2-7

 夜の深まりに呼応して、闇を踊る雪の激しさが増していく。

 雪花は亮に導かれるままタクシーに乗り、Y沼駅から数十分ほど離れたビジネスホテルに入った。朽ちかけみたく古ぼけたそこを、亮は今夜の寝床として確保していたらしい。

 夜明けまで暖を取れれば上々の部屋に入るなり、亮は雪花を引き寄せて口づけを浴びせる。それはたちまち荒々しい抱擁となり、雪花は床に落としたミニトートには見向きもせず、亮の首に両手を回して繰り返されるキスに応えた。

 カーテンが開いたままの薄闇で、亮は雪花をベッドに押し倒して服を剥ぐ。舌と舌がねっとりと絡むキスは途轍もなく甘く、酔いしれる脳が今にも焼けて溶けそうだ。露わになった体を薄い布団で隠し、肌と肌をぴたりと合わせて空気が動く隙間を失くす。

 首筋や肩を這う亮の唇の感触に、出したこともない声が滴る。それが乳房をまさぐる彼の指先を刺激しては、高まる体感温度が二人を見たこともない昂揚へいざなった。

 湿り気を纏った雪花の喘ぎと、密着した肌の汗ばみが亮を一層駆り立てる。最初は縋りつくだけで精一杯だったのに、そのうち自ら求めて動いていることに気付いて、雪花はひどく恥ずかしくなった。知らずにいたかった己の淫らさが、亮の舌と指でいやらしくめくられる。そのはしたなさに身をよじりながら、それでもやめてほしくなくて、雪花は亮が操る快楽の波に進んで溺れた。

 温かく濡れた雪花を抉じ開けて、亮がぐいと強く侵入してくる。しっとりと潤った道がそれを迎え、馴染もうとした下腹部が唐突に痛んだ。雪花は亮の肩を掴んだまま、思わず呻いて大きく身動ぎする。だが、痛みを訴えたはずの声がいやに艶っぽく空気を裂き、それを答えと思った亮が、雪花の深くまで押し入ってきた。

 雪花の中で、亮が大きく蠢く。それは痛み以上に生々しく、骨ごとくにゃりと崩れてしまうくらい甘美だった。悦楽と痛覚が脳を交互に駆け巡り、挿入された彼の脈動で思考までもが麻痺し始める。

 息がかかる距離で、被さる亮と視線がぶつかる。一瞬よりも短い沈黙が告げるものを、雪花はその眼差しだけでちゃんと理解した。

「出して、そのまま」

 重ねた唇の隙間を縫って、雪花は胸の内で暴れる欲望を言葉にした。

「お願い、躊躇わないで」

 何の飾り気もなく溢れた本音に、一番驚いたのは雪花だった。その懇願が亮を壊し、重なる喘ぎに煽られながら、彼は加速する腰つきで全てを惜しみなく解き放つ。

 全身がむせ返るほど熱い。痛みの残滓が肌に気だるく纏わりつき、ねっとりとなめらかな快感が、旋毛から爪先まで撫で上げた。痛い。くらくらする。でも、ものすごく気持ちいい。そう伝えたくて亮の名を呼ぼうとしても、うっとりと痺れた喉からは濡れた吐息しか出なかった。

 本当はずっと、亮とこうなりたかった。心だけでなく、体も一つに溶け合いたかった。底なしの欲望がこんなにも露わに暴れ回ったというのに、鮮やかな熱情が渇きから程遠い体の中で荒れ狂う。

 これだけでは足りない。もっともっとほしい。まだ見ぬ彩りで弾けるはずの絶頂に、二人してとことん溺れて、限界すら忘れたい。焦げる手前まで熱くなった体でそう思ったけれど、逸りすぎる鼓動が邪魔でとても声には乗らなかった。

