2-5
まるで夢の中にいるみたいだった。あれから数日が経った今でも、雪花は飽きることなくそう思う。
全ては本当に夢だったのかもしれない。願いゆえに生まれた妄想を、現実と都合よく混同しているだけだったら。
亮と真夜中に出掛けた後の二日間、雪花はずっとそんな心地に浸っていた。浮かれるのとは少し違う。夢みたいだったと振り返るあまり、本当に現実だったのだろうかと疑ってしまうのだ。
そして気付けば、雪花はあの夜のことばかり考えている。何をしている時でも、亮の顔が脳裏でちらついて離れない。一つの事柄に集中しようとしても、手を動かしながら思うのはいつも亮のことだ。
亮の運転する車で、夜の高速道路を疾走したこと。見渡すかぎり誰もいない、闇の雪道を二人で歩いたこと。握り合って伝わる互いの手の感触。五年前以上に交わしたいくつもの言葉。その一挙一動に刺激され、胸を占めた様々な感情。その一つ一つが蘇っては、雪花の思惟や動作をたちまち甘く鈍らせる。
亮に送られ帰宅してからというもの、雪花はとにかく何にも身が入らなかった。『千年雪』のバイトには行っていたが、仕事中もどこか心ここにあらずだった。幸い失敗をしでかすことはなかったので、店長や奈穂子に不審がられる事態にはなっていない。だが、作業を疎かにしている自覚はあったので、二人が普段どおりに接してくれるのが申し訳なかった。
春休みなので、大学の友人たちと会う機会は基本的にない。メールが来たら返信し、お喋りの電話がかかってきたら付き合う程度だ。星見の面々と顔を合わす機会も、今のところ訪れていなかった。
もし星見の活動や飲み会に呼ばれたら、必然的に優雄と顔を合わせることになる。雪花としては、できればそれは避けたかった。亮と過ごした時間が濃く脳裏に残り、いつでも彼のことばかり考えてしまう今、優雄とどんな顔で何を話せばいいのか分からない。
部屋を適度に片付け、マグカップにカフェラテを淹れた雪花は、ベッドに凭れてぼうっと物思いに耽る。今日は『千年雪』のバイトがなく、他に約束も入っていないので、今朝から一度も外へ出ていなかった。
一人暮らしのアパートでやれることはたかが知れている。大学がある時はひたすら課題に没頭し、遊びの誘いがあれば着る服にあれこれ悩み、料理や掃除といった雑事をやっていれば時間は過ぎる。しかしそれが終わってしまえば、あとはノートパソコンや携帯電話をいじるか、音楽かテレビを流すぐらいだ。何もせずにただ部屋にいるだけでは、浮ついた物思いが深くなって涙しか出なくなる。
二日前の夜、行きと同じだけの時間をかけて高速道路を飛ばし、亮は雪花をアパートまで送り届けてくれた。時刻は明け方近くになっていたが、真冬なので早々に太陽が昇ることはなく、周囲はまだ深い闇に包まれていた。
幸い雪は降っていなかったが、しんと静まり返った住宅街に車が止まり、雪花が積もった雪を踏み締めた時、それまでただ流れるだけだった夜が一瞬で破られた。
亮が降りてくる気配はなく、雪花は内心で少しがっかりした。それでも諦めきれなくて、運転席の窓をノックして開けてもらうと、
「ねえ、また会える? また連絡してくれる?」
雪花は縋るような思いでそう訊いた。ただでさえ別れがたいのに、次の約束がないのは余計に悲しい。
しかし亮は少し困ったように眦を下げて、
「何かあったら連絡する」
それだけ言うと、どれだけ名残を惜しんでも足りない雪花を残して走り去った。車が角を曲がり、気配が完全に消えた後も、雪花はしばらく立ち尽くしていた。
何かあったら連絡する。つまり、何もなければ連絡しない。言外に含まれた意味を瞬時に察せるぐらいには、雪花は亮を理解できるようになっていた。そんな風に分かっていけばいくほど、亮は雪花から努めて自然に離れていく。
亮が暗殺者としての己の領域に、雪花を一歩も入れまいとしているのは痛いほど感じている。亮は雪花と会うことを、ある意味で危険な行いと思っているのだ。
しかし、それでも亮は雪花に連絡をくれた。そして、二人だけで過ごす時間を作ってくれた。雪花のことを単なる偶然の産物としか考えていないなら、きっとそんな真似はしないだろう。
彼は恐らく、雪花が想像する以上のリスクをいくつも抱えている。ましてや家族に警察関係者がいる雪花と会うなど、彼にとってはこの上ない危険な綱渡りだ。ネットワークが驚くほど発達したこの時世、雪花との接触というほんの僅かな綻びが、やがては亮を脅かす穴へ広がっていく可能性が微塵もないと、いったい誰が断言できるだろう。
もし先日のあの誘いが、これが最後と決意した上で来たものだったとしたら。
亮の居所や連絡先を、雪花は全く知らない。だから、亮がもう連絡しないと決意すれば、二人の関係はそこで簡単に終わってしまう。そして雪花はそれをついに知らぬまま、いつあるか分からない連絡を待ちながら日々を過ごしていくことになる。
それは嫌だ。あの夜で全てが終わってしまったとは思いたくない。しかし現に、あれから数日が過ぎたというのに、亮からの連絡は一向に入ってこなかった。
深夜の外出から帰宅してからというもの、雪花は携帯電話をそれまで以上に気にしている。四六時中ずっと握っているわけにはいかないが、そちらに注意を傾けない瞬間はない。着信があろうとなかろうと、何かにつけて携帯電話を触っていた。
