2-6

 寝る前に飲むホットミルクを作っている時、ミニテーブルの上で携帯電話が震えた。

 コンロの火を消して壁時計を見ると、時刻は十一時十分を過ぎたところだ。バイブレーションは着信時のリズムで震えている。夜も更けゆくこんな時間に、いったい誰だろう。

 雪花は訝しみながら携帯電話を開き、そこに表示された画面を見て思わず息を呑んだ。

 非通知設定からの着信だった。雪花は慌てて通話ボタンを押して耳に当てる。

「もしもし、亮? 亮なの?」

〈よかった、出てくれて。ごめんな、こんな夜遅くに〉

 ほっとした亮の声が耳朶に触れる。そのたった一言が、雪花の胸に温もりを灯した。

「よかった、連絡もらえて。あの夜以来、ずっと声を聞けてなかったでしょ。だからあたし、心配で」

〈うん。俺も最後に、雪花の声を聞いておきたいと思って電話した〉

 最後。その一言で全身からざっと温度が失せた。聞き間違いであってほしいと願ったが、次の瞬間、それは紛れもない現実だと思い知らされる。

〈この電話が最後になる。ここを離れることにしたんだ。明日の便で海外へ発つ。もう日本へは戻ってこない。だから、さよならを言おうと思って〉

「そんな……。いきなり、何で」

〈昨日、一仕事を終えてきたんだ。だから俺が留まる理由はなくなった。この意味、詳しく説明せずとも、雪花なら分かってくれるだろ?〉

 一仕事を終えてきた。その言葉の裏にある事実を察し、雪花の背筋がぞくりと冷える。

〈思いがけない再会だったけど、結構楽しかった。もう二度と会うことはないけど、元気でな。それじゃ──〉

「ま、待って! お願い、切らないで。ねえ亮、今どこにいるの?」

〈……言えない。言ったら雪花は来ちゃうだろ? それはだめだ。俺ももう、雪花に会うつもりはない。ただ、何も言わないで消えたら心配すると思って電話したんだ。だから、もうこれで〉

「嫌よ! そんなの嫌。ねえお願い、切らないで。あたしも行く。今すぐ会いに行くから」

〈だめだ、雪花。聞き分けろ。俺と君じゃ、住む世界が違うんだ〉

 雪花はそう告げる亮の後方から、雑音に交じって低く不明瞭に響く何かを聞き咎める。それは音というより声だった。すぐ側で誰かが話しているようなものとは違う。まるで古びた機械が、生身の人間のそれを真似て喋っているみたいだ。

 そんな連想が瞬発的に閃いて、雪花は亮が今どこにいるのかを正しく見抜いた。

「Y沼駅ね! Y沼にいるんでしょう? 今、ホームのアナウンスが聞こえた。あたしもY沼に行く。お願い、あたしが着くまでそこにいて。必ず行くから、そこで待ってて。顔も見ないまま、電話だけでさよならなんて絶対に嫌。会いに行くから。今すぐ行くから」

〈だめだ雪花、来るな。俺はもう会う気はない。来ても俺は、そこにはいない。だから〉

「嫌よ。決めたの。あたし行くから。亮が何と言っても、あたしは亮に会いたいの。お願い、そこにいて。あたし絶対に行くから!」

 雪花は矢継ぎ早に言い募ると、携帯電話を投げ出してすぐさま支度を始めた。健人と別れてから二時間近く経つが、出掛ける際に持っていったミニトートの中身は、幸いまだ片付けていない。

 雪花はミニトートに財布が入っているのを確かめると、ベッドの下に隠してある鍵つきの小箱からパスポートと預金通帳、キャッシュカードと印鑑を出してぽいぽいと押し入れる。そしてマフラーとコートを着込むなり、ミニトートと携帯電話を鷲掴んで部屋を飛び出した。