 亮は何度も息を吐きながらゆっくりと雪花から抜け、余韻にも似た浮遊感に揺れる肌を重ねたまま、とろりと甘い口づけをくれた。

 甘やかな火照りと気だるさが全身を包む。それはどこか、ぼんやりと温い宙をたゆたっている心地で、自分の体であるのになぜか他人事よりも遠い気がした。

 雪花は頬の下に亮の腕の脈動を感じながら、初めて味わった痛みと喜びに思いを馳せる。

 一生抱えていくだけだと思っていた願いが叶った。靄みたく捉えどころのなかった謎が、蝶々結びをするりと解く軽やかさで答えに変わる。

 この世に生まれてよかった。今まで生きてきて本当によかった。この命は亮と出会うために生まれてきたと、心の底から思い知ることができた自分はなんて幸せなのだろう。

 今までずっと疑問に思っていたけれど、思い悩む必要は最初からなかった。生きる理由も己の存在意義も、彼に恋をした時点で既に分かりきっていた。

 何もかもがきっと、今という瞬間へ辿り着くための布石だったのだ。キスも抱擁も全て、彼だからこそ価値を感じられた。もし亮に出会わない人生が別にあったとして、この気持ちを他の誰かからもらえたとはとても思えない。

 沈黙が微かに動いた気がして目を開くと、枕元のランプで淡く照らされた闇が見えた。いつの間にか眠っていた瞼を擦ると、上体を起こして煙草を吹かす亮が雪花に笑いかける。

「起こした?」

 雪花は小さく頭を振ると、亮の左手に指を絡ませた。すぐ握り返してくれたことが嬉しくて、雪花は微睡む瞳でその指に頬ずりした。そして、薄明かりに浮かぶ亮をぼうっと見上げる。

 細身だが、余分なものが見事に削ぎ落とされた体躯。この頑強な体で、亮はいったいどれだけの修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。目に見える傷痕がないことに安堵はしたが、その逞しすぎる小麦色の肌の奥には、彼しか知り得ない苦難と葛藤がきっと隠されている。

 物憂げな雪花の眼差しに気付いて、亮が煙草をくわえたまま笑みを寄越す。

「……想像してたの。あたしが知らない、これまでの亮のこと」

「どんな風に?」

「……分からない。とてもじゃないけど、うまく言葉にできなくて」

「雪花が思うほど、俺は大層な日々を送ってないよ。この五年間も、その前の十何年も中身は同じ。偽の戸籍を使って暮らす傍ら殺しを請け負う、ただそれだけ」

 呼吸するのと同じ軽さで亮は言った。、

「俺は一人じゃなかったから」

 亮は短くなる煙草で丁寧に肺を満たしながら、

「前に話したことあったの、覚えてる? 一緒に仕事してた相棒のこと」

「うん。亮が陽向に戻してやったんだ……って」

「そいつと俺は、物心ついた頃から一緒にいた。同じ組織で、同じ師に育てられて、俺と拮抗するぐらい、そいつも結構な数を殺してた。俺たちにとって、暗殺は日常だったんだ。でもある時、そいつと俺は道を違えた。喧嘩別れとか、そんな生半可なものじゃない。詳細は割愛するけど、俺は長年一緒にやってきた相棒を失った。俺がそいつにしてやれることは、師と一緒にそいつを陽向に戻してやることだけ。今はもう割り切れてるけど、当時は手ひどい裏切りだと思ったもんさ」

「……寂しかった?」

 努めて静かに響いた雪花の言葉に、紫煙を吸い込む亮の喉仏が数秒ほどぴたりと固まる。

「……かもな。何せガキの頃から一緒にいたんだ。仕事も学校も、暮らしてた場所さえ同じだった。あいつがどう思ってたか知らないけど、俺は仲間と信じて疑わなかったから」

 雪花は亮の指を握ったまま、目を閉じて彼の言葉を脳裏で反芻する。亮はかつて相棒だった人物を、名前や通称ではなく三人称で呼んだ。おかげで雪花は、亮がそこまで信頼していた相棒が男か女かも分からぬまま、彼に降りかかった衝撃と落胆だけをただ想像することができた。

「後悔はないんだ、そいつと道を違えたこと。割り切れてるっていうのも本当だ。だって俺にはその頃、雪花がいたから」

「え?」

「雪花と会ったのは、ちょうどそれぐらいの時期だった。最初は仕事絡みで助けただけで、ぶっちゃけて言うと、それ以上でも以下でもなかった。確かにあの後すぐ、思いがけず会うことにはなったけど、俺としては単に、軽く突き放してしまえばそれで終わると思ってた。陽向にいる奴と繋がりを持つなんて、端から御免だったんだ」