携帯電話は時折、電話やメールを受けて震えるが、ディスプレイに非通知表示が出ることはない。登録済みの電話番号やメールアドレスが表示される度、態度にこそ出しはしないが、雪花はいつもひどく落胆していた。
もし亮から二度目の着信が入ったら、雪花はどうするだろう。すぐにでも彼の元へ飛んでいくのは間違いない。会いたかったと言って、泣きながら縋りつくだろう。しかしその後はと考えると、思考はどうしたって進んでくれない。何をどう恐れているのか、自分でもうまく掴めていないが、もしもが叶った時のことを想像すると怖かった。その感情と向き合う勇気を、雪花はまだ手にしていない。
数日前、雪花に訪れた夢のような夜、亮が見たいと言ったダイヤモンドダスト現象は起こらず、結局少しも雪が降らないまま明けていった。望みが実ることはなかったが、雪花にとっては一番大事な願いが叶えられた夜だった。
今日も連絡がないまま終わるのだろうか。カフェオレには口をつけずに微睡んでいた雪花は、ベッドに振動が伝わっているのに気付いて周囲をまさぐる。
寝惚け眼で目にした着信表示は、やはり非通知ではなかった。しかし、この名前が雪花に電話をかけてくるのも久しぶりだ。
雪花はだらしなく崩れていた身を起こし、携帯電話の通話ボタンを押して耳に当てる。
「はい、もしもし。久しぶり、健兄ちゃん。珍しいね、かけてくるなんて」
着信の相手は健人だった。彼は地元で暮らす十三歳上の長兄で、県警本部の捜査一課で働いている。その役職や仕事内容を雪花は詳しく知らないが、周囲が一目置く敏腕刑事だというのは佐知子から聞いていた。
重度のシスターコンプレックスだと周囲に笑われるぐらい妹思いの健人だが、家庭を持ってからはそれも少しは落ち着いたらしく、地方で下宿中の雪花に連絡を寄越してくることは滅多にない。彼の妻か、もしくは幼い甥と姪に何かあったのか。
しかしそんな雪花の不安は、次の瞬間ことごとく打ち砕かれた。
「えっ、今こっちにいる? マジで? 何で? は? 今すぐ駅まで来い? ええっ?」
唐突すぎる展開に慌てふためく妹に対し、健人は用件を告げるなりさっさと電話を切ってしまう。ツーツーと無機質な音が鼓膜に刺さる中、雪花は枕元の目覚まし時計に視線を投げる。そして文字どおり飛び上がった。
「あと二十分で駅に着くなんて、むちゃくちゃじゃん!」
雪花はルームウェアを脱ぎ捨て、慌てて身支度に取り掛かる。今日は出掛ける予定がなかったせいで、服や化粧といった何もかもが全く準備できていない。
文句ばかり言っても仕方がないので、雪花は十分で着替えて五分で薄化粧を済ませると、部屋からばたばたと飛び出していった。
アパートから駅までは徒歩で十分かかるから、二十分後に来いといきなり言われても絶対に間に合わない。雪はちらちらとしか舞っていないが、走って転んで怪我をするのもばからしいので、雪花は競歩のような早歩きで向かうことにする。
普段はそうそうしない歩き方で、言われた時間に五分だけ遅れて駅に到着する。雪花が改札周辺を見回していると、ちょうど自動改札機の向こうに健人の姿が見えた。
「おお、雪花!」
周囲の視線を一気に集める大きな声がこだまし、ぎょっとした雪花は思わず他人を装いたくなる。しかし健人は妹のそんな様子には露も気付かず、改札機を抜けるなり猛スピードで駆け寄っては、その鍛え上げられた両腕で雪花をきつく抱き締めた。
「久しぶりだなあ、雪花! 無事に会えて、兄ちゃんは嬉しいぞ!」
「け、健兄ちゃん、苦しい……」
「しばらく見ないうちに、随分と大きくなったなあ。おまけにかなり可愛くなった! さすがは俺の雪花。お前の元気な姿が見れて、兄ちゃんは嬉しいぞ!」
感動したと言わんばかりの腕力で、健人はぎゅうぎゅうと抱き締めた雪花の背をばしばし叩く。久方ぶりの再会は雪花としても嬉しいが、長兄は妹を笑顔で窒息死させる気だろうか。
ようやっと健人が離してくれた時、会って五分も経っていないというのに、雪花は既にぐったりしていた。
「久々だなあ、雪花。元気にしてたか? ちゃんと食ってるか?」
「元気だよ。久々っていうか、先月成人式で帰ったばっかじゃん」
「成人式の日は兄ちゃん、仕事で会えなかったろ。佐知子から元気にしてるとは聞いていたが、どうだ? 風邪なんか引いてないか? ちゃんとあったかくして寝てるか?」
「いくつも同時に訊かれても答えられないってば。ていうか、いきなりすぎるよ。急に電話かかってきたと思ったら、今から駅まで来いとか。今日はたまたま家にいたけど、電話に出なかったらどうする気だったのよ」
「すまんすまん。思いがけずこっちへ来ることになったから、ぜひとも会って帰りたいと思ってな。連絡する間もなく、来ることが決まったんだ。許せよ」
健人は白い歯をむき出しにして笑う。その笑顔を見た途端、雪花は突然ふにゃりと緩んで、泣きたいぐらいの安堵に駆られた。健人そのものと言うべきやや手荒い再会に、初めこそ気力を持っていかれて疲れたが、本州から遠く離れたここで会えた嬉しさがじわじわとこみ上げる。
会う前から何となく察してはいたが、健人がはるばるやってきた理由は、やはり私用ではなかった。
「職場から直で飛行機に乗ってきたから、まだ晩飯食ってないんだ」
「仕事は大丈夫なの? 時間とかもそうだけど、出張なら一緒の人とかいるんじゃない?」
「一緒の奴は明日来る。俺は前乗りだ。メインは明日で、遅くとも夜の便では帰る予定」
