2-3

 この思いが、どれだけ許されざるものか。それを実感しだしたのは、亮と思わぬ再会を果たしてから三日が経った頃だった。

 その日の夜は、運命の悪戯にただ舞い上がっていた。だが熱くなった脳が徐々に冷静さを取り戻し、現実を客観視できるほどになっていくと、雪花は事の重大さと己の浅はかさを同時に痛感することになった。

 白日の下で裁かれるべき罪をいくつも抱える亮と繋がりを持った自分。彼が今も人殺しをしていると知っても、糾弾することなくすんなりと受け入れた自分。そして罪悪感を抱いてもなお、亮を恋い慕い続ける自分。一般論を語られるまでもなく、決して許されないと理解できる。

 それでも雪花は、そこから目を背けた。亮の罪を警察に密告することもなかった。

 雪花の想い人が罪人だと知ったら、家族はどう思うだろう。調査会社を経営していた父。その跡を継いで会社を大きくした、元警察官でもある敏腕調査員の佐知子。彼女の元同僚であり、今も県警捜査一課に身を置く健人。兄姉と同じ大学の法学部に進み、卒業後は姉の片腕として調査員修業をしている尋人。

 彼らがもし亮の存在を知ったら、たとえ遠く離れた地からでも、血相を変えて飛んでくるだろう。そう考えた時に浮かんだのは、間違っても事態がそんな風に転ばないようにという祈りだった。

 亮の罪を知っている。それがどれだけ人の道に悖るものか、雪花なりに分かっているつもりだ。だが、そこまで気付いていても亮を恐れないこの心は、もはや理屈や常識では説明できない。五年前に彼の素性を知って、驚きこそしたが不思議と恐れなかったことと、今の心境はとてもよく似ている。彼がどれだけ罪深いかを知った上で、雪花は亮を求めているのだ。

 無知な少女だった五年前は、彼が抱える罪業について深く思い至ることはなかった。雪花にとって亮は命の恩人であり、ずっと抱え続けていた痛みに触れてくれた唯一の人だ。彼と出会わなければきっと、雪花の人生は今と全く違うものになっていただろう。そう信じて疑わないほど、亮は雪花の大切な標だった。

 だが中学生から高校生になり、高校生から大学生になり、少女から大人の仲間入りを果たした今、前まで見えていなかったものがクリアになってくる感覚がある。物事を捉える視点が変わり、その機微に重みや広がり、深みが出てきた。

 亮のこともそうだ。五年前に出会った時、救われたことばかりに思いを馳せて、彼の本質からは目を逸らした。無意識のうちに、自分にとって一番綺麗な形で美化していた。

 今になってその愚かさを思い知る。亮が暗殺者だと知りながら、なお繋がりを持って思い続けるというのは、誰かを殺すことと突き詰めれば同じぐらいに罪深い。命を奪うことの残酷さも、大切な誰かを亡くす悲しみも知っているはずなのに、亮に恋をしたという理由だけで、それらを全部どこかへ放ってしまった。それに改めて気付いた今も、雪花は迷うことなく同じ過ちを犯そうとしている。

 亮と再会してから一週間が過ぎ、雪花はそこまで考え至るようになっていた。

 大学は春休み真っ只中だが、ずっとアパートにこもっていることはない。平日は『千年雪』のバイトに精を出し、遊びの予定も適度に入れている。特に予定のない日は凝ったレシピに挑戦したり、レンタルショップで借りた映画のDVDを観たりして、一人の時間をそれなりに楽しんでいた。

 四六時中ずっと、亮のことばかり考えているわけではない。しかし日常のふとした瞬間に、亮と再会した夜のことが鮮やかに蘇っては、脳裏がいっぱいになってしまうことはよくある。そしてその思いに耽る度、あれは本当に現実だったのだろうか、もしかして夢と勘違いしているだけではないかと、言いようのない心もとなさで苦しくなった。

「ゆっきー、最近何かあった? 特に星見イベントが飲み会になって、あたしがゆっきーと優雄を嵌めてから」

 運河沿いのカフェでランチをした後、駅デパートでウィンドーショッピングをしていた最中、ニットを物色する希実が唐突にそんなことを訊いてきた。

「久々に会ったからかもしれないけど、ゆっきーの空気が何かふわふわしてるっていうか。一見浮ついてるみたいだけど、よくよく見たらローテンションっぽくて、でも不思議と暗い感じがしない的な。ねえ、最近何かあったの?」