 薄く濁った煙をくゆらせて、亮のくわえる煙草がだんだん短くなっていく。重さに耐えかねて崩れてしまうその前に、亮は灰をベッドテーブルの灰皿にとんとんと灰を落とした。

「最初は突き放したよね、あたしのこと」

「ああ、わざと冷たい言葉をぶつけてな。そうすれば簡単に引くと思った。辛辣な態度を取ってその場限りにしてしまえば、嫌な奴に遭遇したと思って、すぐ記憶から消し去ってくれるだろうと。でもそれは甘かった。だって、雪花は泣いていたから」

 雪花はまた少し瞑目して、五年前のあの日を思い起こす。

 中学三年生の冬、雪は降っていなかったけれど、相も変わらず寒い日だった。命の危機を救ってくれた亮と少しでも話がしたくて、無理やり二人だけの時間を作ったというのに、当の彼は思ってもみない言葉の暴力を雪花に振るった。何も知らない陽向の人間。遠慮会釈なく飛んできたその一言が、雪花の胸をかつてない鋭さで抉ったのだ。

 あれから時が経った今も覚えている。たった一言が刃の如く貫通して、いつになく冷酷に傷つけられたあの夕刻。抑えが利かなくなった心が決壊して、雪花はそれまでずっと隠していた秘密を初めて他人に明かしたのだ。

 亮は短くなった煙草を無造作に灰皿に捨てる。

「あの時のことは、今でもはっきり覚えてる。泣いてる雪花を見て、俺は何ていうか、頭をがつんと殴られた気がしたんだ。うまく言えないけど、それまで俺を支配してたいろんな何かが一瞬で変わった。雪花は俺に救われたって言ってくれるけど、それは俺も同じだよ。雪花がいたから今の俺がいる。本当はずっとずっと、忘れたことはなかったんだ」

 それは雪花にとって、どんな愛の言葉よりも胸を震わす告白だった。

 生きていてよかった。先程抱いた感慨が、より磨かれた色と光で胸を占める。

 生きてきてよかった。ずっとずっと、思い続けていてよかった。これまでの道のりは、亮に恋をした自分は、決して間違いではなかった。そんな安堵と喜びでが涙となって、今にも溢れ返りそうだ。

 自分が誰かに救われることはあっても、自分が誰かを救うことなどないだろうと、いつからか漠然と思い込んでいた。いつも適当に繕ってばかりで、本心を誰にも見せようとしない自分は、他人に傷や棘しか与えられないと卑下していた。

 だが、それは違っていた。己の与り知らないところで、雪花は誰かを救っていた。それが他でもない亮であることが、これ上ないほど嬉しくて幸せでたまらない。

 ぐっと堪えた涙で潤む瞳を、灰皿をベッドテーブルに戻した亮が捉える。薄い橙に照らされた沈黙の中、亮は毛布にそっと潜り込むと雪花の眦に口づけた。

 狂おしいまでの激しさしかなかった最初とは違う、どこまでも柔らかな睦み合いが始まる。亮は樹液を啄む鳥みたく雪花の唇を愛し、その滑り込む舌のなまめかしさに体の芯がくらりとした。

 厚いカーテンに覆われた室内の闇は深く、ベッドライトが絡まる二人の影絵を壁に描く。その明るさを自覚した時、置き去りにしていた羞恥が雪花の頬をかっと炙った。肌のきめまで見えそうな近さで、ここまで無防備に肢体を晒したのは初めてだ。

 雪花は亮のキスからさりげなく逃れながら、ベッドランプの傘に触れようとする。だが亮がその指をたちまち絡めとり、

「だめだよ、消しちゃ。光がなくなる」

「でも」

「消したら見えなくなっちまう。嫌だな、それは。見せてよもっと、雪花の全部を俺に」

「そんな」

 恥ずかしい。そう言いかけた雪花の唇を、亮が極上のキスで塞いだ。雪花は何度か抵抗を試みるが、その度に彼はキスと愛撫を駆使して阻む。その心地良さにやがて雪花は根負けするが、そんな恥ずかしさもやがて、首筋や肩を丁寧に這う亮の唇に跡形もなく上書きされた。