「随分と強行軍だね。大丈夫なの? それ。仕事のやりくりは勿論だけど、ふうちゃんや子供たちは」
「嫁にはちゃんと言ってあるし、仕事のことも、兄ちゃんが大丈夫と言うんだから大丈夫だ。お前は変な気回さなくていいんだよ。仕事とはいえ、滅多に来れない土地へ来る機会が巡ってきたんだ、これを活かさない手があるか。安心しろ、前乗り費用は俺の自腹だ。それより寿司を食おう。N谷の名物といえば新鮮な魚。今日は兄ちゃんがうまくて上等な寿司をたらふく食わせてやる。尋人に言って、外れなしの店を予約させたんだ。行くぞ」
そう言いながら健人は、駅を出てすぐの広い歩道を威風堂々と進んでいく。着いてそう経たないうちに、気付けば雪花はすっかり健人のペースの只中だ。尤もそれは、今に始まった話ではない。幼い頃からずっと、健人は年の離れた弟妹だけでなく、両親や姉をもぐいぐい引っ張っていく気質があった。
どんな仕事の関係で、わざわざこんな僻地まで来たのか。訊いても恐らく適当にはぐらかされるだろう。そう思った雪花は、あえて詳しく尋ねることはしなかった。
「こっちは想像以上に寒いなあ。外気が本州より明らかに冷たい。ほっぺやでごが裂けそうだ。お前、よくこんな極寒で二年も暮らしてるな。俺は無理だ、即凍死しちまう」
大袈裟な表現で北国の冬を語る健人が連れていってくれた先は、駅から徒歩圏内にある一軒の寿司屋だった。大通りに面したビルの三階にあるその店は、ファミリー向けの回転寿司ではなく、板前が目の前で握って出してくれる寿司屋だ。狭いながらも純和風な装いで、琴のインストゥルメンタルが流れている店内は、一歩入っただけで格式の高さが見て取れる。
初めて入る店であるはずなのに、健人は慣れた仕草でカウンター席にさっさと座る。そして隣でメニューを見ようとする雪花に、
「料理はあらかじめ頼んであるんだ。雪花、さび抜きじゃないと無理だっけ?」
「いや、さすがにもう二十歳越えてるから、わさびは大丈夫だよ」
「大将。頼んでたやつ、ちょっと変更。一つはさび抜きって言ってたけど、二つともわさび入れてくれていいや。あと飲み物、こいつはオレンジジュースを」
「ちょっと健兄ちゃん、子供じゃないんだから。あたしはもうお酒だって飲めます。すいません、梅酒のお湯割りでお願いします」
「何だ雪花、一丁前に背伸びなんかしやがって。さてはお前、大学のサークルや何やらで飲み慣れてるな? けつの青いガキが生意気な」
そう言いつつも口元がにやけている健人は、メニューを睨みながらしばし悩んだ挙句、この地方で一番有名な地酒を熱燗で注文した。先程のさび抜き発言といい、オレンジジュースといい、どうやら彼にとっての雪花は、幼さがまだ濃く残る子供であるらしい。
まず運ばれてきた酒を手に、二人で小さく乾杯した。
「まさか末っ子のお前と、こうやって酌み交わせる日が来るとはなあ。兄ちゃんは泣けてくらあ」
「まだ料理も来てないのに、さすがにそれは早いでしょ。でも、電話もらった時はびっくりしたよ。もしあたしに他の予定があって来れなかったら、どうしようと思ってたの?」
「そんなもん、その予定とやらの場所まで行って、奪い返してくるまでだ」
「いや、別にあたし、攫われてませんけど。それにしても本当久しぶり。健兄ちゃん、元気そうでよかった」
「お前もな。最初はどうなることかと思ったが、しっかり女子大生やってるみたいじゃねえか。寝坊して授業さぼったり、うっかり単位の五つや六つ、落としたりなんかしてねえだろうな?」
「してないよ。今年も単位は全部取りました。おかげで来年、無事に三年生に進級できます。授業も全部出てるよ。寝坊しようにも出席が厳しいやつばっか取ってるから、うかうか休んでもいられない」
「サークルはどうだ? 何とか何とかってやつに入ったんだろ? 飲み会やオールにばっか明け暮れちゃいねえか?」
「何とか何とかじゃないよ。星空見物同好会、略して星見。そりゃ飲み会もあるけど、基本的にはみんなで星を見たり、プラネタリウムへ行ったり、学生らしいサークル活動もきちんとしてます。オールも何度かあるけど、健兄ちゃんが思うほど不品行なことはしてないから安心して」
「彼氏はいるのか?」
風味がしっかりと濃い梅酒を含んだところだった雪花は、危うくそれを吹き出しかけた。
「い、いないよそんなの!」
打って変わったうろたえぶりが意外だったのか、健人がきょとんと目を丸くする。雪花はその目を見て、迂闊にも墓穴を掘ってしまったことに気付いた。健人の眼光がたちまち剣呑な光を宿し、
「そうだよな、そうだよなあ。やっぱりそうだと思ったんだ。畜生、どこのどいつだ、俺の可愛い妹に手出しやがった奴は!」
「いや、待ってよ健兄ちゃん。いないって言ったでしょ」
「おかしいと思ったんだ、俺は。お前がいきなり、地元を離れて最北の大学を受けると言い出した時から」
「いや、うちの大学、最北じゃないから。ていうか、受験当時は彼氏なんかいなかったし」
「その上、いざこっちで暮らし出したらなかなか帰ろうとしないし、盆と正月さえこっちに残ると言い出す始末」
「それはバイトがあるからで。長期休暇の暇な時期は、稼ぎ時なわけであって」
「しかも帰ってきたら帰ってきたで、一週間も家にいることなく、やること済ませたらさっさと帰ろうとするし。これはもう、こっちで男ができたと思うしか」
「ちょっと健兄ちゃん、落ち着いて。周りにお客さんいるってば」
