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 ダイヤモンドダストを一緒に見ないか?

 そんな電話がかかってきた次の日の夜遅く、雪花は駅前で亮と会う約束をした。

 セーターとダウンコートを着込み、カフェオレを淹れた魔法瓶が入ったリュックサックを背負い、音のない雪が降りしきる闇を歩いて待ち合わせ場所へ向かう。

 夜の十一時を過ぎているからか、周辺の家々の灯りは数えるほどしかなく、雪を踏み締めて歩くブーツの靴音がやたらと粗雑に響いた。

 約束の時間より少し早く駅前に着くと、タクシー以外に止まっている車は一台しかなかった。夜に溶ける群青色の車の運転席で、雪花の姿を見つけた亮が軽く手を振る。雪花はすぐに気付いて、手を振りながらその車に近付いた。

 雪花はノックしてから助手席の扉を開き、コートやリュックサックについた雪を払って乗り込む。

「ごめんね、待たせちゃった?」

「いや、今来たとこ。急がないからゆっくりしなよ」

 雪花は脱いだコートとリュックサックを膝に置き、毛糸の帽子を取ってシートベルトを締める。

 雪花が落ち着いたのを見ると、亮は車をゆっくりと発進させた。車内の程よい暖気に包まれて、それまで氷点下を何度も下回った夜道を歩いていた体が解れていく。

 アスファルトを駆けるタイヤの走行音が、静寂を破って二人の間に横たわる。雪花はリュックサックを抱き締めるようにしながら、隣の亮をさりげなく盗み見た。亮は細い目でフロントガラスを睨み、右手だけでハンドルを操っている。その動作は実に手慣れていた。

 亮は視線に気付いて唇の端に笑みを宿し、片方の瞳だけを動かして雪花に応えた。

「どうした?」

 その言葉で、雪花は亮に見惚れていた自分に気付く。我に返った瞬間、気恥ずかしさにかっと頬が熱くなった。

「いや、何でも。すごい慣れてるなと思って」

「そりゃあマイカーだしね。何年も運転してれば慣れもするさ」

「これ、亮の車なの? すごいね、かっこいい」

「免許取ってすぐにもらった。かれこれ五年以上は経つかな」

「へえ、いい車だね。綺麗だし乗り心地いいし、それに何だか高そう」

「さあ、そこはどうだろう。値段は知らないけど、やっぱそれなりにするんじゃないかな。まあ、免許も車の名義も偽造だけどね」

 明らかに違法な秘密を、亮は事もなげにさらりと語る。それがあまりに自然すぎて、雪花はうまく言葉を返せなかった。

 車は大通りを軽やかに走り、高速道路のジャンクションがある方向を目指す。片手でハンドルを器用に操り、一般道を高速並みの速度で走る亮はよほど乗り慣れているらしい。路肩に雪が寄せられている道を通る時でも、速度を緩めることなく滑らかに駆け抜ける。雪花も運転免許は持っているが、雪深い冬にこの地で運転する技術や勇気はとてもない。そんな思いがあるからか、雪花は亮の運転技術に感嘆していた。初めて乗った車の助手席なのに、緊張や怖さを不思議なくらい感じない。

 カーステレオからロックの洋楽が流れている。それは車の走行音に掻き消されるぐらい低く、激しいギター音が被さっているせいもあって、雪花には歌詞が聞き取れなかった。

「ごめんな、いきなり電話して。びっくりしたろ」

「ううん」

「しかもこんな夜中に。眠くない? 明日の予定とか大丈夫?」

「平気だよ。明日は特に何もないの。学校も休みだし、バイトも休み」

 雪花は小さな嘘を努めて自然についてみる。明日は平日なので、本当なら『千年雪』でのバイトがあった。しかし亮から電話を受けた翌朝、熱を出したので休ませてほしいと連絡したのだ。無論、熱というのは仮病だ。だが、電話口での雪花のわざとらしい咳を本物と信じ込んだ奈穂子は、欠勤を二つ返事で許してくれた上に、心からの見舞いの言葉をかけてくれた。

 それは雪花にとって、亮に打ち明けるまでもない出来事だ。普段あらゆることを繕うのに慣れきっているせいか、嘘をついても胸がさほど痛まない自分がいる。尤もそんな自嘲も、亮の隣にいる今はあっさりと消えていた。

「眠かったら寝てていいよ。着いたら声かけるから」

「大丈夫、たっぷりお昼寝したから。それより、ありがとね」

「何が?」

「連絡くれて。嬉しかった。本当はずっと待ってたけど、なかなかかかってこないから、もしかしたら二度とくれないんじゃないかって、実はちょっと怖かった」

「うん、正直言うと躊躇ってた」

「でも、かけてくれたね。ありがとう」

 雪花が笑うと、ミラーに映る亮の眼差しが柔らかくなる。

「本当言うとね、ちょっと意外だった。ドライブに誘ってもらえるなんて想像してなかったから。しかもダイヤモンドダスト」

 ダイヤモンドダスト。その言葉を電話の向こうで告げられた時、雪花は少し意外に思った。雪深い地でしか見られない気象現象。氷点下十度以下で無風など、様々な条件が全て揃って初めて発生する自然の奇跡。雪花もこの地へ来て二年になるが、目にした経験はまだない。そんな夢と同義語のような言葉が亮から出たことに、雪花は少し面食らったのだ。

「肌が痛いほど寒い土地では、時折そういう景色が見られるんだって何かで読んで、見れるものなら見ておきたいなって思ったんだ。雪花は見たことある? ダイヤモンドダスト」

「ううん、まだ一度も。でもあれ、日の出ぐらいに見られる現象って聞いたことあるよ?」

「ネットには確かにそう載ってたけど、さすがに日の出まで付き合わせるわけにいかないからさ。でも、真夜中に見るダイヤモンドダストもすごく綺麗らしいから、そっちのほうが俺としては俄然興味を惹かれる」

 車は建物が建ち並ぶ町中を抜け、南北に縦断する高速道路に乗る。真夜中のそこは閑散としていて、他に走っているといえば大型トラックぐらいだ。

 亮は合流地点を過ぎるなり、アクセルを踏み込んで一気に加速した。路面凍結していないとはいえ、亮は一般道の時と変わらず片手運転のまま、走行速度はみるみるうちに一二〇キロまで達する。

「そんなにびびらなくて大丈夫だよ。一見飛ばしてるように見えるけど、安全運転はちゃんと心がけてる。事故ることは一〇〇パーセントないから安心して。何だったら賭けたっていいぜ」

「別に疑ってないよ。ただ、ちょっとびっくりしただけ。雪国の高速で、ここまで飛ばす車なんて初めて乗った」

「そう? 俺、高速走る時は本州でもこっちでも、同じ感じで飛ばすよ」

「昼間なら分かるけど、今は真夜中でしょ。亮ってば度胸ありすぎ。運転にすごい慣れてるんだね。雪道も難なく走ってるし、いったいいつからこの町にいるの? そんな長い間いるわけじゃないんでしょう?」

 前を見据えたまま気さくに応じていた亮から、一瞬だけすっと笑みが立ち消える。

「俺のことはいいから、雪花のことを話してよ」

「あたしのこと? あたしのことなんて、別に面白い話は全然ないよ」

「いいじゃん。俺が聞きたいの。じゃあ、話すことないなら訊いていい? 雪花の家族ってどんな人たち?」

「いきなり、びっくりするぐらい唐突だね。びっくりしすぎて、つい笑っちゃったよ」

「そう? まあいいじゃん、時間はたっぷりあるんだから。五年間話せなかった分、俺が知らない雪花のことを聞かせてよ」

「でも、それを言うなら、あたしは亮のことを聞きたいな。会ってなかった五年間以上に、あたしは亮のことをほんの少ししか知らないもの。そっちから聞かせてくれたっていいでしょう?」