 希実はニットを三枚ぐらい、姿見の前で当てては棚に戻すのを繰り返す。希実はよい意味で裏表がなく社交的で、学年や学科を問わず知り合いが多い。地元育ちの実家暮らしなのでN谷の地理にも詳しく、暇な日はいろんな店に連れていってもらっている。

 よく喋りよく笑いよく食べる、ムードメーカー的存在でもある希実の鋭い一面を目の当たりにして、雪花はすぐに言葉が出てこなかった。

「そういえばさ、優雄あれから何か言ってた?」

「……別に何も」

「ええっ。せっかくあたしがキューピット役を買って出てあげたのに、何もないまま終わっちゃったの?」

「ていうか、最初から別に何も始まっちゃいないし。のんちゃんも知ってるでしょ、優雄はただの友達。同級生。同じサークルの仲間。それ以上でも、それ以下でもないよ」

「でも、優雄はそうじゃないみたいよ」

「は?」

 次に気になる店を探して歩く道すがら、希実は秘密を打ち明けるような悪戯っぽさで、

「あたし訊いたの、あの夜優雄にメールして。そしたら夜中に、たった一言だけ返ってきてさ。多分っていうか十中八九、九割九分九厘の確率で嫌われたな、あれはって」

 その時のことを思い出したのか、希実はさもおかしそうにくつくつと笑う。確かにその言い回しは実に優雄らしく、雪花でも一瞬笑いそうになる言葉選びだった。だが、雪花までつられて笑うわけにはいかないので、表情にはおくびにも出さないでおく。

「ねえ、もしかしてついに告られたの? そして完膚なきまでに振っちゃった?」

「どうでもいいけど、のんちゃん、すごい嬉しそうだね」

「失敬な。楽しいだけよ。それでそれで? 本当のとこはどうなのよ。振っちゃったの?」

 希実がうきうきと入ったのは雑貨屋で、今度は二人してバッグを端から順に見ていく。

「のんちゃんが想像してるようなことは何もないよ。第一、告られてもいないし。優雄があたしのことをどうこうなんて、星見のみんなが勝手に言い出して騒いでるだけだからね。本当は全然そんなことないのよ。少なくともあたしには」

「その少なくともっていうところに、ゆっきーの本音が見え隠れしてるね」

 何気なく核心を突かれた気がして、雪花は笑っていた頬が強張ったのを自覚した。

「何で優雄、振っちゃったの? いい奴なんだけどな、あいつ。優しいし、何だかんだで気が利くし」

 希実は同じ色だがデザインの違うバッグを二つ手に取り、肘に掛けたり軽く振ったりして品定めする。振ったことが前提になっていると突っ込む気力もなく、雪花はこの話題を早く切り上げたい思いで半ば投げやりに言った。

「あたしね、中学の頃からずっと好きで忘れられない人がいるの。高校に入ってからもずっと好きで、地元を離れてこっちへ来てからも全然忘れられないの。未だにずっと大切で、すごく好きだと思う人で。だからその人のことを覚えてる限り、他の人なんて好きになれないと思う」

 革製のハンドバッグを中心に物色していた希実が、その手をぴたりと止めて雪花を振り返る。やや濃いアイメイクで飾られた瞳を瞬かせたその様は、鳩が豆鉄砲を食らったようという比喩を見事に体現していた。そこまで驚かれることを口走った自覚のない雪花は、予想していなかった希実の反応に戸惑ってしまう。

「どうしたの、のんちゃん。あたし、そんな顔されるようなこと言った?」

「いや、ごめん。あまりにも意外だったから、びっくりしちゃって」

「意外?」

「うん、結構びっくり。意外だった。ゆっきーって、結構ロマンチストなんだね」

 雪花は眉をしかめそうになるのをぐっと堪える。真正面から侮蔑を投げつけられたように思ったのだ。しかし当の希実は、雪花に宿った険には微塵も気付かず、いくつものバッグを手に取っては選ぶのに熱中している。