 抱き合う亮に浮かぶ汗の粒が、やけに艶っぽい立体感で雪花に映る。雪花の敏感なところを的確に探り当てる舌の火照りが、言葉以上の雄弁さをもって新たな悦楽を呼び覚ました。亮は爪を立てれば痕が残りそうな雪花の乳房を包んでは揉み、まさぐっては柔らかく潰すのを好んで繰り返す。そして、ぴんと隆起した乳首や濃い色に変わった乳輪を、零れた蜜を舐め取る執拗さで口づけては舌先で弄んだ。

 亮の頭を抱いて応える雪花から、上ずった喘ぎがまた漏れる。指の腹と舌先で巧妙に生み出されるくすぐったさが、いくらされても違った恍惚に感じられるから病みつきになる。

 まだ足りない。もっともっと、濃く烈しく愛してほしい。やりすぎて壊れてしまっても構わない。むしろ、いっそ清々しいまでに形を失くして、後戻りさえできなくなれたら。

 胸から腰へ、腰から臍へ、そして臍から足へ、亮が唇で痕跡を刻んでいく。その一つ一つがもたらす歓喜に痺れたくて、雪花はさらに強く亮に密着して体を揺らした。

 雪花が大きく開いた足の間に、亮が腰を振りながら入ってくる。次の瞬間、それまで影を潜めていた痛みが唐突に現れた。突かれて呻いたはずなのに、とろける寸前の雪花の脳はそれを抗えない快感と解釈し、潤んだ喘ぎの熱っぽさをもう一段階引き上げた。

 亮は最初の時よりも長く雪花の中に留まり、その官能を全身で愉しみ尽くした後、はち切れんばかりに漲る己を解放した。

「亮……亮!」

 雪花が上ずった声で名前を呼ぶと、亮は深い口づけで返事をする。そして繋がり合ったまま、雪花は掻き抱いた亮の耳たぶに切れ切れの息で囁きかけた。

「好き、亮。……大好き」

「ああ、俺も」

 亮はそう返すと、雪花の耳たぶを舌で巧みに絡めとる。

「初めてなの、あたし。何もかも」

「うん、俺も」

「本当?」

「嘘ついてどうするんだよ」

 亮は小さく吹き出すと、証拠と言わんばかりにいくつものキスを雪花に降らせる。

「……知らなかった。今まで、全然。もしかしたら、これが愛ってやつなのかも」

「愛?」

「そう、愛。俺にとっての愛」

「あたしにとっても、だよ」

 雪花は身をよじって亮に跨り、その唇を指でなぞると控えめに、だが思いのこもったキスをした。そのぎこちない抱擁に、形勢を戻した亮がそれより濃密な求め合いで応える。

 どれだけ抱き合っても愛し足りない、底知れない欲望に打ち震える。じっとりと汗が滲む肌を冷ますことなく、雪花と亮は重なり合ったまま目を閉じて、高鳴り続ける互いの鼓動に耳を澄ませた。

 体の全てが溶けるような交わりの残滓は、眠りに呑まれてからも不思議と消えることはなかった。



 どんなに重い夜の帳に覆われていても、朝陽は必ずその漆黒を破って現れる。時はひとところに留まることなく流れては、いつだって音もなく今を過去へ引き連れていく。明けない夜は決してない。どこにいても、朝は誰しもに平等に訪れるのだ。

 今この瞬間、時が止まってくれたなら。そう本気で願いながらも、結局それは夢想でしかないと知っている。だからこそ、当たり前のように訪れる暁が何より憎らしかった。分厚いカーテンの隙間から覗く薄い陽光は、いつまでも閉じていたい瞼を否が応でも抉じ開けようとする。

 矢みたく細い朝陽の眩しさに、雪花はゆっくりと現実に引き戻された。緩やかな温もりに守られて、いつにない深さで眠っていた気がする。その余韻が目覚めた今も濃く広がって、できることならもう少し味わっていたかった。

 雪花は布団を胸まで上げたまま身を起こす。隣に亮の姿はなく、彼は半裸で窓際の簡素な椅子に腰掛けて、カーテンの隙間から外を見下ろしていた。

「おはよう。少しは眠れた?」

 亮は雪花を振り返り、穏やかな瞳で笑いかける。

「昨夜の雪、ひどくなかったみたいだな。見るかぎり、そんなに積もってもなさそうだ」

 こんなにも柔和な亮を見たのは初めてかもしれない。雪花は形なき手に胸をきゅっと掴まれた気がした。痛みはないけれど、小さく締めつけて離さないその感触が、雪花の涙腺を奥からちくちくと刺激する。