「だめだよ、俺の話は雪花の後。楽しみは後に取っとかないと、楽しくないだろ?」

「何それ。そんなこと言って、はぐらかすつもりじゃないでしょうね」

「そんなつもりないよ。でも今は雪花が先。いいだろ? 聞かせてよ、雪花の話。雪花の家はさ、どんな感じなの?」

 雪花は苦笑いが消えない脳裏で考える。こうやってストレートに問われると、何からどう話していいのか分からず、言葉の迷子になった気分になる。

「さっきも言ったけど、本当に面白い話なんて全然ないよ。どこにでもある普通の家……とは言えないか。あたしは別にそこまで感じてないけど、傍から見たら一風変わってるらしいから」

「というと?」

「たとえば仕事とか。うちはいわゆる自営業だけど、まず業種が変わってる。調査事務所なんてかっこいい名前してるけど、要は探偵だから。浮気とか不倫調査とか、企業の内偵とか要人警護とか、その他諸々いろんな仕事してるらしいの。あたしはそこまで詳しく教えてもらってないけど、時には警察と仕事することもあるみたい。でも、周りにぺらぺら喋っちゃだめって言われてるから、こんな話はそうそうしないけど」

「確かに機密情報多くて言えないよな。明かせば刺客が来るだろうし」

「そう、そんな感じ。だからあたしも滅多なこと言えないの」

「でも面白い家柄だとは思うよ、一癖も二癖もある感じで。何人家族だっけ?」

「基本は六人かな。お父さん、お母さん、健兄ちゃん、お姉ちゃん、尋兄ちゃん」

「基本?」

「そう。あたしが高等部に上がった年の夏に、一番上の健兄ちゃんが結婚したの。それで、今は地元の駅近くのマンションに住んでる。子供もいるんだよ。三歳の女の子と、もうすぐ一歳になる双子の男の子。奥さんのふうちゃんは婦警さんで、結婚退職して今は専業主婦してる。のほほんまったり和み系のお姉さんで、あたしにも優しくしてくれるの」

「二番目の兄貴は結婚してるの?」

「うん。尋兄ちゃんは去年の春、大学卒業と同時に入籍してね。奥さんはあおいっていうんだけど、尋兄ちゃんの高校時代からの彼女で、中等部時代のあたしの友達でもあるの。あおいは結構複雑な家の子でね、あたしが高等部に上がる前に身寄りがなくなっちゃって、うちで面倒を見ることになったの。それであおいは学校を退学して、お姉ちゃんの助手になるために二年間アメリカで修業して、今は事務所で働いてる。留学中も尋兄ちゃんとは続いてたみたいで、尋兄ちゃんが大学卒業してうちの事務所に入って、お姉ちゃんの片腕として調査員修業を始めた頃に結婚したの」

「気まずくないの? 友達が兄貴の嫁って」

「全然。短い間だったけどクラスも一緒だったし、あたしは友達だと思ってるから意外と平気。尋兄ちゃん夫婦は、健兄ちゃん一家と違ってうちに住んでるの。いわゆる二世帯ってやつ。あおいは今妊娠八ヶ月でね、春ぐらいに生まれる予定だから、我が家はその話題で持ちきり。あたしも楽しみなんだ、新しい甥っ子もしくは姪っ子の誕生」

「ふうん」

 さらりと何気ないのに、なぜか深い安堵によく似た相槌だった。雪花は少し不思議に思って亮を見る。その視線に気付いた亮は一瞬だけ小さく笑うと、

「姉貴はどうしてるの? あの肝っ玉据わった、迫力ある姉ちゃん」

 亮の的確すぎる表現に、雪花はつい笑ってしまう。

「元気に独身貴族やってるよ。尋兄ちゃんとあおいが結婚したからか、健兄ちゃんよりちょっと豪華なマンション買って、リーベと一緒に優雅な一人暮らしを満喫してる」

「リーベ?」

「うちね、マルチーズのわんこがいるの。十歳近いんだけど、お姉ちゃんに一番懐いてたから、お姉ちゃんが一緒に連れていっちゃった。まあでも、うちには他にあおいが連れてきた猫の向日葵ちゃんがいるから、家からペットがいなくなったわけじゃないけどね」

「じゃあ今、雪花の家にいるのは、親と二番目の兄貴夫婦と雪花?」

「うん。五年の間に変わったとこはあるけど、家族はみんな仲良いよ。お兄ちゃんのお嫁さんたちとも気さくに喋るし、甥っ子姪っ子は可愛いし、春に生まれるあおいの赤ちゃんも楽しみだし。それに家族が増えても、あたしの部屋はまだ実家にちゃんとあるしね」

 嬉しげに笑って話す雪花に、亮もつられて頬を緩ませる。だが、その後に零れた小さな小さな吐息が、明るい色をした雪花の声を僅かに翳らせた。

「でも時々、なぜだか自分でも分かんないけど、家族を見てると心が寒くなるんだ。お正月とかお盆で帰省して、みんなで集まってわいわいしてても、あたしだけ胸に隙間風が吹くの。それだけはね、高校時代からずっと変わらない」

 音楽が一周して、落ち合った頃にかかっていた曲がもう一度流れた。亮は視線を前に据えたまま、空いた左手で素早くディスクを入れ替える。再生されたのは、先程よりもやや落ち着いたギターサウンドの洋楽のロックだ。

 雪花は車窓に少しだけ凭れかかる。視界の端を、夜の闇と積み上げられた雪の白が掠め続けた。

「家族で仲良く暮らしながら、でもずっと思ってたの。あたしたち兄妹は、杉原の家の本当の子供じゃない。あたしと血が繋がった実の家族は、今となっては二人だけ。十三歳上の健兄ちゃんと、三歳上の尋兄ちゃん。お姉ちゃんのことはお姉ちゃんって呼んでるけど、少なくともあたしは、姉じゃなくて従姉って意味で呼んでるの。実の親が死んじゃった後、あたしたちを引き取ってくれた今の両親は、戸籍上も現実的にも確かに父と母だけど、それとは別に生みの親がいるんだって意識はどうしたって消せない」

「それが苦しい?」

 雪花は首を横に振る。亮の言葉はとてもシンプルに、そして的確に雪花の核心まで突き刺さった。それなのに、見抜かれていることを少しも不快に感じない。

 雪花は少ししてから首を振って、否定したことを否定した。

「……うん、苦しい。正直、とっても」

 そう口にした瞬間、雪花の最奥で小石みたく凝っていた何かが形を崩した。そのとろりとした感触に、雪花の眦にじわりと涙が滲みかける。

 もしかしたらずっと、こんな瞬間が来るのを待っていたのかもしれない。そう初めて気付いた時、心の奥で言葉がするすると解けていった。

「高校生になってからかな。親やお姉ちゃんと話す度に、ずっと考えてたことがあったの。この人たちはどうして、実の子でもない子供と養子縁組したり、自分たちが住んでる家の中に入れたり、生活費や学費、お小遣いまで面倒を見てくれて、間違ったことをしたら叱って、帰りが遅くなったら心配して、具合が悪かったら病院へ連れていってくれるんだろうって。普通そこまでしないというか、できないよね。親戚といっても、実際に血が繋がってるわけでもないのにさ。たとえ甥っ子姪っ子だったとしても、そこまで無償の愛を注げるのかな。心ある人なら当たり前のことかもしれないけど、あたしには想像できないっていうか、全然分からなかった。とにかくそんな感じである日突然、特別なきっかけなんてなかったけど、何でだろうってふと思っちゃったの。そしたら止まらなくなった」

