抱っこしながら朗らかに笑い、何度も礼を言って頭を下げる両親に、溌剌とした声でそう話してくれた。べた褒めされた雪花は恐縮しきりだったが、嬉しげに娘を語ってくれる奈穂子の言葉は、両親にとっても素直な喜びだったらしい。
「辞められるのは寂しいですけど、春は出会いと始まりの季節ですもんね。よかったらまたいつでも来てね、雪花ちゃん。歓迎するわ。お仕事頑張って、元気でね」
店長と奈穂子に店先で見送られ、雪花はつい目頭がじわりと熱くなった。卒業式でも泣かなかったのにと思って堪えたが、隣に両親がいなかったら確実に泣いていた気がする。
奈穂子に抱っこされた舞雪は、見知らぬ初老の夫婦がいきなり現れ、母とにこやかに談笑している様に戸惑ったのか、雪花ばかりじっと見つめて黙っていた。しかし去り際、雪花が手を振ったのを見て、初めて大きな声を上げて不器用に両手を動かした。
「ゆっちゃ、ばいば。またあそーでね」
その言葉に手を振り返した時、雪花の瞳も自然と潤んだ。笑顔で見送ってくれる店長夫妻と舞雪が、温かな情景として網膜に焼きつく。まるで自分も知らないかつての幻影に、とんと背中を押された感覚がした。
それからさらに一週間後、両親が地元へ帰っていった。夕方の特急で空港に向かう二人を駅のホームまで見送ると、雪花は久しぶりに一人ぼっちになった。まだ路肩に根雪がどっさり残る駅周辺をぶらついた後、待ち合わせ場所である運河沿いに足を向ける。
対岸に倉庫街を臨むベンチで、優雄は既に待っていた。真冬と比べると寒さは和らいだほうで、雪もなく晴れ渡っているからか、河面に映る橙がやけに眩しく黄昏を彩る。
座って携帯電話をいじっていた優雄は、約束の時間より早く現れた雪花に気付くと、
「よう」
「うん」
「よかったの? 今日、ほんとに」
「うん。両親、今帰ったから。ちゃんと見送ってきたし、大丈夫」
雪花と優雄は三人掛けベンチの端と端に座り、運河と倉庫街が織りなす夕暮れを眺める。風のない穏やかな空気に、雪の気配は今のところ感じられない。
「引っ越し、無事に終わったよ。バイト先への挨拶も」
「うん、俺も終わった。国家試験、合格おめでとう」
「うん。優雄も合格おめでとう。これでお互い、晴れて管理栄養士と理学療法士だね」
「うん、春からやっと卵になれるな」
「優雄は覚えるの早そうだから、見習い期間すぐに終わるよ。あ、内定おめでとう。連絡はくれてたけど、まだ面と向かっては言ってなかったよね」
「どうも。ぎりぎりで何とか、首の皮一枚で繋がった気分」
「意外に難航してたもんね、就活。でもよかったじゃん。結果オーライだよ」
「杉原も第一志望に通ってよかったな。お互い行き先も決まった上に、留年もせずに済んで万々歳」
刻一刻と丁寧に、眩い橙から深い藍へ染まりゆく運河に、二人はしばらくゆったりと見入る。会話がなくても、気詰まりは不思議と感じない。色彩豊かな沈黙が延々と続いているのに、不安や孤独が湧き上がってくる隙は少しも生まれなかった。
「春から、お互い違う道だな」
「そうだね」
「N谷に残る奴も、意外に少なかった」
「みんな実家に帰ったり、本州に出ていったりしてるもんね」
「もしくは、ここよりもっと街中か」
「メールや電話はしょっちゅうできても、今までみたく定期的には会えなくなるね。最初のうちはきっと、慣れるので精一杯だろうし」
取り留めのない言葉を淡々と重ねているようで、実は核心にゆっくりと近付いていっている。互いの呼吸に宿る微細な空気を、二人はちゃんと感じ合っていた。それを嫌と思っていない自分に、雪花は内心で少し驚いていたりする。
「杉原さ」
忍び込む青い闇を見ながら、長い長い沈黙を経て優雄が言う。
「俺と付き合わないか?」
雪花はその言葉を、夜に塗られる運河を眺めたまま受け止めた。
「俺は杉原が好きだ」
「うん」
「だから、俺と付き合ってほしい」
優雄は遊歩道と河面を見据えたまま、意思と熱をはっきりと分かる形で言葉に乗せる。
「杉原に、他に思う奴がいることは知ってる。まだそいつのことを忘れられなくて、この先もきっと、ずっと消えないことも。でも、これから先は俺と過ごしてほしいんだ」
優雄の声が真摯なまま、雪花の胸の奥まで入っていく。この言葉を告げられることを、雪花はずっと前から予感していた。今日の夕方に会いたいと連絡をもらうより前、ここ二年の間、徐々に会話やメールが増えていった頃から、いつかこんな瞬間が訪れるだろうと感じていた。
優雄に連絡をもらった昨夜、雪花はずっと考えていた。彼がくれるだろう言葉に、雪花はどう向き合うべきか。優雄に応えるのは、雪花が歩む道を決定づけることと同義だ。後戻りできない一つの選択肢を、選び取るだけの覚悟が自分にあるか。
「うん」
短い沈黙の後、意外なほどすんなりと雪花が頷いたことに、優雄はかえって驚いていた。雪花はやや拍子抜けした顔の優雄に笑いかけ、
「ありがとう。これからも、よろしくね」
そう返事することに、どれだけ勇気がいっただろう。しかし彼と向き合った瞬間、雪花は覚悟を決めた。そして同時に雪花の中で、七年にも及んだ初恋が、引き潮みたく終わりを告げた。
これから雪花は陽向の道を生きていく。初めて愛した亮がいない道を、彼とはまるで違う優雄とともに歩き始める。雪花と亮の行き先が交わることは決してない。雪花はこれから亮が知らない道を、彼の知る由もないところで進んでいくのだ。
その現実を認めることに、思った以上の時間がかかった。だが覚悟を決めたからには、その痛みを振り返ることはもうしない。
橙の夕陽がか細くなる。まっすぐ向き合う雪花と優雄の影が、重なるようにゆっくりとその距離を埋めていく。そして瞳を閉じた雪花に、優雄がそっと唇を近付けた。
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