 白い陽光が床に絵を描く薄闇で、二人は声もなくただ見つめ合う。それは互いの呼吸の音さえ恐ろしく遠ざかった、どこまでも優しい色をした沈黙だった。もしかしたら人は、この平穏を永遠と勘違いするのかもしれない。そんな感慨が雪花の脳裏を短く通り過ぎる。

 やや眩しげな亮の瞳は透明で、そこに揺らぎは微塵もない。その眼差しを受け止めた雪花は、彼が秘める感情にはっきりと気付いてしまった。

「雪花」

 心まで温めるような沈黙を破り、亮が慈愛のこもった響きで名前を呼ぶ。今までとほんの少しだけ違う色をしたその呼び方で、雪花は先程覚えた直感がやはり正しかったことを悟る。

「決めたよ。俺、やっぱり雪花を連れては行かない。ここから先は一人で行くよ。だから今日でお別れだ」

 そう言って、亮はからりと軽やかな笑顔を投げる。予想と違わぬ言葉を告げられた雪花の頬を、一筋の涙が音もなく伝う。

「幸せだと思う。この先ずっと、雪花と一緒にいれたなら。でも、それは絶対にだめだ。俺は俺の道を曲げられない。だから、雪花と同じ道は一生歩けないんだ」

 雪花は唇を噛んで目を伏せる。そうしてぐっと耐えないと、言葉や感情が呼吸とともにそのまま吐き出されそうで怖かった。

 本当は心の隅で、亮の決意を予期している自分がいた。だけど、それが現実になってほしくないと願う自分がいるのも本当で、そんな葛藤が杞憂でなくなった今、彼の言葉を受け止めるのがものすごくつらかった。

「ぶっちゃけ、かなり揺らいだ。雪花に出会って俺は初めて、本当の意味でちゃんとした人になれたから。だけど一緒に生きるっていうのは、俺の罪を雪花にも同じだけ背負わせるってことだ。雪花はそれでもいいって言ってくれたけど、俺はその業に雪花を巻き込みたくはない。いや、巻き込んじゃいけないんだ。俺は陽向で笑う雪花が好きだから」

 唇をぎゅっと噛んだまま俯く雪花の睫毛を涙が濡らす。何か言いたい。嫌だと叫んでその胸に縋りたい。だが、ひりひりと乾いた口の中では、舌の根も変に硬直したまま動かず、渦巻く感情はどうしたって声にならなかった。

「俺は雪花が好きだ。たとえばこの先ずっと生きていっても、雪花以上に焦がれる人に出会う自分は想像できない。でも、だからこそ俺は、雪花にはずっと笑っててほしいんだ。俺が歩まなかった陽向の道を行ってよ。俺はそこで、雪花に幸せになってほしい。だから決めたんだ。俺は俺の道を行くよ」

 なんて残酷な愛だろう。雪花は立てた膝小僧を隠す布団に両目を押しつけ、声を上げずにほろほろと涙を流した。

 これは亮の思いやりだ。そう理解していても、雪花は悲しくて哀しくて仕方がなかった。これが叶えば他に何も望まない。そう強く乞うた願いが潰えた今、胸がこれまでと違う疼き方をする。頬を伝う涙の熱がいやに沁みて、息継ぎの方法さえ忘れそうだ。