「忘れられない人かあ。そういえばあたし、初めて恋したのっていつだっけな。もう遠い昔のことだから忘れちゃった。ゆっきーはいつ?」

「……中三の頃かな」

「ふうん、結構遅めだったんだね。じゃあその忘れられない人が、ゆっきーの初恋の人?」

「……まあ、そういう感じかな」

「どんな人だったの?」

「どんなって……」

「いや、忘れられないほどって言うから、どんな感じだったのかなあって」

「別にそんな語るほどじゃないよ。ただ、初めてだからっていうだけで」

 言わなければよかったという後悔が苦くこみ上げ、雪花はつい言い訳めいた口調で話していた。

 バッグを物色し終えた希実だが、購入に至るほどのものはなかったらしい。次の店へ歩く途中に見つけたコーヒーショップで、二人は休憩も兼ねたティータイムを取る。

 ベリーソースが添えられたチーズケーキを携帯電話で撮ると、希実はクリーミーな泡が立つカフェラテを一口啜る。雪花はミルクレープの丁寧に切ってそっと食べた。しつこさのないささやかな甘味に、ささくれた胸の内の短い棘が僅かに溶ける。

「あたしね、さっきのゆっきーの話を聞いてちょっと考えたんだけど、初恋の人と付き合ってそのまま結婚して、一生添い遂げられた人って世の中にどれぐらいいるんだろうね」

「……何か、いきなりすごい壮大な話になったね」

 ダージリンティーにミルクを注いでいた雪花は返す言葉に困るが、希実は可愛らしく飾られたケーキに夢中で全く気にしていない。

「あたしが思うに、多分そんなにいないと思うのよ。そんなにっていうか、ほとんどいないと思う。初恋に限らず、初めてって枕詞がつくものは大概そう。初めてできたあれこれとか、初めてやったあれこれとかって、叶わずに終わることのほうが多いと思わない? 思うのはどうあれ、叶うのは二次元の中だけというか」

「まあ、多くはそうかもしれないね」

「だよね。だからあたしは思うの。初めての何ちゃらって、叶わないからこそ価値があるんじゃないかなあ。初体験は横に置いといても、初恋とかは特に。考えてもみてよ。幼稚園の頃に初めて好きになった男の子と、小学校か中学校で両思いになって、その先結婚までしちゃって子供ができたとか、老後も一緒とか、どれだけ夢見てんのよって思わない? あたしならちょっと怖いなあ、現実味なさすぎて」

「でも現実にはそういうカップル、いるんじゃないかな。初めて付き合った人と結婚するとか」

「初めて付き合った人と、初恋は別物でしょ。いるとしたら、それは奇跡だね。何千分の一の確率じゃないかな。だってよく考えてみてよ、ゆっきー。あたしたちが今まで生きてきた二十年間の中で、初めてと名のつくあれこれをいったいいくつ覚えてる? それで覚えてるいくつかを、いったいいつまで覚えていられると思う?」

 いつになく真剣な顔で、希実は雪花の目を覗き込む。その語調に何となく気圧された雪花は、埋もれていた遠い日の記憶がふいに映像として浮かんだのを見た。

「……中学の時、のんちゃんが言ったのと似たような話で盛り上がった気がする」

「へえ、どんな話?」

 希実が興味津々の眼差しでいそいそと訊いた。雪花はティーカップを包むように持ちながら、遠くから伸びる細くて脆い記憶の糸をたぐり寄せる。

「どういう流れでその話になったか覚えてないけど、人は初めてと名のつくものは絶対に忘れないって話。たとえ後々思い出せなくなっても、それは単に思い出せないだけであって、実は脳の奥深くにちゃんと刻まれているから、忘れることは絶対にないんだっていう」

 そうだ。それでその後は確か、仲良しメンバーの初恋話へと展開していったのだ。嬉々と盛り上がる友人たちの前で、あの時の自分がどんな話を披露したか、今となっては欠片も思い出せない。その肝となる話題についてだけが、妙に強い印象で刻まれている。

「それって脳科学とか、精神医学的な話なのかな?」

 きょとんと首を傾げた希実に、やたらと現実味のある単語を返され、雪花はやや夢見心地に浸っていた自分に気付く。

「それって単に、たまたまやった初めてが強烈すぎて、忘れられないってだけじゃない? 人間、毎日あくせくと生きてたら、そこまで夢は見れないよ」

 雪花はミルクレープと紅茶をゆっくりと食べていたが、次第に喉が詰まるような息苦しさが生まれてくる。

「あたしが思うに、すぐに思い出せない記憶なら、意味合い的には忘れたも同然じゃないかな。覚えてることなら、すぐ思い出せるはずだしさ。忘れられないんじゃなくて、忘れたくない、忘れちゃだめだと思って美化に美化を重ねて、忘れられないようにしてるだけ。人間きっとみんな、初めてのあれこれを逐一記憶してたら、すぐキャパシティーオーバー起こしちゃうよ。現実はそんなロマンチックにできてないの。だからゆっきーも、いつまでもそんなことにしがみついてないで、優雄と新しい恋しないと。じゃないともったいないよ、そんな可愛いのに」