 そこまで吐き出して、雪花は己を心底侮蔑した。

「すごく失礼な話よね。今までずっと、こんなに良くしてもらってるのに。最低だよね。親やお姉ちゃんの優しさを疑って、それって実は同情なんじゃないとか、家族ごっこみたいとか考えちゃって。こんな感傷は本当に最悪、くだらないなって思った。でも、そこまで分かってるはずなのに、気持ちはずっと隙間風が吹いたまま止まないの。それが時々、ものすごくつらくて苦しい」

 群青色のカローラは、車の影がまばらにしかない高速道路を猛スピードで飛ばす。この地の道路は一般道でも高速でもカーブが本当に少なく、一本道がひたすら続いてばかりなので、どの車も明らかに制限速度をオーバーして走っていく。それはもはや、ドライバーたちの暗黙の了解らしいと、雪花はここへ移り住んでから間もなくして学んだ。亮もそれに漏れず、車外に広大すぎる雪原が延々と続く高速道路を、制限速度を二十キロ以上はオーバーしながら飛ばす。

「感傷って何?」

 ストレートに問われ、雪花は口にすべきか一瞬迷う。だが、それはすぐに消えてしまった。雪花は窓に凭れるのをやめて、

「お兄ちゃんたちはいいよ、物心がしっかりついてる年齢で親が死んだから。でもあたしは違う。あたしは親のこと、全然覚えてない。顔も声も肌の温かさも、記憶には何一つ残ってないの。写真を見ても、こんな顔してたのかって思うことはあるけど、現実として思い起こすのは無理。あたしにとっての記憶にある両親は今の養父母。あの二人が本当の親じゃなかったって知った時、大袈裟じゃなく、今まで信じてた全部が音を立てて崩れた気がした。それが未だに、許せないっていうのじゃないけど、全然納得いかないの」

 雪花にしては珍しく、やさぐれた響きになった。まるで拗ねた子供みたいな言い分だ。仲間外れにされていじけている幼子と、本質的にはそう大差ないだろう。だけど、そう理解したところでそれが消えることはなく、胸に膿んだしこりは今も膨らみ続けて存在を主張する。

「親がどんな人たちかを知った上で亡くすのと、目の前にいる人たちが親だと思ってたけど実は違ってました、本当はずっと昔に死んでましたって知らされるのと、悲しいのは同じでも、重みが全然違う気がするの。健兄ちゃんも尋兄ちゃんも、親を殺されたことでいっぱい苦労したと思う。だけどきっと二人とも、あたしの根本的な気持ちは理解しきれない。……お兄ちゃんたちね、時々ぽろっと話してくれるの。亡くなった親は素晴らしい警察官だった、とても優しくて強い人たちだったって。でもね、言わないけどね、そんなこと言われたって反応に困る。だってあたし、二人のことを全然知らないし、少しも覚えてないんだもん」

 フロントガラスを睨みながら運転する亮は、雪花の言葉に耳を傾けているだけだ。相槌を打つことも、途中で言葉を挟むこともない。しかしその沈黙には、雪花の言葉がどんなものでも受け止めるという揺るぎなさがあった。

 痛みや棘を多く孕んだ告白を、これほど静かに受け止めてくれる人を他に知らない。この五年の間で育っていた、亮ならきっと聞いてくれるという安心感が、打ち明け話に慣れていない雪花に巣食う膿を甘く刺激する。

 ずっと溜め込んだまま、一度も口にしなかった思いを吐き出すと、胸が痛む以上に喉が渇いて仕方なかった。

「亮、喉乾いてない? あたし、あったかいカフェオレ作ってきたんだけど、よかったら飲む?」

「いや、今はいいかな。着いた後にもらうよ」

 雪花はリュックサックから魔法瓶を出すと、コップに少しだけカフェオレを注いだ。甘い香りとともに立ち上る湯気に、強張っていた口元が思わず綻ぶ。

「全部が全部じゃ勿論ないけど、でも少しは分かる気がするな、雪花の気持ち」

 おもむろに届いた言葉に顔を上げて、雪花はカフェオレを含んだまま亮の横顔を見る。

「俺にも親はいない。顔と名前は知ってるけど、記憶にはぼんやりとしか残ってないんだ」

「そう、なんだ……」

「やっぱり喉乾いたな。カフェオレもらえる? 少しでいいから」

 目を瞬かせていた雪花ははっと我に返り、コップにカフェオレを注いで亮に差し出した。亮は左手で受け取ると、くいと一気に飲み干してしまう。

「ああ。いいね、あったかい飲み物。ちょっと甘すぎる気がしないでもないけど」

 そう言いながらも、実にうまそうな顔で亮はコップを返してくる。それを受け取った雪花は、続きを問うていいのかどうか分からずにいた。

 しかし、ざわりと波立った胸中を鎮めるためにさりげなく深呼吸すると、思い切って彼の深みに触れる決意をする。

「……ご両親、どうして亡くなったの?」

「組織の抗争に巻き込まれて殺された」

「組織って、いわゆるその、闇組織ってやつ……?」

「そう。俺の父親も暗殺者だったんだ」

 さらりと返された言葉に、雪花は今度こそ継ぐべき言葉を見失う。しかし亮は何の感傷も滲まない、からりとした面持ちでその先を紡いだ。

「詳細は知らない。教えてもらったのは、抗争の果てに死んだという事実と、殺した奴の名前だけ」

「殺した奴……?」

「言ったろ? 殺されたんだよ、両親は。その組織のトップにさ」

 熱も揺らぎもない簡素な言葉が繰り返される。雪花はロックの洋楽と高速道路を駆ける走行音が支配する空間が、色と音を失くした無の暗がりへ転じていく錯覚に陥った。

「俺が五歳の時だった。雪花ほど幼くはないけど、それでもガキはガキだよな。親を殺されたばかりだった俺は、そいつを殺してやると息巻いた。そいつを殺すためなら何だってやる、それを生きる理由にすると、俺は育ての親に宣言したんだと」

「育ての親?」

「いたんだ、俺にもそういうのが。その人は俺の育ての親であり、仕事の上司であり、暗殺術を教えてくれた師匠でもあった。その人は俺の望みを叶えるために、上にうまいこと掛け合って、ガキだった俺を組織に入れてくれた。そして、それからのバックアップも全部引き受けてくれた。組織の重鎮として汚れ仕事をこなしながら、トップの寝首を掻く機会を狙ってる俺に、スパイみたくいろいろ情報を寄越してくれた。戸籍も義務教育も運転免許も、その他あらゆる場面で必要となる偽の名義を用意してくれたのもその人だ。おかげで俺は今までこの国の人間として生きてこれたし、闇社会の住人として食っていけるだけの腕と人脈と知恵を手に入れた」

 亮は日常にある当然の常識を語るような軽さで話す。しかし雪花は、とても彼のようには笑えなかった。

「悩む雪花に言うことじゃないかもしれないけど、俺は雪花がちょっとだけ羨ましい。雪花みたいな純粋さが、俺にはまるでなかったから」

「純粋? あたしが?」

「俺から見ればの話だよ。俺は親が死んだことを、悲しいとは思わなかった。悲しいと思うことを知らなかったと言ったほうがいいかな。それより俺は、親の死を生きる理由にした。親の仇を取ることを生きる目標にする。いわば、自分が生きるために親の死を利用したんだ」