 本当は嫌と言いたかった。みっともなく泣き乱れて、一緒に連れていってと縋れたらどれだけよかっただろう。しかしそれはだめだと、雪花は初めから分かっている。

 目覚めて最初に亮を見た時、雪花ははっきりと感じた。彼はもう決めてしまったのだ。それはとても強固な意志で、覆すことは絶対にできない。

「ごめんな。俺は最後の最後まで、雪花を傷つけてばかりだ」

 自嘲しながら詫びる亮に、雪花は涙を拭って頭を振る。

「そんなことない。あたしは亮にいっぱいいっぱい、いろんなものをもらったよ。分かってる。ちゃんと分かってる。だから」

 大丈夫だと笑ってみせたはずなのに、涙がなおも溢れたせいで頬が崩れる。それでも雪花は無理やり笑顔を作って、

「ねえ、お願いがあるの。これが最後でいいから、聞いてほしい」

 亮の眉が痛ましげに歪む。彼がどんな言葉を予想したのか、雪花は何となく分かった気がしたが、それとは全く似つかない願いを真正面からぶつけた。

「もう一度だけ、抱いてほしいの。これが最後になるならもう一回だけ、あたしに亮をちょうだい」

 よほど思いがけない言葉だったのか、亮は驚いた表情でぱちぱちと目を瞬かせる。

「これから先、二度と会うことないって言うんなら、亮の全部をあたしに刻みつけて。あたしの全部を亮で満たして。それで終わりたいの」

 亮は椅子から腰を浮かすと、ベッドに乗って雪花にキスをする。

「いいよ。俺も最後にもう一回、雪花としたいと思ってたから」

 そう言って亮は雪花に跨り、二人は身を起こしたまま固く抱き合った。雪花は亮の首に両手を回し、一糸纏わぬ肌を隠さぬまま何度も何度も唇を重ねる。

 亮の唇が雪花の首筋や肩、背中や腰に目に見える印を刻み、その掌が乳房をすっぽりと包んでは柔らかく潰す。彼は昨夜よりも丁寧に、まるで壊れ物を愛おしむような繊細さで、キスや愛撫の一つ一つに熱と時間をじっくりと注いだ。そんな亮に触発されて、雪花も昨夜の羞恥を綺麗に忘れ去って、亮の肩や胸板に唇を押し当てて己の痕を残す。

 朝陽に侵されて白む壁には目もやらず、二人は深く濃やかに愛し合った。それは単に、名残を惜しむだけの抱擁ではない。これが最後だからこそ現れた、二人にとっての究極の欲望の形でもあった。ただ重なるだけでは足りない。灰になっても構わないほど高まった熱情で、雪花は昨夜以上に亮を暴きたかった。そして同じくらい、亮に隅々まで乱してほしかった。

 言葉にするのは恐ろしく容易い。それでも雪花が欲望を口にしなかったのは、きっと亮も同じだという確信があるからだ。言葉に変える隙があるなら、それをキスで埋め尽くして吐息すら忘れたい。清廉なふりをしながら見え隠れする愛欲の皮を、互いの舌で恥ずかしくなるほど剥ぎ合いたい。そして、彼の中で荒れ狂う獣を同じだけ手懐けたくて、雪花は亮に跨って、柔らかくも苛烈なキスと愛撫を浴びせた。

 ベッドに倒れたり身を起こしたり、形勢を変えてはまた倒れたりしながら、二人は飽くことない戯れを繰り返す。やがて亮は横たえた雪花にぴったりと被さり、そのまま滑らかに挿入してきた。昨夜とは違う角度とやり方に、雪花は声を上げて思わず身をよじる。亮はすかさずそれを阻むと、焚きつけられた激しさで腰を振った。

 痛みは昨夜よりも鋭くて、どれだけ身動ぎしても加減されない。限界まで漲った亮が迸った瞬間、雪花の脳裏を見たこともない奔流が染め上げた。

 これまで生きてきた中で、今が一番幸せだ。でもそんな幸福は、あと少しで終わってしまう。肌や唇だけでなく、汗や吐息までもがこんなにも離れがたさを訴えているのに。

 陽が昇りきった明るい天井の下、果てた亮と雪花は一つになったまま、微睡みが見せるほんの短い夢想に浸る。

 時間は決して止まらない。永遠は幻の中だけにあるもので、始まりがあれば終わりも必ず訪れる。そんな普遍の真理を、雪花はこの世界の何よりも痛く思った。



 チェックアウトの時間が来る少し前に、二人はビジネスホテルを後にした。

 空は珍しく雲のない晴天で、雪が降っていないからか、いつもと比べて少しだけ気温が高い。

 フロントでタクシーを呼んでもらい、二人は玄関の外で待っていた。

「今日はそこまで寒くないな。天気も悪くないみたいだし、よかった」

 黒のリュックサックを片方の肩に担ぎ、亮はそう言って雪花の手を握る。十五分後にタクシーが現れ、雪花の次に乗り込んだ亮は運転手に、最寄り駅まで向かうよう告げた。

 タクシーは白々と光る雪原風景を駆けていく。道中に人影はほとんど見られず、遠くにぽつぽつと点在する家屋の雪下ろしに勤しむ姿が、走り過ぎる際にちらりと視界に入るぐらいだ。すれ違う車の数もそう多くなく、車窓には変わり映えのない白が流れ続ける。