 アパートの階段を下りながらブーツのチャックを上げ、雪花は静まり返った闇の道を駅の方角へ走る。アスファルトの凍結具合や転倒する危険性は全く考えず、ただ一刻も早く駅に着くことだけを目指した。

 車が一台もいないのをいいことに、雪花は赤信号を無視して交差点を走り抜く。いつもならさっさと着いてしまう道のりが、永遠に近付かない対岸よりも遠く感じられた。途中で何度か膝が砕けそうになったが、雪花は何とか一度も転ぶことなく改札口に着いた。

 駅構内には数えるほどしか人がおらず、切符販売の窓口は既に閉まっていた。自動改札機上の電光掲示板を見ると、Y沼まで行く最終の普通列車があと五分で発車するという表示が出ている。

 雪花はぜえぜえと息を枯らしながら、有人改札でぼうっと立っている駅員に、

「八番から出る最終にどうしても乗らなきゃいけないんです。切符は電車の中で払ってもいいですか!」

 駅員は切羽詰まった雪花の勢いに気圧されながらも、「これを中で車掌に渡してお支払いください」と小さな紙を渡してくれた。雪花はそれをぐしゃりと掴むと、礼を言う間もなく全速力でホームの階段を駆け上がる。

 Y沼方面の列車が発着する八番ホームは、改札口から一番遠い位置にある。ここで少しでも力を抜いてしまうと、ぎりぎりのところで最終列車を逃す可能性がぐんと高まる。そうなると、もう二度と亮に会えない。それだけは絶対に嫌だと念じながら、雪花は階段をこれ以上ない速度の一段飛ばしで駆け下りた。

 八番ホームには既に列車が入っており、電光掲示板にはあと二分で発車すると出ていた。無事に辿り着けてほっと気が緩んだ雪花は、もう少し先で待つ、二両しかない古ぼけた列車に走り寄ろうとする。

 しかし次の瞬間、走るのに必死で周囲に全く気を配っていなかった雪花は、自動販売機で飲み物を買うなり開栓し、そのままくるりと方向転換した人影ともろにぶつかった。

「いってえ! ってすいません、大丈夫ですか」

 転んで両膝をぶつけた痛みに唸った雪花は、すぐさま差し伸べられた手にありがたく縋る。だが、その顔を見てぎょっと息を詰めた。それは相手も同じだったらしく、よく見知った顔が唖然と口を開けて雪花の目の前にある。

「杉原。お前どうしたんだ、こんな時間にこんな場所で」

 予想だにしていなかった優雄との遭遇に、雪花は固まりすぎて言葉がすぐに出てこない。

「悪い、大丈夫か? 立てる?」

「それより、何で優雄がここに」

「俺はバイト帰り。さっき着いたとこだったから、一服してたんだ」

「あ、あたしの荷物!」

 雪花ははっと我に返り、先程まで握っていたミニトートがないことに気付いて青ざめる。そしてよろよろと立ち上がり、周辺に散らばったミニトートの中身を慌てて拾おうとした。その動きを察した優雄が、素早くそれらをさっと集めてミニトートに戻し、

