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 『星見定期ウォッチング』という連絡網が入ったのは、二年次の授業が全て終了した一週間後だった。内容は星見のイベントに関するもので、来週の深夜過ぎに訪れる流星群を、大学近くの公園に集まって見ようという企画だった。

 雪花は少し迷った後に、参加する旨の返信をした。『千年雪』でのバイトは平日のみで、流星群の夜は土曜日だ。夜更けに出掛けても翌日は日曜日だから、疲れを引きずる心配はない。それに、久しぶりにサークルの面々に会えるのは素直に嬉しかった。実は気掛かりが一つだけあるのだが、それでせっかくの誘いを断るのはもったいない。

 しかし、待ちに待った流星群の前日、爆弾低気圧による大寒波のせいで、N谷市はものすごい豪雪に見舞われた。あまりの吹雪で金曜日のバイトが急遽休みになり、翌日になっても晴れることはなく、定期ウォッチングはやむなくオールナイトカラオケに変更された。

 カラオケ前の宴会の場として指定された店は、よく行く駅近くの居酒屋ではなく、運河の側にあるビストロだった。インターネットで調べてみたところ、倉庫街の片隅にある隠れ家的な店らしい。それなりの人数で飲み食いする場にしては、随分と小規模で洒落た店が選ばれたと思いながら、雪花は雪がそれなりに積もった歩道を一人歩いた。

 昨日から降り続く雪は、勢いこそやや衰えてはいるが、とても星が望めるような空模様ではなかった。雪花は内心がっかりしつつ、時間に余裕を持って『ビストロ・ポルカ』へ向かう。まだ雪がしっかりと降っているせいか、休日の夜なのに駅周辺の人出はまばらだ。

 連絡網で指定された『ビストロ・ポルカ』は、運河沿いに建ち並ぶ倉庫街のやや奥まった一角にあった。薄暗い地下への階段を下りると、ヨーロピアンテイストの外観をした店が現れる。暖色の照明にスペインの民俗音楽が流れる店内は、カウンターとテーブル席が四つあるだけで、実にこぢんまりとしていた。

 店に入るなり、雪花はよく見知った顔を見つける。そして思わず顔をしかめてしまった。

 カウンターの端で、向平優雄が一人でビールを飲んでいた。

「げっ」

 すぐ近くで聞こえたそれを聞き咎め、優雄は声の主である雪花を振り返る。雪花は頬を歪めて固まっていたせいで、彼と視線がぶつかっても他に反応を返せなかった。

「よう」

「ようじゃないわよ。何で優雄だけがここにいるの。のんちゃんや先輩たちは?」

「北下? まだ来てないけど」

「は? だって、集合時間はとっくに過ぎてるでしょ。あたし迷っちゃったから、ちょっと遅れて着いたと思ってたのに」

 雪花は状況が呑み込めず、つい胡乱な顔で問い詰める。ビール片手の優雄に軽く手招きされ、その仕草にまた眉をしかめた途端、背後でカップルが邪魔そうに見ていることに気付いた。雪花は慌ててその場を譲り、仕方なく優雄の手招きに従って座ることにする。

 優雄はビールグラスを片手に携帯電話をいじる。そしていづらそうに黙り込む雪花に、

「どうやら今日、ここに来るメンツは俺らだけみたいだな」

「は?」

「北下からメール来た。他のみんなは別の店で飲んでるから、俺たちは俺たちでどうぞってさ」

「はあ? 何それ。話が違うじゃん。今すぐみんなと合流しようよ」

「だめ。店訊いたけど教えてくれない。誰の策略だろうな、これは」

 思わぬ展開に愕然とした雪花は、たちまち唇を尖らせて不機嫌そのものの顔になる。気心知れた面々との飲み会だと思って来たのに、騙されたみたいでとても不愉快だ。

 予定と違う展開になった以上、ここに居続ける意味はない。雪花はこのまま帰ろうかと本気で思案し始めた。

 しかめ面で黙考する雪花に、優雄がすいとメニューを手渡す。

「とりあえず飲み物ぐらい決めたら? これ、メニュー」

 渡された手前、つい受け取ってしまった雪花だったが、

「……のんちゃんたちがいないなら、別にいる理由ないし、帰ろうかな」

「何だよそれ、俺とじゃ不満ってわけ? 失礼な奴だな」

 雪花はむっと頬を膨らませるが、優雄のほうが尤もだった。考えてみれば、優雄も嵌められた被害者なのだ。不本意だったのは同じだろうし、八つ当たりするのは筋違いだ。

 雪花は反省するも、あえて素直に詫びることはせず、

「すいません、マンゴヤンラッシーを一つお願いします。あと、えーっと……魚介たっぷりクリームパスタも」

 カウンター越しに頷いたバーテンダーは一礼し、二人の前から離れて調理に取り掛かる。

「飯まだなんだ?」

「飲み会だからお腹空かせてきたの。優雄は?」

「もう食べ終わった。かれこれ三十分以上、放置プレイだったから」

 水を少し飲みながら、雪花は隣に座る優雄をさりげなく窺う。今まで飲み会といえば居酒屋ばかりで、こんな瀟洒なビストロに足を踏み入れるのは初めてだ。とても楽しみにしていたのに、まさかこんな展開が待っていたとは。華やいだ期待を見事に裏切られて、雪花は消化不良を抱えたまま、出されたマンゴヤンラッシーに口をつける。

「でさ、策略って何?」

「は?」

「さっき言ってたじゃん、誰の策略だろうなって。それ、どういう意味?」

「言葉のままだよ。嵌められたわけだろ? 俺たち。だから策略。特に悪意めいた悪意のない、ただの浮かれぽんちの悪ふざけ」

 優雄はカウンター越しに受け取ったポテトを、二人の間に置いて雪花にも勧めてくる。

「でもまあ、たまにはいいかもな、杉原とさし飲みっていうのも」

「何で?」

「面と向かって話したこと、あんまりないじゃん。いくら同学年でも、俺は理学療法でそっちは食物栄養だし」

 雪花と優雄は入学して間もない頃、それぞれの友人の誘いで同時期に星見に入部した。サークルの同学年はとても仲が良く、昼休みはみんなで集って食べることも多い。また、二人とも同じ健康科学部に在籍しているため、授業で顔を合わせる機会も時々あった。だが、大勢の中で言葉を交わしたことはあっても、面と向かって会話した経験はほぼない。