粋な高級寿司店で持ち前のシスコンぶりに火が点き、ただでさえ大きい声がどんどん凄みを帯びていく健人を、雪花は慌てて宥めにかかる。ちょうどその時、着物姿の女将が二人分の料理を運んできてくれた。まるで図ったようなタイミングの良さをありがたく思うとともに、雪花は目の前に置かれた華やかな寿司御前にほうと息を呑む。
健人が予約してくれたのは、ネタが異なる十貫の握りに、ミニの豆腐サラダとお吸い物がついた、見るからに豪華な御前だった。両親の援助を得て下宿生活をしている雪花には、こういった店で食事をする勇気や財力もまずないから、誰かに連れてきてもらわないかぎり、この料理を見て惚れ惚れとする機会はなかっただろう。
雪花はすかさず携帯電話で料理を撮り、一目で新鮮と分かる寿司たちに改めてうっとりした後、一番好きな特上トロから箸をつけた。
「お、美味しい! 何これ、すごい美味しい!」
「おお、確かにうまい。やっぱり本場は鮮度からして違うな。こりゃあ値段以上の価値がある。すいません、同じ酒を今度は冷で」
今まで食べた寿司の中で一番美味しい。雪花は心の底から感動しながらも、早々に食べてしまわないよう、一つ一つを努めてゆっくりと味わっていった。
次はどれを食べようか、迷いながらもわくわくと口にしては、その度に目を輝かせる妹を、隣の健人はいつになく穏やかな笑顔で眺めている。寿司に夢中だった雪花はようやくその視線に気付いて、
「……どしたの?」
「いや、雪花も大人になったなあと思ってさ。昔はあんなちっちゃかったのに、今や大学生とか言って下宿したり、一端に成人式に出る年になって、酒も飲んでさ」
先程とはがらりと違った感慨の深さに、やや気まずさを覚えたのは雪花のほうだった。
「健兄ちゃんもお母さんもみんな、あたしのことをすぐそうやって子供扱いするよね」
「子供だよ、お前は。俺にとってはいつまで経っても子供のまま、可愛くてほっとけない妹。正直、お前が下宿して地方の大学通うって言い出した時は、マジでどうしようかと思ったけど、元気に暮らしてるなら兄ちゃんは一安心だ。寂しいけど」
そう言いながら冷酒をちびちびと味わう健人は、こうしているだけでは妹思いがやや度を超した長兄にしか見えない。日頃は犯罪者を取り締まる刑事を、もう十年以上はやっているというのに、雪花にはそんな彼の仕事の顔がまるで想像できなかった。健人も恐らく、それを見せるつもりがないのだろう。二人の間に流れる空気は、年が離れていても仲の良い兄妹そのものだ。
「そういえば、ちゃんと聞いてなかったけど健兄ちゃん、今日はどうしてこんなとこまでわざわざ来たの?」
「言ったろ、大した用じゃねえよ。何だ、お前も一端に、俺の仕事を気にしてくれるようになったのか?」
「いや、普通に気になるでしょ、興味として。健兄ちゃんのお仕事を知ってる身としたら、何でこっちにまで飛んできたのかなって、疑問に思うのは普通じゃない?」
「確かにそれは妥当だわな。安心しろ、マジで大した用じゃねえんだ。裏付け捜査って聞いたことあるか? その関係で来ただけだ。前乗りしたのは本当にプライベート。こうでもしないと、お前と会って話せる機会なんてないだろ?」
健人はそう言いながら、鯛を一口でぱくりと頬張る。そして満足そうに何度も頷いては、
「うまいな。やっぱり本場で食べる寿司は一味違う。張り込んだ甲斐があった」
先程と似た台詞を繰り返して、味わい深げに酒を飲む。その横顔を見ながら、雪花は内心でほっと胸を撫で下ろした。
亮と再会してそう日が経たないうちに、何の予告もなく健人が来たので、雪花は肝が冷えたのだ。もしかしたら亮はどこかで仕事をした際に、警察が絡む不測の事態に遭遇したのかもしれない。そして、それを追う健人が何かしらのきっかけで亮の足跡を掴み、遠路はるばる捜しに来たのだとしたら。健人から電話をもらって以降、そんな不穏な妄想が脳裏を巡って、実はずっと落ち着けずにいた。
しかし、今さりげなく探ってみた感触では、健人は亮と無関係であるようだ。いや、確定するにはまだ決め手が足りない。だが、警察も掴んでいないだろう暗殺者と雪花に、実は繋がりがあるなどとは、健人は露も気付いていないはずだ。もし気付いていたら彼はきっと、雪花と会う前に亮を逮捕してくるだろうから。
そう考えて少し安心してみたものの、雪花の中で生まれた不安は依然燻り続けていた。
そもそも、亮はなぜこの地へ来たのだろう。もしかして警察から逃亡しているのか。もし今こうしている間にも、亮が警察や他の誰かから追われているとしたら。そう考えたら、いても立ってもいられない焦燥に掻き乱される。
突如湧いた物思いに耽りかけて、箸を進める手が一瞬止まった雪花を、健人は目敏く見逃さなかった。
「何だお前、俺がいきなり来て、困るようなことでもあるのか? さてはもう既に彼氏がいて、そいつと俺が鉢合わせするのを避けようとしてるんだな」
「それは違うってさっき言ったでしょ。もう健兄ちゃんってば、妹離れしなさすぎ。ふうちゃんも子供たちもいるのに、いつまでもそんな風だと周りにどん引かれるよ」
「周りなんかほっとけ。俺は俺。いつまでも妹が可愛くて仕方がない俺」
「それ、素面で言うと何か怖い」
突き放すようにつんと言ってみたが、雪花の予想と反して健人は全く気にも留めない。昔は雪花がつれない言葉を口にすると、心底傷ついたと言わんばかりの大仰な仕草で、さらに暑苦しく構ってきていたのに。