「思ったより少ないな。財布に携帯、パスポートに通帳に印鑑、これで全部か? 何か旅にでも出るような中身だな。杉原、お前こんな時間にどこ行くわけ?」

 雪花は礼も言わずに優雄からミニトートをひったくり、面食らう彼を置いて発車時刻が迫った最終電車に飛び乗ろうとした。

「待てよ、杉原!」

 あと数センチで扉に手が届くところで、追いかけてきた優雄の腕が雪花を掴む。振り返ると、優雄はいやに緊迫した顔で握る手に力をこめた。

「杉原、お前どこに行くつもりだ?」

「離して」

「言えよ、ちゃんと。そんなものだけ持って、こんな時間にどこまで行く気なんだ」

「離して、優雄。お願い、行かせて」

「嫌だ。離さない。だって杉原は行く気なんだろ? どこかは想像もつかないけど、もう二度と帰らない気でいるんだろ? そんなの嫌だ。行くな杉原、どこへも行くな」

 発車を告げるベルが鳴り渡る。扉の前で揉める若い男女を不審そうに見る車掌が、発車のアナウンスを改めて繰り返した。

「乗ります! 乗るので五秒だけください!」

 車掌室から身を乗り出す車掌に、雪花は大声で叫び返した。そして優雄に向き直り、

「ごめんね。あたしは行く。もう決めたの。覚悟はできてる。だって後悔したくないから。もう二度と会えなくなるのは嫌だから、彼のところへ行くって決めたの」

 雪花は愕然と目を見開く優雄を突き放し、ミニトートを胸に抱いて列車に飛び乗る。

 車掌は雪花が乗り込むなり、高らかに笛を吹いて最終列車を出発させた。

 列車はゆっくりと駅を出て、暗黒に染まりきった夜の深みを進んでいく。車内にはぱらぱらと人が乗っていて、雪花は誰もいないボックス席の窓側に座ると、数十分は高まったままだった鼓動をようやく宥めた。

 かつてない激走のおかげで、両足の疲労と倦怠感がいつになく激しい。転倒してぶつけた膝もじわじわと痛く、それにつられるようにして、衝動のみで動いていた脳裏に少しずつ凪いでいった。

 ミニトートの中で携帯電話が震える。画面を見ると、優雄から着信が入っていた。雪花はそれを切ると、そのまま電源も落としてしまう。そしてミニトートの奥にしまい、延々と黒い景色が続く車窓に頭を預けた。

 車内アナウンスによると、Y沼までは一時間ほどかかるという。途中でトラブルがなければ、遅くとも零時半までには着けるはずだ。

 雪花は電車にあまり乗らないため、その距離が遠い部類に入るかどうかは分からない。Y沼も地名としては知っているが、行ったことは一度もなかった。市街地の山手にある大学に通い、下宿先も駅近くにある雪花にとって、郊外まで出掛ける機会はそうそうない。あの時かかってきた亮の電話の向こうから、Y沼という単語が聞こえてこなければ、恐らく一生訪れることはなかっただろう。

 随分と大胆な行動に出たものだ。黒い車窓に映る己を見ているうち、そんな感慨が湧き出る泉みたく胸に広がる。

 後悔したくない。その気持ちだけで何かを決めたのは初めてだ。それが叶うなら他の全ては捨てていい。そこまでして何かを掴もうとしたことも今までなかった。

 地元で暮らす家族。大学で仲良くしてくれている人たち。いつも優しい『千年雪』の店長夫妻。発車するぎりぎりまで、掴んだ手を離そうとしなかった優雄。電車が先へ先へと走るごとに、馴染んだ町の気配が夜の奥へ遠ざかり、親しい人たちの存在も雪原の向こうに離れていく。

 雪花は今、持てる全てを失おうとしている。そこへ至るまでに躊躇は微塵もなかった。時間が経てば後ろめたさも生まれてくると思っていたのに、駅を一つ一つ過ぎていくほど、これ以外の選択肢はそもそもあり得なかったと確信する。

 必要最低限のものだけを持って部屋を飛び出した。これがあればきっと、どこへでも行ける。もしくは、どこへ行くことになっても大丈夫だろう。そう思えるものだけ連れてきた。何をミニトートに入れていくか、迷う時間さえ惜しかった。逸る衝動だけを抱き、後先をそこまで考えずに出てきたのに、心は驚くほど静かなまま揺らがない。

 今はただ祈るだけだ。必死の思いで縋りついた一縷の望みが、今も絶えず繋がっていてくれるように。それさえ叶えば他はいらない。そう強く言い切れる自信があった。

 停車と発車を等間隔で繰り返しながら、今日最後となる普通列車はY沼駅のホームに進入する。始発駅のN谷ではそれなりにいた乗客も、十個以上の駅を経てY沼に着いた今となっては四名しかいない。その変化に最後まで関心を持つことなく、雪花は一人だけ列車を降りた。