「そんな」

 思わず声を上げた雪花を、亮はほんの少し視線を寄越して制する。

「自分を卑下してるんじゃないさ。これは真実。嘘偽りない俺の本心だ。怒りはない。憎しみとも違う。親を殺されたと知った時、じゃあそいつを俺が殺してやるよ、真っ先にそう思った。短絡的だけど、ガキだった俺にはそれしか浮かばなかった。今となっては、それを一瞬たりとも後悔することなくここまで来てる」

 亮はそう言うと、それまでとは打って変わった明るさで話題を変えた。

「それでまあ、雪花は家出のつもりでこっちへ来たわけだ」

「うん、そうだね。そういう感じ」

「でも、だからって何でわざわざこんな北の果てに? 家出先なら、遠方でももっと他に候補があっただろうに」

 そう訊かれた時、雪花の脳裏に浮かんだのは優雄のことだった。知り合って以来ずっと、事あるごとに雪花の本心を突いてくる同級生。もし優雄が亮と同じことを訊いてきたなら、雪花はたちまち気分を害していただろう。荒ぶる感情に動かされるまま、二度と口を利かないとさえ言い放つかもしれない。

 その次に浮かんだのは奈穂子の顔だった。アルバイトに出掛ける度、雪花を何かと気にかけてくれる『千年雪』の店長夫人。彼女の言葉はいつも慈愛に満ちていて、負の感情など簡単に吹き飛ばす強さがある。いつも気さくな笑顔を絶やさない奈穂子はきっと、その朗らかさが時に雪花を陰で傷つけているとは、想像だにしていないだろう。

 他人が訊いてきたら怒りすら覚えそうな質問でも、亮にだけはそんな気が全く起こらなかった。むしろ、どこかほっと受け止めている自分がいる。

「本当言うとね、場所はどこでもよかったの。N谷に来た理由はただ一つ、高等部の修学旅行で来た時、綺麗な町だなと思って気に入っちゃったから。その気に入った町に国立大があって、興味ある学科もあって、模試でも合格圏内の判定をもらえたから。だから、ここで大学生活を送ることにしたの」

「専攻は何? 入った学科」

「健康科学部食物栄養学科。管理栄養士を目指す課程なの。卒業と同時に、管理栄養士の国家試験受験資格が得られる」

「へえ、栄養学か。ちょっと意外」

「意外?」

「てっきり文系だと思ってた。文学とか、英語科とか。俺の勝手なイメージだけど、雪花の雰囲気は文系のほうがしっくりくる」

「それ、時々言われる。でも実は理系なんだ。文系はむしろ苦手。昔から国語とか社会より、理科や数学のほうが点数よかったの。他の家族はみんな文系なのに、あたしだけ数字に強くて」

「いい意味でイメージ裏切られたよ。それで、何でまた栄養学にしたの? 理系って他にも分野いろいろありそうだけど」

「それも特に深い理由はないの。このご時世、学歴や資格がものを言う場面が結構出てくるだろうなと思って。それで、どうせ取るなら国家資格がいいなとか、医療系の国家資格のほうが就職先いっぱいありそうだなとか、四年間がっつり勉強するならそれなりの目標がほしいなとか、いろいろ考えた末に、栄養学って面白いかもって思ったの」

「インスピレーション?」

「うん、そんな感じ。料理は嫌いじゃないし、幸いにも理数系は得意だから、単に料理だけを極めるより、学びながら考えながら、計算しながら作るのって面白いかもと思ったの。それに何より、一生使える国家資格。これっていろんな面で無敵でしょ」

「家族には反対されなかった? 栄養科のある大学なんて、他に山ほどあるだろって」

「言われた。さんざん言われた。だけど押し通した。半ば意地かな。意地より意固地かな、正しいのは。お母さんには泣かれるし、健兄ちゃんには懇々と説教みたいな説得されるし、進路問題が出てからの高校生活は、家の中がそりゃあもうぐちゃぐちゃになって大変だったけど、最後は意地を貫き通した。自分ってこんなに頑固だったんだって驚くぐらい、意地で決めて意地で勉強して意地で受かった」

「要は守ったわけだ、雪花はそうやって自分を。というより、家族を」

 何気なく放たれた言葉に、雪花は息も忘れるぐらい胸を突かれた。言葉を尽くさずとも、こんなにも簡単に気持ちが伝わった。その静かな喜びが慰めみたく雪花を満たす。

「うん……そうだね。うん」

 消え入るような声で俯く雪花に、亮はやや驚いた気配を見せる。しかし深く問うことはせず、漆黒のフロントガラスに視線を定めたまま運転を続ける。

 走行音と、ところどころ掻き消されながらも流れるロックだけが二人を包む。ざらりとした手触りの沈黙が、雪花には何よりも安心できる寄る辺に思えた。

 不思議だ。多くを語らずとも、自分をこんなにも理解してくれる人がいる。たった数度しか会っていないのに、家族や友達とは違う種類の近しさを感じる。

 五年前に初めて出会った亮は、今とは逆の印象だった。危ないところを助けられたというのに、雪花は彼の仕草の一つ一つに本能的に怯んだ。それからすぐに再会した時には、遠慮会釈なく放たれた言葉に深く傷ついたりもした。

 だが亮は、泣き止まない雪花に戸惑いながらも、立ち去ることはせずに本音をじっくり聞いてくれた。あの暮れなずむ空の下で、彼がくれた言葉とその掌の温もりに、雪花は生まれて初めて救われたのだ。

 年単位の時を経て再会した今、亮の言葉はどれも以前より深く心に触れる。こうして隣にいるだけで、恐れるものなど何もないと強く思える。

 それなのになぜだろう。こんなにも満ち足りているはずなのに、雪花は先程からずっと思い切り泣きたくてたまらなかった。

 車窓の外には、純白に覆い隠された牧場や草原が際限なく続いている。時速一二〇キロ以上で走りながら遠目に眺めるそれは、永遠の具現化を視界の端で捉えているような、得体の知れない感覚の連続である気がした。

 車は二時間近く走った高速道路を下りて、路肩に壁みたく固められた雪が伸びる一般道を走る。それまで二人の間を支配していた、穏やかだがどこか硬質な沈黙を、亮のほうが破ってくれた。

「停まろうか」

 その言葉に顔を上げて、雪花は車窓から周囲を窺った。そこは周辺に建物が一つもない一本道で、左右には見渡すかぎりの銀世界が腕を広げていた。亮はゆっくりと車を減速させ、路肩にそびえ立つ凍った巨木の隣に停める。

 雪花は亮に倣って車を降りた。途端に痛いほどの冷気が頬を刺し、温かな空間に慣れきった全身から一瞬で熱が奪われる。思わずぶるりと身震いした雪花は、すぐさま帽子や耳当て、手袋やマフラーといった防寒具を整えて肌を隠した。今のところ雪は舞っていないが、ここは都市部であるN谷より明らかに十度は低い。防寒を少しでも怠ったら、もれなく風邪を引きそうだ。

「少し歩こうか」

 キャラメル色の厚い手袋を嵌めた雪花の手を、黒の革手袋をした亮がしっかりと握って歩き出す。

「車、大丈夫?」

「大丈夫。雪降ってないし、樹氷の下でも埋もれることはまずないよ」

 音も風も、足跡も動物の気配もない二車線の道を、雪花と亮は歩幅を揃えて進んでいく。

 雪を踏み締める音だけが規則的に繰り返される、氷点下十五度を確実に下回る闇には、二人の白く濁った吐息の色が何度も生まれては消えていった。

 灯り一つない暗黒に目が慣れると、雪原の白がゆらりと立ち昇るように見えてくる。それは幻を思わせるほの明るさで雪花の瞳に映り、白々と網膜に焼きつく感覚が脳を占める。

 言葉も忘れてしまいそうだ。歩を進めるごとに、二人して夜の深みへ吸い込まれていく錯覚に浸る。誰かと過ごす真夜中は随分と久しぶりなのに、当惑めいたぎこちなさは不思議とない。