 優雄については、雪花を始めとする星見の面々が、決して忘れられないエピソードが一つある。

 新入生歓迎会でのことだ。居酒屋で乾杯した後、新入生が順番に自己紹介をする流れになった。そこでは在籍する学部学科と名前、出身地の他にあと一つ、お決まりの挨拶や締めの文句ではなく、何か面白い小話を一つするという、まだ右も左も分からない新入生にはハードルの高いお題が出された。

 雪花はその時、何と言って自己紹介したかはもう忘れてしまった。しかし優雄が皆の前でした自己紹介は、その場にいた面々の期待や想像を面白おかしく裏切るものだった。

「皆さん、こんばんは。健康科学部理学療法学科に何とか入れた向平優雄です。出身地はここ、北の大地のさらに北。実家は酪農と野菜農家をやっていて、上の兄貴は農園を継ぎ、下の兄貴は農協に入り、一番下の俺は好き放題していいとのことで今ここにいます。ちなみに名前は向平優雄、向こうにいる平らで優しい雄と覚えてください。どうぞよしなに」

 素面で言ってのけた優雄に、その場にいた全員は短い沈黙の後、激しい笑いの渦に呑まれた。誰もが腹から出した声で大爆笑し、ある者は涙を滲ませながら机をばんばんと叩き、またある者は五分経っても波が収まらず、思い出し笑いをしては何度も転げ回った。

 その新歓はサークル内で伝説となり、優雄は未だにその自己紹介を話の種にされている。そういったインパクトもさることながら、雪花はそれとは別の理由で優雄が強く印象に残り、どうしても二人になるのを避けてしまう節があった。

 優雄は雪花にとって、とても苦手な存在だ。いくら同学年で同じサークルのメンバーでも、火急もしくは尤もらしい用事がない限りは会わずにいたい。ましてや二人きりで話すなど、全力で御免被りたいくらいだった。

「まあでも、いい機会だと思うよ。せっかくだし」

 マンゴヤンラッシーの甘さもそっちのけで仏頂面をしていた雪花は、ふいに投げられた優雄の言葉に反応が遅れた。

「何それ。せっかくって何が」

「いや、思いがけずではあるけれど、よくよく考えたらいい機会だなって」

「だから何が」

 雪花の棘のある言葉を流し、優雄は表情を変えることなく言い放つ。

「杉原さ、俺のこと避けてるだろ」

 雪花はうっと言葉に詰まる。

「いつだったかな。確か去年の夏合宿の時だっけ。あれからずっと、俺のことを徹底的に避けてるよな」

「……気のせいじゃない? 自意識過剰すぎ」

「悪いけど俺、そこまで鈍感じゃないよ。ついでに言うと、自分のレベルは自分が一番よく分かってるから、必要以上に自惚れることもない」

 バーテンダーがクリームパスタを雪花の前に置く。雪花は無言のまま、フォークとスプーンを器用に使って食べていった。魚介の塩味がやや強いが、湯気の立つクリームソースはまろやかで美味しい。だがそんな味わいとは裏腹に、雪花の脳裏に苦い記憶が立ち昇る。

 優雄と初めて会った時のことを、そこまで詳しく覚えているわけではない。新歓での自己紹介が強烈すぎて、初対面の印象が埋没してしまっているのもある。雪花にとって優雄との出会いは、大学という未知の環境で遭遇する、初めてと名のつく出来事の一つにすぎなかった。

 優雄に対する感情が決定的になったのは、初めて参加した星見の合宿でのことだ。去年の八月末、夏季休暇も半ばを過ぎた頃、メンバー全員でリゾート地と呼ばれる他市の山間部に二泊三日で出掛けた。

 その二日目の夜、冬はスキー場になるただ広い芝生で存分に星を眺めた後、宿泊先のホテルに帰る道すがら、たまたま優雄と並んで歩いたことがあった。

 その時どういう話の流れで、どんな言葉を交わしたのか、細かい部分までは覚えていない。だが優雄が発したある言葉が、雪花の胸を遠慮なく抉った。

「杉原ってさ、何で周りと打ち解けないの? 誰にでも明るく振る舞ってるけど、よくよく見たら、大事なとこで一線引いてる気がする。何でそう強がりみたく頑ななわけ?」

 そう言われた時の衝撃は、今もはっきりと覚えている。頸椎めがけていきなり冷水を浴びせられ、その雫が幾筋も背中を滑り落ちるような感覚がした。

 何の繕いもなく降ってきた言葉で、雪花は優雄が抜きん出た洞察力の持ち主であることを悟った。それ以来、雪花はずっと優雄と話す機会を避け続けている。

 あの夜の二人のやりとりを知る者は他にいない。大学に入ってから一番親しくしている希実にも、まだ打ち明けていなかった。だが、優雄は雪花の変化にちゃんと気付いていたのだ。そう思うと喉が縛られたように苦しくなり、継ぐべき言葉が何も出てこない。

 優雄は黙ってしまった雪花に、努めてさりげなく言葉を重ねる。

「何で避けるの? 俺のこと」

「……避けてなんか、ない」

「でもさ、初めてだよな。さしで飲むのっていうか、こんな感じで面と向かってゆっくり話すの」

「……そうだっけ」

「俺が話しかけても、杉原は何かと理由つけて、さっさと逃げていっちゃうじゃん。北下や他の誰かと一緒にいる時でも、俺以外の奴とはちゃんと喋ってるけど、俺とはあまり話そうとしないだろ」

「そんなこと、ないよ」

「なかったら言わないよ、俺だって」

 気まずい沈黙が下りてくる。雪花は平静を装おうと、マンゴヤンラッシーを多く口に含んだ。マンゴー独特の、うっとりするほどの甘ったるさが大好きなはずなのに、今日はなぜかとても苦々しく舌に触れる。リキュールの風味が濃いせいと思い込むことにした。

「前から気になってたんだけど」

 唐突に切り出され、雪花はつい顎を上げて反応する。

「杉原ってさ、もしかしてトラウマ持ち?」

「は?」

 思いもしない言葉を投げられ、素っ頓狂な声が出た。しかし優雄はいたって真剣で、

「昔苛められてどうこうとか、家庭内の軋轢がどうこうとか、そういう感じの、人には言えない暗い過去があったりするの?」

 雪花は呆気にとられて、しばらく言葉が出てこなかった。だが、優雄は茶化すそぶりもなく、まっすぐに雪花の瞳を見返して答えを待っている。

 雪花はどう返すべきか分からず唖然とした末、

「何それ、意味分かんない。何でそんなこと訊くの。もしあったとしても、そんなあけすけに問い質されて、素直にはい、そうですなんて言うわけないでしょ。ちょっと無神経すぎない? いくら同級生のサークル仲間でも普通訊く? 人にそういうの」