もしかしたら健人は健人なりに、場を弁えているのかもしれない。ここが高級寿司店ではなくて実家だったら、今とはまた違った展開に転がっていた可能性はある。
健人は大きな牡丹海老をぽいと放り込み、ぷりぷりと活きのいい食感を幸せそうに噛み締める。
「しかし、雪花も大人になったなあ。ちょっと前までは、歩くのもままならないぐらい小さかったのに」
「健兄ちゃん。それと似たようなこと、さっきも言ってたよ」
「いいじゃねえか。兄っていうのは、何度でも同じことを思うもんさ。いやさ、今お前がうまそうに頬張ってるのを見て、しみじみ思ったんだよ。雪花はやっぱお袋似だな」
その一言は雪花にとって、殴打以上に強烈な不意打ちだった。焙り中トロを食べようとした手が止まり、息もできずに芯から固まってしまう。
「俺は明らか親父似。尋人は親父とお袋を、見事に足して二で割った感じ。でも雪花は完全にお袋似だなって、さっき会った時まず思ったんだ。尋人を産んだ頃のお袋によく似てるよ。やっぱあれかな、娘って母親に似る傾向が強かったりするのかな」
雪花はどう返したらいいか分からず、悩んだ末に焙り中トロを無言で口に入れた。脂のよく乗った中トロは、身も食感もただでさえ濃厚なのに、焙りという一手間が加えられたことで、さらにとろける味わいになっている。しかし一瞬前と違って、雪花はその美味しさを素直に堪能できなかった。
雪花たち兄妹には、両親と呼べる存在が二組いる。そして健人が親父とお袋と呼ぶ人は、育ての親である叔母夫婦とは違う人であることも、雪花はよく知っている。
いきなり実の両親の話題を出された衝撃が抜けない雪花は、健人がそんな話を持ち出してきた真意が全く読めず、平静を装いながらも内心はひどく動揺していた。
「大きくなったお前を見たら、親父もお袋も喜ぶだろうな。お袋なんか泣いちゃうかも。あの人、涙脆かったから」
己が妹に爆弾を落としたとは気付いていないのだろう。健人は豆腐サラダに醤油をほんの少しだけ垂らし、やや粗雑な箸さばきで掻き混ぜてから食べ進める。
「……久しぶりに聞いたな、パパとママの話。いきなりどうしたの? 健兄ちゃん」
「そうだな。お前が驚くのも無理ないか。法事の席以外ではみんな、親父とお袋の話題は出さなかったもんな。俺もあんまり言ってこなかったし」
あんまりどころか、ほぼ聞いた覚えがない。そう口が言葉を紡ぎかけるが、雪花はすんでのところでその声を呑んだ。
「あの時は二歳だったか、雪花は。覚えてるか? 親父とお袋のこと」
雪花はもぐもぐと咀嚼したまま、否定も肯定もできなかった。答えは自分の中で明確なのに、それを口にするだけの勇気がどうしたって生まれない。
「雪花はまだ小さかったもんなあ。尋人は保育園児だったけど、お前はそれ以上にさ。覚えてるか? 親父とお袋が死んですぐの頃、いきなり住処が変わって驚いたのか、いつも傍にいてくれる親がもういないと分かったからか、雪花はしばらく夜になったらわんわん泣いて、そりゃあもう大変だったんだ」
「泣いた? あたしが?」
さらに思いがけない言葉を聞いて、雪花は繕いきれずに仰天してしまう。だが健人は、必要以上にぎょっとした雪花を訝ることのないまま、
「そう。昼間は普通なんだけど、寝る前になったら途端に泣き出すんだ。やだやだ、パパとママがいい、パパママどこどこ、いやいやうわーんって。父さんと母さんじゃとても対処しきれなくて、俺と佐知子の二人がかりで毎晩、時間かけて寝かしつけてた。尋人はそんなお前を見て、泣くタイミングを失くした感じだったな。どっちかっていうと、あいつのほうが泣かなかった。寂しがる妹の前で泣けないと、五歳児ながら思ってたのかもしれない」
「知らなかった……。そんなの、全然覚えてない」
「当たり前だ。お前はあの時、今よりずっとガキだったんだから」
「……あたし、パパママっ子だったの?」
「ああ、どっちにも平等に懐いてた。二人とも、目に入れても痛くない以上のレベルで可愛がってたからな。そんな風に愛してくれてた親がいきなりいなくなって、それがどういうことなのか、二歳児なりにちゃんと感じ取ってたんだろう。年端もいかない子供だからといって、何も分かってないと思うのは大人の都合のいい勘違いだ。おむつの取れねえガキだって人間だ。賢すぎるぐらい、何でも分かるものなのさ」
雪花は内心の衝撃を悟られないよう、努めて平常心で寿司を頬張る。しかし先程と一転して、贅を尽くした芸術品のようなそれの味が全く分からなくなっていた。
「今だからこそ言えるが、父さんや母さんだけじゃなく、親戚の人たちもみんな、俺はともかく、物心ついて間もないお前らを傷つけないよう、それはそれは慎重に接してたんだ。俺は周りの大人ほど、器用な真似はできなかったけどな」
「うん……それは感じてた、実を言うと」
「だろうなあ。あれだけあからさまに気を遣われちゃ、気付くなってほうが無理だよな。今なら分かるよ。周りはきっと、それで精一杯だったんだろうって。子供には分からない、大人の苦労というかさ」
「健兄ちゃんも、大変な思い……したんだよね?」
「いや、俺はそれほどでもないぞ。幸い、周りが守ってくれたからな」
健人は雪花の梅酒が空になったことに気付き、前にあった急須で湯呑みに煎茶を注いでくれる。
「でも、結果的には雪花を騙すことになっちまったからさ。俺も父さんも母さんも、お前には申し訳ないことしたって思ってるんだよ」