 深い雪道を転ばないよう気を配りながら歩き、それまでの移動距離や時間をすっかり忘れかけた頃、二人は先程よりもさらに大きな木の下に辿り着いた。高さはそれほどないのに、どっしりと太くたくましいその木は、傘みたく広がる枝の先まで固く凍りついている。

 ようやっと足を止めた時、思いの外息が上がっていた。雪花は弾む胸を整えながら、樹氷越しに覗く空を仰ぐ。闇夜でもはっきりと浮き上がる白さで凍る枝を照らす光はなく、その向こうにあるはずの星の瞬きを探しては、途方もない心地に襲われて胸が詰まった。

 雪花は隣に立つ亮の横顔をそっと窺う。雪花と同じ距離を歩いたはずの亮だが、その呼吸は少しも乱れておらず、漆黒に溶ける銀世界を無言のまま見晴るかしていた。

 そして、彼は繋いでいた手をさりげなく離すと、口に軽くくわえた煙草に古めかしいジッポで火を点ける。互いの吐息だけが埋める静寂を低く掠れた着火音が裂き、橙の炎が一秒にも満たない短さで揺らめいては消えた。

 赤く燃えた煙草の先端から、灰色の煙が一筋昇る。紫煙は夜を薄く汚しながら、呑まれるように溶けていく。その軌跡を黙したまま見つめる亮は、たっぷりと時間をかけて煙を吸い、そして同じぐらいゆったりと濁った息を吐き出した。

 味わうでもなく、愉しむでもなく、生まれつきの癖みたく煙草を吸う亮を見つめ、雪花は時の流れがもたらした変化を改めて感じる。亮がいつから煙草を吸い始めたのか、雪花は知らない。出会った五年前は未成年だったが、もしかしたら既に味を覚えていたかもしれない。

 亮は右手の指で器用に煙草を挟み、その紫煙を深々と吐く。睫毛に触れる風もないから、徐々に脆くなっていく灰は散らずに崩れて落下する。落ちた灰の塊は雪にごくごく小さな穴を開けるも、目にも留まらぬ速さでその白と同化して形を失った。

 真夜中に唯一の導を灯すように、時折じわりと光る煙草の火の赤を、雪花は目と脳にきつく焼きつけた。紫煙は細くまっすぐ立ち昇りながら、その先端と彼の唇の距離を遅くとも確実に狭めていく。

「ねえ。煙草、吸っていい?」

 それまでただ煙草を無言で吹かし、遠い闇を見晴るかしていた亮の表情に驚きが浮かぶ。しかし雪花はいたって真面目に乞うてみた。

「その煙草、あたしにもちょうだい」

 亮は呆気にとられた瞳で雪花を見下ろす。だが瞬き一つで我を取り戻すと、亮はその願いを軽く笑い飛ばした。

「やめときな。そんないいもんじゃないぞ。第一、雪花には似合わない」

「何で?」

「何でも。とにかくやめとけ。吸ったら肺の中どころか、全身真っ黒になっちまう」

「何それ。ちょっと吸ってみるだけじゃない。なのにまるで、それだけで汚れちゃうみたいな言い方」

「汚れるぞ、すぐに。それで汚れきっちまうぞ、俺みたく真っ黒に」

「……汚れちゃだめなの?」

「だめだろ、そんなの」

「……たかが煙草じゃない」

「たかが煙草、されど煙草。肺に一回汚れがついたら、癖になって抜けなくなる。嫌だろ? そんなの」

 雪花はぷうと頬を膨らませて抗議した。だが、亮はそれも小さく笑って受け流すと、再び煙草をくわえ直して深々と吸う。

 雪花は何だか納得のいかない顔のまま隣に佇み、彼が口端にくわえて外さない煙草の味を想像してみる。

 苦いのはきっと間違いない。だけど、それはどれぐらいのものだろう。咳き込むほどか。喉の奥が気持ち悪くなるぐらいか。それとも、喉元を過ぎれば違和感も消え、苦さも一つの味だと思えたりするのだろうか。

 煙草を吸うために離された亮の手を、今度は雪花からそっと握る。そして、その感触にふいと視線を返す亮の瞳をまっすぐに見上げて、

「いいよ、汚れたって。そんなの全然怖くない。たとえば亮の中にびっくりするぐらい真っ黒な肺があっても、あたしは目を逸らしたりしないよ」

 亮はきょとんとしていたが、すぐおかしそうに頬を綻ばせる。真剣な思いを笑い飛ばされて、雪花は今度こそ本気で不機嫌になった。

「ひどい。軽口で言ったとでも思ってるの」

「ごめん。違うよ、そうじゃない」

 感情を露わに抗議する雪花を宥める亮の唇は、相変わらず面白げに歪んだままだ。雪花はますます怒って声を上げようとしたが、帽子を目深に被った頭上に彼の掌が載り、ぽんぽんと柔らかな感触で制される。

「怒らせたならごめん」

「じゃあ何。何で笑ったの。別に笑うとこじゃないでしょ」

「だって、雪花があまりにも真剣に言うからさ、つい」

「何よそれ。真剣に言ったらおかしいの?」

 つんと唇を尖らせてむくれる雪花に、亮は闇の中でも和やかと分かる眼差しで語る。

「俺にはもったいないって意味。俺は雪花がそこまで心を砕く価値のある人間じゃない。俺が何から何まで汚れきってるからって、雪花までそれに触れる必要はないんだよ」

 いやに誠実な響きで告げられ、雪花はすぐには言い返せなかった。受け入れたように見せかけて、実はやんわりと突き放されたのだと察する。

 心の奥深くがずきりと疼き、熱くなりかけた感情が急激に冷まされる。雪花は途端に泣き出したくなるが、心は思った以上に傷ついているようで、涙するだけの気力が浮かんでこない。

 しゅんと萎れる雪花の隣で、亮は短くなった煙草を最後まで吸ってしまう。しばらくの間、二人は手を取り合ったまま何も言わずに佇んでいた。

 様々な感情がない交ぜになった胸で、雪花は亮へ身を預けるように寄り添った。驚かれるかと思ったのに、亮は目に見える反応を特に示さず、だが嫌がったり戸惑ったりすることもなく、ぴたりと隙間を埋めてくる雪花の半身を受け止めた。雪花はその肩に深く凭れ、分厚い上着を通して伝わる微かな温もりに目を瞑る。

 まるで世界そのものから切り離されたみたいだ。大切に思っているはずの全てが、忘却より薄ら寒い感触を纏い、ぞっとするほど遠く霞む。強く握り合う手の感触だけが、二人をかろうじて地上に繋ぎ止めている気さえした。