 雪花が降り立つなり、普通列車は歪に軋みながら走り出す。Y沼駅のホームには屋根がなく、N谷を出た頃は降っていなかった粉雪がはらはらと舞い、帽子と耳当てを忘れてきた顔に触れては溶けた。Y沼駅は無人駅で、N谷方面へ行く列車ももう終わっている。古びたプラットホームには雪が積もり、申し分程度しかない蛍光灯の薄い白が、曇天から降る雪を淡く浮かび上がらせる。

 まるでこの世から捨てられたみたいだ。そんな虚無を抱くくらい、Y沼駅は暗く閑散としている。こんなにも音のない空間にいたら、孤独に蝕まれるのとはまた違う暗がりに呑み込まれそうだ。

 雪花は髪に落ちた雪を軽く払い、プラットホームの中央にぽんとある、ミニチュアと紛うほど小さくて古い駅舎を目指した。

 駅舎といっても改札はなく、小箱を思わせる四角くて狭い空間に、傷みの激しい待合椅子が一脚あるだけだ。雪花はそこに座る人影を見つけて息を呑み、そして心の底から安堵した。ホームに人影がないのは勿論だが、駅舎に近付いていっても全く人気を感じないので、もしかしたら本当に去ってしまったのではと不安だった。

 分厚いダウンコートを着込み、猫背になって俯いていた亮が、雪花の気配に気付いてゆるりと顔を上げる。雪花はおもむろに腰を上げた彼に駆け寄り、その胸にしがみついた。

 顔を押しつけたまま嗚咽を堪える雪花の背に、亮は手を回すことなく硬直している。その息遣いが、彼が受けた衝撃そのもののとして伝わっては沈黙に溶けた。

「……まさか、本当に来るとは思ってなかった」

「言ったでしょ、行くって。……絶対に行くから待っててって」

 亮の胸に顔を埋めながら、雪花は既に泣いていた。氷点下をかなり下回った空間の中で、強張った頬が痛いからではない。彼が全身で放つ拒絶の気配が、会えた喜びで震える胸を刺すからだ。

「情けをかけるんじゃなかった。連絡なんかせず、何も言わずに消えるべきだった」

「何でそんなこと言うの」

 思いがけない力で両肩を掴まれ、雪花はびくりと身を竦ませる。己から雪花を引き剝がした亮は、親愛の欠片もない声音で淡々と告げた。

「今すぐ帰れ。それで、もう二度とこんなことするな」

「……どうして」

「電車がなくても方法はある。俺が今すぐ足を用意するから、それでお前は」

「嫌よ。あたし決めたの。亮がどこかへ行ってしまうなら、あたしも一緒に行く。亮が行く場所に、あたしも連れていって」

「だめだ」

 間髪を入れずに却下されて、雪花はつい言葉に詰まる。

「それは絶対にだめだ。言ったろ? 俺は暗殺者。人殺しが仕事の人間だ。俺はその道を誰かと歩くつもりはない。お前の人生を巻き込むつもりだって毛頭ないんだ」

 亮の瞳はいつになく険しく、放たれる言葉も尖っている。揺るがぬ決意を突きつける彼の心に何とか隙を作りたくて、雪花は怯みかける気持ちを必死に奮い立たせた。

「巻き込むなんて思わないで。これはあたしの意思なの。あたしが自分で、望んで決めたことなの。だから」

「いいや、だめだ。俺はお前を連れていくつもりなんてない」

「でも」

「分かってないようだから改めて言うけど、俺がどんな業を背負ってるか、それがどれだけ罪深いものか、お前は本当に知ってるか? 俺が殺した数の単位は十じゃない、百以上だ。それがどれほど違法で危険なことか、考えるまでもないだろう。それに言ったよな? 俺は一仕事を終えたから去るんだって。その意味はお前もちゃんと分かってるはずだ。依頼が入る度、俺はこうやって人を殺しながら各地を転々とする。それ以外の生き方は知らないし、選ぶつもりもない」