 亮の掌に指を絡めたまま、雪花はその肩に寄り添って隙間を埋める。

「これからどうするの?」

「電車に乗って空港へ向かう」

「空港方面ってことは、あたしとは逆?」

「そうなるな」

「……じゃあ、そこでお別れ?」

「うん」

 亮は首肯に何の感情も滲ませない。そして握り締めた手をそっと解くと、雪花の肩に腕を回してしっかりと抱いた。雪花は亮に寄りかかり、頬に感じるその温もりを心に刻む。

 車内には走行音だけが低く響き、中途半端に温い暖房が空間をざらりと支配する。運転手は勿論だが、雪花と亮のどちらも言葉を一切発しなかった。上着越しに伝わる互いの温度が、ただただ静かに二人を満たす。雪花にはそれがこの上ない幸福であり、叫びたいほど哀しくもあった。

 タクシーは駅へ着くと、二人を降ろすなり去っていった。無人の駅は日中でも実に侘しく、本当に電車が来るのだろうかと疑いたくなる。ただ地を踏むだけで寂寥感に襲われる場所というのもそうないだろう。

「俺が乗る電車のほうが先に来るのか」

 黄ばんだテープで貼られた時刻表を見て、亮がそうぽつりと呟いた。亮が向かう空港方面の電車は十五分後に来る予定で、雪花が帰るN谷方面へ戻る電車はそのさらに十五分後だ。雪花は時刻表と駅舎の壁時計を交互に見て、亮と一緒にいられる時間が残り僅かまで迫っている現実を改めて知る。

 プラットホームに出ると、亮がちょいちょいと手招きして歩いていく。アスファルトに積もった雪は厚く、雪花はさくさくと足跡をつけながら後を追った。

 亮はホームの端まで歩くと、柵に両手を置いて遠くを見晴るかす。雪花は彼が見つめるほうへ視線を滑らせた。

 二人の視界に広がるのは、遠くに横たわる湖だった。楕円形のそれは、ごくごく薄い色の空が注ぐ陽射しを受けて、ガラスの粉を散りばめたように輝いている。雪花は呼吸も忘れてそのきらめきに魅入った。

「本当は近くまで行けたらよかったんだけど、冬の間ずっと、周辺は立入禁止になってるんだって」

「……これが見たくて、ここに来たの?」

「そう。最後に見てみたかったんだ、本物の湖。調べてみたら、ここは駅からでも十分見える距離にあるって書いてあったからさ。この地に来ることになった時から決めてたんだ。日本を発つ前、最後に見る景色は湖にしようって」

「どうして湖? 何か思い入れがあるの?」

「いいや、特に。海は何度も見たことあるけど、湖ってそういや見たことないなって、ただそれだけ」

 白い太陽光に照らされた湖は、雪花が見てきた水と名のつく景色の中で、最も印象に残るものだった。体から音という音がなくなり、凛とした何かにぴんと研ぎ澄まされる。その静謐さに、感動より恐れのほうを強く感じた。

 遠くの湖を見つめる亮の面差しにも魅入っていた雪花は、この眺望を忘れることはないだろうと思った。

「俺、雪花に出会えてよかったよ。一人で生きていくんじゃないんだって、知ることができたから」

 凍った湖から視線を外し、亮は唐突にそんなことを言った。

「忘れないよ。もう二度と会うことはないけど、俺はどこにいても、いつも雪花の幸せを願ってる」

 ともすれば張り裂けそうな衝動に、雪花は歯を食い縛ってぐっと堪えた。最後の最後に泣いてしまったら、亮の顔を涙で滲んだ記憶でしか思い出せなくなる。悲しくて寂しくて仕方がなくても、今は絶対に泣きたくなかった。泣き顔ではない自分の姿を、亮に覚えていてほしいからだ。