「……騙すって?」
雪花は言葉に感情が乗らないよう、自然な流れを装って訊き返してみる。
「そりゃあお前、本当の親父とお袋ってのは、今いる父さんと母さんじゃなくて、実はずっと昔に交通事故で死んじまってるんだって話、みんなして言わずにいただろ? 親族みんなで決めたこととはいえ、何も知らない末っ子相手に酷なことしたなって、今でも時々、父さんや母さん、佐知子とかと話したりするんだよ」
雪花は動揺の欠片もない仕草で雲丹を頬張り、複雑になった内心を気取られまいとする。
本当のところ、うまい寿司と酒につられて隙が生まれ、健人がつい口を滑らせてくれるのではと期待していた。二十歳を迎えた妹と二人きりの食事の席で、一族が結託して隠し通してきた真実を、そろそろ頃合かもしれないと、打ち明けてくれるのではないか。この店に足を踏み入れた時から、そんな淡い予感を小さく育てていた。
しかし当の健人は、比較的強めの地酒をちびちびと嗜んでいるものの、そんな迂闊さは一切見せない。健人は佐知子と並ぶ酒豪であるし、飲みながらシリアスな話をすることに、仕事でもプライベートでも慣れきっているのだろう。どんな場面でも油断しないよう、常に脇を締める癖があるのか。もしくは、何があっても雪花にだけは話すまいと固く決めているのか。
「見せてやりたかったな。親父とお袋にも、成長したお前を。まあ、それは尋人にも言えることなんだが。もし二人が今も生きてたら、どんな風にお前らの成長を喜んだだろう。子を持つ身になるとさ、ふとそんなことを考えちまうんだ。特に雪花はついこの間、成人式があったろ? お前は知らないだろうけど、帰ってきたお前が振袖から着替えてる間、母さんが隠れて大号泣したらしい。親父とお袋にも見せてやりたかったと言って泣いて、雪花が出てくるまでに泣き止めって、みんなして必死に慰めたんだと」
知らなかった事実をさらりと打ち明けられて、雪花はひたすらカウンターパンチを食らい続けていた。だが、それを悟られたくない一心で、あえて明るい声を出してみる。
「健兄ちゃん、今日はやたらと感傷的だね。もしかして酔ってる?」
「ばーか、俺は飲んでも吞まれねえよ。ただ、こんな機会でもないと、お前とゆっくり話すことなんてまずないだろ? お前、実家には滅多に帰らなくなったからさ」
帆立を口に入れながら、誤魔化そうとするあまり、不要な地雷を踏んでしまったかもしれないと、雪花の胸が冷たくなる。そして案の定、健人の話は雪花が危惧していた方向へと流れ出した。
「お前がこっちの大学を受験するって言い出した時、兄ちゃんはそりゃあもうびっくりしたさ。俺と母さんがどれだけ説得しても、意固地になって変えようとしないし」
「別に、意固地にはなってないよ。行きたいところに行きたいと言ってただけで」
「でもさ、保護者としては思うわけだよ、他でもいいじゃんって。地元の何が悪いんだってさ。雪花はそれまで反抗期らしい反抗期がなかったから、もしかして遅れてやってきた反抗期じゃないかって、母さんは泣くし」
「そんな大袈裟な」
「いやいや、そうは見えなかったぞ。家出たい願望が強かったんじゃねえの? あの頃は。まあ、言わずとも分かるよ。人間誰しも、そういう時期はあるもんさ。俺にもあった」
分かりきった顔で健人にそう結論づけられ、雪花は己の答えを告げる隙を見失う。
「それにしても、帰ってこれる時はちゃんと帰ってこいよ。父さんと母さん以外はみんな働いてるんだし、お前がいちいちバイトなんかせずとも、長期休暇の間ぐらい養ってやれる。ていうか、そもそも何で帰ろうとしないわけ? 雪花は」
「別に帰ろうとしないわけじゃないよ。人聞き悪い、その言い方。それじゃあたしがまるで、お父さんやお母さんのことを嫌って家出したみたいじゃん」
「違うの?」
「違うよ。全然違う。あたしはただ、自立したかっただけ。それで、せっかくのモラトリアム期間に、地元以外のとこで生活してみたかっただけ。だってあたし、生まれてこの方、地元しか知らないもん。どうせなら地元の子とまず会わない環境で、一からやってみたいなって思っただけだよ。それ以上でもそれ以下でもないし、それ以外の他意も全然ないよ。なのにお母さんも健兄ちゃんも、全然信じてくれないから」
雪花は拗ねたように頬を小さく膨らませ、豆腐サラダを野菜からちまちま食べていく。しかし健人はそんな雪花の態度に構うことなく、
「そりゃあ、末娘がいきなり、大学は地方で下宿するなんて言い出したんだ。心配して当然だろうが。長期休暇に入ったら帰ってくるかと思ってたら、バイトだサークルだと言い訳作って、全然帰ってきやしねえし」
「言い訳って、それも人聞き悪い。せっかく時間あるんだから、自分のためにたっぷり使わなきゃもったいないでしょ。『千年雪』のバイトは栄養学やる上でも勉強になるし、星見の活動だって、遠方へのドライブとか旅行とか、長期休暇じゃないとできないじゃん。それを帰りたくないって思われるのは心外。自分自身の成長のために、今しかない時間を有効活用してるって言ってほしいな」
「じゃあ、帰ってこれるときは帰ってこい。そんな風に思われたくないなら尚更な。母さん、もしかしたらお前に嫌われたんじゃないかって気に病んでるよ」
「ええっ、何それ」