 以前言っていた事柄を、亮は強い語気で改めて口にする。その重みに頭が潰され、本心に反して首が垂れてしまわないよう耐えながら、雪花はなおも否を唱えようとした。しかしそれを察した亮が、雪花よりも早く言葉を継いで黙らせる。

「雪花は俺に毒されて、前が見えなくなってるだけ。冷静になれよ。俺についてくることがどれだけ愚かで間違ってるか、分からないはずがないだろう。殺人犯に殺された実の両親を思い出せ。俺についてくるってことは、殺人を肯定するってことだ。お前の両親を殺した奴を、正しかったって認めるのと同じなんだ」

「違う、そんなの」

「いいや、違わない。お前の両親を殺した奴と俺は同じ悪人だよ。罪を罪とも思っちゃいない、人と呼ぶ価値もないぐらいの最低な屑だ」

「違う、そんなことない。パパとママを殺した人と、亮は同じじゃない!」

「同じさ。そいつも俺も躊躇なく人を殺して、それを微塵も悪と思っちゃいない。数の問題じゃない。本質は同じなんだ。そんな奴のために人生を棒に振るっていうのか? お前の家族は、お前にそんな人生を送らせるために、今まで守り育ててきたわけじゃないだろ」

 雪花が必死に目を逸らそうとした真実を、亮は真正面から容赦なく叩きつける。だが、それでも継ぐべき言葉を探す雪花に、亮があからさまな疲弊を滲ませた。

「目を覚ませよ、雪花。ちゃんと別れを言おうと思って、俺が最後に情けをかけたのが悪かった。それは謝る」

「謝ることなんてないよ。でも、あたしは本当に亮と離れたくないの。だから」

「言ったろ、だめだって。俺は自分の闇に雪花を巻き込むつもりはない。こんなことになるとは思ってなかった。後悔してるんだ。たった二回話しただけで、もう二度と会うことはないと高を括ってた。だから、まさか数年後にまた会うなんて、思ってもなかったんだ」

 これまでの全てを否定するような亮の言葉に、雪花は何度目か分からない裂傷を心に負った。

「だけど、それも全部昔の話だ。たった一瞬、たった数回の間違いだ。時が経てば自然と忘れて、そう遠くないうちに全部なかったことになる。それぐらい些細な遭遇だったんだ。普通に考えたら、まず会うことのない人種だっていうのは分かるだろ。空でふんぞり返る神とやらがしでかした気紛れだ。そんな奴と少し話して、会話が嚙み合ったからといって、そのために人生をふいにすることなんてないんだよ」

「そんな……何でもなかったような、何の価値もないような、そんな出会いだったなんて言わないで」

 ぼろぼろと流れる涙が頬を伝う。雪花はそれを拭わずに、

「あたしには間違いなんかじゃない。そんな風に思ったことは一度もないよ。亮は知らないかもしれないけど、あたしは亮と出会って救われたの。十五の時、どうしようもない気持ちに潰されそうだったあたしを、他の誰でもなく亮が救ってくれた。あの時亮と出会わなかったら、今のあたしはいない。あたしは亮を」

「違うよ。五年前のあの夜、俺がお前を助けた理由はただ一つ。お前の姉貴と組んでた仕事にお前が巻き込まれて、放っておいたら確実に死なれて寝覚めが悪いと思ったから、それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」