 二人はホームの中央まで戻ると、傷みが激しいベンチに腰掛けて寄り添い、あと五分も経たないうちにやってくる電車を待つ。

「ね、雪花。いきなりで悪いんだけど、雪花が今身に着けてるものを一つ、俺にくれる?」

 瞳を揺らさないことに必死だった雪花は、面食らってすぐに返事ができなかった。数秒してからようやく言葉の意味を理解し、首元やポケットをまさぐって、何か着けていないか探してみる。どうしようか、何がいいだろうかと考えていた時、雪花ははたと思い出して右手の小指に目を落とした。しばし考えてみるが、他に適した品はまるで浮かばない。

 雪花は小指からピンキーリングを抜き取り、差し出された亮の掌にそっと載せた。

「いつだったか忘れたけど、雑貨屋さんで見つけて買ったの。友達がみんなアクセサリーしてて、ゆっきーもしたほうがいいんじゃないって言われて。着けてみると意外に馴染むし、デザインも可愛いから、気に入ってよくしてたの」

 それは星の形をあしらった、華奢なデザインのピンキーリングだった。よく身に着けているせいか、さほど値が張らないものであるためか、銀の環がところどころ剥げてきている。亮はそれを大事そうに握ると、

「ありがとう。大事にするよ」

 亮は雪花に小さく笑いかけると、ピンキーリングをコートのポケットに入れた。

「ねえ、亮が持ってるものも一つ、あたしにちょうだい」

「それはだめ」

「ええっ、何で?」

「だって、それだと俺が雪花を縛ることになるだろ。俺はいいの、雪花を思い出にしたいから。でも、雪花は俺を残しちゃだめだ。雪花は雪花の人生を生きて、前に進まなきゃ」

「そんなのずるい」

「ずるくないよ。これは俺の我が儘。でも、雪花はだめ」

「ええーっ」

 納得がいかず、雪花はぷうっと頬を膨らます。その顔がよほど面白かったのか、亮はあははと笑い転げた。願いを却下された上に笑われた雪花は、ますますむくれて唇をきつく尖らせる。それでも亮の笑いは収まりそうにない。

 亮はひとしきり笑い転げた後、

「ごめんごめん、悪かったよ。だってあんまりにも面白いから、つい。分かった分かった、じゃあ一つだけあげる」

 亮は雪花の頬を両手で包むと、ぱんと軽く叩いて空気を抜いてからキスをした。雪花はつい目を瞬かせるが、すぐに体から力を抜いて彼に応える。

 二人は唇を離して見つめ合う。そして今度は強く抱き締めながら、長く長い口づけを交わした。

 遠くからやってくる電車の音が、線路を伝わって小気味よく響く。亮は最後の抱擁から雪花を優しく解き放つと、

「幸せになって、雪花。ありがとう。俺のことは、忘れていいから」

 古ぼけた電車が一両、ホームにゆっくりと滑り込んでくる。耳障りなブレーキ音を立てて停車すると、前方のドアががこんと軋みながら開いた。電車からは誰も降りてこず、亮は雪花に微笑を残すと、立ち上がってそのまま乗り込んでいく。

 硬直していた雪花は慌てて駆け出し、閉まりかけるドアの間に躊躇いなく手を入れた。ドアがもう一度がこんと開き、奥へ行こうとしていた亮が入口でぎょっと振り返る。

「好きよ、亮。あたしも大好き。忘れないで、亮の上にも太陽はあるから。ずっとずっと、亮の幸せを祈ってる。だからお願い、亮も生きて」

 雪花は乗らないと判断した運転手が、中途半端に開いていたドアを閉める。その開閉音が雪花の言葉を容赦なく遮り、電車はドアに手を突いてこちらを見つめる亮を乗せ、鋭い金属音を立てながらゆっくりと前進し出した。

 雪花はそれと並ぶように歩き、やがて加速していく電車を追いかけて走った。最初こそ緩やかだった電車は、雪花との間に埋めがたい距離をぐんぐん広げていくと、小さな無人駅を抜けた遥か先を目指して消えていった。

 電車の影が見えなくなり、線路伝いに響いていた車輪の音も静寂に呑まれる。雪花はホームの端の柵にしがみつき、肩で息をしながら何もない景色に目を凝らした。

 そして残響までもが白い陽射しに溶けきった頃、感情の糸が切れた幼子みたく声を上げて咽び泣いた。

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