「確かに。今のは俺の訊き方が悪かった。杉原が怒るのは尤もだ」

 優雄があっさりと非を認めたので、雪花は逆に面食らってそれ以上言えなくなる。

「でも、これくらい直球で訊かないと、杉原には通じないんじゃないかと思ってさ。ずばっといかないと、杉原は自分のことなんか話さないだろ。俺にっていうより、他人にも」

「……どういう意味」

「俺はまあ、とりあえず横に置いとくとしても、いつも一緒にいる北下希実や桑原由佳里にも、あんまり込み入った話はしてないんじゃない?」

「……どうして、そう思うの」

「別に大した理由はない。しいて言うなら勘かな。でも間違ってる気はしない。ずっと気になってたんだ。何で杉原、そこまで頑ななんだろって。俺はともかく、北下や桑原は友達なんだから、もうちょっと腹割った付き合いしてもいいだろうに。あいつらと一緒にいる時でも杉原、肝心なとこは一線引いちゃってる気がするんだよな。友達だけどそこまで心許してないというか、それ以上は立入禁止みたいな風に見える。あいつら二人は勿論、他の面々もそこまで気付いちゃいないだろうけどさ。杉原、そういうのはそつなくこなすから。でも俺、ずっと気になってたんだ。普段ちゃらけて見える杉原を、そこまで頑なにさせるものは何なんだろうって」

 雪花はパスタをちびちびと口にしながら、唇の端を僅かに噛み締める。優雄はそんな雪花の微細な仕草に、わざと気付かないふりをしているのが見え見えだ。

「最初に杉原と会った時は、明るくてはっちゃけてる子ってイメージだった。星見にも割とすぐ馴染んで、誰とでも仲良くできる柔軟な子。でも付き合いを重ねてくにつれて、本当は全然そんなことないんじゃないかって思いだしたんだ」

「……何で」

「明るく見えるのに、笑顔が薄っぺらい。楽しく喋ってるのに、よくよく見れば聞き役にばっか回ってて、自分のことを自分から話そうとはしない。最初は、悩みがあっても周りに相談せず、自分で解決しようとするタイプだからかなと思った。でもしばらくしたら、それも何だか違うなって気がしてきた。何を違うと思ったのかはよく分からない。だからずっと不思議だった。杉原の笑顔とか気さくな態度、俺にはそれが虚勢というか、ひたすら強がりに徹してるように見えて。何でそんな頑なに、他人との間に一本綺麗な線引いて、自分に触れさせないようにしてるんだろうって」

「……何も知らないくせに、随分と勝手な憶測ばかり並べるのね」

 上手い応酬が見つからない代わりに、雪花はその一言に苛立ちと怒りを存分に滲ませた。

「違うなら、違うって言えば?」

 雪花は目線だけできっと鋭く優雄を睨みつける。しかし優雄はどこ吹く風で、ビールをうまそうに飲んでいる。二人の間に棘を含んだ沈黙が流れた。

 優雄の分析は痛いぐらいに的を射ている。しかしそれ以上に、全てを見透かしきったかのような優雄に激しい嫌悪感を覚えていた。

 雪花は自分からは口を開かないと決め、黙々と残りのパスタをフォークで巻く。

「だから去年の夏合宿、そういう直球を投げてみたんだ。杉原はむっとするだけで、答えはくれなかったけど」

 雪花は無視してパスタを平らげた。マンゴヤンラッシーはやや温くなり、甘ったるい味わいが底のほうに沈殿している。

 押し黙ったままの雪花に、優雄は半ば呆れ顔でため息をつく。

「言いたいことがあるならちゃんと言えよ。言ってくれないと会話にもならない」

 雪花は不機嫌そのものの仏頂面で、フォークとスプーンを右に揃える。そしてようやっと、低い声音で絞り出した一言を優雄に返した。

「あんたが、何もかも分かってますみたいなこと言うからよ」

 やっと口を開いた雪花に、ポテトを摘む優雄の目がきょとんと丸くなる。

「図星すぎたから怒った?」

「だから!」

 雪花はマンゴヤンラッシーのグラスを、がちゃんとテーブルに叩きつける。

「そういうあんたの無神経さに腹が立ったって言ってるの。そうやって人の気持ちに土足で上がり込んで、さも分かりきった顔であれこれ語ってくれちゃうところが、相手を嫌な気持ちにさせてるって分からない? 優雄のそういうとこ、腹が立ってしょうがないの。自惚れにも程がある」

 狭い店内によく通る声量で怒った雪花に、隣の優雄は勿論だが、歓談していた他の客や、カウンターでグラスを拭くバーテンダーも動きを止める。店内の空気が緊迫したのは一瞬で、すぐに何もなかったかのような和やかさが戻っていった。

 雪花は怒りに肩を揺らしたまま、マンゴヤンラッシーをぐいと煽る。

「大体、あたしの何をどう見てそんなこと言うの。いったいあんたがあたしのこと、どれだけ知ってるっていうのよ」

 優雄は少なくなったビールを飲み干して、バーテンダーにおかわりの一杯を頼む。そしてポテトを噛みながらしばし黙考した後、

「何をどうっていうか、見てたら分かるよ、すぐに」

「だから、どうして」

「言わないと分かんない?」

 さらりと、しかし鋭く切り返されて、雪花は思わず言葉を呑む。彼の眼差しは、惑いきった雪花の瞳を強く引きつけて離さない。

「杉原さ、頭いいじゃん」

「は?」

「秀才っていうより、賢いって意味。勉強もできるし、人付き合いも上手いし。星見内だけを取っても、周りのことをちゃんと見て、把握して的確に立ち回れるじゃん。賢くなきゃ、とてもそんなことできないよ。なのにさ、俺のことはさも分からないふりするんだ? 何言ってんのこいつ、意味不明みたいな感じに」