「降らないな、雪」

 音を忘れた夜を刺す亮の声が、ほのかな熱を宿して雪花に届く。

「氷点下十度より明らか下だけど、空気が凍ってもいないみたいだ」

「これよりもっと寒くないと、ダイヤモンドダストは見れないよ。ここは本州より確かにずっと寒いけど、最北のほうはもっと雪深くて、凍え死ぬほど寒いらしいの」

「じゃあ、ここはまだあったかいほうなのか」

「多分。あたしもそこまで北には行ったことないけど。それに、今年はまだ寒さが厳しくないって、ニュースが言ってた」

「へえ、面白いな。こんな身を切るほど寒いのに、まだ温いほうなんだ。じゃあ、これ以上の寒さってどんなだろう。想像もつかない」

「行ったことない人間が不用意に行ったらきっと、寒すぎて寒すぎて死んじゃうよ。……でも、二人なら寒くない。きっと、どこに行っても」

 見上げた亮の瞳がほんの少し当惑で揺れる。雪花は言葉を返す代わりに、色の失せた唇を小さく上げて微笑んでみせた。

「また少し歩こうか」

「今度はどこに行くの?」

「そろそろ車に戻ろう。あんまり長いこといると風邪を引く。本当は明け方までいれたらと思ったけど、実を言うと想像してた以上に寒いなと思って」

 雪花は首を横に振り、踏み出しかけた亮の手をぐっと引いた。

「嫌。まだ戻りたくない。行くなら、もうちょっと先へ行こう」

「でも」

「夜明けまでは無理でも、戻るのは早いと思うの。戻るにしても、遠回りして戻ろう。まだ一緒にいたい。訊きたいこと、話し足りないこと、いっぱいあるもの」

 雪花は縋るように亮を見つめる。そして、考えるより先に動いてばかりの己に内心で驚いていた。亮と再会してからというもの、いつも気持ちばかりが逸って仕方ない。普段の自分は、こんなにも考えなしだっただろうか。

「分かった。じゃあ、もうちょっと先まで行こう。凍死しない程度に」

 そう言うと、亮は雪花の手を引いて再び歩き始めた。雪花は遅れないよう並んで、靴がすっぽりと嵌まって抜きにくい雪道を踏み締めていく。

 除雪されていない車道を進むのは、路肩に雪が固められた歩道を行くのとは別次元だ。雪に沈む足を上げるのに倍の力がいるし、少しでも気を抜けば身動きすら取れなくなる。それでなくても今は深夜で、ただ広いだけの雪原を二分するように伸びる道だ。雪花一人だったらすぐに遭難していただろう。

 でも今、雪花は一人ではない。隣を歩く亮は、黒に染まりきった雪道を慣れきった足取りでざくざくと進んでいく。

「すごいね、亮は」

「何が?」

「だって、迷いが全然ないんだもん。こんな雪深いとこ、あたしなら怖くて一人じゃ歩けない。暗くて前が見えないし、一歩先がどれだけ深いかも分からないし。……ねえ、亮は何かを怖いと思ったことはない?」

「思ったりしたら、今頃俺は生きてないよ。恐れが生まれたら隙が出る。そこを突かれたら終わりだ。だから最初から隙は作らない。怖がる思考回路すらまずないね」

 亮は揺るぎない事実を淡々と述べる。しかしそれが心からの本音だと、雪花はどうしても思いたくなかった。

「本当に? 怖いと思ったことが一瞬もないの? たとえば誰かを殺す時も」

 亮にとって、一番痛いところを突いてしまっただろうか。そんな危惧が雪花の胸を掠める。だが先刻と少しも変わらない、一定の間隔で空気を裂く足音と吐息を繰り返し聞くうち、それは杞憂よりも些末な感傷だったと思い知る。

 雪花は、己の手を引きながら広い歩幅で進む亮の腰を見つめ、そこに手を伸ばして触れてみたい衝動に駆られた。遠い昔、亮が腰に装着した拳銃をちらりと見せてくれた時のことが、何の脈絡もなくふいに脳裏で閃いたせいだ。

 分厚いダウンコートに隠された亮の腰は、一見しただけでは、その下に何があるのかは分からない。めくらなければ見えないそこに、隠されているものがあるとすれば何だろう。暗殺者として生計を立てる彼が、一瞬でも丸腰になることがあるだろうか。

 亮が言いたがらない、でも常に携えて離さない闇を、雪花は唐突に垣間見たくなった。

「今日って、拳銃持ってきてるの?」

「持ってるよ」

 思いの外あっさりと即答され、面食らった雪花はつい言葉を呑む。

「……見てみたいな」

「だめ」

 亮は前を向いたまま、乾いた笑いとともに雪花の言葉を退ける。

「触れないほうがいいよ。見たら後悔する。だから俺も雪花には見せない、絶対に」

 その響きにつけ入る隙は微塵もなく、雪花は継ぐべき言葉を見失う。意地の悪い好奇心と、亮は解釈しただろうか。言い訳みたく届くのを恐れて、雪花はついにそれ以上何も言えなかった。

 言葉にする勇気がない代わりに、雪花は不器用な足取りで深雪を踏み締めながら、いつになく非道な想像を巡らせる。

 もし亮が拳銃を見せてくれたら、雪花はどうするだろう。その色や形、重みはいったいどんなものか。

 その感触を一通り味わったら、きっとこう思うに違いない。実際に構えてみたら、引き金を引いたらどうなるだろう。そんな妄想が脳と胸で溢れ返り、いても立ってもいられなくなるはずだ。

「……初めて人を殺した時のこと、覚えてる?」

 亮は前へ進む足を止めずに、目だけでちらりと雪花を振り返る。先程から物騒な単語ばかり発する雪花を、彼なりに訝しんでいるのだろう。だが、雪花はその眼差しに怯むことなく、

「覚えてる?」

 雪花の真摯な瞳に、亮の眼差しが糸みたく細くなる。彼は視線をついと戻すと、

「覚えてないね、そんな昔のことは」

「覚えてないのは、初めて殺した人の顔や名前? それとも、殺したことそのものも?」

「殺したことは覚えてる。顔や名前は、逆立ちしても思い出せないな」

「いくつだった? 初めて人を殺した時」

「さあね。でも、年齢一桁台だったのは確か」

「……何て思った?」

「こんなもんか」

「え?」

「こんなもんか。思ってたよりあっさり終わって拍子抜けした。だから、こんなもんか。それ以外の感情はなかった。ただただ、こんなもんか。まあ、それもすぐに消えたな」

「……手は震えた? 気持ち悪くなって、吐いたりした?」

「いいや。こんなもんか。それ以外、何も感じなかったよ。不思議なくらいに」

 きっぱりとそう言い切る亮は、白銀を踏み分ける足を止めずに振り返り、

「引いた? 俺の人でなしぶりに、改めて」

「引いてない。……むしろ、すごいリアル」

 雪花が真顔で返した言葉を、亮は少し意外そうに受け止める。そして繋いだ手を少し離すと、雪花の頭をぽんぽんと叩いた。何も言わずにそうした後、亮は手を握り直して、獣の足跡一つない雪道を導くように歩き出す。

 亮についていきながら、雪花は想像をさらに膨らます。もし亮が拳銃を見せてくれたら、雪花は次にどうしたいと言うだろう。たとえばそれを実際に構えてみたとして、銃口の先に対象として浮かぶ人物は誰になるか。

 そう思った瞬間、閃光みたく脳裏をよぎる存在があった。その翳の残滓が網膜に焼きついて、雪花は歩きながら数秒の間、ぴたりと呼吸を忘れてしまう。

 そして、脳裏を駆けた眩さをほんの一瞬浴びた思いが、無意識のうちにぽつぽつと唇から零れ出る。

「……あたしね、パパとママを殺した犯人の顔と名前、覚えてないんだ。図書館で見た新聞記事には載ってたけど、コピーした時にまず黒マジックで塗り潰した。顔写真も名前も全部、透けて見えないよう、そこだけ丁寧に何度も塗って」

「うん」

「だから、今となっては全然覚えてないの。思い出すこともできないの。……パパとママを殺した人なのに」

「いいんだよ、それで。塗り潰して正解だ。覚えてたら雪花が汚れる」

 そう断言した亮の語調の強さに、雪花はまたしても救われた気持ちになる。一人では太刀打ちできそうにない、ふいに湧き出たどす黒い憎悪や汚濁を、彼は言葉だけでいとも簡単に吹き消してしまった。