「可愛がってる末娘が、あれこれ理由があるとはいえ、休みの時期でもなかなか帰ってこないんだ。母さんは心配性が人より激しいとこはあるが、それも偏に愛情ゆえだ。学生時分は、社会人とは違う意味で忙しいのは俺も分かるが、たまには電話でもいい、母さんに構ってやってくれ。お前が元気な顔をちょっとでも見せてやれば、母さんの誤解も早く解ける」
雪花は豆腐サラダの小鉢を持ちながら、神妙な顔つきで健人の言葉を咀嚼する。気付けば健人の皿に残された寿司は残りあと二つで、まだ五つも残っている雪花とは大違いだ。しかし健人は急かすつもりがないらしく、相変わらず酒をじっくりと味わっている。雪花が終わるまでに、あともう一杯は飲むだろう。
「でもさ、今更こんなこと言うのも何だけど、じゃあ何で下宿するの許してくれたの?」
「家族会議の末だな、それは」
「家族会議?」
「雪花抜きでやった家族会議さ」
「何それ、知らない」
「そりゃそうだろ。お前いなかったし、お前には話さないでおこうって話だったし。まあでも、さすがに時効だろうからもういいか」
そう言って健人はくいと煽ると、
「今度はどれにしようかな。雪花、お勧めとかある?」
「そうだな……。あ、これとかどう? 前に先輩が飲んでて、きりっとして美味しいって言ってた」
雪花がそう言うなり、健人はその地酒を女将に熱燗で注文した。普段はビールを好んで飲む健人だが、今日は寿司に合わせてなのか、はたまた滅多に来られない地で摂る食事だからか、頼んでいるのは全てこの地方で有名な地酒だ。雪花も酒に強いほうではあるが、さすがに日本酒を三杯も飲んだら足腰が立たなくなる。酒について、健人や佐知子の域まで達する日はまだ遠いと、運ばれてきた地酒をうまそうに飲む彼を見ながら雪花は思った。
「受験と下宿、俺と母さんは絶対反対だったんだ。それはもう、何があっても崩れなかった。だけどお前を除く家族全員で集まった時、父さんがぽろっと言ったんだ、もし親父が生きてたとしたら、いったいどんな決断しただろうなって。今までも、俺や尋人や雪花のことで何かしら大事なことを決める機会ってあったんだよ。その時父さんや母さんはやっぱり、最後はそこに行き着いちまうんだ。もし親父とお袋が生きてたら、どう言うだろうねって。お袋はきっと心配してあれこれ言うだろうけど、親父はまず反対しないだろうなって。それの何がいけないんだ、行きたいなら行かせてやれって言う姿が目に浮かぶなって。雪花は覚えてないだろうけど、親父ってそういう人だったんだ」
雪花は胸が詰まりそうになるのを堪えながら、何気ない仕草を装って寿司を口に運ぶ。
「それで最終的には、雪花の意思を尊重してやろうってことになったわけ。知ってた? この話。尋人や佐知子から聞いてた?」
「ううん、全然。……今、初めて知った」
ほっけの握りを口に入れながら、雪花はぼんやりとした心地で思い巡らせる。
こんなにも実の両親の話を聞いたのはいつぶりだろう。実家では誰もが皆、禁句では決してないが、三兄妹の実の両親について語ることはまずなかった。今しがた健人が話してくれたように、雪花が知らないところではあったのかもしれないが、雪花自身は全く関知していないので知りようがない。それゆえの戸惑いもあって、再会してから随分と時間が流れてはいるが、雪花は健人の真意を未だ量りきれずにいた。
「珍しいね、健兄ちゃんがそんな話をあたしにするの」
「そうか?」
「そうだよ。他のみんなもそうだけど、今までパパとママの話なんて、こんな風に話したことなんてなかったじゃない?」
「もしかして嫌だったか?」
「そんなことないよ。嫌なんて思うわけない。そうじゃなくて、珍しいなってこと。健兄ちゃんがこうやってわざわざ来て、こんな豪華なお店でご飯食べようって言ってきたことにも驚いたけど。あたし、尋兄ちゃんやお姉ちゃんとでも、パパとママの話なんてしたことないよ」
「それはあれだ、お前が成長したからだよ。もうそろそろ自然に、実の親の話をしてもいい頃かなって思う年代に、お前がなってきたから。つまりは大人になったって意味だ。それで雪花、今お前は本当に彼氏いないのか?」
「は?」
いきなり話題が勢いよく変わったことに面食らって、雪花は最後の寿司を飲み込みかけた。お茶を少し含んで事なきを得るが、雪花は健人の真意がますます分からなくなる。
「健兄ちゃん、話題ころころ変わりすぎ。ついていけない」
「マジな話、どうなんだ。気になる先輩とか、言い寄ってくる同級生とかいないのか?」
「……もしいたら、どうするの?」
「今すぐそいつを、完膚なきまでに叩きのめす。……のは冗談として、まあ真面目な話、機会があればちゃんと紹介しろよ。そんで、こいつ変だなってちょっとでも思う奴とは付き合うな。怖い目に遭いそうなことがあったらすぐ連絡しろ。もしお前の好きな奴がいわくつきだったとして、たとえお前がどれだけ好きと言ったとしても、俺は絶対許してやらねえ。いいか、雪花。俺は、お前には幸せになってほしいんだ。死んじまった親父とお袋も、きっとそれを一番望んでる」
雪花が全部食べ終わってしまうまで、健人はそのペースに合わせるように、熱燗をちびちびと愉しんでいた。
健人と久しぶりに過ごした時間は、雪花が思っていたよりも濃密なものだった。正直なところ、健人が語る実の両親の話に気持ちを傾けすぎて、普段はまず食べる機会のない高級な寿司の味が、ぼんやりとしか残っていない。これまでにないほど美味だったことは覚えているが、その詳細を思い出そうとしたら、きっと健人の話まで一緒に蘇るだろう。そんな予感めいた印象も、記憶にくっきりと刻まれた気がする。