 雪花は今度こそ絶句した。彼があまりにも正確に、今の内心を突いてきたからだ。

「何それ。また決めつけ? 勝手に人の気持ち、分かりましたみたいに言わないで」

「違うなら違うって言えよ。俺はさっきからずっとそう言ってる。杉原のずるいとこは、否定も肯定もせずにこっちだけを責めて、結果的には答えを一つもくれないとこだ」

 優雄の言葉は飄々とした響きだが、はぐらかすことを許さない鋭さを孕んでいる。雪花はその強い眼差しに耐えきれず、視線を逸らして返す言葉を一生懸命に模索した。

 こんな人間は知らない。ここまで踏み込もうとしてきた人は今までいなかった。立ち入られないよう、器用に予防線を張ってきたつもりだったのに。

 怒りに駆られて言葉を荒げた先程とは打って変わって、返す言葉が全く浮かばない雪花は俯くしかない。

「……何で優雄は、そこまで言ってくるの。他人のあれこれなんて、放っておけばいいじゃん。あたしのことだって、外面がいいだけの八方美人って切り捨てれば」

「そんなことしないよ。知りたいと思わなきゃ、俺だって反感買うリスクを負ってまで言ったりしない」

 優雄は雪花をまっすぐ見据え、問い詰めるというより、確認するようにもう一度訊いてきた。

「俺が何でここまで訊くかなんて、杉原ならとっくに気付いてると思うけど。本当に分からない? 本当に気付いてない? 俺が杉原のこと、どう思ってるか」

 あまりに真摯な言葉に、雪花は完全に返す言葉を見失った。脳裏から感情が消え去り、真っ白になった感覚さえも遠のいていく。沈黙が長引くにつれて指が細かに震え出し、瞬きも忘れて見開いた瞳がつんと痛んだ。

「気になる女子じゃないと、ここまで訊かないだろ、普通」

 硬直した手に優雄の指が触れたのと、グラスが割れる派手な音が響いたのはほぼ同時だった。重なりかけた優雄の掌から反射的に手を引いた瞬間、マンゴヤンラッシーのグラスがそれに引っ掛かって落ちたと気付いたのは、さらに数秒が経ってからだった。

 我を取り戻した雪花は、さして驚いていない優雄を見ることなく鞄とコートを持ち、割れたグラスを片付けに現れたバーテンダーに五千円札を押し付けると、駆け足で店から出ていった。無遠慮に飛んでくる周囲の好奇の眼差しも、店に一人だけ残してきた優雄の存在も、まるで最初からなかったかのように心をすり抜けていく。

 牡丹雪が降りしきるN谷駅界隈を、雪花はコートを持ったままひたすら走った。シャーベット状の路上で足を滑らせ、危うく体勢を崩しながら立ち止まった時、『ビストロ・ポルカ』からだいぶ離れた運河沿いにいた。

 息すら凍る寒さに全身が震える。雪花はかじかむ指でコートを羽織り、煉瓦でできた運河の橋を歩くと、雪が積もった欄干に素手のまま手を突いた。やや硬めの雪に触れた掌が、冷たさでじゅっと焼ける感覚がする。

 観光地としても有名な運河周辺は宵闇に包まれ、行き交う人影もぱらぱらとしかいない。ライトアップされた赤煉瓦倉庫を目当てにやってくるカップルも、カメラを手に歩く観光客も今は見えなかった。

 雪花は欄干に手を置いたまま、舞い落ちる雪を仰いで小さく泣いた。

 悲しいわけではない。苛立ちや怒りはとうの昔に冷めていた。ただ胸を深く穿たれたような、心臓に直接爪を立てられたような感触が、溢れる手前で行き場を失い波立っているだけだ。

 優雄が告げた言葉の全てが、雪花には痛みでしかなかった。ひた隠しにしてきた真実を突きつけられるのは、心に焦げ跡を刻まれるのも同じなのだと改めて実感する。

 雪花は欄干から手を離し、端に寄せられた雪を支えにしゃがみ込む。優雄が追ってくるかもしれないと思ったが、その気配がないことに安堵と寂しさが湧いてくるのが不思議だ。

 雪花はしばらく、そこを動くことはおろか、顔を上げることすらできずにいた。

 熱を宿した涙が頬を滑り、凍てた肌に刺激を与える。それもそのうち凍りつくのではと思うくらい、橋の上は寒かった。このままいれば確実に風邪を引くだろう。だがやはり、顔を上げるだけの力が今はない。

 雪花はしゃがみ込んだまま、しばらく声を殺して嗚咽した。

 シャーベットと化した橋上を時折、靴音が耳障りに通り過ぎていく。雪花は冷えて軋む膝に力を入れて、その場からゆっくりと立ち上がろうとした。

 その時、何の前触れもなく鼓膜に刺さった声に耳を疑った。

「そうだよ。オーケー、それで準備は万端だ」

 雪花はぎょっと息を呑み、弾かれたように顔を上げる。一瞬、単に記憶が蘇っただけの勘違いかと思った。しかし、早鐘を打つ心が激しく否と叫んでいる。

 雪花は不意打ちを食らってよろめきながらも、何とか立ち上がって周囲を見渡す。だが、雪花が捉えた声の主はどこにもいない。

 聞き間違いだろうかともう一度考えた。胸の奥で絶えず願い続けていたからこそ、耳に届いた妄想かもしれない。でも、たった一瞬はっきりと聞こえたその声は、紛うことなき現実だった。

 雪花は何度も周囲に目を凝らし、やがて倉庫街の奥へと吸い込まれる一つの人影に気付いた。

 雪花は雪道に注意することも忘れ、その人影を目指して全速力で走る。橋からそこへは思ったよりも距離があり、灯りが乏しい闇を進む背中がどんどん遠ざかっていく。その姿は足早に歩いているものの、携帯電話で話すことに夢中らしく、駆け寄って距離を詰めていく雪花には露も気付いていなかった。

 五年前と同じだ。唐突に湧き上がった懐かしさに胸が熱くなる。じゅくじゅくの雪道に何度も滑りそうになりながら、雪花はようやっとその影に追いついた。

 決して長くはない腕を精一杯伸ばし、自分より頭一つ分は高い襟首をがしと掴む。見事な不意打ちを食らった彼は仰け反るが、咄嗟に伸びた手が雪花の手首を強く捻り上げた。思いがけない痛みに、雪花は小さな悲鳴を上げる。だがその声を聞いて、彼がはっと我に返って動きを止めた。

 痛む腕をさすりながら、雪花は呆然と立ち尽くす彼と向き合う。ところどころ跳ねた髪は深い茶に変わっている。すらりとしながらも、鍛えているとすぐに分かる身のこなし。あれから五年も経ったのに、面立ちも纏う雰囲気もほとんど変わっていない。