 まるでガラスの雨を浴びたみたいだ。とても溌剌と放たれた言葉なのに、容赦なく心を潰してくる。

 雪花はフォークを握ったまま硬直してしまうが、携帯電話を操る指先に意識を傾けている希実は、目の前にいる友人の顔が一瞬で白くなったことに微塵も気付かない。

 時間にすればほんの一瞬だが、気が遠くなるような沈黙が流れる。雪花は胸の中で吹き荒ぶ嵐を鎮めるため、そして本音を気取られたくない一心で、両の奥歯を強く噛み締めながら口端をぐいと上げ、朗らかで自然体な笑顔を繕ってみせた。

「びっくりした。意外。のんちゃんってリアリストね」

「そうなの、実はね。ロマンチックが許されるのは十代まで。大人になったら、夢なんかじゃ食べていけないもの。というわけで、どう? そんな昔の男なんて忘れて、優雄にしない? 叶わぬ初恋より、今ある優良物件よ。どう?」

「優良物件って、部屋探しじゃないんだから」

「でも間違っちゃいないでしょ? いいと思うよ、優雄。ちょっとずれてるけど、性格悪くないし。大体あいつがゆっきーに気があるのは見え見えじゃん。付き合ったら絶対、相性いいと思うんだけどなあ」

 雪花はこれ以上どう返すべきか、困ることにも疲れ始めた。このまま延々と優雄を勧められ続けるのだろうかと、暗澹たるものが広がり出した頃、バイトの時間が近くなった希実が、時計を見るなり慌てたことによってその場は終わった。

 混み出してきたカフェを出ると、二人はそのまま駅の改札口を目指した。希実はこれから隣駅の居酒屋に行って、深夜の閉店までみっちり働くのだと言う。

「バレンタインで結構使っちゃったからねー、働いてまた取り戻さないと。ゆっきーは優雄にバレンタインあげた?」

「個人的にはあげてない。星見女子有志で、男子メンバーに渡すチョコの割り勘代を払っただけ」

「何それ、味気ない! 優雄、きっとがっかりしてるよ。せっかく期待してただろうに、可哀想。埋め合わせはきちっとしてあげなよ。たとえば、これチョコの代わりねと言ってキスしてみるとか」

「やめてよ。ただの友達とキスしてどうするの」

 楽しかった、また行きたいといったありきたりの言葉を、雪花は毎日交わす挨拶よりも軽い感覚で弾ませる。ショップバッグを肘に提げた希実は、改札機を通る前に雪花の手を両手でぐっと握り、

「でも、今日言ったことは冗談じゃないから。優雄のこと、本気でちゃんと考えてね。昔いたどこぞの奴より、すぐ傍にいる優良株こそ第一よ。あたしの見立てに間違いはないんだから」

 雪花は困り顔で首を傾けるだけで、頷くことも言い返すこともしなかった。

 改札に入り、ホームの階段へ向かう希実の姿が見えなくなるまで、雪花はひらひらと手を振って見送る。そしてその背が完全に視界から消えると、雪花は改札口を後にした。

 運河側へ出ると、陽が沈みかけた駅前には、帰宅を急ぐ人の姿が目立ち始めていた。雪花は運河沿いの歩道に立ち寄り、流れている様が窺えない濃緑の河面を見つめる。

 行き交う人は、一人ぽつんと運河を眺める雪花には目もくれず、忙しない靴音を響かせて後ろを過ぎていく。雪が降るほどではないが、空気は日中より明らかに冷えていた。河面を撫でる風は零度の冷気を纏って、薄桃色のチークを載せた頬から熱を確実に奪い去る。