会計は全て健人が払ってくれた。雪花は、自分が飲んだ梅酒代ぐらいは払おうとしたが、健人はそれをやんわりと退けるなり、外へ出ているよう指示した。
言われたとおり雪花が店の外で待っていると、頬が若干赤くなった健人がコートを羽織りながら出てきた。
「健兄ちゃん、ご馳走さまでした。すっごい美味しかった」
「そんなこと言って、本当は食べ慣れてるんじゃないか?」
「まさか。学生がこんな高いお店、入れるわけないでしょ。ここに来てもう二年になるけど、お寿司なんて食べる機会まずないから。ていうか、板前さんが目の前で握ってくれるタイプのお寿司屋さんってこれが初めて。健兄ちゃんが言ってくれなかったらこんなお店、まず近付くことすらできないよ。だからありがとう。ご馳走さまでした」
「おう。そこまで言ってもらえたら、俺も奢った甲斐があるってもんだ」
目に入れても痛くない妹の言葉が、健人は嬉しくてたまらないようだ。酒が入っているのも勿論あるが、にやついた顔がさらに緩んで陽気なものになる。
二人は雪花のアパートがある方角へ並んで歩き出した。
「こっちの夜はマジで寒いな。これでマイナス何度だ?」
「真夜中になったらもっと下がるよ。これぐらいなら、まだあったかいほうじゃないかな」
「お前、こんな寒さの中でよく二年も生きてこれたな。しかも何だか、この地方の寒さを知り尽くしてるような言い方」
「そんなことないよ。まだ二年ちょっとしか、ここで過ごしてないもん。寒すぎるのは確かだけど、暖房器具や電気毛布、コートやブーツにマフラーや帽子、手袋やあったかい飲み物、食べ物があったらちゃんと暮らしていけるよ」
「逞しくなったなあ、雪花」
健人はどこか遠い眼差しをしながら感慨深げに言う。
駅前近くの大通りを歩いているが、夜九時を過ぎているからか人影はまばらだ。特に角を曲がって住宅街へ入ってしまえば、人っ子一人いない闇の道がずっと続いている。
「それにしても、人通りがマジで少ないな。ここ、駅近の範囲内だろ?」
「夜はどこもこんなもんだよ。駅前でもそう多いことないし」
「こりゃ若い女が一人で歩くには危険すぎるな。遅くなったら帰りはどうしてるんだ? ちゃんとタクシー使ってるのか?」
「使うわけないじゃん、高いのに。ちゃんと防犯ブザー持ってるから大丈夫」
「だが、それでも危険は危険だろ。地面も雪でしゃりしゃりいってるし。ていうかお前、よくこのシャーベットをすたすた歩けるな」
「冬靴履いてるからね。転ばない歩き方も、ここ育ちの友達に教えてもらって体得したし。でも転ぶ時は転ぶよ。健兄ちゃんのその靴、明らかにこっちの雪を舐めてるとしか思えない。もうちょっと滑りにくい靴を履いてこなきゃ」
雪花に合わせて歩きながらも、転ばないよう細心の注意を払っていると分かる健人は、ぼやくように「うるせえ」と吐き捨てた。
今日はまだ温かいほうだ。さりげなく歩調を健人に合わせながら、雪花は空を仰いでそう思う。雪が降っていないうちに帰れるのは僥倖だ。自分はともかく、この地の雪に全く慣れていない健人には、降らないほうが何かと都合がいいに決まっている。
アパートに着くと、街灯がやたらと眩しい闇が広がっていた。道路脇に固められた雪は完全に凍っていて、夜が濃くなるほど街灯の光を受けてきらきら瞬く。
「健兄ちゃん、今日はありがとう。いきなりでびっくりしたけど。今度はこんな土壇場じゃなくて、前もって連絡してから来てね。料理ぐらい作ってあげるから」
「じゃあ、次があったらそうするとしようか。お前もさっさと寝ろよ。風邪引くなよ。新学期入る前に、一度は帰ってこいよ。みんな待ってるから」
健人が何気なく放った最後の一言に、雪花はなぜだか泣きたくなった。油断しきった無防備な胸を、思いもかけない強さで突かれた気がしたのだ。それでも雪花はにっこりと笑い、健人に両手をひとしきり振ってからアパートに入る。
健人は雪花の部屋の電気が点くまで、見ていてくれるつもりらしい。雪花はアパートの入口扉に触れたところで、
「ねえ、健兄ちゃん」
「うん、どした?」
見送る姿勢の健人が軽く応じる。怪訝の色が全くない長兄を見て、雪花は手袋を嵌めた片方の拳をきゅっと握った。
今日ついに健人は言わなかったが、本当はもう既に知っている。そう雪花が話したら、健人はどんな顔をするだろう。実の両親の死は、交通事故では決してなく、悪意を持った他人が起こした殺人だった。そのことを、誰に教えられるでもなく知っていると明かしたら、笑って次の言葉を待つ健人は何と言うだろう。
喉元までせり上がった言葉を、雪花は渾身の力で押し戻した。
「お休みなさい、健兄ちゃん。ホテルまで気を付けていってね。お仕事頑張ってね」
「ああ、お前もさっさと部屋入れ。凍え死ぬぞ」
「もうっ。本当、健兄ちゃんは大袈裟だなあ」
雪花はもう一度笑って両手を振ると、アパートの入口扉を開けて、ぱたぱたと自室に戻っていった。
玄関で靴を脱いで電気を点け、コートを脱ぐ前に暖房器具のスイッチを入れる。そして窓のカーテンを少し開けると、雪花は下にいる健人に向かってピースサインを送り、安心して去っていくその背が見えなくなるまで覗いていた。
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