「亮だよね? 藤澤……亮だよね?」

 彼はこれまでにないくらい見開いた目で雪花を見ていた。彼が微動だにせず、また何も言葉を発しないので、雪花はたちまちどす黒い不安に駆られる。人違いではないという確信だけが、今の雪花の足腰を何とかその場に立たせていた。

 永遠と紛いそうな沈黙を、驚愕の消えない彼が破ってくれた。

「雪花……杉原雪花?」

 彼の唇が、信じられないと言わんばかりに名前を紡いだ。途端に熱い涙がわっと溢れ、雪花は呆然としすぎて二の句が継げない亮に強くしがみついた。

「亮! 亮……亮!」

 溢れんばかりに迸る感情は、とても上手い言葉にはならなかった。

「会いたかった。ずっとずっと、会いたかった。会いたかったの!」

 亮は硬直していたが、やがてぎこちなく雪花の背に手を回す。それはやがて、きつく固い抱擁に変わった。

「よかった、生きていてくれて。本当によかった」

 ひどく泣いてぐしゃぐしゃになった雪花を、亮の瞳がまじまじと覗き込む。向かい合ってもなお、この現実が信じられないといった顔だ。

「雪花。本当に、雪花なのか?」

 疑う彼を安心させたくて、雪花は何度も頷いた。だが、顎を動かす度に涙が溢れて、どうしても視界が歪んでしまう。

「亮。会いたかった。ずっとずっと、思ってたんだよ」

 そう告げるのが精一杯だった。激しい嗚咽がこみ上げて、雪花は人目も憚らずに泣き崩れた。

 亮は折れかけた雪花の体を、手を伸ばして咄嗟に支える。そして僅かに躊躇った後、もう一度その胸に抱き寄せると革手袋を外し、雪で微かに濡れた長い髪を何度も撫でた。

 時折通り過ぎる人影が、物珍しそうな視線を投げて夜に消えていく。もしかして夢を見ているのだろうか。だが肩を抱く手の強さと温もりが、それは違うと告げてくれる。叶うはずのない願いが、こんなにも唐突に降りかかってくることを、素直に受け入れられる人間がいったいどれだけいるだろう。

 亮は涙の止まらない雪花の手を引いて、その身がこれ以上雪に晒されないよう、倉庫の軒下まで連れていった。いつの間にかしっかりと繋がれた手が、感情の激しい波に呑まれた雪花の胸を静かにしていく。

 どれぐらいの時間が流れていったか分からない。雪花がようやっと泣き止んで顔を上げると、何も言わずにその手を握っていた亮が呟いた。

「確か、前にもこんなことあったな」

「え?」

「五年前もそうだった。二回目に会った時も、雪花はひどく泣いてた。まあ、あれは俺が泣かせたようなもんだけど」

 亮は自分を見上げる雪花の瞳に指を伸ばし、その眦から涙をすっと掬い取る。

「まさか、もう一度会えるなんて思ってなかった。一瞬、夢の中にいるのかと思った」

 まさに自分も思っていたことを口にした亮に、雪花は花が咲いたように笑ってみせる。だが、それもまた涙でたちまち崩れかけた。

「ごめん。泣いてばっかだね、あたし。ごめんね、ほんと。嬉しくて……嬉しすぎて、涙が止まらないの」

「嬉しい?」

「嬉しいの、亮とまた会うことができて。亮があれからちゃんと生きていてくれて、あたしは嬉しいの。すごくすごく、嬉しいのよ」

 亮は驚いた顔で目を瞠る。雪花は涙を滲ませながらも、心からの笑顔を彼に向けた。

 亮は短く断ってその場から離れると、近くの自販機で二人分のコーヒーを買って戻り、微糖のほうを雪花の両手に握らせた。缶コーヒーは、最初は包むと熱すぎるぐらいだったが、凍えた肌にすぐに馴染んで程よい温もりに変わる。

 そう何十分も経っていないだろうに、降りしきる牡丹雪の量は確実に増えている気がした。運河を臨むこの周辺に人の気配はなく、二人はしばらく黙ったまま倉庫の壁に凭れ、冷えきった体を熱いコーヒーで温める。

 肩が触れ合う距離に亮の存在を感じながら、雪花はまだ夢見心地の中にいた。ほろ苦いコーヒーを僅かだけ口に含み、凍えた喉を温めながら隣にいる彼を窺う。早いうちに飲み干してしまうと、神の気紛れで訪れたこの時間が、たちまち終わってしまう気がして怖かった。せっかく会えたのだから、積もり積もった話をたくさん、ゆっくりと語り合いたい。そう強く思うのに、温まった喉は脱力したまま全く言葉を紡いでくれない。

 亮は飲み終えた缶を足元に置くと、懐から煙草を出して口にくわえ、ジッポで火を点けて深く吸う。その仕草はとても手慣れていて、惚れ惚れするほど流麗だった。

「煙草、吸うんだ」

 雪花がそう呟くと、亮は己がいかに自然な仕草で吸い出したのかを気付いたように、

「もしかして煙草、嫌い?」

「ううん、大丈夫。あたしの家、上のお兄ちゃんとお姉ちゃんが愛煙家だから、煙草には免疫あるよ」

 雪花が笑うと、亮は安心した顔で紫煙を吐き出した。

「驚いたな」

「え?」

「驚いたな。まさかこんなところで、もう一度会うなんて」

 亮は実に感慨深げな眼差しで語る。濡れた頬を拭いながら、雪花も小さく笑って頷いた。

「あたしもびっくりした。夢かと思ったよ」

「それは俺の台詞。五年前と同じシチュエーションで止められて、真剣にデジャビュかと思った」

 雪花はつい、あははと声に出して笑う。しかし、その明るさはすぐに枯れてしまった。

「……ずっと心配してたの。別れてからもずっと、亮のことばかり考えてた。あれからどうしてるだろう、どこにいるんだろうって。もう二度と会えなくても、せめてどこかで生きててほしいって、ずっとずっと思ってた」

「俺のこと、覚えててくれたの?」

「忘れたことなんてないよ。毎日心のどこかでずっと考えてた。だから、もう一度会えてよかった。あれからずっと無事に生きててくれたんだと思うと、それだけで涙が出てくる」

 雪花はタオルハンカチで、またも溢れてきた涙をそっと拭う。さっき感情に任せて泣き崩れたせいで、出かけに整えたはずのアイメイクは無残に滲んでしまっていた。目元がひどいことになった今の自分は、亮にはどう見えているだろうかと考えると少し怖い。