「でも、あたしは確かに亮に助けてもらったよ。亮がいなかったらあたしは死んでた。命だけじゃない。助かっても心はきっと潰されたまま、誰も知らない寂しい道を歩いてた」

「そんな美化しなくていいだろ。俺はただ」

「美化じゃない。本当のことよ。亮は知らないでしょ、あたしがどれだけあなたに救われたか。あの時あなたが話を聞いてくれて、誰にも言えなかったことを共有してくれて……。変わらないから何度でも言う。あたしは亮が好き。たとえ亮がどれだけ汚れてても、あたしは恐れることなく触れられる。覚悟だってもう決めた。あたしは亮と一緒にいたいの。もう二度と会えなくなるなら、他の全部を捨てていい。好きだから。もう絶対に離れたくないから。そう思うことの何がいけないの?」

 どうあっても食い下がる雪花に、亮は辟易しているように見えた。しかし雪花も譲らず、彼の首が縦に動くまで訴え続ける。

「それに、時間が経てば忘れちゃうなんて言うけど、あたしは絶対忘れないよ。忘れるわけない。亮はあたしにたくさんの初めてをくれた。誰かの言葉に、あんなに深く傷ついたのも、あんなに救われたのも亮が初めて。誰かをこんなに好きになったのも、いつも会いたくて仕方なくて、声を聞いたらすぐ飛んでいっちゃったのも。人はね、初めてのことは忘れないの。何があっても、記憶から消し去られることはないの。あたしは亮が好き。誰よりも好きで、ずっと亮の傍にいたい。この五年間、忘れた時は一瞬もなかった。それはこれからもずっと変わらない。だから」

 まくし立てる唇が、寒さで潤いと色を失くしていく。濡れた瞼が徐々に凍え出し、雪花は瞬きを繰り返して睫毛を震わす冷気を払った。

「……雪花がそうでも、俺はきっと忘れるよ。そう遠くないうち、俺は何もかもなかったことにする。雪花も自然にそうなるよ。生きる道が違うから、離れてしまえば全部が驚くほど速く消え失せる」

「忘れないよ。あたしは絶対忘れない」

「雪花はそうでも、俺は」

 その先を聞きたくなくて、雪花は爪先立ちして亮の頬をぐいと引き寄せ、なおも言い募ろうとする唇を口づけで塞いだ。よほど思いがけないことだったのか、亮が息を止めてぴしりと固まる。触れ合う唇はどちらも冷たく、雪花の震えが亮にまで伝染していくようだった。

 唇を離した時、交錯した亮の瞳は当惑と驚愕の色をしていた。雪花は硬直した彼の背に腕を回し、その胸にもう一度顔を埋めて囁きかける。

「これも初めて。あたしの初めて。……言ったでしょ、人は初めてを忘れないって。こうすれば、亮もあたしを忘れない。忘れないから」

 祈りを紡ぐ声がひび割れる。これが雪花の精一杯だった。全てを捧げ尽くす勢いで、受け入れてもらいたかった。今にも離れていこうとする彼を繋ぎ止めたい。その心が、最後の砦となった理性をも躊躇なく破った。

 どれだけの時間、そうしていたか分からない。ふいに亮の腕が背中に回り、我に返った時には、雪花は痛いほどの力で抱き締められていた。

「……だめだって、言ったのに」

 掠れた声音が耳たぶに触れる。

「突き放そうとしたのに、どうして君は、そうまでして」

 その先は、二人とも言葉にならなかった。骨が軋むほどの抱擁の後、亮は泣き腫らした雪花の唇を熱く貪る。雪花がぎこちない舌遣いで応えると、それはたちまち息する間も惜しむような求め合いに変貌した。

 絡み合う舌先の感触と、荒い呼吸を孕む唇の厚みが脳をとろかす。亮は雪花をひしと抱いて、

「……本当にいいんだな。後悔、しないか?」

「しない。あたしも一緒に行く。ずっとずっと、亮についてく」

 鼻先が触れるほどの近さで見つめると、二人の唇がより激しい形で重なり合った。

 粉雪が降りしきる寒さも忘れて、他に生き物の気配がしない暗黒の中、二人は決して離れない一つの影になった。

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