 どれぐらいの時間、そこに佇んでいただろう。いつの間にか薄闇は濃い夜へ変わり、ぼんやりと滲む程度だった街灯がくっきりと道を照らしている。

 雪花は声をかけられるまで、時間の概念を完全に忘れていた。

「おい、杉原。杉原ってば」

 何度か呼びかけられて、それが現実の声であることにやっと気が付く。驚いた雪花が振り返ると、そこには訝しげに首を傾げた優雄がいた。

「何してんの、そんなとこでぼうっとして」

 思いがけない人物と出くわしても、雪花の頭はまだフリーズしていた。

「ていうかお前、今が何時か分かってんの?」

「え、何時?」

「八時」

「ええっ」

 仰天する雪花に優雄は驚くが、それはすぐ呆れ顔に変わる。

「時間の感覚ねえのかよ。何時からここにいたんだ。風邪引くだろ。ほら、手なんてこんながちがちで、顔だって」

 そう言いながら雪花の頬に触れた優雄が、思いがけない感触にたじろいで指を引く。

「泣いてたのか、杉原」

 雪花は己の頬と瞼を触り、その感触に少し驚いてしまう。頬はびしょびしょに濡れてチークが崩れ、瞼はほんのりと熱を持っている上、睫毛には小さな雫が載っていた。

 どう返していいか分からず、雪花は戸惑いながら途方に暮れた。優雄に指摘されるまで、泣いていたことに全く気付いていなかった。

「目、真っ赤だぞ。何かあったの」

 雪花は俯いて、首を小さく横に振る。この地で知り合った人に泣き顔を晒したことがなかったから、どんな顔で優雄と向き合えばいいのか分からない。

「何か嫌なことでもあった? それとも変な奴でもいた? 俺でよかったら聞くけど。でも、無理にとは言わない」

 雪花は瞼を拳でごしごしと拭い、当惑しきっている優雄に笑ってみせた。

「何でもない。ごめん、見なかったことにして。あと、絶対誰にも言わないで。星見の人にも、のんちゃんにも」

 自分が今どれだけ不自然な顔をしているか、雪花はよく分かっているつもりだ。優雄にもそれが伝わったのだろう。彼はなおも何か言いたそうな、もしくは問いたそうな顔で雪花を見ていたが、やがて胸に渦巻く百万語を呑み込むようにして、

「分かった。じゃあ見なかったことにするし、これ以上は訊かない。他の奴らにも言わない。約束するよ」

 雪花はほっと胸を撫で下ろし、

「よかった。ありがと」

 思わず安堵の本音が零れた途端、優雄の腕が雪花の両肩をぐっと掴んだ。思いがけない力で迫られ、雪花は驚くよりも先に全身を強張らせる。

「でもな、変に一人で抱え込むなよ。俺じゃなくていい。何かあった時は誰かを頼っていいんだ。こんな暗い時にこんなとこで、一人でこっそり泣いたりするな。泣く時は一人で泣くものと勘違いしてるなら、それは絶対に間違ってるから。いいか、そこはちゃんと分かれよ。杉原のことを心配してる奴は、周りに何人もいるんだ。それを絶対に忘れるな」