 亮は雪花の言葉がよほど意外だったのか、しばし虚を衝かれた顔で煙草をくわえていた。しかし雪花の眼差しに気付くと、その目元を少しだけ和ませる。

「元気そうでよかった」

 その言葉には、彼なりの万感がこめられていた。

「俺も本当は、忘れたことなんてなかったよ。雪花は今頃どうしてるかなって、考えたことは何度もあった。こんな風にまた会うなんて、思ってもみなかったから。二度と会えないだろうけど、せめて雪花が幸せであるように祈ってた。分からないものだな、人生なんて。数秒後には何が起こるか、知れたもんじゃない」

 亮は小さく笑い飛ばすと、何度も頷きながら涙を堪える雪花を見つめる。

「元気にしてた?」

「うん。亮は?」

「俺は元気。今も昔も相変わらず。雪花、今いくつになった?」

「年の暮れに、二十歳になったとこ。この春から大学三年」

「二十歳かあ。道理で俺も年取るわけだ」

「何それ。亮だって、あたしとそう変わらないでしょ」

 亮はさもおかしそうに笑うと、

「雪花は何でここに?」

「通ってる大学がこの町にあるの。高校卒業してから越してきて、大学生の間はここで下宿することになってる」

「旅行とかじゃないんだ」

「うん、もう二年目。だいぶ慣れたよ、雪国の暮らしにも」

「下宿先はどこ?」

「N谷駅から歩いて十分くらいのとこにある、女子大生専用のアパート。同じ大学に通う子ばっかが住んでるの」

「驚くような偶然だな。こんなことってあるんだ。ごめん、手を捻ったりして。首根っこ掴まれた瞬間、敵襲だって咄嗟に思っちゃったからさ」

「あたしこそごめん。いきなりあんなことされたら驚くよね。ふっと亮の声が聞こえた気がして、半ば本能的に追いかけちゃったもんだから、考えるより先に手が出ちゃった」

 亮が朗らかに笑い飛ばす。その微笑に、雪花もつられてくすりと笑った。

 こんなに満ち足りた時間はいつぶりだろう。そう互いに思っていることが、仕草や吐息から自然に伝わり合う。降りしきる雪が音もなく地上を染める中、時の流れやあらゆる雑音から切り離された世界を、たった二人でたゆたっている心地がした。

 本当はもっと話したいことがあるのに、言葉がまるで浮かんでこない。雪花は静かに煙草を吹かす亮を、缶コーヒーで両手を温めながら眺めていた。

 隣にいる亮は、どこかあどけなかった少年から、野性味が匂う凛とした青年に変わっていた。だが瞳の奥に宿る鋭さは、出会った頃と同じ色をしている。容貌は月日を経て変わっても、根本的な彼らしさは何ら変わっていないようだ。

「五年かあ。長いようで、早かった気もするな」

「うん、そうだね」

「驚いたよ、本当に」

「うん」

 似たような台詞の繰り返しなのに、亮と話せていると思うだけで嬉しい。相槌の一つ一つに、雪花は褪せかけていた幸せを噛み締める。

「驚いた。雪花、随分と変わったな。あの頃とは全然違う」

「もう制服を着る年じゃなくなっちゃったからね」

「そうじゃない。綺麗になったって意味だよ」

 思いもかけない言葉を受けて、雪花は思わず目を丸くした。亮は淡く微笑みながら、

「二十歳になったって聞いて納得した。綺麗になったよ。女の子だなんてもう呼べないな」

 亮はぎこちなくはにかむと、煙草を吸う指でさりげなく口元を隠す。雪花は頬を真っ赤に火照らせて、

「亮もかっこよくなった。あの頃より背も高くなって、大人の男性って感じ」

「それはどうも」

「でも、根本的なところは変わらないね。亮は優しい。いきなり泣き出したあたしを慰めてくれた、あの時と同じ。亮はやっぱり優しい人だよ」

 亮は柔らかく目を細める。そのほのかな笑みに、雪花は胸の奥で何かが咲いた気がした。亮は口でくわえた煙草を指で挟み、

「誰かが自分のことを、忘れないでいてくれて嬉しいと思ったのは初めてかも。あれからだいぶ時も過ぎたし、雪花はたった二回だけ会った俺のことなんて、とっくに忘れてると思ってた」

「どうして?」

「俺にまつわる出来事は、雪花にとって決していいものばかりじゃないから。特に、出会ったきっかけを思うとさ」

 亮が言わんとすることを、雪花はすぐに察した。

 二人の繋がりは五年前の冬の日、雪花が暴漢に襲われたことに端を発する。あの時、雪花は見知らぬ男たちに銃を突きつけられ、絶命の瀬戸際まで追い詰められた。

 あの瞬間に亮が救ってくれなかったら、雪花はそのまま殺されていただろう。彼方へ追いやった恐怖の片鱗が脳裏を刺し、背筋にするりと怖気が走った。

「ずっと気になってた。あれからまた、何か怖い思いをすることはなかった?」

「うん、大丈夫。襲われたのはあの一度きり。あれからはもう、怖いことは二度となかった。だから大丈夫」

 亮はほっとした風に笑う。雪花はその僅かな仕草だけで、彼がずっと案じてくれていたのだと知ることができた。

 あれからもう、怖いことは二度と起こらなかった。それは本当だ。だが、怖い目に遭った後味の悪さは、実はまだ雪花の中で鮮明に残っている。

 襲われて以降、夜道を一人で歩くことに抵抗を覚えるようになった。できなくなったわけではない。ものすごく勇気がいるのだ。襲われた夜の夢を見て飛び起きることも、その時の状況や場所を問わず、ふいに怖くなって鼓動が早くなることも未だにある。

 その話を誰かに打ち明けたことはない。これから先も、きっと言うことはないだろう。雪花はほんの数秒だけ蘇った戦慄を、瞬き一つで努めて綺麗に消し去った。

「本当はね、ずっと気になってたの。でも結局、誰からも教えてもらえなかったし、何となく、あたしからも訊けない雰囲気だった。でも今、訊いていい?」

 短くなった煙草を踏み潰し、新しい煙草に火を点けた亮は雪花を見やるも、拒むことはしなかった。

「五年前、あたしは何に巻き込まれたの? 何であたしは知らない男の人たちに、いきなり拳銃で襲われなきゃいけなかったの?」

 亮は僅かに眉を寄せ、考え込む顔になる。そして言葉を選ぶように紫煙を吸い、だが嘘はないとはっきり分かる響きで語り出した。

「端的に言うと、俺が抱えたトラブルに巻き込まれたんだ、雪花は。だから雪花に非はない。俺たちも、雪花が襲われたことは想定外だった」

「俺たち?」

「俺と、雪花の姉さんだよ。あの時俺は、とある仕事を片付けるために杉原佐知子、探偵をやってる雪花の姉さんと手を組んだ。そうやって見えない繋がりができたせいで、雪花はあいつらに狙われたんだ。だけどあの後すぐ、その仕事は片付いた。あの時は話さなかったけど、あれは全部俺が元凶だったんだ」