 熱い涙が滲みかける眦を制し、雪花は持てる勇気を精一杯掻き集めて、今までどうしても訊けずにいた疑問を亮にぶつけた。

「……人を殺す時って、どんな気持ち?」

「どんな」

 呟き返す亮の声は虚無そのものだ。何の感情も滲まない音の反復が、次の言葉を口にしたい雪花の唇をつい躊躇わせる。

「覚えてる? 五年前、初めて会った中三の冬。知らない男に襲われたあたしを助けてくれた時、襲ってきた人たちを亮は撃ち殺しちゃったでしょ。あの時、どんな気持ちであの人たちを撃ったの?」

「覚えてないな、そんな昔のことは」

「何も感じなかった? 迷いとか躊躇いとか、怖さとか」

「覚えてない。けど、何も思ってなかっただろうなっていう確信はある」

 そうきっぱりと言い切られ、雪花は返す言葉をついに見失う。亮はちらりと雪花を見やると、見透かしたような軽さで笑い飛ばした。

「気にすることないよ。あの時、雪花を助けると決めたのは俺だ。あいつらを殺したこと、一瞬も後悔してないよ。むしろ、言われるまで忘れてたぐらいだ。俺は俺の意志で引き金を引いた。させられたわけではないし、誰かのせいとも思っていない。雪花が気に病む必要なんてないんだよ」

「……どうして」

「ずっと気になってたんだろ? あの時俺があいつらを撃つはめになったのは自分のせいだ、自分が俺に引き金を引かせたんじゃないかって。そんなことは全くない。あの日のことを雪花が背負う必要はないし、自分を責めたり悔やむなんてしなくていいんだ」

「……何で、そう思ったの?」

「何となく。雪花ならそう思うんじゃないかなって。雪花は優しいから、俺の分まで背負おうとしてくれて、実はずっと気に病ませてたんじゃないかって今気付いた。でも、それはもういらないよ。俺のこと気にしてくれてありがとな。でも、もう忘れろ」

 見渡すかぎり暗闇に溶けた、白しかない一本道を二人で行く。雪に足を踏み入れ、次の一歩のために力強く抜く粗雑な足音と足跡が、振り返ると一筋の轍を描くようにして彼方から刻まれていた。

「さっきの答え」

 その軌跡を見つめていた雪花は、亮の声を受けて初めて、先程から後ろばかりを見ていたことに気が付いた。

「人を殺す時、どんな気持ちか。何も考えてない。正真正銘の無だ。慈悲も迷いも、感傷も後悔も何もない。しいて言うなら、確実性に特化したマシンの気分かな」

「マシン?」

「任務遂行を第一に作り上げられたマシン。どこを撃てば息の根を止められるか、どうやったらそこを撃ち抜けるかを一瞬で判断し、完遂することのみに集中する。そこへ至るまでの思考回路や動作は全部あらかじめ設定されていて、それに基づいて脳が神経に信号を伝達する。俺は本能に身を任せてるだけでいいんだ。そこに感情が入り込む余地は微塵もない。ガキの頃、暗殺者になるための訓練っていうのがあって、俺はそこで徹底的に作り上げられた。その時身に着けた全てが、今も俺の中で寸分違わず機能している。だから仕事の時、俺は何も感じない。今から殺す相手を、命と思ったこともないぐらいだ」

 亮は前を向いたまま、明快な事実だけを語る。雪花にはその横顔しか見えないから、彼が今どんな面持ちでそう語っているかは知り得ようがなかった。そんな感慨に打ちのめされるほど、亮の声は芯があってどこまでも揺るぎない。

「逆に言うと、感情に左右される暗殺者は劣悪な欠陥品だ。対象に憐憫や同情を抱いたり、己に疑問や迷いを持った暗殺者は、その時点で高みを目指せなくなる。一つの欠陥は、たちまち大きな穴となって己の首を絞める。俺がやってることは飯事じゃない。命と命の駆け引きだ。的を外せば任務は失敗。隙を与えて撃ち返されれば終わり。誰だって欠陥品に仕事を頼みたくないだろ? 失敗はいつだって即、そいつの死に直結する。そこに感情を入れられるほど、生易しい世界じゃないんだよ」

 何の躊躇もない亮の口ぶりに、雪花は肺の辺りが冷たくなる。風がなく、雪も舞っていないのに、心は吹雪の只中にいる時みたく凍えていた。

「……どうして暗殺者を続けてるの? 他に道は選べなかったの?」

「それ、確か前にも似たようなこと言われたなあ」

「暗殺者をやめたいと思ったことはない?」

 亮がふと立ち止まったので、雪花も倣って足を止める。振り向くと、後方にでこぼこで形の乱れた足跡が四つ、始まりの見えない夜の奥から連なるように伸びてきていた。随分遠くまで歩いたようだと、早くなった呼吸を繰り返しながら雪花は思う。

「やめたいと思ったことはないけど、やめられる機会なら一度あった」

 足跡から目を外し、雪花は亮を仰ぎ見る。

「育ての親の話したろ? 俺の師匠であり、上司でもあった人のこと。三年前、その人が癌で死んだんだ。病気だと分かった時にはもう末期で、手の施しようがなかった。その人は俺に、他の道を遺そうとした。責任を感じてたんだろうな、きっと。俺が人殺し稼業から足を洗えるよう、密かに手を回そうとしてたんだ」

 亮は己に向けられる雪花の瞳を見返すことなく、ただ眼前に果てなく広がる漆黒を見据える。

「だけど俺はそれを拒んだ。あの人は用意してくれようとしたけど、俺はその道を選ばなかった。死ぬ間際、あの人は言ったんだ、後悔しないのかって。俺は後悔しないと答えた。するわけがないって」

「それは……覚悟?」

「さあね。そんなかっこいいもんじゃないよ、きっと」

 軽く笑い飛ばした亮の唇が斜めに歪む。自嘲だろうかと思ったが、それは違うとすぐに察した。恐らく彼には最初から、己を嘲る理由などなかったはずだ。

「思えば他にも、岐路はいくつかあった気がする。最初にいた組織が潰れた時、相棒だった奴を陽向に戻した時、ガキの頃から一緒にいたあの人が死んで、完璧なフリーランスになった時……暗殺者をやめようと思えばきっとできた」

「……どうして、しなかったの?」

「何度考えても、結局は同じ答えに行き着くからさ。俺は闇しか知らない。最初からこの道だけだったし、他を選ぶことすら知らないままここまで来た」

「選びようがない……ってこと?」

「違うな。他を選ぶ理由がないってこと。暗殺稼業をしてる俺が、一番しっくり馴染んだ俺だから。全てがイコールなんだよ。俺イコールこの仕事。この仕事で生きるイコール俺」

「……やっぱりそんな、悲しいこと言うのね。五年前も、似たようなこと言ってた」

「道から外れられない臆病者って言っていいよ。他の道なんてってかっこつけてるけど、実は今更足を洗う勇気がないだけって笑うなら」

「笑わない!」

 いきなり雪花が声を上げ、亮の肩がびくりと跳ね上がる。それまで研ぎ澄まされていた彼の瞳が、感情を鮮やかに映して珍しく揺れる。

「笑わない。だって、笑えないよ、そんなの……」

 雪花はそう言うだけで精一杯だった。瞼が炙られたように熱くなり、堪えようとしても溢れる涙が頬を濡らす。しかし、それはマイナス十度以下の冷気に晒され、たちまち温度を失いひび割れみたく張りついた。