 そう語る優雄の瞳は真剣そのものだった。いつになく強い語調に気圧され、雪花は慌ててこくこくと頷いた。

 優雄はほっとしたように笑うと、掴んでいた雪花の肩をそのまま離す。状況を呑み込みきれずにいた雪花だが、掴まれた肩に彼の指の強さが余韻みたく残った。

「優雄は、どうしてここに……」

 それは長い沈黙の後、雪花がようやっと出せた言葉だった。

「バイト帰り。駅前のスーパーでレジやってるんだけど、今日は七時半までだったんだ。でも、ちょうどよかった。杉原に連絡しなきゃと思ってて」

 優雄はそう言いながら財布を出して雪花の右手をぐいと掴むと、その掌に千円札三枚と小銭を載せた。

「この前、倉庫街のバーでちょっと飲んだろ? その時、杉原が置いていった金。返さなきゃと思ってたんだけど、遅くなってごめん」

「……そんなの、いいのに」

「いいわけないだろ。友達でも、金のことはちゃんとしないと」

「てか、お釣り多すぎない? あたし、こんなに出した覚え」

「覚えてないの? お前、あの時バーテンに五千円札突きつけて飛び出していったんだぞ。レシートはごめん、なくした」

 最後の言葉がなぜかおかしくて、雪花は思わず吹き出してしまう。優雄がたちまち目をすがめたので、

「ごめん、笑ったりして。せっかく返してくれたのに、失礼だよね。ごめんなさい、怒らないで。ありがとう。確かにいただきました」

「いや、別に怒ってない。ただ」

 雪花が目を瞬かせると、優雄はその名のとおり、優しくおおらかに頬を緩める。

「やっと笑ったと思ってさ」

 雪花は虚を衝かれて、すぐには言葉を返せなかった。

「……別に、あたしはいつもと同じよ。普通よ、全然」

「出た、杉原の得意技。強がり武装の標準装備。お前、さっきまで自分がどんな顔してたか分かってる?」

 優雄は軽く手を挙げて、雪花がすかさず言い返そうとするのを制する。

「俺はお前と、あの日の続きで喧嘩する気はないの。それに謝るのは俺のほう。あの日、杉原を怒らせたのは俺だし。でも本当は、ちょっとよかったって思ってる。いつも鉄仮面の杉原の本音が、ほんのちょっとだけ見えた気がしたからさ。……って言うと、お前は絶対怒るだろ。怒るなよ。別に他意はないんだから」

 雪花は反論の勢いを削がれ、ついと視線を逸らして目を伏せる。

「俺のこと、嫌いになった? 一応あれからメール送ったけど、返信くれなかったろ」

 真正面からストレートに問われて、雪花はまたしてもすぐに言葉が浮かばず黙り込む。

「……そこまでじゃない。まだ、そこまでいってない」

「それってどっちの意味?」

「は?」

 瞬時に切り返され、雪花は意味が分からずぽかんとなる。

「あんな感じで喧嘩っぽくなったけど、まだ嫌いになるまでいってないのか。それとも、そもそも圏外だからそこまでいくことがまずないのか。二通りの意味に取れると思うんだけど、どっち?」

 雪花は目を伏せて押し黙る。優雄は急かすことなく、雪花が口を開くのを待っていた。

 しかし雪花は、持てる語彙の全てを掻き集めてみても、彼に返せるだけの言葉を見つけられなかった。

 優雄はいつも嘘や虚飾がない真摯さで、雪花を真正面から見つめてくる。その誠意に応えられるものを持ち合わせていないと、雪花は改めて思い知らされた。優雄と話す度に雪花は、見て見ぬふりを貫いてきた己のずるさを目の当たりにする。

 黙り込んだまま口を開く気配のない雪花に、優雄は呆れたり怒ったりすることなく、困ったように苦笑してはため息をついた。

「ま、いいさ。口を利いてもらえるだけまだましと解釈しとく。でさ、これ以上ここにいるのも何だろ。雪が降り出す前に移動しようぜ。飯は食った?」

「……まだ。でも、アパートにご飯はちゃんと買ってある」

「なら帰るか。送るよ。杉原の住んでるとこ、確か駅の向こうだったよな」

「大丈夫。一人で帰れるから」

「夜の女の一人歩きは危ないぞ」

「平気。まだそこまで遅い時間じゃないし、人通りもあるから。それに駅近だし」

「別に遠慮しなくていいだろ、送られることぐらい。それとも何、お前まさか俺を警戒してんの?」

「違うよ。そんなわけないでしょ。ただ単に、一人でゆっくり帰りたいだけ」

 雪花の頑なさを読み取ったのか、優雄は諦め顔で息をつく。

「じゃあ俺は行く。早く帰れよ。あんま長いこと外にいると風邪引くぞ」

 雪花が頷くと、優雄はそのまま去っていく。雪花はそこに立ち尽くして俯き、遠ざかる彼の背を見送ることができなかった。

 河面に映る街灯の光が滲み、涙が頬を滑り落ちる。しかし、その意味が雪花には理解できなかった。

 いつからこんなにも、自分が分からなくなってしまったのだろう。己の目から流れる涙なのに、まるで他人事みたいだと切り捨てる自分がいる。それと同じぐらいの冷淡さで、周囲の人たちの優しさや存在を、遥か遠いものみたく捉えていた。彼らがくれる言葉に一喜一憂はするのに、肝心なところで応えようとしない自分はひどい。

 一番だめなのは、そう自覚していながら、全く向き合おうとしない意固地さだ。それをなおも頑なに貫こうとする心は、人として醜い域にまで達している気がする。

 運河を撫でる風が、雪の気配を帯びてきた。夜が深まるにつれて気温もさらに下がり、延々と外気に晒され続けた体が温度を失くしつつある。

 雪花はようやく運河を離れ、帰路に着こうと歩き出した。その時、コートのポケットで携帯電話が震える。バイブレータからして、着信が入っているのだと分かった。

 雪花は手袋を外して携帯電話を出す。そして通話ボタンを押す前に、画面に表示された着信相手を見て息を呑んだ。

 非通知設定から電話がかかってきていた。

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