「じゃあ亮は、お姉ちゃんを知ってるの?」

「情報としては知ってるが、直接会ったことはない。俺と雪花の姉さんの間には、当時俺のサポートをしてくれてたパイプ役がいたから、俺が直接話す必要がなかったんだ。だから一度も会ったことないし、あちらも俺の素性は一切知らないはずだ」

 それ以上は話せないと、亮は言外に告げていた。雪花はそれをきちんと察し、彼が教えてくれた情報だけで納得することにした。

「俺も訊いていい?」

 雪花は小さく頷いた。彼が何を疑問に思って尋ねようとしているのか、雪花には何となく分かっていた。

「雪花はどうしてわざわざここに? こんな北の果てまで来なくても、大学なら他にもいろいろあっただろ。なのにわざわざ、何でこの地を選んだの?」

 予想どおりの質問だった。訊かれればすぐに答えられるよう、それなりの言葉を用意しておいたはずなのに、いざ口にしようとした瞬間、それらは嘘と化して消えたので、雪花はつい答えに詰まってしまう。

「もしかして訳あり? 五年前みたいに」

 気遣わしげに振られた言葉に、雪花はほんの少し苦笑いを返した。否定する気はない。だが自分でも驚くぐらい、言葉が霧に消えてしまうのだ。

「ひょっとして、あの事件が原因?」

「違うよ。全然違う。あの事件は全く関係ない。だから、亮が気にすることは少しもないの。本当よ。あたし、話題が出る今の今まで、あの事件のことはすっかり忘れちゃってた。これはあたしの個人的な問題。ぶっちゃけて言えば、家を飛び出しちゃったの」

「家出? 雪花が?」

 予想だにしていない答えだったのか、亮は先程とは違う意味で目を丸くする。

「親や兄姉と喧嘩したの?」

「ううん。単にあたしが我が儘を貫いただけ。家族は何も悪くないの。本当よ。家族はいつだって、あたしを心配してくれてた。今の大学を受験することだって、最初は大反対だったんだから。家族には本当に、大事にしてもらってる。だけどね、だからこそ一緒にはいられないと思ったの。これ以上家族に甘えてたら自分が壊れちゃいそうで、大好きな家族を傷つけちゃいそうで怖かった。だからこっちに来たの。大学の四年間、一人になって頭の中を空っぽにして、考える時間がほしかった。そういうわけで、家族の猛反対を押し切ってここで暮らしてるの」

 恐らく亮にとっては抽象的すぎて、まるで要領を得ない説明だっただろう。しかし彼は口を挟むことをせず、拙い雪花の言葉を静かに受け止めてくれた。

 闇色の空から、大粒の牡丹雪が降りしきる。倉庫街も橋の周辺も、気付けば人影は全くなくなっていて、大通りを走る車の音が時折遠く響くだけだ。雪は二人の呼吸の音すら沈黙に変え、土と水で汚れた道の白い濁りを凍らせていく。

 この町に来て間もない頃、雪とはこんなにも静かに、密やかに降り積もるものなのかと驚いたのを、まるで昨日のことのように覚えている。雪の過酷さと美しさを、雪花はこの町に改めて教えられた。

「寒いな。この様子じゃ、明日の朝も結構積もってそうだ」

 亮は白い息を弾ませながら空を仰ぐ。そして手袋を嵌めた手を雪花に差し出し、

「そろそろ帰ろうか。送ってくよ」

「でも」

「続きは歩きながら話そう」

 亮は雪花の手を取って、ゆっくりと歩き始めた。

「寒すぎるな、本当に。本州とは大違いだ」

 雪花の歩幅に合わせながら亮は歩く。雪花は内心ひどく焦っていた。あと少しすれば、彼との時間は確実に終わってしまう。せっかく再会したのに、また会えなくなってしまうのはとてもつらい。

 雪の音すらない静寂の中に、二人の規則正しい靴音だけが生まれては消える。上手い言葉が浮かばない自分を、ここまで責めたことがあっただろうか。亮といる時間を少しでも長く繋ぎ止めたくて、雪花は脳裏で話題を必死に掻き集める。

「そういえば電話、大丈夫? せっかく話してたのに、あたしがいきなり中断させちゃったよね」

「気にしなくていいよ。大した用じゃないんだ。いきなり切ったぐらいで、とやかく言ってくる相手じゃない」

「そういえば、亮はどうしてこの町にいるの? もしかして、亮もこっちに引っ越して」

 気さくに訊こうとした雪花は、次の瞬間はっと言葉を呑んだ。歩を揃えていた亮の瞳が、瞠目する雪花を感情のない静けさで捉える。

 街灯の少ない闇色の路地は感覚さえ麻痺するほど厳寒で、その空気には大粒の牡丹雪の斑模様がよく似合う。

 亮の歩みが自然に止まり、二人は誰もいない道の真ん中で、手を繋いだまま向き合った。

 まるで世界中から全ての音が消えたみたいだ。亮は何も言えずに頬を凍らす雪花に、悟りきった微笑で言葉の先を継ぐ。

「さっき雪花が言ったとおりだよ。姿形は変わったかもだけど、他は何一つ変わってない。俺はあの頃と変わらず、暗殺者の仕事をしている。雪花と会わなかったこの五年の間も、仕事でいったい何人殺したか分からないぐらいだ」

 言葉という名の鋭利な刃を、またしても亮に突き立てられた。唇が縫いつけられたように固まって、亮を凝視したまま吐息すら漏らせない。

「この町でずっと暮らしてるわけじゃない。ここへ来たのはついこの間。でも、用が済めばすぐ消える。この五年間、そんな風に各地を転々としてきた。仕事柄、どこかに定住しようとは思わないからね」