 雪花は俯き、歯を食い縛って涙をやり過ごそうとする。だが、こみ上げるものはどうしたって止められない。

 握り合っていた手を離し、亮は革手袋を嵌めた指で雪花の睫毛の雫に触れる。

「今泣くと凍傷になるよ」

「いい」

「よくない」

「じゃあ、そんな言い方しないでよ」

 何を責められたのか分からず、亮の目が面食らったように何度も瞬いた。

「自分にはそれしかないなんて、そんな悲しいこと言わないで。確かにそれは亮が選んだ道かもしれないけど、そんな風に行き場を潰してくような言い方はやめて。だってあなたは、本当は誰より優しい人なのに」

 亮は今度こそ虚を衝かれた顔で言葉に詰まる。堪えきれずに洟をすすると、雪花の目からまた涙がほろほろと流れた。それが凍って肌を傷つけてしまわないよう、亮は紅潮した雪花の頬を両手で深く包む。

「ずっと不思議だった。雪花は俺を怖がらないね。初めて会った時、俺は君の目の前で人を殺したっていうのに。その後に俺の本性を知っても、雪花は怖がるどころか、俺のために泣いてくれた。普通ならもっと怖がると思うんだけどな。怖がって、非道だって責めて、近付くどころか忘れてやるって」

「そんなことない。そんなこと、思うはずない」

 雪花は瞼に溜まった涙を瞬きで落とすと、頬を包む亮の手に己のそれを重ねた。

 亮と出会って以来、雪花の中でずっと燻り続ける気持ちがある。殺人者である亮と親しく話す娘を見て、遠い空の向こうにいる両親はどんな顔をしているだろう。自分たちの命を奪った者と同じ罪業を背負う彼に、愛娘が誰よりも大切な存在として心を寄せ、親愛以上の情を抱いていると知ったら。人でなしと、怒りをこめてなじるだろうか。それとも、言葉もなくただ泣くだろうか。

 そんな灰色の感情が、亮の温もりに触れてどくどくと脈打つ。それこそが雪花の抱える罪の名前だと、実はずっと前から自覚していた。誰かを殺したわけではない。その心が壊れるまで、他人を追い詰めたこともない。だが、ある意味においてはそれ以上に許されざる罪が雪花にある。たとえ法の下で裁かれることがなくても、雪花本人がその重さを誰より深く理解している。

 そして、それを分かってほしい唯一の存在として、雪花は亮を強く求めてしまうのだ。

「……亮は、後悔したことないの?」

「ないね」

「人を殺す時じゃなくてもいい。たとえばふいに、ぱっと目が覚めたみたいに、もしもを想像してしまうことは」

「ない」

「迷うことも?」

「ないね。あるわけがない」

「こんなの嫌だなって思うことは? 人を殺したくないなとか、何でこんなことしてるんだろとか」

「一度どころか、一瞬たりともない」

 雪花が発したいくつもの言葉を、亮は次々と即答で切り捨てる。そこに何の感情も滲まないのは五年前も変わらない。己の道を全く嘆かない彼を、雪花がただ勝手に悲しんでいるだけだ。

 添えられていた掌が頬から離れ、骨ばった大きなそれが雪花の頭をそっと撫でる。

「泣かせてばかりいるな、俺は。そこだけは、五年前も今も変わらない」

「泣かされたんじゃない。あたしが勝手に泣いてるの」

 ようやっと乾きかけた瞳で瞬いたら、ふいに互いの距離が縮まった気がした。錯覚かと驚いたが違う。亮は顔を少し下げて、雪花の額に唇を押し当てる。吐息交じりの感触が凍えきった肌を短く熱し、その温度が雪花の中で渦巻いていた悲しみを霧散させた。

「ありがとう、雪花。俺のために心を砕いてくれて。五年前のあの夕方、俺は君に会えたから、今まで生きてこれたんだ。知らないだろ? 君が俺の澱みを全部捨ててくれたこと。今の俺がいるのは雪花のおかげ。そんなこと、思いもしなかっただろ?」

 いつになく静かに、だが確固たる響きで告げる亮に、雪花はただ魅入るしかなかった。星明かりもない漆黒の下、息がかかるほど近くで向き合っていても、互いの表情をつぶさに見ることは叶わない。それでも雪花は、亮が今どんな表情で見つめているか、光がある時以上にはっきりと分かる気がした。

「君が俺を救ってくれたんだ。憂いも卑下も、全部君が浚ってくれた。覚悟も決心も全部、君が与えてくれたんだ。雪花は俺に生きる道を示してくれた。暗殺者としてじゃなく、俺という存在が、この世界でどう生きるのかを」

 そう言って亮は夜を仰ぐ。まるで闇に埋もれた星の砂を探すように、その眼差しが遠く細いものになる。

「もしも何かの偶然が起きて、もう一度会うことが叶った時はそう言いたいと思ってた。ありがとう、雪花。会えてよかった。君と会えたから俺はこれから先、どんな道でも一人で迷わず歩いていける」

 風も雪もない無音の闇で、亮がからりと笑ったのが見えた。それはこの世の陰も憂いも知らない、彼本来の性格がよく表れた年相応の笑顔で、雪花は胸の温度が急激に高まると同時に、喉の奥が震えてどうしても声が出せなかった。

「そろそろ行こうか」

 亮が雪花の手を握り直して、深い雪をざくざくと踏み締めていく。彼につられて、足はおぼつかないながらも前へ動くが、雪花の思考回路は未だ固まったまま、しばらく動きそうになかった。

「見れなかったな、ダイヤモンドダスト。これよりもっと冷えないと、やっぱりだめなんだな。残念。どんなものか、本当はちょっと見てみたかったけど」

 雑で荒い足音で、二人は雪道に轍を刻む。夜は刻一刻と明け方へ近付いているはずなのに、周囲を包む濃い闇が薄まる気配はまだ窺えない。

「でも、吹雪かなかったのは救いかも。吹雪いてたら、ダイヤモンドダストは見れたかもしれないけど、二人して遭難した挙句に凍死しそうだし。そうなったら笑えないじゃん?」

 雪花は声もなく首を横に振った。しかし少し前を行く亮は、それには全く気付かない。あっけらかんと響いた声に、詰まった胸がさらに締め上げられた。

 夜が明けなければいい。見渡すかぎりの白銀に二人して閉じ込められ、二度と戻れない場所まで、いっそ切り離されてしまえたなら。

「……まるで最後の別れみたいなこと、言うのね」

 ようやっと零れ出た言葉に、亮が少し驚いた眼差しで振り向く。

「まるで、もう二度と会えないから最後にって言ってるみたいに聞こえる。でも、そんなことないでしょう? もう二度と会えないなんてこと、あるわけないよね?」

 亮は深雪を踏み分ける足を止め、言葉もなく雪花を見つめる。

「あたしはこれを最後になんかしたくない。ねえ亮、隣にいちゃだめ? 亮がこれから歩く道を、あたしも一緒に行くことはできない? あたしは亮といたいよ。ずっとずっと、離れたくないよ」

 振り返った亮の目が衝撃に揺れる。しかし次の瞬間、彼は軽やかに笑ってみせた。

「だめだよ、そんなこと言っちゃ。俺と雪花じゃ、生きてる世界が違うんだから」

 その言葉を、雪花はまるで感触のない刃のように受け止めた。悲しみが荒波となって体中に巻き起こる。初めて覚える色の絶望に、脳ごと潰される錯覚に打ちのめされた。

 茫然と立ち尽くしたままの雪花に、亮はそれ以上の言葉をかけることはしなかった。そしてその手を握り直すと、

「帰ろうか。夜が明けないうちに、部屋まで送っていくよ」

 やけに現実感の滲んだ言葉を連れて、亮は雪花の手を引きながら雪道を歩く。雪花はうねる感情の波を抱えたまま、彼の後ろを転ばないようついていくしかなかった。

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