 亮はからりとした笑みで、

「今日こうして会ったのは本当に想定外だった。まさか雪花がこの町にいるなんて、思ってもみなかった。でも、もうこれっきりだ。今度こそ決して、二度と会うことはない」

 雪花は硬直したまま、呼吸はおろか身動ぎすらできずにいた。

 五年前から知っていたことだ。亮は人殺しを生業とする暗殺者。日常の裏で蠢く、雪花には想像もつかない闇の世界で生きている。初めて会った十五歳の冬に、乱暴な言葉でそれを知らされた時の衝撃を、雪花はまざまざと思い出した。

 忘れていたわけではない。ただ、それについて深く考えることを、ひたすら拒み続けていただけだ。

 亮はうっすらと積もった雪を、雪花の頭からそっと払う。そして言葉もなく呆然としている雪花に、

「駅が見えれば、一人でも帰れるだろ?」

 ほんの一瞬だけ笑ったかと思うと、亮は握っていた雪花の手を離して、そのまま背を向けようとした。

 彼の顔が見えなくなる刹那、雪花は慌てて我に返り、去りかけたその背に本能のまましがみつく。亮が驚いて身を強張らせ、肩越しに雪花を振り返った。雪花は彼の腰に両手を回し、ひしと力をこめてその動きを懸命に制す。

 全身が凍りついたのは、冷たい風が吹き抜けたせいだ。何も言えなくなったのは、舞い降りる雪が唇や髪に触れて、あまりにも冷たかったからだ。できれば目を背けていたかった事実を改めて突きつけられ、打ちのめされたのとはまるで違う。

 全部この寒さと雪のせいだ。亮を恐れ厭う理由など、この胸に生まれるはずがない。

 雪花は亮の背に顔を押しつけて、

「嫌。嫌よ。そんなこと、言わないで」

「雪花」

「せっかくまた会えたのに、これでもう終わりなんて、そんな悲しいことは言わないで。話したいことがいっぱいあるの。聞いてほしいことも、訊きたいこともいっぱいある。これで終わりなんて絶対に嫌。ねえお願い、そんなこと言わないで」

 背中越しでも、亮が苦渋に顔を歪めたのが分かった。背後から抱き締める雪花の手を、亮は丁寧に解こうとする。だが雪花は離れなかった。

 亮は振り返らない。それが痛くて、雪花はたまらず抱き締める腕に力をこめた。

「俺は、いつまでもここにはいられない。前も言ったろ? 俺と雪花じゃ、生きる世界が違いすぎる。俺は暗殺者だ。いくつもの命を奪い、それを悪いとも思っちゃいない。今も昔も、これからもずっと変わらない。俺は汚いんだよ」

「分かってる」

「分かってないよ、雪花。全然何も分かっちゃいない。それに、俺はそのうちいなくなる」

「だからせめて、この町にいる間だけ。限られた時間でもいい。その間だけでいいから繋がってたいの」

「だめだ。俺は俺の人生に、誰かを巻き込むつもりなんてない。俺に繋がりなんていらないんだ。それに、雪花は俺を嫌うべきだ。憎むべきだ。俺はお前の親を殺した奴と同じ、最悪な人殺しだ。雪花の前で人を殺したことだってある。知ってるだろ」

「そんなことない。たとえそうでも、あたしは全然怖くないよ。怖がるわけない。だって亮は亮だもん。あたしは知ってる。亮は優しい人だよ。五年前、行き場を失くして壊れかけてたあたしを救ってくれた。亮は優しい人だよ。あたしはちゃんと、それを知ってるよ」

 雪花はなおも解こうとする亮の手を拒み、その背を強く抱き締めて思いの丈をぶつけた。

「お願い。これが最後だなんて言って、離れていかないで。この町にいる間だけでいい、いっぱい話そう。亮のこと、もっともっと知りたいよ。あたしも亮に、あたしのこともっと知ってほしい。いっぱい話がしたいよ。だからお願い、終わりだなんて言わないで」

 なんて自分本位な我が儘だろう。振り返らない亮に縋りながら、雪花は己の身勝手さに呆れ果てる。亮の本心や言い分を完璧に無視し、聞くことさえひたすらに拒む。

 だが、そんな醜くずるい一面を晒してでも、亮との繋がりを断ちたくなかった。ここで彼に従えばきっと一生後悔する。そんな根拠のない確信が、亮との別れを恐怖に変えた。

 ぴんと張り詰めた沈黙の後、先に深く息をついたのは亮だった。

「分かったよ。俺の負けだ」

 亮は苦笑いを浮かべながら、ようやく雪花を振り返ってくれる。

「今度こそ巻き込むまいと思ったのに、雪花は俺の都合なんてお構いなしだな」

 そう言って笑う亮を見た途端、雪花の視界はまたしても潤みかけた。

「携帯貸して」

 雪花は言われるまま、亮に携帯電話を差し出した。亮は自分の携帯電話をポケットから出し、器用な仕草で二つを同時に操ると、

「雪花の番号とメルアド、もらったよ。時間が空いたら、俺のほうから連絡入れるから。もし非通知拒否設定してるなら、解除しといて。悪いけど、俺の番号やアドレスは教えられない。だから一方的な連絡になるけど、それでもいいなら」

 雪花は何度も頷いた。そして携帯電話を眺める。そこに亮のデータが入ることはないが、二人の繋がりは確かにある。そう思うと、温かい光が広がっていく気がした。

「俺の都合優先になるけど」

「いいよ。全然構わない。絶対に出るから、いつでも連絡して」

 嬉しさのあまり、雪花は満面の笑顔ではしゃいでしまう。

「連絡してね。きっと、きっとよ。待ってるから」

「ああ、必ずする。約束だ」

 亮は笑いながら頷き返すと、

「もう遅い。帰りなよ。積もる話はまた今度」

 彼の視線につられて空を仰ぐと、雪は確かに激しさを増していた。亮は雪花の手を一度だけ強く握り締めると、

「おやすみ」

 亮は今度こそ身を翻して去っていく。雪花は遠ざかる彼の背が、路地の曲がり角に消えるまで見送っていた。

 両手を握って目を瞑り、亮がくれた感触の余韻に耽る。五年の月日に抗うことなく胸を占めていた思いが、降り積もった雪の中からようやっと芽を出そうとしていた。

 だがそれと同時に、温もりに満たされた心を現実が殴る。

 自分は許されない罪を犯した。五年前、彼が遠ざけようとした悪の色に、雪花は今自ら指を浸したのだ。しかしそんな罪業が、雪花にとってはかけがえのない幸福だった。

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